August 5th, 2007

ルルドの聖女「ベルナデッタ」とマグダレンの祈りの「ベルナード」

 私は映画「マグダレンの祈り」を観て主人公3人の娘の主役の娘の名が「ベルナード」であることに時代のメッセージを読み取った。アイルランドとイギリスの共作である「マグダレンの祈り」は、原作とは多少違うものの事実を基に作られた映画だ。Bernadettaはルルドで聖母を見た娘と同じ名前なのだ。それは、例えば、マリアがメリーだったりマリーだったりするような意味の。
 映画の原作のタイトルは「マグダレン・シスターズ」である。

 主人公のベルナードは孤児院で育てられ、美しいゆえに若い労働者たちに口笛を吹かれたりからかわれたりする。それだけのことだが、孤児院の修道院長から見れば、ふしだらで清らかでないと看做され、精神の修業のため「マグダレナの修道院」で労働させられる

 マグダレナのマリアが娼婦だったといわれ、イエスに会って以来改心し聖女になった由来で名づけられた修道会は強姦されたものや、未婚の母のものなど「穢れた生き方」とされる女達が修道のため家族に強制させられ労働と祈りを強いられていれられる修道会である。アイルランドに現存していた修道施設だ。
 社会の弱者となった娘たちは修道女達のいい慰め者で、裸にさせられ体型を笑われたり、恥部の品定めをされたり屈辱を与える。厳格な教育のもとで卑劣な人権を無視される事実がまかり通っているのだ。

 若い時、施設にいれられた女は老いて絶望の為無気力になり死ぬ。
 神父に肉体をもてあそばれている娘は、性病が神父と自分に現れ、かゆさで体が耐えにくくなったときにくるった様に神父を罵る。「地獄に堕ちた神父!」と。そして、口止めのために強制的に精神病院にいれられた娘は食事ができなくなり、飢えて死ぬ。

 脱出を試みて、見つかり鞭打たれる娘の姿が見られる。それも尻を出し、皮の鞭で皮膚がさけるまでだ!
 庭越しに普通に人を話しかけることも禁止されている。見つかれば、修道女達にリンチされる。若い出入りの男に色仕掛けで脱出の協力を促したりするが、なかなか困難だ。

 秩序と規律の中で娘たちの人格は否定される。洗濯と掃除の日々。おそろいのネグリジェ、灰色の制服だ。
口答え、視線。全てが罰の対象だ!自殺者も出る。その中でも要求不満のものが仲間同士にも意地悪をしたりして追い詰める。

 それでも、いつも見張り役をしていた老女が死んだときに又、同じ生活をしている娘が弟のもってきた神父の合意書を持って、勝ち誇ったように施設を出ることができたときに、ベルナードは未婚の母に呼びかける。
 「見つかっても、ぶたれるだけよ!ここを出よう!」
 それで、2人で修道女を脅かし、時には打ちのめし脱出に成功する。
 支援する人にお金を借り、権力の及ばないところに逃げる。
 自由を得た2人は市民の生活に戻る。
 運命に諦めない教訓か。

 権力に犠牲になることこのようなことは稀ではない。
 100年前の聖女べルナデッタのフランスのルルドの聖女が、従順、犠牲で栄光を勝ち得たように、近代は不従順と自己主張で幸福を勝ち得るのだ。

 私達、女性の幸福がいかに倫理や社会通念の奴隷であるかこの映画を教えてくれる。

 映画の未婚の母は結婚し2人の子を産み、22年後に生んだ養子にした息子と対面したという。良いカトリック信者として生きたと。
 ベルナードは2回結婚し、2回離婚して自立して生きてるという。

 もう、すでにマグダレンの修道女は閉鎖された。
 原作では、ここで助産婦として働いていた人が書いた事実が閉鎖に追い込んだ。

 無知を利用するやり方はアンフェアだ。
 例えば、今はやりの過去生を導入すると、倫理はめちゃめちゃになる。
 過去でひどいことをしたから現在でひどい目にあうのだと。

 しかし、映画では脱出した娘は幸福になった。

 私達は幸福になる努力を惜しんではいけないのだ。
 もっともっと、幸福になれる!
 私はいつもそう思う。
 そして、他の人もより幸福になるために祈り、働きたいと思う。