February 21st, 2009

槐多と鼎!

 昨晩、読んだ。

山本 鼎(やまもと かなえ、1882年(明治15年)10月24日 - 1946年(昭和21年)10月8日) は、愛知県岡崎市出身で、長野県上田市に移住し、美術の大衆化、民衆芸術運動のなかに身を投じた版画家、洋画家、教育者である。画家で詩人の村山槐多は従弟。

村山 槐多(むらやま かいた、1896年9月15日 - 1919年2月20日)は、大正期の洋画家。男性。

10代からボードレールやランボーに読み耽り、詩作もよくした。その早熟さ、デカダン的な生活、失恋による心の痛みなどにより、結核性肺炎を患っていた。また、22歳の若さで夭折した点まで同時代の関根正二とよく比較されるが、2人の作風は全く異なっている。画家自身のほとばしる情念や不安を反映した村山の人物像は、器用ではないが、一度見たら忘れられない強烈な印象を残すものである。画家の山本鼎は従兄。

[編集] 略歴

* 1896年― 小学校教師村山谷助、たまの長男として、神奈川県横浜市で生まれる
* 1897年― 愛知県額田郡岡崎町から高知県土佐郡小高坂村(現在の高知市)に移り住む
* 1900年― 京都市上京区寺町通り荒神口上ル宮垣町58番地に住む
* 1903年― 銅駝保育所(現京都市立銅駝幼稚園)卒業、京都市立春日小学校入学
* 1909年― 京都府師範学校付属小学校(現在の京都教育大学付属小学校)卒業、京都府立第一中学校(現在の京都府立洛北高等学校)に入学
* 1914年― 京都府立第一中学校を卒業し上京、日本美術院の研究生となる
* 1915年― 第2回日本美術院展覧会で「カンナと少女」が院賞受賞
* 1917年― 第4回日本美術院展覧会で「乞食と女」が院賞受賞
* 1918年― 第4回日本美術院試作展覧会に「樹木」「自画像」「九十九里の浜」「男の習作」他2点を出品し、奨励賞受賞
* 1919年2月1日― 第5回日本美術院試作展覧会に「松と榎」「雪の次の日」「松の郡」「自画像」「松と家」「大島風景」「某侯爵邸遠望」「代々木の一部」を出品し、美術院賞乙賞受賞
* 1919年2月20日― 流行性感冒(スペイン風邪)による結核性肺炎で急死、戒名は「清光院浄譽槐多居士」
* 1920年― 「槐多の歌へる」(アルス社)が出版される
* 1921年― 「槐多の歌へる其の後」と「槐多画集」(アルス社)が出版される

[編集] 作品

[編集] 絵画

若年で病没した画家としては比較的多くの作品を残している。全体として、決して技巧的ではないものの、原色を多用した、けばけばしいとさえいえる筆致を特徴とする。『庭園の少女』『バラと少女』『湖水と女』などの女性像や、『朱の風景』『信州風景』『松の群』などの風景をモチーフとして好んだ。その他、托鉢に放尿する裸の僧侶を赤を主調として描いた『尿する裸僧』は、見る者に異様な情熱を感じさせる、もっとも村山槐多らしい作品として知られている。

とはいえ、実質的に画家として活動した期間が約5年足らずであるため絶対的な作品数は少ない。その関係から、現在残されている作品にはかなりの高値が付いており、過去に『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京)に村山の作品が登場した際には3,000万円の評価額が付けられたこともある(しかもこれは「オークションでのスタート金額」としての評価であり、番組では「実際には億単位になる可能性もある」とのコメントも残された)[1]。

[編集] 代表作

* 庭園の少女(1914年、福島県立美術館)
* 裸婦(1914-15年、久万美術館)
* 尿する裸僧(1915年、信濃デッサン館)
* バラと少女(1917年、東京国立近代美術館)
* 湖水と女(1917年、ポーラ美術館)
* 自画像(1918年、大阪市立美術館)
* 松の群(1918年、中野美術館)

[編集] 詩

詩集『槐多の歌へる』は村山槐多の死後、友人たちによって編集、出版された。収録された作品は、絵と同様、技巧的というよりも若々しい情熱と率直さに満ちたものである。草野心平の詩人としての成り立ちに大きな影響を与えているが、一般的には、その絵画と比べると一段低く評価されている。

☆鼎さんは私の持っていた画集の鼎さんとは違うようだ。
槐多さんは22歳で肺病、スペイン風邪で亡くなられた天才画家で鼎さんの母親と彼の母は姉妹の従兄弟同士。若い時から才能が認められた槐多さんの父親は教師であったが、絵の道に行くことを反対していた。子供達が次々と死に彼に期待し農業をさせたかったようだ。

 それで、槐多は家出をして貧しい境遇で絵を描く。
いとこの鼎は若い槐多の才能に絵の道を薦め、応援するとともに触発されもする。
失恋からパリの留学するが同じ日本の仲間たちと豊かな交流を持ち、槐多が送ってきた絵に癒され日本に帰国する。鼎の家も実は経済的に破綻し多くのパトロンの支えられ辛うじて帰国し、親もその応援の費用で助ける。

 槐多は父親が先輩教師の不祥事にお金を作るため商人となり道具など売るようになる事に批判的だ。槐多の激しい絵や詩や文章は多くの人に天才を認められつつも官展に落選するようなはみ出し方もする。お酒や不摂生で自殺のような生き方をする。死後の席で槐多の父親が反対しながらも槐多の作品を見続け、友人を通して絵の具代などを渡していたことに鼎は気付く。

 鼎は長野の上田でロシアによったときの影響で農民に工芸品を作らせたり教育運動を提唱するが資金繰りに苦しむ。最後には画家はその作品で主張を訴えればいいと悟る。
農民とか教育と言う言葉には差別的な驕りがあると批判される。しかし、今も上田には農家で人たちの木で作った玩具屋工芸品の店などが残っているという。

☆長野とは面白い場所のようだ。
「槐多忌」は毎年2月の第4週の日曜日で、今年は明日だ。もう30年目。
全国のファンが上田の「信濃デッサン館」に集い30年目だそうだ。
明日は古河市の映画フェスティバル?で「母べえ」の映画を見に行くので、10時からの午前の部にいけば、3時からの「槐多忌」には間に合うので行こうかなと思う。300人くらい集まるそうだ。

  そういえば大きな槐多の画集があった。死後友人達が作ったものだ。
 短い人生のようだけどしっかり作品は作った人生だった。ずいぶん仕事も速かったようだ。

☆昨日は父の家の掃除で元気な父に会えた。
雪の野尻湖の写真も見せた。長野に東口飯店という立派な中国料理屋があるといったら、乗り出していた。やはり、中国で青春を送った人なので。
大好きな中国のお正月に横浜にも行ってきたとか。
これから春になるので日を選べば大丈夫なのだろう。性格で一人で出かける。
ただ、少し89歳の年齢としては当然の記憶ボケが出てきてる。確定申告の重要書類を紛失して家中、弟と探していた。
父の老人ホーム行きはなんの返事もないそうなので、このまま家にいるかもしれない。
 家に帰って、自宅の掃除をしていると結構健康的に疲れ、よく寝た。

 「槐多と鼎」の本は私にとってはタイムリーだ。
 やはり、絵を描かないと。
 世の流れは正常化して、絵画のオークションもずいぶん安くなった。
多分6分の1位で、買えない値段ではない。

 今日はスペイン語の冬期の最後の授業だ。
 大学の向えに住んでいる方の家で最後のパーティがある。

 いい天気である。
 プチ・スタジオと私の部屋を掃除して仕事をしよう!
 

Holly Cards!


聖画札は懐かしく、いつも聖人たちのことを凌いでいいお守りです。


 スペイン語の冬のクラスは最後の日!
授業後はK子さんの家が学校の前なので、18人の生徒と夕食会。
お雛様を飾ったとのことでワインと散らし寿司が!
とにかく沢山のご馳走で、皆それぞれオーダーしたサンドイッチやバーガーはお土産になりました!
 授業中も楽しいのですが、銘々とにかく素敵な方ばかりなんです。
でも、皆語学が趣味で、韓国語とスペイン語とかドイツ語とスペイン語とかで勉強が身についている方が多い。いくつになっても素敵に生きられるのだなあと思いました。

☆家に帰って8時半頃で、主人も帰ってきて知り合いの勲章受勲祝いとかで美味しいクッキーがあったので、「女帝」を見ながら食べてました。かなり前の中国の映画で劇場でも見たのですが、テレビでやっていたのです。
 娘は春休みに入ったので多少、いろいろ頼めるかな?

 明日も電車を乗り継いで、古河市で10時から吉永小百合の「母べえ」、そして上田から別所線で「信濃デッサン館」で槐多忌が3時からですので行ってこようと思います。上手に新幹線で帰れば10時頃には家に帰れると思います。
槐多って純粋なので考え方がわかりやすいです。画壇の閥や審査ということに抵抗して、又沢山子供がなくなった自分の家の血について血がにごっているという言い方をするような独特な感受性を持っていた人で絵も強烈でとてもユニークです。ランボーの詩も好きだったようです。よく飲んでもいたようです。

☆人間は不況と言われるような時にもどこかで純粋な美しいものを求めている。
 求めれば求めるほど何もかも必要がなくなるのでしょうか?
 自分のからだも生命も省みずに生き急いだ人の絵はとても惹きつけられます。

 明日はチェ・ゲバラからなずけられたという千絵さんに会うので、チェ・ゲバラの映画のカタログとか何かお土産を持っていこうと思っているのですが、何がいいかな?
少しずつキチンと生きた人のことが伝わればいいな!
今日の授業では政治家が税金で遊んでけしからんという話になりましたが、どこか日本人ってゆるしているんですよね。スペイン人の先生は不思議だったようです。