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「私だって大変なのです!」

 よく私は「幸福そのもの」とか、「この世の富みを独占している」とか、「まさかあ!」と言うことを言われるのですが、そんなことは断じてないのです。

 

 この氷点下20度近いアリヤで、薪は一箱(アマゾンで買って3000円)弱になり、この冬はこれ以上買わないと決意したので、着ぶくれでしのいでいます。

 

☆夏なら、67000円の年金で暮らせると言う過疎地です。バスが学童用200円のが早朝で2本、観光客用(スキー客)が日に3本往復で500円。
 その他のタイムは夏なら歩いて45分。タクシーで迎えを頼むと冬は1680円で夏は1480円。
雪の季節はタクシーもこれない日もあります。

 

 この間も女性ドライバーが、夜7時頃でしたが、「セブンイレブンのところから歩いてくれない?」と言うのです。
 長野へは買い出しに行くのですからスキースティック2本、懐中電灯、傘、バッグ、紙袋2,3をもって
雪の坂道を上るのは不可能。それで、タクシードライバーを励まし、「Yes,you can!」と「できる。できる。私だって7年のボストン暮らしでこれより酷い雪の中を前の車のライト二つだけを頼りに運転してきたのよ。黒姫のタクシードライバーは柔(やわ)だよ。」と、走って貰ったのでした。

 

 そんな暮らしですから交通費もバカにならないのです。

 

☆今、お茶を淹れました!
三日月のお茶です。
さっぱりとした味です。

 

☆人間の生きる道はなかなかよくできているなあと思います。

 

 今日の神山暮らしもボストンの7年の冬の雪の中の暮らしがなかったらできなかったでしょう。
 
 1995年の阪神大震災1月17日の後に家族3人でボストンにいき、落ち着いたホテルの最初の晩に観たテレビで「地下鉄サリンガス事件」が報道される。

 

 5年生の娘と高校4年生までボストン。中学が2年しかないので大学に行く年齢は同じ。

 

 中学2年の春に主人が仕事のために日本に帰国。以降、4年間滞在許可をとるために私も学生ビザを取得し、娘の送迎と自分の大学通いで睡眠2時間。一日足りとも寝込んだことなく異国で母子家庭をしたのです。

 

 美術学校にいったので、こちらもプライドがありますのでそれなりの課題をこなせなくてはと、家で徹夜しましたから、睡眠時間2時間になるわけです。

 


今、庭を出て歩けるか見てきたのですが、雪が斜め降りしているので、今日は家にいます。

 

鳥の餌用の揺り籠も潜ってしまいました!



☆なぜ、主人が娘と私をボストンにおいていったかと言うと、37歳の時に2歳の娘を連れてパリ個展のために10ヶ月ほど滞在していたので、「妻ならできる。」と思ったからです。

 

 なぜ、2歳にもならない(出発時は1歳)娘を連れてパリで母子家庭ができたかと言うと、

 

 30歳から1年半ほどパリで暮らしたことがり土地勘があったからです。

 

 30歳の時は絵の学びのためでしたが、日本からどういうわけか学生や社会人の男性が追っかけてきて、そのなかには交通費を払わない(東京から山口くらいの距離)、ホテル代を払わない犯罪を犯している人がいて、見張ってないと学生も真似をしはじめて何をおかすかわからなかったので、お金のない人には航空費を私が支払って、学生たちも日本に返し、絵の学びは美術館廻りに留めたのでした。

 

 ですから、アメリカでヨーロッパで教育を受けた人に学べたのは、遅くなっても願いは叶えられたのでした。

 

☆なぜ、学生がついてきたのかというと、「連合赤軍」に関係があるのです。

 

 私たちの世代は「不公平」「格差」に敏感なのです!

 

 私が版画からデビューしたのも、「お金持ち相手の仕事は嫌だ。誰でも買える安いアート制作をしよう。」と志したのです。

 

☆あの1972年の個展で、
「名あるもの形あるものが、信じられないで占いを版画にしてみました!」と案内葉書に書きました。

 

 私は私なりに権力と闘っていたのです。

 

 公募団体でセクハラあり、大手新聞社や出版社にも権威に甘えたセクハラを若かった私は嫌と言うほど見てきたのです。

 

☆それで、自主企画にし個展をやり続け、20代のうちに文具屋で売られている当時10円の私の絵の年賀状が400万枚売られ、誰でも10円は出せるでしょうから自分の闘いの最初のステージは踏破できたのでした。

 

☆30歳になって、もうその時に流されず普遍的な立派な仕事を名も知れずしっかりとやろうと決意しました。

 

 その時期、京都の個展で断ったのにも関わらず、自分と3歳くらいしか年の違わない一人の娘を個展会場に前日来させた人がいました。
 
 その娘は一浪して女子美術短大に入り、一留年して中退した25,6歳の娘で、送り主の姪で「小遣いをやって弟子にしてくれ。」と言うのでした。嘘ついて、個展準備も手伝ってもないくせに「手伝った。」と言うレベルで、迷惑になるので烈火のように怒り、個展会場初日に着いた菓子折を宅配便で送り返したのでした。

 

☆世の中にはそんな彼女をも面倒見る立派な人もいるかもしれません。

 

 しかし、アートの世界を知っている人ならば、例え現役で芸大に受かり首席で卒業しても、将来が約束されているわけでもない世界です。

 

 皆、死ぬもの狂いで本気で絵を描いて、食べることもままならず名も作品も残せず死んでいく覚悟で描いているのです。

 

 ゴッホだって弟のテオには甘えましたが、赤の他人に「小遣い呉れ。」とか、「面倒みろ。」とかは言わなかったではないですか?

 

 まして、私はその頃20代で父母からも1円も貰わず、やっとやっとで日々、絵を描いていたのです。

 

☆私の失敗はその後にあります。
罪悪感に襲われたのです。

 

 それで、彼女に似ている大学生たちが、偶然、たま出版の故瓜谷社長が、勝手に電話番号を教え、縁のなかった人々が電話を掛けて来るようになり、「見捨ててはいけない。」と思ってしまったのです。

 

☆これは人殺しの罠だったのでした。
30歳になったばかりの私に19歳から26歳までの精神病院にかよっている学生や夜間学生や私の知らなかった大学の学生達でした。。

 

 これは姑息な出版社の、しかも倒産2度もした社長の罠だとわかったのは最近です。

 

 ホテルに誘われたのを無視したのと、どこに行っても「ルイコさんは素晴らしい、無欲だ。天からの光が頭から天まで柱になっているのが見えた。」と賛美されていたときに、一人「瓜谷社長の思いを考えると辛い。」と言っていた方がいました。

 

 借金があっても瓜谷社長はただひとりグリーン車に乗る人で、東大出のプライドか、学歴のない人をひどく言葉にしてバカにしていました。

 

 愚かな私はその気持ちに鈍感で気遣いをする能力を持ち合わせなかったのです。

 

 それで、瓜谷社長は「生意気だ。こらしめてやろう。あの青年達を拒絶したら差別だと糾弾してやろう」と思たのでした。

 

☆私は毎日、徹夜でその学生たちに書かせた作文を、ガリ版(古いですね。1979年)に書いていたのです。

 

 何とか劣等感を克服し立派な社会人に育てなければと思たものの、なんでこんなことをしなければならないかと、明け方になると涙が出てきたものです。

 

 さすがの故瓜谷社長も「本当の奉仕だね。」といい、皆が

 

「偉いわねえ。」「良くできるわね。」と言ったのでした。

 

☆しかし、日本で赤の他人にこれだけやってあげたのだから(毎日、ご飯も食べさせて)「これからは、自分達でやっていけますね。解散です。」で、終わったわけだったのが、パリに追いかけて来たのでした。

 

☆「連合赤軍」で、最後に「俺たちには本当の勇気がなかった。」と、浅間山荘で捕まる前に言います。

 

 また、獄中で自殺したリーダーの森も遺言に「自分には真の勇気がなかった。」と書いて死にました。

 

☆「真の勇気とは?」

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