December 29th, 2009

森は生きている!

 主人も娘たちも遅かったのでゆっくり読書できた。
エミリー・カーンはすばらしいカナダの画家で1871年、12月13日にブリティッシュ・コロンビアのヴィクトリアに生まれる。当時は住人4万人の多くは原住民だったという。9人のこどもの8番目として生まれる。

 イギリスの伝統的な厳しい教育を受け適応が難しかったそうだ。

 11歳のときに父親が性と生殖の話をしたが「野蛮な話」と受け取り、父親に反抗的になる。

 14歳で父親が逝き、16歳で母親が逝く。厳格な長女が母親代わりとなる。父親は6人の子のために信託資金を残し後継人にゆだねる。

 18歳から3年間、サンフランシスコの美術学校でデッサン、肖像画、風景画、静物画の勉強を始める。

 21歳でヴィクトリアに帰り、自分の敷地で「納屋のアトリエ」を開き、子供たちに絵を教える。

 22歳でヴィクトリア農業フェアでデッサンの賞を得る。
 23歳でカー姉妹、ブリティッシュ・コロンビア州のYWCAの設立者となり自宅がヴィクトリア州本部になる。

 27歳、春。ヴァンクーバー島西海岸の保留地で、先住民が「笑う人」という名をエミリーにつける。帰路、出会った青年に求婚されるが断る。8月、ロンドンの美術学校に登録、ユークレットでのスケッチの出版を出版社に持ち込むが不採用となる。

 29歳、出会った青年が英国を訪問し求婚するが追い返される。
足の指を骨折し、悪化して切断。(以降、絵を描くときは簡易いすが必要となる)。ロンドンを嫌い、ハートフォードシャーで勉強とスケッチに励む。(2年間)。当地で水彩画家ジョン・ホワイトリーに師事。バークシャーとコーンウォールで、ジュリアス・オルソンとアルジャーノン・タルメッジのもとで学ぶ。初めて森の絵を描く。

 31歳、「心身の衰弱」に陥る。姉リズがサフォックスのイースト・アングリア・サナトリウムにエミリーを連れて行く。「ヒステリー」と診断される。1903年、ゴーギャンがなくなった年。

 32歳、サナトリュウムを退院。意気消沈し、ハートフォージャーに戻る。イギリスを去る。トロントとカリブーをたずねる。カリブの新鮮な空気と広々とした空間が彼女の健康を回復させることに。

 33歳、ヴィクトリアの「ザ・ウィーク」誌に政治の漫画シリーズを発表。

 34歳、ヴァンクーバーに移り、グランヴィル・ストリート570番地にアトリエを借りる。そこでこどもたちに絵を教える。大人に教える仕事はヴァンクーバー・スタジオ・クラブで1ヶ月。コースト・サリッシュの籠職人ソフィ・フランクと出会い、生涯の友となる。

 35歳、姉アリスとアラスカへの3週間の旅。アラート・ベイやシトカでトーテム・ポールを見る。エミリーは、ブリティッシュ・コロンビアの先住民の失われていく文化遺産として、自分の見たものの記録を決意する。

 36歳、あちこちでスケッチ。ブリティシュ・コロンビア美術協会に設立メンバーになる。

 38歳、旅の資金を捻出するために作品を競売。姉アリスとフランスへ出航。パリのモンパルナス地区に落ち着く。アカデミー・コロラーシで勉強。病を得る。(都会の生活が原因と思われる)

 39歳、療養のためにスウェーデンへ。帰仏。サロン・ドートンヌで2点展示。過激で斬新なスタイルをひっさげヴィクトリアに帰る。

 40歳、ヴァンクーバーにアトリエを借り、フランスで制作した絵を展示。一般には受けず。夏、島を旅する。

 41歳、ヴァンクーバーのドラモン・ホールを借りて、およそ200点の先住民をモチーフにした絵画、素描、スケッチを展示。州政府に売却するも失敗。シムコ・ストリートの実家の土地にヒル・ハウス(下宿アパート)を建てる。このアパートの家賃が収入源となる。

 42歳から54歳。アパート経営にいそしむ。牧羊犬イングリッシュ・ボブテイルを育て、陶器を焼き、敷物を作り、乏しい収入を補う。ほとんど絵を描く時間がなかった。

 44歳、サンフランシスコに行き、8ヶ月間、セント・フランシス・ホテルのダンス場の装飾の仕事に従事。

 50歳、生き物と絵の愛を分かち合う少女キャロルと・デニーズ・ウイリアムズに出会う。生涯の友人となる。

 51歳、胆嚢の難しい手術をうける。
 52歳、シアトルパシフィック・ノースウエストのアーティストたちと展覧会を開く。

 54歳、ハリウッド・パーマー作家協会の「文章作法」の通信講座に登録。

 55歳、マリウス・バービューと州政府の民族学者チャールズ・F・ニューコム博士がエミリーの有力な支援者となる。

 56歳、ナショナル・ギャラリーがエミリーの水彩画3点を購入。
絵を描くことを優先させ、「歌いながら」森の中へと向かう。神智学研究を含むスピリチュアルな探求に関心を寄せる。

 57歳、地元の展覧会に出品を続ける。カナダ東部とアメリカの主な国立の展示会で展示。「マッギル・ニュース」増刊号に「現代と先住民の芸術」を発表。ローレン・ハリスが、エミリーに先住民を素材にすることをやめ、森をインスピレーションで見るよう勧める。

 58歳、クリスタル・ガーデンズで個展を開き、ヴィクトリアのウィメンズ・カナディアン・クラブで講演する。画家ジョージア・オキーフと会う。
ヴィクトリア周辺へのスケッチ旅行が毎年の活動パターンとなる。ヴィクトリア統一センターで礼拝と信仰療法。

59歳、キャンプとスケッチ。冬は肖像画を描く。

 60歳、スケッチ旅行とキャンプ。12月「一般の人々のための美術館」を自宅に開く。資金不足のため中断。

 61歳、カナディアン・グループ・オブ・ペインターズの創立メンバーになる。1ヶ月の山岳地のスケッチ旅行。キャラバン・トレーラーを買う。エレファントと命名。11月、シカゴ世界博覧会を訪問。トロントデローレン・ハリスと神智学について議論。自分の宗教学を確認し、神智学を受け入れないことを決意。

 62歳、5月と6月、エスキモールト・ラグーンと南ヴァンクーバー島ノストラスディー・ファームデキャンプ。夏と秋、「文章作法」コースを受講。9月、再びストラスディーファームでキャンプ。「不景気」開始以来、カナダの国民総生産が42%減。労働者の30%が失業。

63歳、6月9月、メチョーセンのアルバート・ヘッドでスケッチ。州立師範学校で「芸術について」の講演。若いフィリス・ハドソンを助成する。

 64歳、ヒルハウスを借家とし、ベック通りに転居。エレファント号による最後のキャンプを6月と9月のメチョーセンで。

 65歳、重い心臓発作で健康の衰えが始まる。

 66歳、ヴァンクーバー美術館で初めての個展。ロンドンのテート・ギャラリーでの展示作品が批評界で注目される。

 67歳、3月、2度目の心臓発作に見舞われる。病気であることを忘れるために「先住民の物語」を完成させる。9月、ヴィクトリアのクレイグフラワー・ロードの一部屋だけの部屋で3週間のキャンプ。

 68歳、ヴァンクーバーカナダ放送局の地方局ディレクター、アイラ・ディルワースが「先住民物語」をラジオで朗読番組を企画・放送。5月2週間のキャンプ。6月、深刻な脳卒中で入院。話すことができなくなる。8月、物語を書く仕事に戻る。

 69歳、ディルワーストハリスの尽力により「エミリー・カー信託財団」設立。ヴィクトリアの大学女性クラブが、エミリーの70歳の誕生日と「クリーー・ウイック」日本語タイトルは「カナダ先住民物語」の出版に敬意を示し、大きな祝賀会を開催。
日本、真珠湾攻撃。

 70歳、8月、最後のスケッチ旅行。「喜びに満ちた12日間」マウント・ダグラスで小屋の中のキャンプ。再三の脳卒中で療養所に入院。再び、執筆。秋、「小さいものの本」出版。「クリー・ウイック」で総督賞を受賞。トロントにて大きな展覧会。

 71歳、エミリーの絵がモントリオール、トロント、ヴァンクーバー、シアトルの4箇所の個展で熱狂的に迎えられる。ふたたび発作を起こし入院。

 72歳、公園に外出するため車椅子を求める。エミリーの作品が商業的な画廊で初めて展示される。モントリオールノドミニオン・ギャラリーのマックス・スターン博士が大きな展覧会を準備し、60点を売る。9月に発作。
秋、「下宿屋のはなし」出版。

 73歳、ディルワース、ハリス、ニューコムを財産保管人に指名。
2月、ヴァンクーバー美術館での展覧会を準備している間、カーは休養のためにセント・メアリーズ小修道院に入る。同地で3月20日死去。
同年、太平洋戦争、第2次世界大戦終結。

 1946年、翌年に「自伝」出版。
 1953年、「一時停止ースケッチ帳」と「ピーコックの心」出版。
 1966年、日誌「砂糖あられ」出版。

「孤老」!

 12月29日、も本経済新聞より
「老いを生きる」
 70歳代の孤独の老人の犯罪が増えているという。1人住まいの老人が4分の1になる時代はすぐだ。100歳以上は4万人。

 高齢者の心が悲鳴を上げている。これまでできていたことができなくなる。退職で人から認められる場面がなくなる。浜井浩一龍谷大学教授は「社会とつながる基盤となる仕事や家族を失い、孤立した人が多い」とみる。経済環境が追い討ちをかける。65歳以上の人のほうが数字が1に近づくほど大きい所得格差ジニ係数が一般世帯が0.36なのに対し0.41で、若年層より大きい。老いから生じるすさみは「うつ病。自殺などにも通じる」だけでなく、ささいなことにキレたり、駅員に暴力を振るったり「社会的弱者」から、「加害者」に回る高齢者の増加を招いている。

 自暴自棄になり、「セルフネグレット」となる高齢者。発するSOSに周囲が気がつき、手を差し伸べることができるかどうか。

☆70代で罪犯す。
 年配の女性が乗った自転車のかごに無防備にはいった手提げかばん。「金が手に入る」「逃げ切れそうな相手だ」。そう判断した男性75歳は乗っていた自転車で女性に近づき、かばんに手を伸ばした。昨年7月、兵庫県西宮の路上で生まれて初めて犯罪に手をそめた。
 男性は20年以上前に離婚。以降はひとり暮らしで娘とも音信不通だ。4,5年前に勤務先の倒産と同時に住まいを失い日雇い労働者になったが、年齢を理由に約1年間全く仕事をもらえず、所持金はそこをついた。「生きていてもしょうがない」。自殺を試み2日後の犯行だった。
奪ったかばんには7千円入っていた。「これで生き延びられる」と安堵感がこみあげ、スーパーのタイムセールで350円の弁当を購入。食事は3日ぶりだった。味をしめて犯行を重ねたが4回目に逮捕され、執行猶予つきの有罪判決がでた。

 涙が出るような記事だ。この程度の食べ物のことでこんなに厳しい処置しかとれないのか。もっと思いやりのあるやさしいやり方はできないのか?

☆今日も、うずくまっているホームレスさんを見た。この寒さだ。外にいるだけでも辛いはずだ。
派遣村には500人分の宿泊と食べ物が用意されていて1月4日まではいれるそうだ。でも、その後は追い出される。

 年寄りが年相応にだらしがなくても、黙って片付けてあげればいいではないかと私は思う。無視したり蔑視したりは他人でも身内でも許されないことだ。

☆私は大学時代からずいぶん暴力を受けた。今、振り返るとみな、差別されたり劣等感を感じさせられている人たちだった。だから私は警察には引きずったりはしなかった。何か哀し過ぎる。

★★★
 結婚詐欺殺人で男性から1億円近くせしめた35歳の彼女も老いた人の孤独やもてなかったり未婚の孤独な人が何を求めているかを知っている人だ。

 生きるのに不器用な人は女性でも男性でもいる。
上手に表現できなくて貢いでばかりで報いられることなく消された人たち。

 何かこの世が間違っているとしか思われない。

 善良さや人を信じる行為が貶められているのだ。


 自分を生んでくれた両親を老いたからといって無視したり放置している人は想像力がなさ過ぎる。

 誰でも年取れば体力が弱り、昨日までできたことができなくなる。

 それを蔑視したり、仲間はずれにして平気な人たちは社会に生きる資格がない。

 せめて1日1食くらいは無条件で食べさす場所があってもいいではないか?一方でありあまる食料を捨てている高級レストランや宴会場があるのだから。

 そして、フルタイムでなくても草むしりでも洗い物でも三千円くらいで気軽に頼めるシステムがあればいい。

 重い荷物を持つ手伝いやコインロッカー代わりの荷物あづかりも1回500円くらいでやれれば1日食べるものがないことはないでしょう。


 「さもしい人間は大嫌い」と野尻のコテージの裏の未亡人が言った。
ただ飯にありつくために通う人はやはり嫌われる。誰でも一方的に奴隷になることはありえないのだから。

★私は「かなえキッチン」木嶋佳苗の結婚活動詐欺殺人が善良の男たちに結婚や学費援助を餌に薬で眠らせ練炭で殺した事件が世に知られてから、反省のしっぱなしである。

 私は殺された冴えない善良な男たちの気持ちが乗り移ったかのように辛く哀しかった。悔しく自分の目の見えなさを責めた。

 小林多喜二は世の貧困の原因は資本家の搾取のようにいうけれど、貧しい人たちがみな心清く愛の人というのも幻想である。

 私の経験では、貧しい人たちもチャンスがあれば他人の無料働きで楽をしたいと思ってもいるし、相手が善良そうなら舐めた犯罪もするのだ。
その70代の老人が同じ老女の自転車のかごを狙ったように弱いものを狙うのよね。

☆私はWWEのスマック・ダウンを昨晩10時から12時まで見たけれど、なぜプロレスが好きかというと叩かれても叩かれても、また這い上がってくるような不屈な精神と体を張ってというところがわかりやすく好きなのだと思う。

 自分の代わって弱いものいじめを叩き潰す英雄に庶民の中の貧しい階層がエールをおくるのは一種の代償行為なのだろう。

★「さもしい心」というのはやはり子供のころから培ってきたものだと思う。ある年齢になると誰も注意しないし、何か不当にとられるのはみな嫌な気持ちがするから年をとらなくても普通に人は去って行ってしまう。

 裏の未亡人は70歳なのだけどきれいで魅力があるので、ご主人が昨年なくなってから、それ相応の男が近づいてきた。が、未亡人は相手にしなかった。そうしたら、その男は「世にも悲惨な暮らしをしている」といい振る舞いて生きているという。

 自分の思う通りにならなくても、やはり人には好みとか事情とかがあるのだから、そんなことをいってはいけないですよね。
でも、それもかなり普通の人間心理だ。

 私も自宅にいきなりきて、玄関のところで「どうぞ、お入りください。」といったら、いきなり殴る蹴るの同級生がいて、絶交したら「離婚した」とか何か滅茶苦茶なことを言っているらしく、同級生の人の質問に「いいえ、離婚してませんよ。」と答えると、みな唖然としていた。これって犯罪ですよね。
私はお高くも排他主義でもないですが、暴力はきらいなんですよね。痛いしね。プロレスは仕事でやっている格闘技オペラですから好きですがね。

☆私は「原因と結果の法則」のジェームス・アレンの思想が自分には一番納得いけますね。もし、晩年不幸で誰にも相手にされなくて孤独だったら反省しますよ。自業自得ですから。

 老後の準備は今からしなくてはね。