Ruiico (ruiico) wrote,
Ruiico
ruiico

ヒルデガルト

ウィキペデア

コピー


ザンクト・ディジボード修道院址(オーデルンハイム、ディジボーデンベルク)


活動地拡大
1098年、神聖ローマ帝国のドイツ王国、ラインラントのアルツァイ近く、マインツ大司教区・ベルマースハイム(Bermersheim)で、地方貴族である父ヒルデベルト(Hildebert)、母メヒティルト(Mechtild)の10番目の子供として生まれた。出生地についてはベッケルハイム(Böckelheim)という記述もあり、ディジボーデンベルク近くのベッケルハイム城の在った現在のシュロスベッケルハイム(Schloßböckelheim)と思われるが、詳細は不明である。

1106年より同大司教区オーデルンハイム(Odernheim)のディジボーデンベルク(Disibodenberg)にあるベネディクト会系男子修道院ザンクト・ディジボードの近くで庵を営む修道女ユッタ・フォン・シュポンハイム(Jutta von Sponheim)に育てられる。ユッタはディジボーデンベルク近くのシュポンハイム城の貴族(領主シテファン伯)で、兄弟にケルン大司教フーゴー・フォン・シュポンハイム(de:Hugo von Sponheim)がいる。姓については、シュパンハイム(Spanheim)とシュポンハイム(Sponheim)の両方の記述がある[1]。

後に、彼女の教育にはザンクト・ディジボード男子修道院の修道士フォルマール(Volmar)が加わった[2]。ユッタは敷地内に女子修道院を設立して院長となった。1136年にユッタが死去すると、ヒルデガルトが女子修道院の院長に就任した。

1141年、神の啓示を受けたとして、フォルマールと腹心の修道女リヒアルディス・フォン・シュターデ(Richardis von Stade)の援助の下、『道を知れ』 (Scivias) の執筆を開始し、自らの幻視体験(後の彼女自身の言葉によれば「生ける光の影」(umbra viventis lucis))を初めて公けに表明し、この頃から彼女の幻視体験がマインツ大司教ハインリヒの知るところとなる。

1147年、クレルヴォーの大修道院院長で、当時宗教界に非常に大きな影響力があった聖ベルナールに助言を求めて書簡を送る。同年、教皇エウゲニウス3世によって開かれたトリーアの教会会議において、ヒルデガルトの幻視体験がマインツ大司教ハインリヒによって俎上に載せられる。教皇使節が彼女の許に派遣され、執筆途中の『道を知れ』を持ち帰り、教会会議上でそれが披露され、多くの人に感銘を与えたとされる。この時同席していた聖ベルナールの取り成しもあって、教皇より執筆の認可が正式に彼女に与えられ、これによって彼女の名が広く知られるようになる。また、この頃から典礼用の宗教曲を作詞作曲し始める。彼女の作曲した典礼劇『諸徳目の秩序』(Ordo virtutum)は、作者の知られた典礼劇そして道徳劇としては最も古い。ヒルデガルトはユッタからプサルテリウムの演奏の手解きを受けており、合唱の伴奏楽器として使用したと思われる。

彼女の名声によって各地から修道女が集まり手狭になったため、1150年にビンゲン近郊のルペルツベルク(Rupertsberg)に新しい女子修道院を建設して移る。 ビンゲンとライン川の支流ナーエ川を挟んだ対岸の丘陵地は、ザルツブルクのベネディクト会修道士聖ルペルト(St.Rupert / Rupertus)の一族の所有地であり、その聖遺物が納められてルペルツベルクと名付けられた聖地であった。ヒルデガルトが新しく建設する女子修道院をこの地に定めたのは、聖ルペルトがドイツ圏で初めて女子修道院を建設した人であった事が念頭にあったと思われる。翌年、『道を知れ』が完成した。

1141年、神の啓示を受けたとして、フォルマールと腹心の修道女リヒアルディス・フォン・シュターデ(Richardis von Stade)の援助の下、『道を知れ』 (Scivias) の執筆を開始し、自らの幻視体験(後の彼女自身の言葉によれば「生ける光の影」(umbra viventis lucis))を初めて公けに表明し、この頃から彼女の幻視体験がマインツ大司教ハインリヒの知るところとなる。

1147年、クレルヴォーの大修道院院長で、当時宗教界に非常に大きな影響力があった聖ベルナールに助言を求めて書簡を送る。同年、教皇エウゲニウス3世によって開かれたトリーアの教会会議において、ヒルデガルトの幻視体験がマインツ大司教ハインリヒによって俎上に載せられる。教皇使節が彼女の許に派遣され、執筆途中の『道を知れ』を持ち帰り、教会会議上でそれが披露され、多くの人に感銘を与えたとされる。この時同席していた聖ベルナールの取り成しもあって、教皇より執筆の認可が正式に彼女に与えられ、これによって彼女の名が広く知られるようになる。また、この頃から典礼用の宗教曲を作詞作曲し始める。彼女の作曲した典礼劇『諸徳目の秩序』(Ordo virtutum)は、作者の知られた典礼劇そして道徳劇としては最も古い。ヒルデガルトはユッタからプサルテリウムの演奏の手解きを受けており、合唱の伴奏楽器として使用したと思われる。

彼女の名声によって各地から修道女が集まり手狭になったため、1150年にビンゲン近郊のルペルツベルク(Rupertsberg)に新しい女子修道院を建設して移る。 ビンゲンとライン川の支流ナーエ川を挟んだ対岸の丘陵地は、ザルツブルクのベネディクト会修道士聖ルペルト(St.Rupert / Rupertus)の一族の所有地であり、その聖遺物が納められてルペルツベルクと名付けられた聖地であった。ヒルデガルトが新しく建設する女子修道院をこの地に定めたのは、聖ルペルトがドイツ圏で初めて女子修道院を建設した人であった事が念頭にあったと思われる。翌年、『道を知れ』が完成した。

年譜




出来事

1098年 誕生
1106年 ユッタのもとへ
1136年 ユッタ没。ヒルデガルト、女子修道院院長就任
1141年 『道を知れ』執筆開始
1147年 聖ベルナールへ書簡
教会会議にてヒルデガルトが話題に。教皇より執筆の正式認可
1150年 ルペルツベルクに新しい女子修道院を建設して移る
1151年 『道を知れ』完成。
1150年代後半 バルバロッサ謁見
1158-63年 ドイツ王国各地へ説教旅行(計3回)
1163年 ルペルツベルク女子修道院に対する保護勅令
1165年 アイビンゲンの修道院建設
1167-70年 病床
1170-71年 ドイツ王国各地へ説教旅行
1173年 フォルマール没。ゴットフリートが『生涯』を執筆
1176年 ゴットフリート没
1177年 ギベール・ド・ガンブルーが『生涯』を追補執筆
1178年 ルペルツベルク女子修道院へ聖務停止禁令
1179年3月 禁令解除
1179年9月17日 死去

1158年から63年にかけて、 ドイツ王国各地へ3回の説教旅行を行い、1150年代後半にはインゲルハイム宮廷 (de:Ingelheimer Kaiserpfalz)にてフリードリヒ1世・バルバロッサ(赤髭王)に謁見した。バルバロッサからは1163年にルペルツベルク女子修道院に対する皇帝による保護の勅令が出される。

1165年にアイビンゲン(Eibingen)に庶民階級のための新しい修道院を建設する。アイビンゲンはビンゲンとライン川を挟んだ対岸の、現在リューデスハイム(Rüdesheim)と呼ばれる丘陵地帯に位置する。1167年から70年は病床に臥すが、70年から翌年に再びドイツ王国各地へ説教旅行を行った。

1173年にフォルマールが死去し、後任に就いたザンクト・ディジボード男子修道院のゴットフリート(Gottfried)はヒルデガルトの『生涯』を執筆開始する。が、1176年にゴットフリートも死去し、翌年、ヒルデガルトとかねてから文通し共感していたベルギーのガンブルー修道院出身のギベール・ド・ガンブルー(Guibert de Gembloux)が彼女の秘書となり、『生涯』を追補執筆する。

1178年、破門された貴族を保護し、その死後同修道院敷地内に埋葬した件で、マインツの司教座聖堂参事会員達との間で確執が起こり、マインツ大司教クリスチャンよりルペルツベルク女子修道院に対し聖務停止(聖体拝領の禁止、聖歌唱の禁止)の禁令が出される。翌年3月禁令が解かれるが、同年9月17日に死去した。

ルペルツベルクの修道院は、17世紀の三十年戦争でスウェーデン軍によって破壊され放棄された。現在地図上にこの名は残っていない。一方、アイビンゲンの女子修道院は19世紀まで存在していたが、俗化が進み、また地所が没収されたために閉鎖された。20世紀になって同地に新しく聖ヒルデガルトの名前を付けた女子修道院が建てられている。


地球の歩き方からこういうのを見つけました。

フランクフルト中央駅(Frankfurt(Main)Hbf) 07:29発 ICE 226
ケルン中央駅(Köln Hbf) 08:32着

ケルン大聖堂観光 8:40~10:00

ケルン中央駅(Köln Hbf) 10:18発 IC 2005
ゴブレッツ中央駅(Koblenz Hbf) 11:16着

ゴブレッツ散策 (ドイチェス・エックまで徒歩にて散策)
11:20~12:40

ゴブレッツ中央駅(Koblenz Hbf) 12:53発 MRB25337
サンクトゴアール駅(St Goar) 13:19着

サンクトゴアール散策(+食事?)約1時間
※食事は船(KDライン)の中でも可能

サンクトゴアールからKDラインに乗船(St Goar KD) 14:20発
バハラッパで下船(Bacharach KD) 15:30着

バハラッパ散策(シュタールエック城まで徒歩にて散策)
15:30~17:00

バハラッパ駅(Bacharach) 17:06発 MRB25351
ビンゲン駅(Bingen(Rhein) Hbf) 17:18着

或いはザンクト・ゴアーからビンゲン或いはリューデスハイム迄
KDに継続乗船もされたら如何?

もし電車でビンゲンまでなら、ビンゲン中央駅から徒歩15分、
道順はビンゲン中央駅の駅舎を出て真っ直ぐ進み二つ目の信号を
左折、直ぐにある踏み切りを渡ると前方に渡船所が有ります。
乗船券は船上でも購入可能。
ビンゲン渡し船渡船所(桟橋5番)からリューデスハイムへは
時刻表は以下のとおりです
7.20 8.00 8.40 9.20 10.00
10.40 11.20 12.00 12.40 13.20 14.00 14.40
15.20 16.00 16.40 17.20 18.00 18.40 19.20
20.00 20.40 21.20 22.00

リューデスハイムまで乗船時間は10分位ですよ。
リューデスハイムの下船所からザンクト・ヒルデガルトアブタイ(修道院)
まで30分位です。

リューデスハイムからの帰路は色々の方が回答されてる様に
DB(ドイツ鉄道株式会社)の時刻表で調べられますよね?

貴女はヒルデガルト・フォン・ビンゲンに興味を持たれているのですね?
彼女は中世ヨーロッパに於いて大きな影響を与えて方で、後に聖人に
列せられました。 そして貴女も気付かれた様に出身地のビンゲンには
彼女の名前に因んだ、お店が沢山ありますね。 勿論、対岸のリューデスハイムにも影響をもたらしていますね、 ですから聖ヒルデガルト修道院と彼女の
名前の付いた施設があります、

彼女は1179年9月17日に没し、1979年に没後800年と云う事で
昔のドイツ連邦郵便局が記念切手を発行し、私は所有しています。
私の所有しているのは初日カバーと云われるもので記念スタンプが押されています。
1979年発行と云う事は東西ドイツ統合前ですので希少価値があるかも?
もし、興味がお有りならお分けしても宜しいですよ、勿論無償です。
Subscribe
  • Post a new comment

    Error

    default userpic
    When you submit the form an invisible reCAPTCHA check will be performed.
    You must follow the Privacy Policy and Google Terms of use.
  • 0 comments