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1948年、逮捕。


 世間の非難で孫たちは登校できず、妻も自殺をはかり平沢貞通氏も2度自殺をはかった。
 師の横山大観は、「平沢貞通を知らない。弟子であったこともない。」と言った。

 

 ショックを受けた平沢貞通氏は、名前は平沢光彩に変えた。それまでは大観が命名した大しょう(日へんに章の字)を画号として使っていた。「大観に勝つことは、大観よりいい絵を描くことだ。」と獄中で5000枚描いた。

 

 実に立派な画かとしての姿だ。

 

☆銀行に入金されたお金が貧しい画家が持っているわけがないと、勝手に犯人にされたわけだが、養子となった平沢武彦氏は、平沢貞通氏が描いた春画を発見し、色やテンペラ画の技法を証拠にその程度のお金は安易に稼げたと犯人でない証拠を言う。

 

☆事件後に伊豆で描いた絵の心境は高く穏やかで美術評論家のヨシダヨシエは、殺人後そのような絵が描けるわけがないと言う。

 

☆「平沢貞通を救う会」が生まれ、作家や弁護士も彼の無実を信じた。

 

☆調書の偽造も。

 限度を越える世間の仕打ちに、平沢家の子供たちは除籍した。

 

 妻は最後まで平沢姓を守り週一の面会に通って、画材や衣服を運んだ。

 

 遺品。

 作家の森川も弁護士の山田も、私財を投じて半生を平沢救済に捧げた。

 

☆罪なきに 死刑とされし嬉しさや、人の心のなさけしられて(平沢吟)

 

☆平沢氏仙台に移される。

 

☆この本を書いた平沢武彦氏は作家の森川氏の長男で、子供の頃から見ていた平沢氏の絵を見て「こんなに美しい絵を描く人が人を殺すわけがない。」と思ったと言う。それで父の遺志を継ぎ養子となったのだ。

 

 作家の森川氏は死刑を阻止するために可能な限りのちからを出し、作家仲間からは「作家としてダメになる。」と忠告を受けていたと言う。

 

☆支援の森川氏、山田氏迄逮捕される。

 

☆「殺される前に大作を。」

☆仮釈放中の夫の代わりに刑務所を訪ねた森川氏の妻。養子になった武彦氏はまだ中学生で刑務所ないの個展のビラを配っていたと言う。

 

 平沢氏は森川氏の命に何かあれば死んでお詫びすると言っていた。

 

 この冤罪に反対し命がけで戦う人たちは何て立派であるのだろう。この森川氏の妻の美しさ!

☆1978年。平沢貞通氏の獄中画を展示する全国巡回個展を森川が企画し、東京、仙台、新潟、京都、大阪、高知で開催した。

 

 早期釈放運動は各界、そして国会においても、次第に大きな広がりを見せるようになっていった。

 

☆米寿記念には平沢氏の言葉。
「人は殺せても、その人間の持つ真実の生命は殺せないことであります。
 しかし、正しいものは死にませぬ、その人間は、永遠に生きて、自分の受けた正者虐殺の見本により正しい人が曲げられる災難を除く生け贄となるのです。
 キリストも聖者も聖僧も、みな死んで逝っても、正しさの心は、永遠に生きているではありませんか、拙老、米寿を本日迎えましたが、『何が八十八だ。』と反発は大なのです。
 ただ、『いかなる生のために死を役立てるか』『死を万人の人のために役立てるか』の一念に徹しております。」

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