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「アーティストになれる人、なれない人」その2.

☆作者はトップ-アーティストを産み出す大学院大学を作りたいと言う。

 

トップ-アーティストの定義、成功したアーティストの定義は多様である。

 

現実には大学はおろか、まともに小学校へ行ってない魅力的なアーティストはザラだからだ。

 

逆説には、美術大学で潰される才能もある。

 

なまじっか専門大学に行き、豊かな才能に恵まれた同胞を知って筆を折ったと言う話も聞くし、国際的に名声を残したグランマ-モーゼスや何とも不思議なヘンリー-ダガーの作品は生じっか教育を受けていないから生まれたもので、多くの美術学校で学んだ学生の夢見るような成功を彼らは自分の興味のあるがまま夢中になった結果である。

 

☆私は思う。

 

芸術家は血と運命に愛されなければと言われているが、神に愛されなければならないと。

 

この本の中にも性格的に素直さとかあまり悲観的なのは良くないようなことが語られているが、結局は社会優等生のものであるかのような印象はかなり了見が狭いと思う。

 

現実には、極めて苦しんだ魂にとって芸術は本人にとって救いなのだ。

 

芸術は下層社会にとって犯罪と言われるものが、それ以上の社会にとって自己発言、自己発散で社会に危ういエネルギーを画面に散らすことで無難にならしめている効果もある。

 

そうだ!
SMFAでは、障害者は授業料が無料でセラミックのクラスでは小児麻痺の中年女性が粘土を捏ねていて、ゆうがけや焼くのは先生がして、クラスが終わるとボーイフレンドが車椅子で彼女を地下から1階まで運び、カフェでコーヒーなど飲んでいたものだった。

 

おそらく体の為にも手で捏ねることは有効であった筈だ。

 

☆しかし、美術学校のいいところは個人で買えそうもない高価な機材が自由に使えるところだ。

 

今のところ、日本の私立美術学校が授業料が高く、インターネットによると材料代を込みで4年生大学で800万円くらいかかるそうだ。それで、経済力と言うふるい分けがあるわけだ。

 

国立の芸術大学の方は倍率が高くて、授業料は安いかわりに受験準備のために通う予備校というのかデッサン教室にかかる時間と費用がそれなりにかかるらしい。

 

私はこの部分が2ヶ月しかなかったので、デッサンには長い間劣等感を持っていたが、この間、古川という画家が40で脱サラして独学で絵を描きニューヨークのグッゲンハイム美術館館長に買い上げられて、国際的な画家として成功しているというのを知って、大枚はたいて夢見る美術大学で学んだ人の多くが諦めて他の職業についたり、挫折しているのは一体なんだろうか?と思うのである。

 

美術学校は本当に有効であるか?

 

☆私の場合。
教授が「目に見えるもの」しか描かせなかったので、授業拒否の処分にあったのだが、ある意味で勲章であって、私のアーティストの初めての闘いとしてとても意義ある一歩となった。

 

つまり、教授の能力に限界がある場合、美術学生は不遇な扱いを得るということ。

 

☆この件にことを、私が日本経済新聞の文化欄に書くことができた。

 

行き付けの「此花画廊」のオーナーの池田女史は「奥田土牛の富士山の絵と正月の一月に出たからとてもラッキー。」と喜んでくれた。向かえは現代美術画廊の南画廊で、「此花画廊」は川端康成の字の看板がかかっていた日本画や洋画を扱う画廊であったので、「そう言うものの価値観があるのか。」と思ったものである。

 

英訳


☆自分は現代美術のアーティストという意識はまるでなかったが、私は誰に教えられた訳でもなく極めて現代美術の考え方をしていたかわかる。

 

そう言えば、私のポスター作品を次の授業の教授は「芸術的だ。」と言ったのであった。

 

私はデザイン専攻グラフィックの学生で絵本や青図、建築スペース、レタリング、イラストレーション、工業デザインのレンダリングと技術的な事を緩く学んだと思う。

 

私は不器用で技術能力は皆無。良かったは芸術理論。ずっと知らなかったが成績表が出て来て、音楽がc! それ以外は英語がBあとは良かったのか?悪かったのか?

 

デザイン科は数学や色彩学や美術史がありました。哲学や法学もあったっけ。

 

しかし、卒業間際の授業で資生堂の中條正義氏(花椿等のデザインをしていた)が、絶賛され、「120点で完全。しかし、もう伸びないだろう。」と批評した。

 

☆これもいいような悪いような評価で、私としては卒業後は絵を描かないでお茶の稽古等していた。

 

教授指導というのは責任がある筈だがデザイン科のものの見方でしかなく結果としては、自然に芸術の方に移行していった。

 

そして、デザイナーとして就職することなく、運を引き寄せる能力があったのでその年のうちに、渋谷の西武デパートで個展。翌年、ギャラリープリントアートで個展と続いたが、絵を描く時間よりも社会学、thinkingに時間を割いていた。

 

☆この原稿用紙、確か400字摘め7枚だったと思う記事だが7段抜きで広告料として支払うとずいぶん高いものだったようだ。

 

現代の物質文化に自分が適応できないこと。権威に疑問を持ちその対局にある底辺社会に真実を求め歩いているうちに普遍性のある易経に出会い、自然から学ぶ中国の古代の思想家に学び、難解とされているものを誰にでもわかるものにして、易カルタを創案して自分で占えるように占い方を考えたこと。

 

生きる目的は皆が幸福になれるように努めること等、書いたのだった。

 

その時、ジョン-ケージの「changes」という易に触発された音楽やボブ-デュランの「全てのものは信じるに足らないが易経だけは信じるに足る。」という言葉も引用していた。

 

☆「アーティストになれる人、なれない人」に出てくる横尾忠則が三島由紀夫の文にイラストを描いてデビューし、大学生だった私は西銀座デパートの地下の宝くじ売り場で壁に絵を描いていた忠則氏に英語の教科書カバーの上にサインを頼んだら、「Tadanori Yokoo」と赤のサインペンで女性の横顔の口から名前が出てくる絵を描いてくれた。

 

とてもいい時代でした。

 

この本に出てくる榎倉康一氏の家にもいったことがあります。「点展」というのがあって、奥沢にあった日本家屋の中庭にヒビの入ったカラカラの土が作品ということでした。

 

そう言えば、八田準という人も家の近くで家から見える富士山をガラス越しにチョークで線をなぞったのが作品でした。

 

現代美術を見る目と言うのには、やはり年期があって、反発しながらも影響を受けて20代を生きていた気がします。

 

コンセプショナル-アートと言うんですか観念アートには批判的でした。むしろアートの大衆路線を意図してました。

 

女子供のアート。内職のような手仕事。難解でないものをと。

 

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