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「アーティストになれる人、なれない人」その5.


40代に入ると子供の受験や姑や親戚との付き合いなど生活一般に忙しく、頼まれて聖コルベ殉教50周年記念に絵を納めてくれといわれ、子供をモデルにして少年時代の聖母マリアの示現の絵を描いた。油彩は習ったことなかったが度胸よく80号の絵を描いて送った。

 

自分でも下手だと思うが、頼んだ方が悪いのだと思って、何時かきちんと習っみたいと思った。

 

その頃は子供が小学校2年生で、ファイナルファンタジー等のゲームに親子ではまっていた。

 

1995年阪神大地震が起こり、子供が4年の終了式を終えると主人の仕事の都合でボストンに行くことになった。

 

英語がアレルギーができるほど嫌いな私は英語の授業をいくつかとったが。やがてデッサンを選択した。

 

子供が学校にいっている間の暇潰しのようなもので、2ヵ月の美大受験準備のハンディを埋めておこうとも思った。

 

☆それが、教授が「才能がある。」と言い出したのだ。

 

47歳からの美術学校入学。両親から女子美術のデザイン科に限って受験を許されたのであったが、本当はfine artがやりたかったのだ。

 

それで、ハーバート大学のサマースクールで油彩とデッサンを習ったのだ。

 

パレットに絵の具を出すところから学び、キャンバスの作り方、全く基礎から一人の先生に3年つくことができた。

 

こう言うのを木炭デッサンするのだが、コルビジェの建てたカーペンターセンターが教室なので、怖いような気持ちだった。

先生はこういうのが好きなようだ。

アメリカの最高峰の教師は本当に気高くピュワーで日本での教授たちと比べると雲泥の差だった。

 

更に、アメリカの教師は真摯で我が家まで来て、主人に「奥さんは才能があるから協力してあげてほしい。」と言ったのである。

 

次に秋の正規の授業に出られるように手続きをとってくれ、次の教授は熱意のある南アフリカから亡命したホワイトアフリカンだった。思想せいとか社会性はこの教授から学んだのだった。

 

先生のデッサン力は凄いもので政治家の肖像があまりにも心まで現すものであったので、作品の国外発表禁止令が出て亡命を決意なさったようだ。

 

↓は先生の作品。もう一人の先生のアートは東京にあるが素晴らしいものだ。

この絵は新聞に批評が出た絵でかもめの詩から生まれた作品。

 

カモメ、ひとつとってもデッサンがきちんとしているんです。

 

☆ボストン滞在3年。私は主人の考え方で学生となり娘と私がアメリカに残って母子家庭をする事になった。

 

それで、娘が高校に入る頃は私はSMFAの学生となってエッグ-テンペラ絵や油彩、インスタレーション、パフォーマンス、陶芸、溶接など学んだ。

 

とても忙しく、インターナショナルスクールの寮にいる娘を金曜の午後から日曜日の夜まで向かえ、和食を作り買い物に出掛けた。

 

他の日は朝6時頃起きて8時にはSMFAにいかないと駐車ができず、帰りは夜の12時まで学校でワークし、帰宅して英語シャワーから解毒するために日本のビデオをみて3時か4時頃寝た。

 

16歳の 娘と夏休みに3週間のヴェネチア-studiesと言うのに参加したのが1998年で、ヴェネチア-ビエンナーレの年であり日本館でこの本の作者のデジタルの数字の作品を観たのだった。

 

SMFAの授業であったのでアメリカ館はフリーパスで入れ赤い粉が天井の隅から涌き出ている作品であった。

 

☆私の観たかったラヴェンナのダンテの墓やフィレンツェ、ミラノ、コモ湖等も週末に娘と通った。

 

40代はこのように過ぎた。

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