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人間の夢。 その5.

若かった私は、社会の不幸にとても興味を持った。

 

差別を受けている人や苦しい生活を強いられている人達に。

 

☆絵の道は厳しく、あまりにも巨大なハードルの高さに打ちのめされそうだったが、選んだ道なので頑張るしかなかった。

 

級友も世間の人も、私から放つある豊かな育ちから来る甘さに両親からふんだんに与えられる経済的援助を受けていると思ったらしいが、現実には親は厳しく、私はアルバイトをしながら画材をやりくりするような苦学生だった。都立大学駅の近くの「グラナダ」です井戸を買って15日に届くのだが、経営者の河村さんは70歳くらいの独身女性だが、「Ruiicoさんはご両親の強烈なバックアップでお金に困ることなく絵を描いていたと思った。」と、私が自立して働きながら大学に言っていたのを聞いて驚いていた。

 

私の同級生や芸大の学生たちはイメージ的に私は、経済的な苦労はしてないと思っていたらしく、私に集るのは正義だと思っていたらしく、私は、大学時代はとにかく朝から晩まで働きづくめで、さらに、学校の課題も人の3倍は努力して提出するタイプだったので、毎日、肉体の限界に頑張っていた。

 

それは、20歳の4月7日の過労から1週間の昏睡から目覚めた日に、神と遭遇し、自分の使命をはっきりと知る事があったので、私は、聖書の福音を生きる決心ができたからなのであった。

 

人間の夢は世界を美しくすること。
人類に貢献すること。人を愛すること。

 

そう言うことが何よりの価値だった。

 

私は、世俗からの興味はなかったし、今は結婚し家庭もあるのでバランスをある程度は取っているが、その頃は着ているものも清貧で自分を美しく見せるとかにおおよそ興味の無い女子大生だった。

 

しかし、皮肉なことに母親はお洋服大好き人間で当時痩せていた私に、よくファッションショーでモデルが着ていたブランド服を買って着せていたので、外見だけを観る人からは、恵まれたお嬢様に見えたのも仕方がなかった。 私は、もっぱら、底辺で働いている人達とともに最下位の賃金で働くのを自分に課していた。

 

不当な特権と反対の生活である。

 

それを、わざわざ他人には言わない性格だったが、神の側からしてみれば正しい行為がある種類の人には嫌味に思えたらしい。

 

☆キリスト教の教えは、上着を求める人には下着まで惜しんではならない与えの教えだが、逆に求める側を徹底的に貶める教えでもある。

 

確かに信じる者は救われるが信じない方は地獄に堕ちてしまう。

 

私は、喜び溢れて信仰に燃えていたが、友人のなかには、「悪どい。」と言うものまでいた。

 

私が自分を犠牲にして同級生たちのむさぼりに奉仕をすればするほど、その人達が救いの無い不幸にいる構図になっていた。

 

私の生き方をしゃくにさわる人達は暴行にも至ったが、私は、福音を信じ、心から抱擁し満面の笑みで許した。そうすると、暴行をしている方は恐ろしくなってしまうらしく、後退りしたり、「劣等感のか溜まりだ!」と叫んだりした。

 

「馬鹿!」と罵られても、私は、心から「言いたいだけいいなさい。あなたはそんな風に言うことが楽しいのね。」と、優しく受け入れていたので、「気味が悪い。」とも言われた。そうなのだ。私はそのあとで、神に彼らの罪を許すように祈り、代わりに償いまでしていたのだ。

 

☆私は、あれから46年たった今日でもほぼ考え方は同じであるが、やや、緩和したやり方にはなっている。

 

主人は「君って本当に怒らない人なんだね。」と言う。

 

そうなのよね。悲しさの方が先に来る。

 

それでも、怒ったほうがその人の為となるときは怒ることにしている。

 

集りについても、実際のキャラクターは「嫌。」と言えない人ではない。理路整然と相手に、その非を言えない人でもない。しかし、あえて、福音の教えをとっているのである。

 

☆そうするとどうなるか?

 

私は、20歳の頃に「易経」にも出合っている。孔子が50にして、「もし、私が若いときに出逢っていたらもっと完璧な人生を歩めたろうに。」と嘆いた中国何千年の叡知だ。

 

この易の教えは因果応報の教えだ。「積善の家には余慶有り」の教えだ。積悪の家はどうなるかである。

 

聖書の教えと易の教え(東洋のバイブルと言われている)を、融合すると、さらに宇宙の仕組み、道理の仕組みがわかって来るのであった。

 

最良の善は、誰でもが積善の余慶になることである。

 

☆こうして、私のアートの指針はいかに多くの人を喜び溢れる世界に誘導するかであった。

 

物質的な喜びの人も侮ってはならない。

 

人には段階がある。

 

物質的な喜びを卒業すると、精神的な喜びを求め始めるのである。

 

☆私が社会に出て驚いたのは多くの人が「いい暮らしをしたい。」「裕福に暮らしたい。」と思っていることであった。

 

その為には嘘もつくし、騙しもする。ずるもするということであった。

 

本当の幸福。
与える幸福。
に到達するのには長い道がある。

 

ある時に好意を持ってくれた東大の博士号を持った若い研究者に、「私は、不幸度の高い人を選びます。辛いね。」と言ったら、「自分はそこまでいってない。」と言われた。

 

また、別の人は「お嬢さんは厳しすぎる。うーん。うーん。」と唸った。

 

そうなの?

 

私は、今日までエリートとつるんでいい思いをしようなどとは思ったことはなく、専ら、社会の不正義にマイノリティとともに生きていたのだが、それもある人達には、「世間知らず。」「お嬢様過ぎる。」と言われるので、信仰に生きるというのは結構、道楽なのかなあとも思う。

 

そんなわけで、自分を可能な限り低いところに置いて来ているのだが、周囲バランスを年齢とともに多少は持つことになった。今ではそれほど過激ではない。

 

☆しかし、福音に生きるとどんないいことが起きるかというと、天からエネルギーが注がれることである。

 

昨日も食事が終わった頃、光の雨が降って来て、天からの励ましというか激励があったわけなのだが、多分、本人は幸せななのである。

 

☆私は、いつも「幸福オーラーをはなっている」と言われるのだが、それは、天からの気の賜物である。

 

私は、精神は豊かだが物質的には並みである。ただ、愚痴や不足を言わないので裕福そうに思われるけど、結構貧乏。

 

女性としても女子力にかけているので、特別な恩恵は無い方だと思う。美人はブスより生涯2億くらい格差があると言われるが、損も得もしてないと思う。

 

美人だとタクシーも無料なことが多いというが、そんなことは一度もなく、ただ、私のお話がとてもいいので2度ほど、代金は要らないのでそのまましゃべってほしいと言われて、2000円くらいが2度無料になったことはある

 

だから、話術ではいくらか得をしている。

 

☆そんな感じで、35歳まで独身をして結婚もしたが、とても貧乏な人と結婚したので、自分の良心としては満足だった。

 

だって、大富豪と結婚したら今までの言動が嘘になってしまうもの。

 

ただ、今までの因果応報が働きだして、今は極貧と言うよりはややリッチぐらいになっていると思う。

 

今までの集られて来た金額が、天に貯蓄されて返って来ているので、困らない生活になっているようだ。

 

逆に、いつも集っていた人達はどうなっているかと思うと、キリスト教の上着を求める人に下着まで与えるのはいかがなものかと思ってしまうのである。

 

人に与えた物は全部、自分に返ってくるし、「与えよ。去らば、与えられん。」と言うのも本当なので、人間はgive give giveが本人はいいのであろう。

 

私の場合は人に与えた物は、自分の賜物、才能になって返って来るので、やはり損をしたと思ったことはない。
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