Ruiico (ruiico) wrote,
Ruiico
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アートで生計をたてるのは可能だと思う。

 自分が11月に「絵の学校にいこう」と決意して、3ヶ月の受験勉強で女子美術のデザイン科に入学したときは、両親は女子美術のデザイン科に限って受験を許してくれたので、落ちたらアートの道は断念と言うことで背水の陣だった。                                                                                                大学に無事に入ってからデッサン量があまりにも少なかったので、苦しんだものの、女子だけのこの学校のまん中くらいではアートの道では生きられないだろうと思った。                                           ☆さて、どうするか?                              自分の通過してきた生ぬるい女子だけの私立校では知り得なかったものを、早目に知って劣等感をなくしておこうと思った。                                                                それで、貧しい人の働く工場で働いたり、美術の裏方の表具屋やカラー写真現像所でアルバイトをしながら、学校の課題は人の2倍3倍は提出したと思う。クラブ活動は写真部。他校の交流は全国学生デザイン連合。                                                              世は空前のバブル景気でデザインの世界も華やかだった!                                                      学生のクラブ活動で、講演-ゼミナールを担っていた私はアニメーションを借りに、宇野亜喜良のスタジオに深紅の薔薇の花束を持っていったり、横尾忠則から手で犬の影絵を作っている絵の年賀葉書が来たりしていたから、よく動いていたのである。寺山修司の天井桟敷や唐十郎の赤テント。黒川紀章がテレパシーをいい、オノ・ヨーコが歌を歌っていた元気な時代だったのだ。

 自由な時代が台頭して、未来には明るさと夢があった!

 デザイナーが個人主張をして、「書を捨て、街に出よう。」の時代で若者は好きな生き方を許され、深夜まで謳歌して、大人は優しく目を細目、許していた。

 ヒッピーと言うのはいたけれど、フリーター等言葉はなかった。                                                                                           しかし、個人的に社会勉強をしていると、人間は本当に色々な生き方ができるのであった。                                                                               私も自宅にいながら、お茶、お花、料理学校へも通っていたから、普通の同じ年頃の娘たちの生き方も見ていたが、アートの道は何よりもおもしろかったし、全く無視されるということが無かったので続けられたのだと思う。                                                                                                   親から当たり前のように1円も貰わなかったので、絵をしっかり売って生きていたのだ。
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