May 2nd, 2007

大掃除!

 大掃除をしているのですが、いろいろお宝発見しちゃいますね。
 その最大級のがルルドのアルバムです。刺繍の絵が売っていて、日本に帰ってから刺繍してアルバムのカバーにしたものです。



 もう13年くらい前のことですが、さすがに汚さないようにしてあったので綺麗です。
 
 わりと長く続いている習慣は日記です。ほとんど記録帳に近くレシートや映画のティケットなども貼ってあるので膨らんでます。真ん中は桜の棺桶です。右は京都の貴船神社で買ったアマテラスが乗られた黄色のお船の鈴です。左は四葉のクローバはヴァン・クリーフ&アーぺルのミズ・アーぺルというオード・トワレです。この種のものは滅多に買いませんがこれは香りが気に入って買いました。
 


 とにかくいろいろな仕事をしているので狭い私の部屋では収納が大変です。しかし、なんとか箱に収めました。



 赤い日記の上の棚の「天使たちの記録」の写真本はベルリンの壁に書いてあった落書きです。
千代紙も桜のが出てますね。箱の中にも仕事で使う和紙が入ってます。

 

 
 


 忘れていた聖母と御子イエスの刺繍も出てきました。やはりアルバムのカバーです。
聖母月ですからお出ましになったのね。天使たちを引き連れて!ありがとうございます!

お部屋の片付けのほうもまだまだ時間がかかるのでこれ以上汚さない努力をしなければ!
今日も仕事と掃除です。

モジリアニーとヘンリ・ダーガーの展示会から「芸術家の払う代償!」

 今日は渋谷のBunkamuraに行ってきた。モジリアニと恋人ジャンヌに焦点をあてて二人の作品と人生を見せたもの。ほどほどの人の入りでゆったりと作品を見れた。当たり前のことだが、モジリアニのデッサンがとてもいい。カフェで安いお金で売ってまわっていたデッサンで紙の質もお粗末。しかし、こうして、日本まで彼の作品が見られる今はアーティストとしてはやはり幸せだったと思うのだ。



 フランスのパリ娘・ジャンヌは裕福な家の娘、ユダヤ人との結婚を許さなかった両親。若い娘の趣味として絵を描くことを許していたのだが、イタリアから夢を持ってパリにでてきたモジリアニは貧しくアルコールで問題を起こしてばかりハンサムだったから親としたら誰でも反対する伴侶。モジリアニが貧しい人のための病院でなくなった後じゃんぬは両親の住むアパートの5階から子供を宿したまま飛び降り自殺をした。先に生まれていた娘は美術研究家のような仕事を今していて、両親のことを書いている。

 美しい花のようなジャンヌの16歳の写真。長い髪をお下げにして両脇に編んだ髪をまとめて育ちのよい大事にされた娘っだのがわかる。妊娠し荒んだ生活でモジリアニとの同居中の写真はやつれ果て、女の人生が相手次第というものの厳しい生活が感じられる。

 それでも深く愛し合った二人には多くの絵が残された。柔らかい自愛に目線に追われたジャンヌ。
病身で横たわるモジリアニをデッサンしたジャンヌの絵。そしてモジリアニ死後、2日間以内で描かれた
ベッドで刃物で自殺したジャンヌ自身の色彩ある絵。

 芸術を信じ愛を信じて、残された娘のことは考えなかった絵を描くジャンヌ。

 生きてる間は2,3の画廊とこころある数人の友とにかろうじて支えられ(といってもフリーダ・カーロの夫のディエゴとか極上の)ほとんど評価されなかったが、「ピカソの2倍の価値がある。」ともいわれたモジリアニはやはり幸せだと思うのだ。







 一方、シカゴで1973年に81歳でなくなったダーガーは更に悲惨な人生を送った人。
1892年に生まれたダーガーは幼い時に母親と死別。父親が患い8歳のときカトリック系施設に預けられる。
重度の精神遅滞と思われ知的障害施設に入れられる。決して成績が悪くなかったが問題児で処分されたようだ。
十分な教育が受けられぬまま時を過ごし17歳で施設脱出する。81歳でなくなるまで、皿洗いや掃除夫として働く。とても寡黙で軽んじられていて、死後おびただしい原稿と絵巻が見つかるまで誰も彼がそのような能力があるとは思わなかったと思う。「非現実の王国」のタイプで清書した長文物語。美術教育を受けなかった彼はゴミ箱から漁ったグラビア雑誌の少女の写真や絵をコピーし、塗り絵し表情が髪型を変え物語を描いた。
彼は毎日教会のミサに4回通ったという。しかし、彼の作品のテーマはアンチ・キリストだ。
狭い部屋には聖母マリアさまの像や十字架がたくさんあった。しかし、彼の描く少女たちはペニスがある。
彼は幼くして生き別れた妹と会うことはなかったが、結婚するといけないと生涯独身だった。少女の体を見たことが無かったのでペニスを描いたといわれる。
 死んだ後、聖母が手厚くまもったのだろうか?
 大家が部屋をのぞくと夥しい作品が現れた。さらにラッキーだったのは大家はバウハウス運動に携わった優秀な工業デザイナーでその作品の価値がわかったことだ。

 ダーガーの孤独な部屋から話す声が聞こえたという。腹話術や物真似がうまかったという。
案外、天使やマリア様とお話していたのかもしれない。
少ない晩年の写真の彼はとても悲しい顔をしているが彼は天国に行けたでしょうね。
孤児院で弱い立場の子供だった彼は権力の復讐軍団として少女たちをペニスつきで描いた。酷いシーンも多い。
安価な子供用絵の具やクレヨンを使って描いた巨大な彼の絵はきれいだしとても創造的だ。

今、ダーガーの絵は2000万円はくだらない。専門の画廊もスイスにあるようだ。

 私が個人的に恐ろしく思うのは、人間の恐ろしさは普通児を知的障害者に仕立て上げることはザラあることだ。そして、本人もだんだん自分は劣等だと思わされてくる。怖いではないか?
ダーガーの勝利は描き続け、書き続けたことだ。多くのアーティストが実に過酷なところにいて、絵筆を捨てずにいたか?

 私はこの2つの展示会からおおきなエネルギーをもらったのである。

 若い日のパリ個展。3度も会場にきてくれたロシア系ユダヤ人画家デヴィがモジリアニの娘さんと友達だった。彼は第二時世界大戦中、危険なドイツのユダヤ狩りからパリに逃げてきた人だ。
「妊娠中、ジャンヌは後を追ったのですよね。」
「よく知ってるなあ。」
 日本人はモジリアニ大好きですからさほど珍しくないと思うのですが、称えてくれました。
 パリは芸術家の憧れの地。絵かきなら彼の地で没してもいいと誰でも思うのですよねぇ。


 お昼に呼んでくれたデヴィ(写真左)と奥様の暮らしは小さいけれど作品と愛に囲まれたもの。ネクタイに日の丸が。日本人では書家の町春草さんをご存知とか。
世界中で80回くらい個展をして、ダリや仏大統領との写真もありました。リジョン・ドヌュール賞ももらっているそうです。若い方はテレアビブからきていた彫刻家。普段はキーフォルダーのようなものを作って生計をたてているようです。


 彼からの手紙に入っていたカード。


 フランス語教室でいっしょだったスイスのデザイナーと彼女。


 上智大学に来ていたご主人とお子様。奥さまにフランス語を習ってました。リヨンから来てくださいました。

 この個展ととき、フランスのアーティストから5件くらいの仕事のオファーが来ました。舞台美術とか、、。
しかし、日本の主人から「1日たりとも個展後パリにいてはいけないといわれ泣く泣く帰国しました。
家庭の主婦をしているアーティストはたいてい真夜中仕事をして、人の2倍も3倍も働いて家事をしているものです。
ご主人の理解があり、家政婦や経済支援をしてくれる方もいるでしょうけれど私の場合はいつもかつかつでした。
そうは、見えないらしいですが。
 このとき37歳でした。今から20年も前のことです。
今、振り返っても、このとき個展をしたのは正解でした。

 地球が無事だッたら、晩年はパリがいいですね!