April 4th, 2010

アイルランド 聖母出現の地 ノック!



聖母出現の地、ノックに行けることになったので調べてみました。

☆クノック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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クノック
Knock
An Cnoc, Cnoc Mhuire
所在地
クノックKnockの位置
centerクノックKnockの位置を示した地図
座標:
北緯53度47分00秒 西経8度55分00秒 / 北緯53.7833度 西経8.91667度 / 53.7833; -8.91667座標: 北緯53度47分00秒 西経8度55分00秒 / 北緯53.7833度 西経8.91667度 / 53.7833; -8.91667
アイルランド座標システム
M396818
詳細
地方: コノート
州: メイヨー州
標高: 78 m

人口 (2002年)
- 町内:
- 郊外:

595人
1,404人

クノック(アイルランド語:An Cnoc、英語:Knockノック)はアイルランドのメイヨー郡にある小さな町で、1879年8 月21日に聖ヨセフ及び聖ヨハネ、そして聖母マリアが人々の前に現れたという伝承で知られる。
信仰 [編集]

20世紀にはルルドやファティマと並んでヨーロッパにおける聖母マリアゆかりの地として多くの巡礼者を集めることになった。現在でも毎年150万人もの巡礼者がこの地を訪れる。聖母マリアへの強い信心を持っていたローマ教皇ヨハネ・パウロ2世も1979年に公式訪問している。
地名 [編集]

Cnocは「丘」を意味し、今は特にCnoc Mhuireクノック・ヴイラ、「聖母マリアの丘」として一般に知られた。2000年代に入り、クノックを示す道路名は一般的に使われているCnoc Mhuireでなく、アイルランド語訳をAn Cnocが用いられるようになった。アイルランドの地名委員会はAn Cnocの方が歴史的にも正しいと主張している。クノックはアイルランド語が話されていたゲールタハトの外に位置するが、アイルランド語がより広範な地域で用いられた時代、町はAn Cnocと呼ばれていたようである。1920年代~1930年代になってCnoc Mhuireという名前が巡礼地として有名になった。呼び方の問題はアイルランド議会でも議論されるほどになり、結果的に俗称のCnoc Mhuireの使用は認められたが、地名のアイルランド語訳にCnoc Mhuireを使用する事には制限がもうけられた。
外部リンク [編集]

* Official website of Knock Shrine
* Website about the town of Knock
* Horan International Airport (Knock Airport) website

あるブログのコピーです。
http://www.catholictradition.org/Mary/knock.htm
(catholictradition.orgより抜粋を和訳)
アイルランドの女王、Knockの聖母

1879年8月21日の夕方、アイルランドのメイヨー郡にあるノックの教区司祭の家政婦であった
メアリー・マクローリンは教会の外壁の南側の壁が、神秘的な光を浴びているのを見て、驚か
されました。壁の前に立っていたのは3つの人の姿でした。彼女はそれを嵐によって壊された
石像の代替品と間違えました。彼女は彼女の友達であるマーガレット・バーンの家に、雨の中
を走って駆け込みました。

30分後メアリーは家を出ることを決意し、マーガレットの姉妹であるメアリーは彼女と一緒に
家まで歩くことを同意しました。彼らが教会を通り過ぎる時に、彼らは一層はっきりと
驚くべき光景を目の当たりにしました。切妻から光り輝いており、西側に聖母マリア様、聖
ヨセフ様、聖ヨハネ様が出現されていました。聖母マリア様は等身大でありましたが、他は両
方とも大きくて高いようでした。彼らは地面から約2フィート、妻壁から少し離れた場所に立
っておられました。
聖母マリア様は天国に眼をまっすぐに向けておられ、たっぷりとした折り重なったヒダが釣り
さがっている白いマントをお召しになって、頭には大きな王冠を被っておられました。

メアリー・バーンは彼女の家族に告げるために走り去り、メアリー・マクローリンはその出現
をじっと見つめていました。すぐに集まってきた群衆とすべての人々が、その出現を眼にしま
した。しかし教区司祭、アークデーコン・カバナウは出て来なかったので、彼の不在は信心深
い村民を失望させました。目撃者の中にパトリック・ヒルとジョン・カーリーがいました。
パトリックが後でその光景を説明しました。「その像は十分に丸みを帯びており、まるで体と
いのちを持っているようでした。彼らは話しませんでしたが、私たちが近くに寄ったので、彼
らは壁の方向に少し退きました。」パトリックは聖ヨハネの姿によって、開かれた本の中の言
葉を認識するために、十分な近さがあったことを報告しました。

バジェット・トレンチという名前の老婆は、聖母の足を抱擁するためにより近くに近づきまし
たが、その姿は常に手を伸ばす先にあるようだったと言っています。
野原や少し離れた場所にいた人々は、教会を取り囲む不思議な光を見ました。
その光景は3時間ほど続き、その後薄れていきました。

次の日、村民のグループが司祭に会いに行き、司祭は本物であるとして彼らの報告書を受け取
りました。彼はツァムの教区司教に手紙を書きました。それから、教会は出現を目撃したこと
を主張する多くの人々をインタヴューするための委員会を設けました。
教区の聖職者は確信が持てず、委員会の何人かが、これは地域のプロテスタント警察官によっ
て行われたいたずらの犠牲者だったと主張し、幻視者たちをからかいました。
しかし普通の人々はそんなに懐疑的ではなく、ノックへの最初の巡礼が1880年に始まりました。
2年後にトロントの大司教ジョン・ジョセフ・リンチは教区を訪問し、彼がノックの聖母によっ
て癒されたことを断言しました。

やがて順番に多くの目撃者は、亡くなっていきました。しかしメアリー・バーンは結婚し、6
人の子供を育て、ノックで彼女の人生のほとんどを過ごしました。86歳の1936年に再びインタ
ビューされた時にも、彼女の答弁は1879年に彼女が出した最初のレポートと変わることはあり
ませんでした。

ノックの村はビジョンを記念し、他の人々や彼ら自身の癒しを求めて来られた数千の人々に
よって、変えられていきました。地域の教会は小さすぎたので、群集に対応できませんでした。
1976年に聖母マリア、アイルランドの女王の新しい教会が立てられました。
そこは2000人以上を受け入れ、年間50万人以上の聖母に敬意を払うために到着した訪問者たち
の需要があります。

教会は可能性の高いことであることとして、1971年に出現を承認しましたが、それは一度も
正式に公にされたことはありませんでした。ノックの聖堂は一年中、開かれています。
1994年に聖母マリア、聖ヨセフ、聖ヨハネの等身大の彫像が立てられました。

このウェブマスターの意見として出現は確かなものであり、正真正銘のものであると思われ
ます。私は聖母マリア様が来世紀にやって来る、多くのカトリック教義がミサそのものから
削除されて、沈黙させられるというミサにおける変化について、警告されていたと信じます。
教会への出席数とカソリックの知識の豊富な人々の著しい低下は、何人かの司祭を含むカソ
リックの精神だけでなく、他からも生じるこのような論文のための、十分な根拠を提供する
ものです。(ここまで和訳)

ノック聖堂のHPです。ビデオクリップを見ることができます。
http://www.knock-shrine.ie/sho
☆アイルランド在住の方のブログです。
ナオコガイドのアイルランド日記
観光ガイドによるアイルランド生活・旅情報
法王の十字架

* 2006/10/04(水) 18:05:34 |
* ダブリンと周辺
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ダブリン市街地西にあるフェニックス公園(Phoenix Park)は、ヨーロッパ一敷地面積の大きな公園。
700 ヘクタールというその広さは、ニューヨークのセントラル・パークの2倍、ロンドンのハイド・パークの5倍、さらに東京の日比谷公園の45倍に当たるというから驚きです!
その広大な敷地の一角に、ステンレス製の巨大な十字架が立っています。

popescross

青空に突き抜けるような、高さ27メートルの白い十字架。
これは「法王の十字架(The Papal Cross)」と呼ばれ、1979年9月29日に前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世がミサをあげた場所を示すものです。

驚くべきは、その時のミサに参列した人々の数。その数なんと、125万人と言われています!
16年前のアイルランドの人口は、現在の400万人をはるかに下回るものでした。仮に350万人だったとしても、総人口の3分の一以上の人がこの地に集結したことになり、当時のアイルランドのカトリック熱&ヨハネ・パウロ2世の人気の高さがうかがい知れます。
(多少、水増しされているとしてもスゴイ数!)

「あの時、僕は○才で、父親に連れられてここにいたんだよ~」

なんてことは、アイルランド人からよく聞く話。
人・人・人の波で、えんえんと歩いてたどり着いたものの、法王の姿は全く見えなかったそうです…。それでもきっと、その場に居合わせたというだけで、神々しいような気持ちでいっぱいになったのではないでしょうか。

1979年にヨハネ・パウロ2世がアイルランドを訪問した理由は、カウンティー・メイヨー(Co.Mayo)のノック(Knock)でのマリア様出現100周年を祝うためでした。
1879 年、ノックの教区教会に聖母マリアが出現し、15名の村人が目撃するという出来事がありました。以後ノックは、マザー・テレサも訪れるほどの世界的な巡礼地として知られています。

昨年、ヨハネ・パウロ2世がお亡くなりになった時、アイルランドのテレビでは、79年のご訪問の様子が盛んに放送されました。キリスト教徒ではないけれども、ヨハネ・パウロ2世が好きだった私は、その映像に感激して見入っていたものです。
「法王の十字架」へ来るたびに、クレーン車に乗って人々の熱狂の渦の中へ登場したヨハネ・パウロ2世のお元気な姿を思い出すのです。

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☆ノック Knock は、『地球の歩き方』には紹介されていないが、アイルランドでは有名な巡礼地である。1879年8月21日に、聖母マリアが聖ヨゼフと洗者聖ヨハネと共に現れたとされ、後にヴァティカンに公認された。

バスは一応各方面から出ているが、ゴールウェイ Galway からスライゴー Sligo 行きのバスに乗るのがよいと思う。各教会で日帰りの巡礼バスツアーを企画しているところもある。宿泊を希望するならインフォメーションで紹介してくれるが、B&B は少し遠いところにある。

 ☆ノックは、アイルランドのマイヨー州にある寒村です。

1879年8月21日、この村の老若男女15人が、村の小さな教会の屋根の下に、聖母マリアと夫のヨセフ、さらに福音書記者ヨハネの3人の姿を見ました。今ではこの教会を中心に、大きな礼拝堂のある巡礼地にまでなっています。

隣村のチャールスタウンには国際空港まであり、年に100万人もの熱心なカトリック教徒が訪れます。しかし、教会とそのすぐ近くにある商店街以外は、見事に何もない田舎町です。

ノックの国際空港までは、ロンドンのスタンステッド空港からライアン・エアの直行便が運航しています。ご興味のある方はぜひ!

☆☆☆

ノックの聖母

1879年アイルランドのノックに聖母が御出現になり、この御出現はまた「沈黙の聖母」としても知られています。
聖母はその小さき教会が洗礼者聖ヨハネに捧げられる事を御選びになり、その西側の壁に次の言葉を見る事ができます。

「我が家は万民のための祈りの家と呼ばれるであろう。これは主の門であり、正しき者がこの内に入るのである。」

1879年8月21日の雨の夕方、司祭館で働くマリア・マックロウグリンは、友人のマーガレット・ビアン夫人に会うために司祭館を出ました。
教会を通り過ぎたところで、彼女は教会の外の見知らぬ幾つもの御像と祭壇に気がつきました。
彼女はなぜ助祭長が多くの御像を購入して、それらを雨の中に残しているのかを不思議に思いました。
彼女は知りませんでしたが、他の二人の人間も同じ現象を見ていました。
しかし彼らはそれを調べずにそこを去りました。
マリアが夫人と会い帰る時になって、夫人はマリアと途中まで一緒に帰る事を申し出、彼らが丁度教会に着いた時、夫人は叫びました。
「あの美しい御像を御覧なさい!」

二人が御像に近づいた時、それらの御像の周囲に輝く光があり、しかもそれらが動いているの事に気がつきました。
「これは祝せられた童貞です!」
夫人は叫びました。
聖母の右には聖ヨゼフが、聖母の左には司教服を着た聖福音記者の聖ヨハネがいました。
マリアは急いで自分の家族のもとに知らせに行き、18人の人間がこの御出現を目の当たりにしました。
三人の御姿の後ろに、彼らは子羊の前の大きな十字架のある西側に面した祭壇を見ました。

一人の男児はその御出現の時間の間ずっと、天使達が徘徊するのを見ました。
一時間半かそれ以上の時間の間、この男児は天使達が羽ばたきするのを見ましたが、天使の御顔と御手を見る事は出来ませんでした。
ジョン・クリーという男児は、この御出現の二時間の間、天使らが前後に飛び交うのを見ました。

人々はまた聖母の御手が、司祭の聖祭中に両手を挙げるように、上に広げられるのを見ました。
御眼は天に向けられ、聖母は人々の方に御眼は向けられませんでした。
初老のブリジット・トレンクという女性は、聖母の御足を抱こうとして登りましたが、抱きしめた老婦人の腕の中は空でした。
激しく雨が降り続けていましたが、教会の敷地の地面は乾いていました。
聖ヨハネは左手で大きな書を開き、あたかも説教するかの如くに右手を高く挙げました。
この御出現の特徴は、様々な年齢の者が集まり、恍惚なく、また会話での啓示がなかった事にあります。

これらの幻視は沈黙のうちに様々な事を象徴的に示しました。

・教会中の祭壇は中央にして、会衆との対面式ではなく、御像よりも高く配置されました。
聖櫃は祭壇の上に、しかし祭壇に直接載せてはいませんでした。
・聖母は聖ヨゼフと聖ヨハネの間に高くされました。
・聖ヨゼフは聖母に御礼を為し、聖ヨハネは聖母の側の御手を高く挙げられました。
・聖母は元后として御出現になり、幻視者のうちの数人は御頭の冠を証言しました。
・聖母の御額のバラは「奇しきバラの聖母」の御称号を想起させました。
・聖母の御眼は御手の如くに上方に向けられていました。
・聖母が沈黙を保たれたのは、幻視者達に犠牲のために備えられし子羊の祭壇の方に目を向けさせるためでありました。

 
<ノックの聖母への祈り>

「ノックの聖母、アイルランドの元后よ、御身は苦悩の時にありし者らに希望を、悲しみにありし者らに慰めを与え給う。

御身は御子へ信頼もて祈る数限りなき巡礼者を鼓舞し給いたれば、主の御約束を思い出て給え。
"求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。"
我らが全て天の御国への道の巡礼者なるを、我が思い起こすを助け給え。
キリストにおける兄弟姉妹へ、殊に我と共に生くる者らへの愛と心配りとで我を満たし給え。

病める時、孤独なる時、失意の時に我を慰め給え。

聖祭において常にかしこみて与る仕方を我に教え給え

今も臨終の時もわがために祈り給え。アーメン。」

 
<祈りⅡ>

「金の薔薇、アイルランドの元后。
ノックの聖母よ、我は御前に愛をもちてひざまずきて、わが一切の憂慮と苦難は閉じられん。
わが平和の元后よ。」


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☆ノックの聖母の御絵はいつも神山のコルク・ボードに貼ってありました。
大好きな御絵です。

円形のマトリョーシカの鍋つかみの横です。

☆家庭の幸せはあこがれです。
ここの聖母はメッセージおっしゃらず、涙も血も流されません。
何と平和な風景でしょう。
厳しい世の中ですが、家族や隣人が信頼しあい心豊かに暮らすことを聖母は祝福してくださるのですね。

 多くの自爆テロや自殺のニュースを知るたびに家族の悲しみを思います。
不幸な人がなくならないかぎり人類という家族は本当の幸福にはならないのですね。

 祈りが実現されますように!

トルストイ没後100年「殺すなかれ」を観る!

ETV特集「殺すなかれ~没後100年 トルストイの遺言~」

チャンネル:デジタル教育3
放送日: 2010年4月4日(日)
放送時間:午後10:00~午後11:00(60分)
ジャンル:ドキュメンタリー/教養 > ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 > 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 > 文学・文芸

番組HP: http://www.nhk.or.jp/etv21c/

番組内容
文豪トルストイが亡くなって100年。日露戦争反対を訴え続けた文豪の知られざる素顔に迫り、トルストイと書簡を交わし日本の近代化を模索した明治の知識人達の姿を描く。

詳細
2010年は、世界的文豪トルストイ没後100年。小説を書く一方でトルストイは、平和について多くの論文を発表。終生、戦争反対を訴えた。その思想は、後のガンジーの非暴力運動など世界に大きな影響を与えた。トルストイが日本の知識人や市井の人々と交わした数多くの書簡がロシアに残されている。日露戦争反対を訴え続けた文豪の知られざる素顔に迫りながら、書簡を交わし日本の近代化を模索した明治の知識人たちの姿を描く。

出演者ほか
【語り】渡邊あゆみ

☆「トルストイの遺言」テレビをほんの15分ほど見た。
 トルストイの誠実さ。日本人からの手紙に全部返事を書いていたという。
武器の代わりに鋤や鍬を!
家出をして駅のプラット・フォームで死んだ。
全財産を放棄して農民に配るように遺言。
ガンジーにも手紙を書いて励ましていた。凄い!

☆☆☆
 さすがに疲れが出てぐずぐずしていたのだが、主人に「うなぎが食べたいわ。」と言ってお出かけの帰りにうなぎを買ってくるように頼んで、自分は主人のワイシャツを出しにクリーニング屋に行った。
駅で旅行用の下着と靴下。アイルランドの「地球の歩き方」を買い、おやつのケーキとオカキを少し買って帰る。
自宅でアイルランド文学のノーベル賞作家4人の本を伝記を主にアマゾンで4冊注文。

 ふたりで鰻と漬物で夕飯。お昼はお餅に海苔の磯部巻き。

 「竜馬」を観てからは「ナスカ」の特別ドキュメントを観た。
脱藩した竜馬は多くの仲間の死に出会い、志を強めたか。

2010年4月4日(日)よる9:00から放送!『南米古代ミステリー 歴史がくつがえる!?ナスカの地上絵に世界最古の巨大ピラミッドが出現!!』独占取材!世界に先駆け、世紀の発見を公開!!地上絵の謎は解明されるのか!?
 ナスカの地上絵は巡礼地だったとか。
 ピラミッドと犠牲の障害のある少女の神官のミイラと海の恵みをもたらすシャチ。
 地震や洪水の起こる地への葬式。
 なかなかおもしろかった。

☆★☆
 今夜は真夜中、「あいりん地区に入る若者たち」のドキュメントがあるのでみたい。
かつては若者は来なかったスラム街にも若者が流れてくる厳しい時代になった。

 この間、新潟を観て思ったのだが足の不自由な老人が多い。
なんとか若者たちにそんな老人たちの簡単なお手伝いを1日3時間でも任せられないのか?

 若者の仕事を考える。
車の送迎でも買い物代用でも、頼みたい仕事はあるものだ。

☆聖母マリアの出現に出てくるヒロインはお手伝いさんとか召使いが多い。謙遜で自分を無にしなくてはできない仕事だ。仕事の誇りというのは地位でもなく収入でもなく、他人の役に立って喜んでもらえることだ。だから、道路の掃除でも玄関の掃除でも少ない給金でも働く仕事があったら、今日を生きることはできるはず。

☆☆☆
 真夜中「愛燐地区に流れる若者たち」のドキュメントを観た。
大阪の最も路上生活者の多いところだ。
若者たちの仕事のあっせんをしている人も忍耐強く、空手を教えたりして無気力からの脱却を図るのに骨身を惜しまない。

 また老人でも、缶を集めたり(大阪では違法ではない)日雇い労務をして働いて食べてるものと、真昼間からお酒を飲んで路上に転がっているものがいて、冬にはそのまま死んでしまうものもいるという。

 仕事がないという現実と「○○でなくてはやりたくない。」という贅沢と不運に流されてきたものと、彼らのために働きたいという人が住んでいる。1400円の簡易宿泊所はふとんもシーツも清潔に見えたし、1日そこで休むことが体のためにはいいだろう。200円のお弁当も魚のフライが2匹入っていたから生きて生ける。

※私も20代は貧しかったので文無しで歩いていたものだ。
 アートのためならという芸術至上生活。
 でも、自由で楽しかったな。
 バブルでそういうものを温かく受け入れる時代だったし。
 そんな私が愛燐地区に今いないのも運の良さだけの差のような気がする。

 毎日、目いっぱい働いてますよ。私だって!
仕事って主婦には山ほどあるし、自分の仕事のためにもやることだらけだもの。

 でも、あたたかいベッドで休んで、家でテレビを観てられる日曜日がある。

 それぞれの仕事。
トルストイは自分のところに来た手紙に本を送って返事を書いたそうだ。
平和を望み、そのために武器を捨てることを伝えることが彼の仕事だったのだ。

 やはり死ぬまでゴロゴロしててはいけない。
 たとえベッドから起き上がれなくても自分の仕事がある。

 駅のホームで倒れたトルストイは年寄りなので奥さんと喧嘩をして家出をすることが彼の大事な良心の闘いだったのだ。