April 9th, 2010

「女書」:アート×学術の連歌 をギャラリーFで観る!

 肌寒い今日。
 いつものように家事を終え、成田まで運ぶスーツケースを明日の土曜日の夕方に取りにきてもらうように電話を入れ、浅草まで出掛けることにした。

 3時過ぎ。
 浅草駅の5番入口からすぐそこにギャラリーFはあった。
インターネットで松濤美術館を検索していたら出てきて、浅草の画廊も1868年慶応4年建築。1998年文化庁登録有形文化財の木造、土蔵作り2階建、切妻、瓦葺き、妻入の材木屋の土蔵だ。
関東大地震にも東京の大空襲にも内部のものを守ったそうだ。



 YUKAさんのインスタレーションは2階天井からつるしたビーズや糸が赤や透明なガラスの繊細さが「女書」と呼ばれる古い中国の湖南省で女性たちが秘密に作り自分の物語や手紙をつづった文字のように縷々と続いていてとてもきれいだ。

 漆で紅に塗られた土間を歩き、古い階段を上って、扇子や手紙に書かれた実際の「女書」もみれた。
翻訳されている内容はお嫁さんのぐちや近況報告やかわいらしい女性たちの心の思いで、実家の母がふつつかな娘への心配な手紙などもあって、普遍的な女性のドラマをみた。

 中国では女性は蔑視されていて、男が習う漢字を学ぶ機会もなかったものの、女性たちは自分たちで文字をつくり自分の伝記なども書けるほどの文字の多さや複雑さがあって思いをつづった。

 最後の生き証人の「女書」がわかる女性が最近亡くなり、とうとう伝説の文字となってしまった。
今で判読できるのは60%くらいで研究者が多くの本を出している。

 遠藤織枝はその研究者でアーティストのYUKAは中国で「女書」に出あって、インスタレーションを上海で発表した。

 「女書」というのは実に美しい文字なのだ。そして女性たちは実に細い細かい字をその文字を残した。韓国のハングルももともとは漢字の読めない女性のものだったそうだ。そして日本の「ひらがな」も女性文字だった。

 私は遠藤織枝の本を買い、中国茶を飲みながら読み始めた。天気も良く浅草のにぎわいも心地よい。新しく建てている東京タワーより高い塔もよく見える。

☆私は浅草の町をそぞろ歩いて、小豆最中のアイスクリームを買い、おみやげの雷おこしや人形焼きを買って、桜の咲く川の土手や雷門を眺めて歩いた。

 それから東五反田で降りて、いつも行くギャラリーに遊びに行った。
ギャラリー・オーナーは着物を着ていて、中国の童子の絵が描いてあって日本の花見団子なども描いてあったから、日本で描いた中国趣味柄なのだろうが 白地に藍で爽やかに見えた。

 ロンドンでガラスを学んだ作家のアクセサリー展ともうひとつはイラスト展で今は地下で漆や書も教える教室も経営しているという。縷衣香さんもそのうちとかで、竹紙の団扇作りなどどうかと提案しておいた。

 三越の地下でお寿司を買って(地下3階の食堂でおそばでもと思っていたら消えていた)、都営線で帰った。

☆自宅に帰ったら、アマゾンで注文していた「ブラック企業の闇」が届いていた。古本なのにとてもきれい。
 最初はこの間書いた、下田治美さんの息子さんの「ヨドバシカメラ」の話だ。
下田さんはこの事件以来、本当にショックで本を書いてないので400万円の急性ストレス障害とうつ病への賠償額が命じられたのは珍しいそうだ。事件は2002年11月から翌年3月。2005年に東京地裁の判決で息子さんには160万円の損害賠償を算定。下田治美さんは今日まで作品を発表してないので死活問題だ。私の同じ年の下田さんは年金の出る日も近いものの、愛する子供へのこの衝撃は、体調も危ない所にあると思う。

 ブラック企業というのは社員を奴隷のように扱い、過労死という言葉も生まれた。
 約25万円くらいの給料をもらうために、普通に人はどのくらい忍耐をしているのかと知って、辞めればホームレス、残れば過労死の厳しい時代を知った。

☆そういえば、行きの都営線で「JR品川駅で人身事故があり遅れがでてます」とアナウンスがあり、ホームで目撃した人たちのショックも予想して、暗くなった。

 のんきに「女書」のインスタレーションを観に行く私。
しかし、「女書」の女たちも厳しい男女差別の時代、女文字を生みだし伝えることで厳しい人生の慰めとしていたことを知ると、誰にとっても人生は厳しいと思うのだ。

女書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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女書
Nu shu.PNG
女書の例。上からそれぞれ「女」「書」の文字を表す。
類型: 音節文字
言語: 城関土話 (中国語の土話)
時期: 19 世紀半ば頃 (異説あり) -現在
親の文字体系:
漢字

* 女書

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女書(にょしょ、簡体字:女书、漢語ピンイン:nǚshū)は、中国南部の湖南省江永県などの地域において、専らヤオ(瑶)族の女性により用いられた文字。絶滅の危機に瀕している。
目次
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* 1 特徴
* 2 歴史
* 3 現状
* 4 女書による作品
* 5 注
* 6 関連項目
* 7 外部リンク

特徴 [編集]

女書の文字はこれまでに約1000-1500文字が収集されている。各文字は「点」「縦棒」「斜線」「弧、折れ線」の4種類の筆画からなっており、これら筆画は細く書くことが良しとされる。文字の形状は縦に長い菱形である。中国語や日本語の伝統的な書き方と同じく、右縦書きで書かれる。

女書は音節文字である。すなわち、ひとつの文字が同じ音節で表される複数の意味を区別せずに、ひとつの文字で書き表す。多くの文字が漢字を故意に変形して作られたが、一方で伝統的な刺繍の模様から派生したとみられる字もある。

近年の使用範囲として、湖南省江永県、道県、江華ヤオ族自治県が知られている。江永県県城の土語の発音に合わせて作られており、周辺の地域では土語の発音が異なるが、県城土語の発音によって読まれるため、県城から広まったものと考えられる。

基本的に県城土語の音節に合わせて一音節一字の女書が用意されているが、例外的に、音節があっても文字がない例、異体字がある例、一字で複数の読み方がある例も見出される。

女書は日常的に筆記の用途に用いられるほか、「三朝書」と呼ばれる新婦への詩を記した贈り物にされることが多く、また、文字自体が刺繍の柄としてもしばしば用いられた。
歴史 [編集]

現在までに知られている文献で女書の存在に言及している最古のものは、民国年間の1931年に出版された『湖南各県調査筆記』である[1]。これは湖南地方の地勢や風俗を調査して記録した文書で、永明県 (江永県の旧称) 部の花山条に次の記述が見える。

〔…〕言い伝えでは、明の時代、譚という姉妹が〔…〕薬草を採りに山に入ったが、ともに座ったまま亡くなっていた。人々は山頂に廟を作って祀った (今は花山廟と呼ぶ)。〔…〕毎年5月には、各郷の女性が香を焚き礼拝し、歌扇を持参して声を合わせて歌唱して悼む。その歌扇に書かれる文字はとても細かく、蒙古の文字に似ている。県内の男性でこの文字を読める者はいないようだ。

花山廟は文革期に破壊されたが、廟と譚姉妹への信仰はその後も続いている[2]。

1993年、南京の骨董市場で、古銭愛好家が女書の刻まれた太平天国期のものと称する銅貨を入手した。この銅貨の背面には女書で「天下婦女 姉妹一家」と記されていたため、最古の女書文字資料ではないかと注目された[3]。しかし、歴史学者の張鉄宝 (太平天国史) の鑑定によれば、太平天国期の貨幣の規格に合わないこと、当時の技術水準では製造が困難であること、鋳造されたものではなく銅材に彫られたもので母銭 (鋳型の母型) としても使用に耐えないことなどから、早くとも民国年間以降に、贈答や娯楽の目的で貨幣に似せて製作されたものであろうという[4]。

2005 年9月、呂芳文 (湖南省社会科学院歴史研究所) と郭輝東 (湖南省経済研究情報センター) は、湖南省東安県芦洪市の斬竜橋で女書を刻んだ石碑を発見した。文献によれば、斬竜橋は宋代にはすでに存在したことがわかっている。石碑が橋と同年代のものであれば、女書文字資料の年代は最大で宋代まで遡ることになる。また、これまで知られているより広い範囲で使用されていた可能性も出てくる[5][6]。

近年まで、江永県を含む地域では女性が漢字(=男書)を学習することは良しとされてこなかった。女書はこのような状況下で生み出され、姉妹や兄弟の妻など、主に女性親族の間で秘密裏に用いられてきた。また、男性が女書を学習することは厳禁とされた。また、工芸品などの模様のようにして文字を偽装することも行われた。多くの文書は一行につき5文字または7文字で構成された詩の形をとった。

太平洋戦争中には日本軍により女書の使用が抑制されたとされる。中国人による暗号文書としての使用を懸念したためであった。

女書は数百年にわたり存在してきたものであるが、最近までその存在はほとんど外部に知られていなかった。1982年、武漢大学の宮哲兵教授により「再発見」され、学術的研究が開始された。

文化大革命以前においては、女書による文書は著者の死去に伴い殉葬品として焼却する習慣があった。また文革期には多くの女書による作品が破棄された。このため、女書による作品で現存するものはきわめて少ない。文革後、女性の文化水準の向上に伴い、女性は女書によらずとも互いの交流が可能になり、女書の使用価値は減少した。その結果女書の学習者は激減し、女書は絶滅の危機に瀕し始めることとなる。
現状 [編集]

2004 年9月30日に女書の最後の自然伝承者である陽煥宜が98歳で死去した。

絶滅の危機の中で、学習して継承を目指す、何艶新のような人もいるがごく少数である。

現在中国政府は女書の保護を重視している。研究拠点と観光地を兼ねた「中国女書村」が2003年に湖北省宜昌に開設された。
女書による作品 [編集]

女書による作品の多くは「三朝書」(三朝书、 sānzhāoshū )という形式である。これは布を綴じて製作した小冊子であり、義姉妹(结拜姊妹、 jiébàizǐmèi )または母により、女性の結婚時に贈られるものであった。「三朝書」には詩が書かれており、結婚して三日目の女性のもとに届けられる慣わしであった。これらの詩は結婚した女性の幸福を願い、また村を離れて結婚する女性への悲しみの念を表すものであった。

その他、詩や歌詞などを帯や紐、衣服などの日用品に織り込むこともあった。
注 [編集]

1. ^ 宮哲兵 (1995). “女書時代考”, 奇特的女書: 全国女書学術考察検討会文集. 北京語言学院出版社, pp. 157ff.
2. ^ 遠藤織江 『中国の女文字: 伝承する女性たち』 三一書房、1996年、pp.49ff。ISBN4-380-96240-7。
3. ^ 趙麗明 (2000-3-2). “女書最早資料——太平天国女書銅幣”. 人民日報 (海外版).
4. ^ 張鉄宝 「太平天国女書貨幣に関する問題」『消えゆく文字 中国女文字の世界』 松本秀士訳、三元社、2009年(原著2005年)、pp. 137-147。ISBN978-4-88303-251-8。
5. ^ 光明日报「湖南东安发现珍贵碑刻女书」2005年9月26日、中国語
6. ^ (2005 Oct.). “中南民族大学組織専家赴 湖南永州 考察東安石刻女書和黄田舗遠古人類遺址”. 女書文化研究簡報 (第26期). 中南民族大学女書文化研究中心.

関連項目 [編集]

* 方言字
* 仮名 (文字)

外部リンク [編集]

* World of Nushu 女書世界
* 詩の一例(英語)
* Omniglot.com(英語)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E6%9B%B8」より作成
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