April 23rd, 2009

「愛と美の法則」美輪明宏!

 今日は夕飯を食べて(かなりしっかり作った)から、やはり父の家の掃除に行った。
もう、弟は帰っていてゆっくりといつものように湯船やトイレや食堂、居間の掃除を終えて寝室の寝具換えに行ったところ、父は寝ていた。少し前に倒れたのとまだ7時半くらいだったので、おでこをコンコンと敲いて起こした。大丈夫、無事でした。

 それからいつもの本屋と「マ・シェリー」によってラベンダー色の食事のマットのセットを買った。バーゲンだったので。

☆なんだかんだと教会のワッフル券代3000円と友人に贈った映画のチケット代2枚分を郵便局で支払う。そうしたら、娘がパパから貰ったと300円の当り券の宝くじ2枚くれた。この際600円でも大事です。自分は1000円の当り券も持っているので換金してこよう。
主人も宝籤を買っているということはお金がほしいのだろう。私も3億あったら思う。
皆なんとかしてまとまったお金がほしいのだろう。

今日、買った本はこれ。

電車の中で読んでいて「愛の賛歌」のピアフのことなど心が温かくなる愛の話。
美輪さんも使命を持って来た人なのだろう。

 ☆疲れたけれど、今日もあった人身事故の京浜急行のアナウンスをホームで読んでいて、貧乏でも恥をかいても生きるという情熱がなぜ無くなったのか考える。
殆どの仕事は誰でも代わりのいる評価されない仕事だ。今はこき使うらしい。しかし、昔からそうだったし、貧しくても偏見や冤罪にあっても、人間は生きていかなければならないようにできているのだと思う。

 貧しいことは不幸ではない。
 人間はそんなに簡単に誰からも愛されるわけではない。

 人には人の勝手がある。

 それよりも、愛するほうにまわることだ。
 誰かを愛す。報われなくても与える。誰かの役に立つ。
 そうすると、与えられないことはない。微笑みでいいのだ。
 荷物をもってあげることでもいいのだ。

 今日のテレビで雇用の為の無料バスや相談所を政府が作ったとあった。少しは良くなっている。

 ☆明日は宝くじを換金して3000円くらいはできると思う。
 ご飯は今日のがまだ大丈夫だし。
 そうだ!絵を描こう。

 幸せは自分で作るしかない!

アーティストのお金と時間の問題について!

 アーティストって貧乏と言うイメージが普通だと思う。
いわゆる売れっ子アーティストの「売れる」という質が自分のやりたいものを作って売ってくれるのなら画廊や発表の場の美術館はいいところだ。

 しかし、時間とは制作時間をいかに作るかという課題。
 お金とは制作費用をいかに作るかという問題。

 そして制作の質を高めるのには場所やアシスタントの質も問われるのだろう。

 そして、それも作家の実力と言うことだが、いかにお金と自由制作の時間を引き寄せるかで多分、限りある時間の自由格差が作品の質を高めるのだろう。

☆才能というものは稀有なものらしい。
 そんなに簡単に名声も得れないし、賛同者が必要なお金を貢いでくれたりもしないのだろう。
 周りに潤沢な資金のあるアーティストを見たことがない。
 制作費用を作るために意に添わぬ仕事もして、それが美術関係の仕事ならいい方でやたらと肉体労働に近 く疲労して作品を作る時間がなくなるというのは聴いたことがある。

☆芸術は血と運命に恵まれなければとよく言われる。
 血は才能。
 運命はやはり時代に選ばれるというような必然性を持った存在であるかどうか?

 若いアーティストにはチャンスをあげたい。
 しかし、誰でも才能を引きだせるほど優秀な教師や画廊も希らしい。

 現実の社会は出れでも主役にする幼稚園の演劇ではない。
 もっと過酷なものだ。

☆60歳くらいになるとやはり残っているのはそれなりに恵まれた人だ。
 それが異性の力であってもそれなりに揃っている人が多い。
 格差構造が機会均等の誰でもアーティスト時代に入るまでの移行時間が今だと思う。

 成功と言う目的が第一に来る人ならスキャンダル性がひとつの方法であって、週間誌などに出ているのはやはりそうしてパフォーマンスのアーティストたちだ。

 人知れず最高の作品を作った人が死んだ後も人知れず作品が消えていくことも有るだろう。
それは魂において最高の作品を作る過程で、上昇してある境地にいくことが充分な見返りなのだろう。

☆中国の水墨画の世界では世俗と交わらずというのもある。
世俗的に成功するというのを文人達は低いものだと思っているようだ。
品格とか境地とかが見れる人がいて、たったひとりに理解されればそれでいいというものらしい。

 どうしても世俗的な成功を求めると品がなくなる気がする。 

介護で死なない為に!愚痴も言え!と悟る。

 今はお風呂の入浴剤を入れてお湯が満つのを待っている状態です。

 介護疲れで自殺した清水さん49歳の事件は他人事ではありません。
 私も3人の老人を抱え、一人は入院中(母)、一人は4回倒れながらも一人暮らし、1人は正月前に手を骨折したものの元気で飛び回ってます(姑)。

☆清水さんはパートやケアー・センターのプロや妹さんの援助もあっての介護で、少なくても生活が出来ないほど今は貧乏ではなく、妹さんが働いて清水さんが介護をしてと役割分担もしていたそうです。介護要度も5度のお母さんは車椅子から降ろすのも大変だったと思います。

☆私が老人になったら、できれば一人で病院に行きます。老人ホームに行きます。
自宅で娘に介護してもらおうとは思いません。無理に親孝行はしなくてもいいと思います。

 なぜなら、やったものしか分かたないのですが本当に体の芯から疲れます。
皆で分担をしてといいますが、実際に妹は何もしませんし、弟のお嫁さん2人も専業主婦なのに手伝ってはくれません。弟は父の個人秘書として有給で実家に通ってますが、時間が来たら帰ります。老人ホームも隣接している同じ経営の病院に入院した父は「高い。家にいたほうがお金がかからない。」と入るのはやめてしまいました。

☆私もアーティストとしてラスト・パートの時間なので程ほどにしないと制作できないのが現状です。

 清水さんは立派な性格で愚痴ひとつ言わず、明るく努力家で親思いだったそうです。
スマップの草薙さんが夜の3時前に公園で裸になって騒いでいたといって酔っ払っていたとはいえ、公然わいせつ罪で捕まりました。

 おふたりともとても気配りができて、優しく品行方正な性格だったと言われます。
逆にそれほど辛いことが、それほどストレスの溜まることがあったのだと思います。

☆私が個人的に最もストレスなのは寄付依頼です。
 無視すればいいではないかといいますが、現実に昨日も五反田駅で「難病の子供」にと献金箱を持っている人が数人いるとその間を何もしないで通るのは非常に苦しいのです。

 今の時代は他人を責める時代です。
 母校も入学者が減ってからお金がなくなったとか、奨学金が与えたいけどお金が無いので緊急依頼と言う形で寄付を依頼してきました。授業拒否にあった自分としてはどうして授業の改善をしないのか?どうして奨学金をたくさん与えるほど成功するアーティストが産出できないのか反省が1文もないのです。それで大変なストレスになるのです。

 ハーバート大学もMITも卒業生が皆成功しているので億単位の寄付が集まってきます。それは母校への感謝と支える誇りが自然に生まれるので喜びだと思います。

 教会も信者になる前に「会ってください。」と手紙を出した時に神父様は会ってくれたわけではないのです。以降信者になっても教会費や寄付は支払ってますが、1度も相談したことはありません。
他の信者が相談しているのを見たことがありますが、「神父様に迷惑をかけて。」と批判的な目も多いのです。

 払わない人も多いです。
 黙って払う人は神様が報いてくださいますからと言われてます。

☆清水さんの愚痴を聞く人や恋人がいたらよかったのではないかとコメンテイターは言います。
 私も中国語レッスンで実家の愚痴を1日日本語で言って精神のコントロールをしました。

 私の琴の先生は4月1日に中国のお父さんを交通事故で亡くされた。
いまは葬儀で中国に帰っている。私はこの間の琴の授業の時に眠いのでキャンセルにして聴いた話が、日本人の中国人差別の話だ。仲間はずれとか随分父兄会でもされるのだそうだ。

 清水さんは生活保護の時に偏見や差別にもあっただろう。
それで、その分一生懸命に誰にも後ろ指されないように頑張ってきたのだろう。
女一人の働きで建てた彼女の家は立派だった。
骨を折って車椅子生活の彼女の母親と妹さんの地獄はまだ続く。

 草薙さんも「バッカヤロー。」と怒鳴っていたという。
どうにもやりきれない気持ちが泥酔させたのだろう。
犯人のほうがもっと性質が悪い。弱い普通の人は押しつぶされて生きているのだ。
そうして、結局は負けてしまう。
自分を痛めて殺すしかなくなるのだ。
悔しい。
他人事なのにいい人達が犠牲になるのはやりきれない。

 さあ、お湯は満ちた。
いい湯に入り、今日は自分を大いに甘やかそう!
生き抜くために!
本当に「甘えるのもいい加減にしろ!」って私も裸になって叫びたい!

☆湯上りにマトリョーシカのTシャツと掃除しやすいように短パンツに着替えて、ベッドに読んだ本はこれです。


美輪さんと私は天国の同じところから派遣されてきた気がする。
 私の母は名古屋の金城を出て、家政科を出たのだが戦争中は小学校の教師となり、学童疎開に児童を連れてって2年間教師をしていた。
 彼女は戦争中でも教師達が潤い、学童に与えられている食料なども家にもって帰るのを見て「坊ちゃん」夏目漱石に有るのと同じで教師というのがいかに汚いかよく言っていた。

 それから結婚し、私は名古屋の桜通りで生まれた。
 呉服屋の息子だった父は母と結婚して、家政科で習った絞りを真っ白の木綿や絹に模様をつけて商いを始めた。物質の無い時に飛ぶように売れたという。
 中国から帰った父は大陸的であまりこせこせせず、冒険家で随分大胆なこともした。
毎日、夜はマージャンで賭け事も強かった。そんな極めて庶民的な環境に私は育った。

 3歳の時、東京に出て浅草、銀座、目黒に住んだ。
美輪さんの絶賛する「ひまわり」「それいゆ」は母が取っていた。
幼稚園は3ヶ月くらいしか行かなかったが、「よいこのくに」「キンダーガーデン」で、初山茂、武井武雄の絵を見て育った。
 母は家政科だったので子供の服をよく作ってくれた。妹とおそろいで中原淳一や内藤ルネに出てくるようなちょっとお洒落なかわいい洋服だ。
 私は幼稚園のひな祭りで着物を着て踊ったことが気に入って、日本舞踊を週に3度習いに行っていた。それで、武久夢二の描いたような姉様人形の振袖を着て「京人形」を踊ったりした。

 昭和30年代で、お正月には凧を揚げて羽根つきをして、火鉢に上で餅を焼いた。
 母が銀座が大好きで「サエグサ」でお洋服を誂えてくれたり、銀座の小松ストアで可愛い子供服を買ってくれたりもした。父の友人がハイカラで「ケテルス」のクリスマス・ケーキを贈ってくれたり、アメリカ大使館に勤めていた母の姉が外国の絵本とか玩具を贈ってくれたりもした。ハイカラ好みの父がベビー・フォードという中古の小型車を買ってテレビで「うちのママは世界一」とか「パパは何でも知っている」「名犬リンチンチン」を観ていた。