February 22nd, 2010

「個性(さが)まげて 生くる道わかず ホ句の秋」 杉田久女

「杉田久女」美と格調の俳人 坂本宮尾著 角川選書を読む。

杉田久女というのは明治23年に生まれた俳人である。高浜虚子に勘当されて句集の序文を書いてもらえなかったので句集は出せなかったらしい。夫は中学の絵の教師、2人のお嬢さんはそれぞれ俳人とアーティストになり大学教授の妻となり、立派な主婦として俳句を読んでいたのだが57歳で精神病院でなくなっている。

 私は引越しのためウルトラ・プチ・スタジオで運ぶものの梱包をしながら、絵を描くとか文を書くとか詩や俳句を作るとか言う女はいつでも葛藤を抱えていたのだと思う。
私のプチ・スタジオからはポーラ化粧品の持っている箱根のポーラ美術館の宣伝がいつも見える。今はルノアールとボナール。ビルの合間から見える。
白セージを焚いているので澄んだいい感じだ。


忘れていた作品や本や、記録が見つかってそれぞれの背景的な出来事を思い出して、よくよく作り続けてきたものだと思う。

☆今日の新聞ではニューヨークのMOMA(近代美術館)でさえも赤字が増えてキューレーターの首切りをしている美術界の不況とその対策。昨日の新聞は草間弥生さんが親を説得して30歳でニューヨークに行ってから食べるものにもことかいたとあった。

 貧乏が当たり前の美術の世界と作家たち。私もウルトラ・プチ・スタジオを解約するほかはなくなったのだが、我が家も娘の独立と就学で物入りになって困り始めた。

 ウルトラ・プチ・スタジオを見渡しても売るようなものなんかなにもないのだ。「易カルタ」でも出版してもらおうか?

☆杉田久女の本は松本清張のも田辺聖子のも読んだし、他にもずいぶん読んだ。
 久女には少し私の境遇と似ている。
 久女は豊かな家に生まれ5人兄弟で、鹿児島に生まれ岐阜県、琉球、台湾に住み、東京に帰って御茶ノ水に通う。父親は学習院の書記官だったので学習院の敷地内にも住んでいたという。4年前には御茶ノ水には平塚来朝が在籍していた。フランス風の社交ダンスやテニスをしていたような暮らしながら家庭の女子に教養と作法、裁縫、家事などの良妻賢母がもとめられた時代である。

 夫の杉田宇内は愛知県の山奥の庄屋で300年も続く素封家である。祖父は県会議員、父親は村長。宇内は東京美術学校の西洋画科の本科、研究かに進み、中退して旧制小倉中学に図画の教師として赴任。宇内25歳、久女19歳で結婚。久女は立ち振る舞いのしとやかな美女であったという。官吏のおじょうさまで御茶ノ水出には良縁がいくつもあり、絵の好きな彼女は芸術にあこがれて仲人の「生活に不自由はさせない。夫の外国での絵の勉強に同行させ、東京に家を建てる。お手伝いの人も仕送る」という話に心はずんだであろう。結局は昭和21年に大宰府で没するまで40年近くここで暮らした。俳陣としては小倉を中心に活動していたようである。

 夫とは3年ほどは大変中むつまじかったようだ。夫は中学教師に甘んじて久女の期待する芸術家としての暮らしから程遠く、また経済的にも厳しく久女の実家の援助で暮らし、手伝いの女なども雇えなかった。

 杉田久女は美しい和紙を集めるのを好み、字は達筆で良質の紙にさらにと句を書いて、しそこなたったら高価な和紙をすぐに反古にしたという。それで、残っている句の短冊はとても美しいのだそうだ。

 夫の中学勤務も雑用もあり多忙であったでしょうし、2人の娘を養うためにも絵など売れない画家にはなれなかったのだろう。しかし、久女は不満であって俳句をよむことで自己実現を始めたようである。才能もある上に大変な努力家で読書量も西洋東洋の古典までで、なかなかこのように教養の深い俳人は当時としてはまれであったようだ。まして女性で。

 それが高浜虚子の娘を愛するあまり、久女を排除せねばという破門であったという。俳句で食べるのには娘がかすむのは命だという判断で、虚子は久女を劣等にイメージづけるため「をかしい」とか「狂人」とか書いて貶めた。
久女は正統的に虚子に認めてもらいたい一途さで200通以上も手紙や電報を書いて出したが、虚子は読まずに捨てていたという。

 しかし、久女の残した句は天才のもので俳人の女性ではただ一人の天才だといわれている。

 宇内とは離婚の危機もあったが、久女は地方の中学教師の妻として地味に耐えて生活を全うした。

☆言葉にするのは難しいが、女性が何かを真剣にやればどこの家庭も似たようなものだと思うのである。