February 7th, 2009

「パンの木」個展は明日まで!

 母の病院の縁で生まれた喫茶「パンの木」での個展。
 松涛美術館の隣だし、落ち着いた松涛の住宅地にひっそりと佇むこのお店のケーキやホットケーキの軽食も美味しくて、私もしょっちゅう通いました。
文化村の美術館や渋谷の映画館によるときも少し足を伸ばして「パンの木」によるのが習慣になりました。

 なかなか時間のさけない友人との語らいの場としても「パンの木」の存在は助かりました。

ご縁を下さった方のは感謝してます。

☆そういえば、「パンの木」の絵を展示した8月の半ばの日の次の日にテレビ朝日の取材依頼があり、9月の秋分の日の朝に放映された「ちい散歩」もありがたかったです。
ちいさんも絵を描かれる方で渋谷散歩は2日間に渡って放映されたのですが、「パンの木」で絵を描かれたのが最後の9月23日だったのでした。
 ちいさんの好意的な言葉も嬉しかったのですが、この時間のこの番組は結構救世主的な人気番組で皆が見ているのには驚きました。
そして、たった数分間にも係わらず、多くの知人や見た人の記憶に残っていて後で多くの方に声をかけられたのでした。

 これはオーナの松本さんも言っておられるように、全くの偶然なんです。おおよそ宣伝らしいことをしない私達はこの幸運に感謝してます。
こういう運命の自然な流れにはとても感謝している私ですが、とにかく昨年から今年は母や父や姑が入院や骨折で殆ど私も気持ちが浮いていて大きな仕事はしませんでした。
せいぜいマトリョーシカ、豆本、団扇だったのです。
父のたっての望みで「二十四孝」の絵も描きましたが、24の物語を描くのは本当に大変で忙しい上にいろいろな過去の絵を参考にしましたが、中国の古い7世紀にも渡って言い伝えられてる話ですから時代考証もはっきり言ってよくはわからないです。とにかく映画や物語りや中国語のレッスンを通して多少とも中国を学んでいたのですが。

 その父も12月から救急車2回、病院で1回倒れる事が起きて、母が意識不明で5年目の入院中なのでこちらの精神ももう極限でした。おまけに姑も昨年の正月に足を折り、昨年の12月に駅の階段からこけて手を骨折して、今も薬ビンを開けられないレベルです。

 それで、いささか不本意ながら、「二十四孝」の出版を急ぎました。
何しろ病院に行く度に「二十四孝はどうなったか?」と聞かれるので、人間として急ぐべきだと思ったのです。父は89歳、世が大変荒れているには親孝行の基本が無くなったからだと主張します。そして、中国では確かに「孝経」のほんも古典として売られているので「孔子」「孟子」「老子」などと一緒にとても重要な基本的な教えなのでした。

 父は日本中の小学校や中学校に寄贈して心ある親には読んでもらえる様に宣伝もしなさいというのですが、こちらもなるべく動いて親の最後のお願いを叶えてやりたいと思ってます。

☆今日は3時10分からスペイン語でもあるので時間配分がどうできるかわかりませんが、母の病院にもいきたいです。ぜいぜい言っているそうですから肺炎かもしれません。82歳かな。

 昨晩は娘は卒論レポートの最後で、教師からのねぎらいの夕飯をご馳走になったらしく、ひとり前夕飯が余ってしまったのでこれからそれを頂いて、出かけましょう!
マスクをして出かけているのですが、本当に馬鹿にならないですね。マスクも使い捨てがいいようですので出費が。インフルエンザと花粉症のためですが、現代は考えることが多すぎます!

「清張 大好き!」

 今日の日本経済新聞の文化欄は「松本清張 さまざまな再評価」だった。
生誕100年を迎え、さまざまな見直しがあるという。

 生前は学界や文壇から高い評価を得ることができなかったそうだ。
この正月、新潮文庫累計4327万部売れたという広告が出たそうだ。
「砂の器」上下436万部
「点と線」306万部
10点が100万部を越えているそうだ。


 清張は高等小学校卒の学歴や貧しい生い立ち、孤高の人生から劣等感を覚えた。
怨念と「ルサンチマン(恨み)の文学」「反権力的な作家」と見做され、国から文化勲章や芸術院賞をもらえなかったという。しかし、いまや広大な作品世界や750冊に及ぶ圧倒的な執筆量でバルザックやドフとエフスキーと並ぶ巨匠ととらえなおす声もあるという
編集委員 浦田憲治より引用

☆清張は大好きで学生時代よりドカンと文庫本をまとめ買いしたものだ。
又、そろえたくなった。多分、結婚する時に実家においてきたのだろう。

 私達の知らない世界ではこんなこともあるんだなという思いと、どうしようもないハンディのある人間の悲しさが伝わってくる話が多かったと思う。

「黒い福音」なども「あるかもしれない。」から「ある。」に変化したのは大人になって世間を知ったからだ。
 私が結婚した時に「お小遣いをくれてもいいのよ。」と脅迫したS神父は、昔2度程あった夢子さんの家に晩年は住み込んでいたとあった。未亡人で娘を亡くした当時60代と思われるS子さんの家に80代から90代まで住んでいたのだ。「神父ってそんなことができるの?」というのが私の率直の意見だが、S子さんのブログに「S神父があるとき、家に住み込んできた。どうしてS神父がお金を持っているかはわからなかった。」とあった。別に書き込んだりしなかったが、私の結婚の時に「お小遣いをくれてもいいのよ。」と断われないやり方をしたように、多くの信者にそう言ってきたのだろう。結婚式の前で司式をするのがS神父だったので、普通、結婚を呪われたら大変だから誰でも出すと思われるお金だ。それはもちろん公の経費とは別で私の場合は20万円でした。
 今、清張さんが生きていたら書いてもらいたいくらい。

 これから、スペイン語に行ってきます!
続きも書きます!私も庶民ですから清張さんが好き!

長い年月かけて暴露される真実がある!

スペイン語から帰ってきました。先生のピーナの今日は南米の政治家が「日本には行きたくない。魚が好きでないから。アフリカの日本には行きたくない。」といったコメントに対して普通の人ならともかく政治家が日本がアフリカにあると思っていることに怒りを表してました。
前の席の先輩が後ろの席の私が「うん。うん。」と相槌を打つのが面白いんだそうだ。
「日本の麻生総理だって漢字を知らないのだから、別に驚きはしない。」といって、後ろの席で混ぜ返しているのが私の楽しみなのだが。90分授業のうちの60分はこうした国際情報の雑談で他は条件法の活用。ピーナ先生と私は世界を把握する位置が一緒で、私もこの忙しいのに通っている意味があるのだ。

清張さん、大好きの続きです。
※1976年~77年にかけて日本経済新聞に連載された作品だということである。 物語はテレビ視聴率への疑問から始まり、タイトルの『渦』は視聴率調査のための ...
私が「日本経済新聞」の文化欄で「易カルタで天の声を聴く」という文章を書いたときは26歳くらいでしたが、この時に清張さんが連載していたのが「渦」でした。「私の履歴書」は井上靖さんでした。時代の流れがわかって懐かしいです。
 個人的に反体制でない芸術家って何だろうと思います。
清張さんは私達名も無い庶民の声の代弁者ではなかったのか?
とも思います。権威や権力の嘘を暴いているというか。

☆昨年、ユーゴのメジェゴリエ巡礼に行った時です。神父様が3人同行したのですが、S神父の名が出たときにふたりとも顔を合わせて複雑な顔をしてました。
又、イグナチオ教会にいらした薄田神父様が主任神父という名誉ある地位を自分からやめ釜崎でホームレスさんと暮らす道を選ぶのを知り、私の釜崎応援が始まったのですが、S神父の名が出た時にとても軽蔑的な表情をなさったのです。

 なぜでしょうか?
彼は身奇麗で晩年は絵も描いていたそうです。普通のおじいさんなら許されることです。そして、私は神父様だからと言って絵を描いてはいけないとも思いません。

☆私は娘が教会付属の幼稚園の時にシスターから頼まれて毎月大きなガラスケースの中に入っている掲示板の模造紙の全サイズ大の絵を奉納してました。10月はロザリオ、11月は七五三と言う風に教会には月々の催しがなるので。近くの歯医者さんが「毎月、絵が変わるのが楽しみだ。」といっていたとシスターが教えてくれたので街の画家としていいのかもと思ったものだが。
 私はかなり高価な和紙を使うし、絵を描く人ならお分かりだとおもいますが、全紙のサイズの絵を描くのはかなり大変なんですよ。しかし、「材料費を。」をシスターがおっしゃっても、自分が貧しい時にいかにお金を出すのが負担であったか知っているので貧しい信者の献金からお金を貰うことは到底できないことでした。
 その頃、韓国の主任司祭がいたのですが、こちらの奉仕をまるで召使のように「もう、出来たか?早く描け。」といったりしたので、幼稚園園長のアメリカでも勉強した優秀なシスター・イメルダ・が怒り出して大変なことになったこともありました。

 つまり、御奉仕と言う信者の心こそ聖職者は汲むべきだと思うし、聖職者は一生神に仕えてキリストに似たものとなる為に生きているからこそ尊敬を受ける資格があると思うのです。

 シスター・イメルダは素晴らしい先生でした。看護婦学校に英語を教えにいったり実にピッシィとしたシスターでした。たとえば、幼稚園で卒業までにどの子も逆上がりをさせます。出来るようにさせます。それは障害のある子もでした。お休み時間は自転車に乗せて、自転車もどの子も乗れるようにしました。
「右のほおを打たれたら、左のほおを打ち返しなさい。」と教えました。現実に子供の社会で弱さを見せたら虐められるのです。
 その慶応を出て、アメリカの名門まで出たシスターは晩年カトリックの聖職を辞められたそうです。

 私のこどもは幼稚園を3箇所行っているんですよね。
最初はモンテーソーリーの4年保育で2歳から1年半行ってました。
ここは最低でした。1学年10人ほどの日本では誰でも知っているような家の子弟がほとんどでした。
私は幼稚園は2歳から入れるのは反対でしたが、姑が入れたかったので若かった私は十分に嫌といえなかったのでした。2年目の春には3年用の入学金を30万円払ったばかりでした。
娘が6月に「幼稚園、行きたくない。」というので「行かなくてもいい。」と言いました。
パリの幼稚園にも通っていた娘はとてもしっかりした子で普通にうまくやっていくタイプでいたから理由がそれなりにあると思ったのです。
 娘に聞いてびっくり。一人の男の子がお弁当にお茶を掛けられ食べれなくする。暴力を振るう子がいても注意しないで見ている。暴力を振るう子を手を縄でしばり座敷に入れてる。
 気がつくと愚かなのは私なのでした。
 3年保育の名門幼稚園は日本にはたくさんあります。そして、たった10人の中の殆どの男の子はその子の危害で、親が警戒して4月には転校していたのでした。それで、男の子の相手が無くなり女の子に暴力を振るうようになったのでした。
 そういえば、帰りに10人のお母さんの前で1日の報告があるのですが、「〇〇ちゃんの背中に歯型がついてますが、ライオンさんに齧られたので消毒しておきましたから大丈夫です。」という具合の報告があったのでした。その男の子はよく休んだのですが後であまりにも害があるので1年上のクラスの授業に受けさせていたり幼稚園側もいろいろ実験したのでした。

 ☆私が園長に「幼稚園内で怪我があるのはどういうことでしょう?」と質問したところ、「そんなに心配なら幼稚園に来て、見張ってろ。」と言われたので、それは教育ではないと思ったので辞めることにしました。未だ、3歳児ですよ。
その時に、カトリックの独身の園長は脅かしにかかりました。「他人に言わないほうがいい。」と。
私はその低レベルさにそれから1年半も寝込んでしまったのです。
とにかくマンションの3階に住んでいて、階段だったのですが歩けないのです。体重は7キロ痩せてご飯が食べれなくなりました。
母はこのまま私が死んでしまうのではないかと通って子供の世話をしてくれました。

 不思議がありました。
 6月の末頃、園長から「幼稚園に来い。」とありました。辞めるといったら辞めるのです私は。
それで、他の母親の情報だと、その男の子は自宅で夜中おトイレに起きて母親が手伝ってると便器に落ちて複雑骨折をして2ヶ月歩けなくなったそうです。それで、園長は「もう、来ても大丈夫。と電話をしてきたのでした。他人の不幸でいい思いをするのは大嫌いの話です。反省したのなら別ですが。

 やがて半年の間に私の家は大姑が亡くなり、建築して姑と同居となり半年休んで、教会付属の幼稚園に通いました。その時点で2年保育なのでした。

 風の頼りにその男の子のせいで私の娘を含む4人が(全生徒40人のうち)辞めたと知りました。また、公立の小学校へ行ったその男の子がクラスの女の子に暴力を振るい、必死の思いで私学の編入を受けて脱出したのが2人とも聴こえてきました。

 私は園長先生の「誰にも黙っていろ。」という圧力に愛育病院に関係者に相談したこともありました。愛育病院も幼稚園を持っていて、「その園長を辞めさせろ。」と言っていたそうです。しかし、無認可で独身の女性がこの幼稚園が無くなったらどうやって食べていくのでしょうか?私は沈黙を選びました。

☆娘が素敵なシスター・イメルダとあったのは教会付属の幼稚園のほうで、主人も私の末の弟も出た幼稚園です。2年保育の年長の春に、私も倒れて寝たままでしたので主人と母に送り迎えを頼んで幼稚園に娘を通わせていたのですが、「このままだと、公立に行ったらあの男の子と同じ教室になる可能性がある。」と気がつき「このまま、寝ていたら子供が不幸になる。」とよやくベッドから立ち上がったのでした。

 姑と同居しているのと主人が収入が少なく姑の発言が絶対で行く幼稚園は「KかSかFね。」と3択でした。家から出ても主人の収入では生きていけません。それで、娘の意見を聞いてF1本で行くことにしました。
自分は公立だったので私立の小学校のことはわかりません。しかし、それしか選択肢がないと人間は頑張るものです。11月が試験ですから半年決戦で毎日曜日の模擬テストと週に1度のお稽古、体操教室、ピアノなど毎日よく通い、家での生活も大事な要素と知り、ご飯をきっちり作り掃除もしっかりしてどこを突っ込まれてもいいように仕上げ、最後の志望校別模擬テストで1位を取り、奇蹟のように何のコネも無い学校へ入学できました。

 その間に、その男の子も私学受験の準備をしていて、ある時にお父さんと来ていた「こどもの国」で、やはり前を通った知らない家の3歳くらいの男の子の頭を思い切り引っぱたいているのが見えました。娘が背にしていたので私は彼女には知らせないで黙って見てました。

☆私学に入学してから、その男の子は公立に行き、ある時に釣りに出かけたその男の子の父親がそのまま池から帰って来なかったという話が伝わってきました。その家の中で唯一まともだったのがお父さんでした。「迷惑かけて申し分けない。」と言ったのでした。お母さんのほうは「私は息子が皆に悪く思われるから、お洒落もできないのよ。息子に恥をかかせるような態度は辞めてほしい。」と怒鳴ってきた人でした。

 やがて娘は小学校2年の時に南平台のガール・スカウトに入り、毎週1度南平台のドミニコ教会に通うことになりました。たまた間、同じ4年生の幼稚園に子供を通わせていた母親がいました。
彼女とは面識はありましたが、特別個人で話した人ではなかったのですが、人って見てるんですね。

 「園長先生と私はS学院の同級生でいつも親しくしていたのよ。そして、ある時に『お昼を食べましょうって。』電話がかかってきたの。私ね。『あなた一人の女の子のお母さんに酷いことをしたじゃない。それをお詫びしなければ2度とあなたとは食事をしないわ。』といったの。」それは、多くの母親の客観的な意見だったのでしょう。
やがて、私の友人の河原さんが双子の子供をその幼稚園に入れていて、よくいろいろな案内があるからでしょうか、「上の娘と一緒に〇〇幼稚園が引越ししたから遊びに行きましょう。」と誘ってきたのでした。私もわだかまりを捨て、小学校に通っていた娘と河原さんの長女は前の昔の幼稚園に遊びに行ったのでした。

 娘も凄いのは「〇チャン、覚えてるわよね。」と園長先生に訊ねられても「知らない。」を通したことでした。お菓子を持たせて見送りは河原さんに頼んだのですが、後で娘に聞いたら、「勿論、覚えている。でも許せなかったから。」とのことでした。

☆この物語はこれで10年くらい経って終わっているんですね。
 私が雅子様に同情するのはあんな風に精神が傷つけられたのは「何か他人に言えない非常に納得の出来ないことがったに違いない。」と思えるからなんです。私も脚力に大変自信があったので、まさか1年半も歩けなくなるとは思ってもみませんでした。

 そして、この事件で学んだのは納得いかないのに姑に押されて進めてしまった私の弱さへの反省です。「もう、いい子にならない!」と決意したのでした。

 子供が小学校へ通っても、私学って最初のうちは親が付き添うんですよね。体力的に無理だったので母親にも同伴してもらったものです。

 いいところは、人間には不可能は無いというものです。 誰もが出身校でもないのに絶対無理といわれていたのにちゃんと受かったしまったのです。これは後のアメリカでの小学校編入試験、中学校入学試験、高校試験、大学試験に大変役に立つ教えでした。「ありえない。」と言われる難関にも入れたこともありました。これが全く日本の小学受験と同じやり方だったんです。中学のことでしたが。

 そして、アメリカに行ったのは娘が小学4年生を終わった時ですがそのころようやく私の健康が回復し始めました。

 その男の子も中学はある学校の付属に入り学ばれてしっかり生きているとおもいます。

☆どんな話でも辻褄が合うというのはこういうことです。
 その4年生の幼稚園を途中でやめたお子さんには鳩山さんのお子さんもいたそうです。エミリーちゃんのおこさんですね。ブリジストンのエミリーちゃんのお姉さんのお子さんのほうも辞められたとか。
 私の友人の河原さんのお子さんは目に人差し指を突っ込まれたそうですよ。そんな酷いことをする男の子の母親は自分の子が幼稚園を辞めさせられないことだけを考えていたそうです。

 私が娘に幼稚園を辞めさせたときは多くの反対がありました。バッシングといっていいほど。私は黙ってました。本当のことを言えばその男の子を中傷することになります。
本当にあったことはもっと怖ろしいことでした、首を絞められたのでした。
3歳児でも男の子の力は凄いですよ。そして2度有ることは幾度でもありますよ。
幼稚園内で首を絞められるのが当たり前であるわけないではないでしょうか?
別に3ヶ月前に払ったばかりの入会金の30万円はかえってきませんでした。詫びることもなくね。
 しかし、神戸である少年が首を切られたり女の子が殺された事件がありましたね。
少年Aの事件です。あのとき転校して無事だった子もいたのです。
また最近、同じアパートで殺された人がいました。怖いといってアパートを越した人は無事だったのです。その頃はいじめでも転校できない法律がありました。でも、その事件から転校という選択があるということになりました。

 人間は体験しないことはわからないです。
 その園長先生は私の娘がいい私学に入れないことを望んでいたのです。「〇チャンは弱い子だから、幼稚園もついていけなかったのですよ。」と自分の監督不届きと教育能力の無いことを隠そうとしていたのです。ですから、「それで、どちらの学校に入られたのですか?」と聞いてきて、「Fです。」「Fでもどちらへ?」と難易度をチェックしてきました。悔しそうでした。私は子供が幼稚園で首を絞められるのが普通でないと思っただけですよ。ただ。その理由だけのために幼稚園を辞めさせ、同じことがないように公立をやめ私学に行かせただけです!
学校のランクなど関係無い!

☆人間社会は複雑だ。
私は基本的には学校などどこでもいいという考えだが、あの時は娘を負け犬にしてはいけないと思いました。そこか人生の厳しいところです。
泣き寝入りはしてはいけないんです。
世を良くするためには強くなければならないんです。

☆S神父の話から幼稚園で起きた話になってしまいました。
 しかし、真実というものはやがて歴史が答えを出してくれるんですね。

 松本清張の話から鋭く見るものには神様は真実を見せてくれると確信したのです!
今夜、読む本はこれです!