December 19th, 2009

宝くじ!



 
 四角いタイルのしたに球根が眠っているのですが、深い雪の下にもぐって光も届かず冷え込むでしょうから、掘り起こしたほうがいいかもしれません。

☆宝のような貴重なものはこうして地面の下で潜っている気がする。
そして、運がよかったら芽を出しているのでしょう。


日が昇るのを眺めているといつもいいことが起こるような気がします。

 宝くじが当たったら、ほしいものはいっぱいです。

みな、似てるね!

 お掃除しながらテレビをつけていたのですが、「お小遣いはどうつかいますか?」というアンケートがあった。「自分はのご褒美にします。」「1位はコスメ」で意外と次は食べ物というのた。

 掃除や洗濯はエンドレスな仕事だ。魂の成長にはいいけれど煉獄のワークにも似ている



 そうよね。合間合間にお茶をしたり、チョコレートをかじったりするけれど、自分へのご褒美に何か買ってもいいですよね。

☆新しいお財布にお札やカードを入れ替えて、こまごまとした領収書などを破ってゴミ箱に捨てた。そして、宝くじを宝くじ箱へしまい、開運グッズをきちんと飾りました。


 お掃除って言うのは終わりがない。
 お客様と年の瀬がかさなって張り合いのある掃除デーだ。

 パパのかしてくれた「坂の上の雲」。できれば今度、掃除に行く日まで読み終えて返したい。きっと、掃除は火曜日に行くと思うので大丈夫かな?

☆そういえば、アンケートで「クリスマスはどこで?」というのがあった。
その回答が「家で。」というのがもっとも多い。
私も家でなのだ。長野で娘と娘のボーイフレンドと。
つまり、私はきわめて平均的な日本人なのだろう。

 不況でみな収入が減って、無駄遣いができなくなってきちんとしてきた様に思う。その上、地震だ。何が起こるかわからない暮れ。

 今、与えられているものに感謝して大事にするしかない。

 さあ、私も夕飯の支度のお買い物にまいります。
 自分へのご褒美といってもせいぜい好物のおかきくらいです。

 きっと、たいていの人もそうなのでしょう。

宝くじとテレビ「小公女セイラ」の最終回

 
 金物屋で方位磁石を買い、隣の東急で黄色のブリザードのバラの花を買った。これは宝くじの当選をより確実にするためですが。

 「奇跡の画家」後藤正治 講談社を8階の本屋で買う。
 毛糸の手袋とクリスマスのプレゼントをいろいろ買う。
 
 4階の喫茶店でポパイのピザとコーヒーをいただきながらボ~といく行く人たちをガラス越しに見ていた。若い男女の多い喫茶店で読書をしている人やインターネットをしている人や商談をしている人たち。主人のためにケーキを1個買った。私はこのところ自分の分は買わなくなったのだ。

 この東急店が模様替えをしてから、どこから集まってくるのかと思うほど若い人がやってくるようになった。若い人たちのための安価な衣服や雑貨店が多く経営的には成功しているようだ。

☆8時少し前に帰って、早速に方位磁石で正確に宝くじをおくのにふさわしい西を探した。

私の宝くじ箱である。中には西銀座デパート前などで購入した宝くじが。

 方位磁石で西と出たのはキャビネットの中であったので、いろいろなものが密集している中においてみる。

 方位磁石と黄色のブリザードのちいさな薔薇の入ったケース。

 正確な西ではなかったが、以前はここにおいてあった。自分の目線より高くないとだめだそうでキャビネットの中でももっと高いところにおくつもり。




☆☆☆「宝くじ」の設置が終わったところで「小公女セイラ」がテレビで始まったので観た。
 私のころ、読んでいた「小公女」のセイラの本は、黒髪をポニーテイルにしていて燐として賢気な少女で、えらくその絵がきにいっていたのだ。それで、少しキャラクターには不満。

 この原作の主題は何だろう?
 どんな逆境にも心次第でなっているつもりのものになれるということか?

 人間の世の中が浅はかで富んでいるときには大事にし貧しくなったら粗末にするようなことがあるときに、品格を保つ支えが「神」でも「祈り」でも「小公女」でもあったら強くなれることか?

 大人のシンボルである女学校経営のミンチン女史が純粋な強さのシンボルであるセイラに根拠なくたじたじし、また自分の存在を嘲られるような不安になるある事実。

 人間の弱いものいじめや権威に弱く力関係で対応の代わる滑稽さ。

 テレビは少女の物語として勧善懲悪もあればりりしくまっすぐ生きる強さも見せる。

☆「奇跡の画家」を読む。
 神戸に実在している石井一男という画家の話。
 彼は結婚もせず、バイトをしながら習わず絵を40代後半から描き、まだ60代の画家だ。
 ギャラリー島田という神戸の画廊に電話をして個展をひらくようになって東京や新潟でも個展をやるようになった画家。

 彼の形容詞として清貧、孤独がある。
 ルオーに似た画風。
 美術学校へはいってないので、うまいかといわれればそうではないともいえるが、純粋で涙が出てくると感じる人がたくさんいてよく売れる画家だ。

 石井の絵を購入した人の人生や画廊のバック・グラウンドも丁寧に描かれている。

 バブルで消えそうな現代美術の対極にある絵だろう。

 しかし、この本でも書かれているように特別、後世に残ったり画壇に残るというのではなくて、ただ絵を描きたくて描く。その絵が好きで買う。そういう関係の中で生きて幸せな画家の写真も素朴で芸術論など語りそうもない。なぜか、そんな画家を紹介したい気持ちが今の時代にはあると思う。

☆世に受けそうなとか売れそうなとかを目的とした絵はやはり弱い。
この間、長野の黒姫駅の駅前の「しなの」喫茶店で見た、藤田の画集にはなかなか見たこともなかった絵がたくさんあったのだけど、あまりにも表面的過ぎてちょっと軽さに幻滅した。
 藤田のことを書いてある評伝に「藤田は売れる絵を学んで描いた」とあったが、成功というのはそういうことだ。

 ゴッホが聖人のようにあがめられるのも「売る」ということを度外視して描いていた純粋さがあったが、逆に「どう食べるのか?テオのいない人。食べさせてくれる理解者が兄弟、親、伴侶にいない場合は現代は純粋であることは難しいであろう。

 今の若いアーティスト志望の人たちは村上隆や奈良美智などのように画が高く売れていい生活ができることを夢見ているのが多いそうだ。現代美術の美術館にはおしゃれで洗練されている若者が多く業界的にかっこういいのであるが、純粋で清貧ではそのようにはできないのであろうから、やや古い価値観かもしれない。

 この本にでてくるギャラリー島田のオーナーにいわせると60歳すぎても画を描いているのはもう本物といってもいいのだそうだ。
基本的に画は売れないので計算高く考えたら続けられないそうだ。

☆人生というのはよくできていて、「小公女」のミンチン女史が貧しいのにへこたれないセイラをいびったように、魂が試されるというかより本物に仕上げていくいろいろな不遇なできごとや不幸がけっこうおいしいのだ。

 清貧というのもあるひとたちにとってはとても楽なことであり、ものごとがシンプルで無駄がなくなりやりやすいのだと思う。

 私なども、今日は掃除でへとへとになるくらいがんばったのだが、意地悪な主人が「寝室までは片付けられないよ。」とねぎらうことなくいびったりすると、ちょっと嬉しくなる。ひねくれ一茶でないけれど「がんばりましたね。見違えるほどみれいになりましたね。」とでもいわれたら、物足りなく思う私ですが。

 でもね。昨晩、娘のメールで「ママ、私の部屋片付けてくれた?」と主人の携帯に入ったときに、「見違えるほどきれいになりましたよ。3万円では嫌だって、10万円とか言ってますよ。」とか主人は返信したのだ。
「あの娘、変ですよね。自分の部屋を人に掃除させてお金を払うって変わっている。」と私が言ったら「娘は金持ちだからね。」と主人は言う。お金があるとかないとかの問題ではないと思いますがね。

☆というわけで私もほとんど売れる絵を描かず掃除で収入を得てるかも。
 純粋でしょうか?