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人間の夢。 その6.

さて、私の場合は夢が叶ってしまうタイプ。

 

あまり太それた夢ではないから、叶えやすいのかもしれないが。

 

☆私は、長い間、母とは合わなくて、子供の頃の力バランスは母親の方が断然強かったので ずいぶん意地悪をされていた。

 

仕事の電話は繋げないのは当たり前、仕事の相手先には罵倒したりするので、もう二度と電話をしたくないと言われることもあった。

 

人間は不思議なもので反対されればされるほど、頑張るものであるのだ。

 

それで、私も母親のどんな妨害にもめげず、やれる範囲で絵を頑張ってきたのであった。

 

母親の方も本能のように娘が離れていくのが怖かったのだろう。

 

☆母はもちろん、父もお小遣いなどくれるわけはないので、沼部の図書館に歩いて通い本を読み、必要があればどんなアルバイトでもする。そうして、社会見学というか普通には知らなくてもいい世界を見ることは楽しかったのである。  そう言う底辺行脚で、私は世の中の仕組みというものが残酷に満ちていることを知った。

 

多くの人たちが、思考の問題や生まれながらのハンディのなかで、もがくように生きている。

 

若い革命家たちも空しい内ゲバで殺し会う。

 

私たちの住んでいる世界はなんと不完全なのだろう。

 

☆私のアートは、いつもそう言う問題への疑問や知ろうと言う探求のプロセスだった。 1.一部の富裕層だけしか買えないアートへの疑問。 手に入りやすい版画をシルクスクリーンで制作。 1972年 プリントアート・ギャラリーで個展。 「名あるもの形有るものが信じられなくて占いの世界を版画にしてみました」流異展。 「占い版画」 「おみくじ版画」 「易ミニ色紙 64枚 千代紙コラージュ」 2.易色紙の評判が良く、易カルタとして、64組制作し続ける。 「世の流れと異なりて、低きに流れ、富より貧を愛し 我 愚を誇りに思う」「不思議な国の流異展」 1973年 村松画廊で個展。 コラージュのアリスカード。 アリスカード100枚組が新宿ぬれ甘納豆の正月ポスターに使われる。 1974年 シロタ画廊で 「広島、長崎、私の傷、キリスト マリア 私の涙」100号キャンバス、蒔絵、聖母子マリア像に血と銀の涙を描いたインスタレーション。 秋田の聖体奉仕会(女子修道院)の木像の聖母像から、その後、血と涙が流されたと知り、直ちに秋田へ。 こう言う呼応は良くあった。 1975年「オカルタ」オカルトカルタの略 山岸氏命名。真木画廊 週刊朝日の記事から「易カルタ」出版 1976年「遊び絵」田村画廊 豆団扇や行灯、易色紙の現代美術バージョンを制作。 同時に日本橋高島屋で「易カルタ」独占販売になる。 ギャラリー吾八の依頼で豆本7種制作。 1977年「魔術的発明 magia inventorix」パラケルスス 藍画廊 フィンランド大使夫人の依頼で日本お伽草子26話の挿し絵を墨絵で描く。 1978年「桜咲く大日本ぞ日本ぞ 一茶 」「俳画展」京都 四条河原町 紙泉堂ギャラリー 「豆団扇」がホテルオークラ、フランネルギャラリーで売れたため、材料を買いにいった縁で紙泉堂から依頼されたもの。 京都個展から、京都印刷からの依頼で1980年度の西陣織物紋紙に豆本からとった「平安千代絵巻」カレンダー制作。 1979年「メビウスの輪」転性輪廻。大阪 本町 このあとにローマを経てパリに。 安価な大衆アートとしてのファンシーグッズとしての年賀状やサイン帳、ポチ袋をクイーン社から販売。 年賀状は400万枚売れたという。

 

☆庶民の普通である家庭の家でも、それほど誰もが自由ではないのだ。

 

生きていることは何て苦しみの多いものなのだろう!

 

誰もが幸福であるために、普通の名の無い庶民はどう暮らしたらいいのだろう?

 

それが、私の青春だった。

 

毎年、個展をしながら背後でその為の読書やアルバイトをしていた。多少のボランティアと。

 それで、あっという間に30歳になった。  それで、次のステージはパリだった。  別にパリに行きたいなどとは言ったことはなかった。でも、お金をためてはフランス語をしていたので、そちらの方向に向かっていたのだろう。 ☆今、思うと、人生はよくできている。 良いことは単独には来ない。バランス的に相応な悪いことというか、負担とともに来るのであった。  それと、ブーメランのように最低辺に落ちると次に最高辺に弾みのように投げがされるようなことが運命にはあるので、次の舞台となったローマでは広い輝きの場に送られたようでもあった。  細かく言えば、日本にいるときでもフィンランド大使館の大使夫人から頼まれて日本御伽草子の挿絵をボランティアで描いたり、最初の個展と次の個展が英字新聞に記載されたりした利で、日本にいながら外への発信もしていたのかもしれなかったが。  フランス滞在2年間のうちに、北欧や南欧やギリシャ、イタリー、トルコなどを訪ねたりできたので、夢の世界が地理的にも広がったのである。  精神的にも、ベトナム難民の家族に招待され亡命することの悲しみを聞かされたり、チェコからスイスからの亡命者やチベット難民を訪ねてダライラマがチューリッヒに来たりに遭遇したり、世界というの自国に住みにくい多くの問題を持っている人のいることも知ったのであった。
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