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人間の夢。 その10. 5月13日はファチマの奇跡のあった祝日!

私は欲が無いねと言われるが、ちょっと心の片隅で思ったことですら実現してしまうタイプ。

 

デザイン科でしか受験を許されなかった美術大学だったが、主人から娘の教育をアメリカで終えさせたいので中学2年から帰国しなければならない主人の申し出で、私も滞在許可をとるために美大の学生vizaが必要になった際、ファインアートを専攻することにした。

 

娘の寮への送迎のために、車の運転をすることになり、左ハンドルなので、もう一度免許を、取り直した。

 

自分も美術学校にいくのに8時から制作で12時までいて、帰宅してからは宿題や家事を終えると3時から4時頃寝るのがやっとで、2時間ぐらいの睡眠で朝早く起きないと車がtowされてしまうので6時から7時に起きた。

 

こんなに忙しい日を送っていたのに日本から暇潰しに5時頃電話を掛けてくる人がいたので、黙って引っ越しして電話番号を変えた。

 

また、近所の人が雨だから学校に送って行けと言うのも閉口した。美術学校でウエズリーカレッジに行くときも乗せてってくれと言うので乗せたら、絵の具で車のあちこちが汚されていた。

 

私は争わない主義者なので、毎日限界のストレスだったが、1日も倒れることもなく、娘を金曜日から日曜日までは家に迎え、和食を作ったりモールで娘の衣服を買ったりした。

 

アメリカはそれでも、色々楽しいことがあって、奨学金でガウディの建築を観にバロセルナに行けたり、授業も神話の時間は教授から頼まれて、学期始まりクラスの面々が知り合うために易カルタで全員占うことから始まり、最後も全員の運勢を占うと言うことで終わったりした。

☆娘もさらに受験をして、高校に挑み私たちは夏休みとクリスマス休日は帰国した。短い春休みや早すぎる夏休みの6月は単位のとれるヴェネチアスタディズに参加したり、赤毛のアンのプリンス・エドワード島に行ったりした。

 

☆ほとんど自分の意志と言うより、運命に流されているような気がした。

 

母子家庭は日本人であるので幾重にもハンディで、本当に生きていればいいと言うハードルの低さ。

 

私たちはアジアで、母国語でない英語圏で、私もとうに50歳を過ぎていて、アメリカに住むマイナス条件6のうち5まで持っていたのだった。

 

唯一、免れたのは極貧ではなかったこと。

 

これも、世界の貧しさと戦うのには知っておかなければならない重要な体験だった。

 

☆しかし、それでも、夢のようなことが実現したのでもあった。

 

47歳からのアメリカの美術学校。娘も全寮制の高校に行き、多国籍の人たちともご縁ができた。

 

始めは、美術学校は娘のためのvizaをとるための進学だったので、よき思い出になれば良いと風景画のクラスを取った。

 

上はそのクラスで描いた温室の絵。

 

しかし、先生が誉めるので、いつのまにか火がついた感じ。

 

☆9.11があり、緊張が走り私たちも精神的に追い込まれた。

 

とんでもないことが起こっているのだ。

 

そう言えば、昔、パリにいたときにはチェルノブイリが爆発し、野菜や牛乳等飲めなくなった。

 

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