August 31st, 2007

利他主義を生きる。罪を犯さないでいきたい!(難しいですけれど。)

 今日は8月31日。8月の終わりは夏の終わりのように感じられる。
世界中に起こる天変地異と人の犯罪が新聞をニュース番組を賑わす。

 1時から4時まで、中国語のプライベートレッスン。今日の先生は私と同じ年齢位の主婦。
今は英語の次に需要が多いのが中国語で36人の先生が登録されているようだ。

 29歳のお嬢さんはすでに20年以上日本にいて、薬学部を出て、カナダ留学をし、そこであった日本人と結婚して、三菱重工に就職しているご主人の縁でサウジアラビアにいっているとのこと。日本では虐めの経験もしたそうだ。お母さんもエンジニア。ご夫婦とも中国の清華大学も工学部をでて、仕事で日本にきたそうだ。

 異国で子育てをするのは大変だ。でも、虐めがあっても公平に見てくれる人もどっかにいて、努力をしている限り幸せな人生が営なわれると信じたい。



 利他主義は自分のスローガンだ。
 その人にとってできるだけの善をしたいといつも思う。

 善も多義だから、私の信じている善と他者の善が違うことは良くある。

 例えば、マザーテレサは死にいく人には食べるものとハグをしたという。
 過去に仮にどんな罪を犯して、路上の人になったとしても説教よりも飢えを癒し、やさしく
あるがままで肯定されたら、幸せな死が待ってると思う。

 でも、もし改善できる時間がたくさんある人だったら?
 もっと素敵な人生を生きる可能性がたくさんある人だったら?
 あるがままよりも、さりげなく「こうしたらいいと思うけれど。」ぐらい言う人のほう
善があると私は思う。

 私が若い時に出会った不幸な人の何人かは自分が特別だと思っていた。
 それで、電話で呼び出したり「〇〇をくれ!」みたいなことを言う人だった。

 50歳だった彼女はスターだと思っているようだった。
それで、自分が容姿や魅力が一番だと思っていたが、無理があった。
家柄自慢もあったようだ。
私は20代半ばだったが、この人をここまでそう信じ込ませた人たちの無責任さに憤りを感じたものだ。彼女はアメリカ人の経営するスナックでママをしていた。離婚してかつていた宝塚のエリート意識を持って店で働いていたが、いつも閑古鳥で12時頃、電話で呼び出されて私は毎日のように通った。6時ころから夜中の3時頃までやっていてタクシーで帰るのであった。若いボーイが一人いたが、彼女は体調を壊し1日おきくらいに休んでいた。
気の毒だと思う人が何人か来ていたが、アメリカ人経営者の女歌手からは毎晩「売り上げが悪い!」と文句の電話がかかっていた。毎日、何かに憤るように接客し、簡単の暴利をふんだくっていたから2度と来ない人がいて、来る客はマルクスの学者や福祉で、彼女の言いたい放題に何も注意しなかった。若かった私が何か発言しようとすると、後ろでボーイが手を合わせて、その気にさしておいてくれとサインを送った。客に唾を吐いたり滅茶苦茶だったが、誰も注意せず、何がしのお金を置いて、彼女の肩を抱いて店を去った。

 私は50歳をとおに過ぎておもうのだけれど、人を馬鹿にしたやり方をどうして誰も注意しなかったのか不思議で仕方がなかった。誰でも、どんなに美しい人でも老いる。自分の魅力でと思いたくても同情かもしれないと醒めた目があったら、50歳過ぎたらそれなりの分別で尊敬されることもできたはずだ。

 私はできれば、自分を客観的に見る目を養いたい。
 私も娘は毒舌で母親にも父親にも容赦しないが、それが幸せだと思う。

 私も鏡を見るとひどいよ。
 皺もシミもあるし、白髪もあります。
 体も体型もみっともないし、もう誰も振り返ってもくれない。
 
 とても公平だ!
 その老いの代わりにたくさん学んだ。
 生きることの悲しみと喜び。
 思い通りにならないことのおかげで謙遜も学んだし、自分の分も知った。
 それでも、生きてこれたし
 逆に皆を慈しむ気持ちが育った。

 若い時より遥かに思いやり深くなったし
 人の心がわかる。
 それは、美貌(あったとしたら)よりも数段価値のある英知だ。
 神様がどっちかを選べと差し出したら、英知を選びます。

 嫌なことをしないという人がいる。
 誰かが嫌なことをしてくれるお蔭で生きていられるのではないかしら?

 嘘のようだが、
 「私はお嬢様だから、掃除はしない。」という人がいた。
 学者の夫は
 「そんなに、お嬢様自慢をするなら、お嬢様とはお手伝いの二人も三人も連れて結婚するような人を言うんで、君適度の人がいうべきではない。」と言った。
彼女は学者夫人の地位に執着していたので、離婚には反対だったが、離縁された。
それは、2DKに住む若い夫婦の話でインテリジェンスの夫は妻の愚かさに嫌気がさしたのだった。

 私は彼女の親か先生かが誰かその年齢まで「お嬢様。」と育ててきた人の無責任さに憤りを感じる。彼女がその結果、幸福になってないのだ。それか、よほどのお金持ちに嫁がせる責任を持っているのならともかく。

 私はその人間が好きか嫌いかの区別なく最高善をする義務があると思う。

 その人の幸せを本当に望むのなら、「若いうちは、どんなにノーベル学者になれるような人の妻であっても、自分の身の丈に応じた暮らしをしなさい。」という聡明な両親の教えが必要である。

 だから、おべんちゃらは言わないし、言ってはいけないと思うのだ。

 取るに足らない人を「天才。]だと言ったり、「素敵なあなたなら、引く手数多ですよ。」と調子に乗せた人はその人の未来に責任を持つべきだ。

 私は浄化塾をやっていたときに20歳の若者に鬼のようであった。
「自分達はエリートだ!」
「どうして?どこが?」
 そうして、25年ぶりにあった時に安堵した。
 堅実な40代になっていたからである。道を誤ったりしなかったからである。

 人間だもの。
 どんなに頑張って生きてても失敗もあるし、できないこともおある。
 でも、どこかで驕らず生きてきたらそれなりの輝きがある。

 私の知ってる人の何人かは自殺した。
「自分は家もいいし、頭もいいし、容姿もいい。しもじもとは違うのよ。」
 何人かの良心的な人は、
「あなたのような驕った人は地獄に堕ちる。」とか、「あなたがあまり立派に生きてこなかったことは知っているけれど、それを承知で直してあげたい。」と言った。
しかし、特別だと思っている人は或る日、特別でなくただの負け犬だとわかったときに自殺した。

 その母親も父親も、レールを敷き彼女達に自分の力を気づかせないままに生きさせた。
 娘が自殺したときに、ある父親は「学校が悪い。他の卒業生はどうされているんですか?」
 と墓参りに現れたかつての級友に訊いた。37歳のときに。
「ごくごく、普通の暮らしをしてます。」
 最後まで自分の娘がわがままとも自分たちの教育が間違っていたとも思わなかった。

 高校も大学の一緒で、思い通りにならないと私の顔に爪を立てたこともあった。
 私は耐えていたが、もしかしたら苦言でも言ったほうが嫌われても善だったのかもとも
反省もしている。

 「〇〇の分際で生意気だ。」とか「〇〇の育ちにしてはいい相手を見つけた。勿論、私だったら、〇〇風情相手にしないけれどね。」と暴言の日々。

 皆、去っていった。
 嫌な顔をして去っていった。
 私達は同級生が自殺したことで、傷ついていた。

 私も娘がいる。
 こどももストレスを抱えてる。
 心がけていることは、幸せで生きれる生き方を教えることである。

 運もあると思う。
 「〇〇は大したことないのに、いい相手の恩恵でいい思いをしている。」なんて思ったらいけない!
多分、選んだのだ。多くの可能性から。
答えはひとつでないし、今の現象だけで正しいか正しくないかもわからないから。

 嫌われても、その人の善になるのなら私は言う。
 蔭で笑うより数段、誠実だと私は信じる。

 こんなに世界は可能性に満ち、幸福のかけらがばら撒かれているのに。
探し出せる人と探し出せない人がいる。
どうしてだろう?
公平な大地に公平にあるのに!

 今日の中国語の先生と
「自然が長いことかけて気づいてきたものを人間が壊したら、報復を受ける。」という考えで一致した。
 長江の大きなダム建設に、香港も別の州も反対したのだけど、政府の力のほうがおおきすぎて聞き入れられなかった。重慶の大洪水は三渓ダム建設への自然からの報復だ。

 でも、
 本当は自然からの報復の前に気が付いていたら、誰も犠牲者がでなかったのでは?

 私はだから、罰の前にこれだけ言っているのに。
 気がついてくださいな!