July 14th, 2010

7月14日 フランス革命はじまる! 「巴里祭」とも。

 今日も暑いですね。ピンポーンの宅配便で起こされました!
今日は主人のエコ・ポイントでした。

 今日は「家屋所得税」を支払うのが自分の仕事でした。38万円。自分で払えました。神山コテージの税金で1回でよく、のちは固定資産税らしい。

 それから1時20分からの「シスター・スマイル ドミニクの歌」をもう1度観に行きました。
1週間前と同じ水曜日、同じ時間ですのに、今日は満席に近かったです。

☆2度目というのはやはり細部がわかって良かったです。ベルギー映画でほとんどベルギー出身の俳優によるベルギーでの撮影の映画でしたが、フランス語だったので「巴里祭」の今日にふさわしいかな?

 「ドミニクの歌」は映画の中でもフラマン語、ドイツ語、英語で歌われてますが、日本語ではペギー葉山さんやザ・ピーナツのがあるようです。

☆修道生活というのは私も憧れてました。
 それで、

 映画館に売っていたので帰ってきて、アマゾンの中古を買いました。

 この映画の主人公は母親の無理解と父親の大人しさにかなり強烈に反発して、親の賛同をえないまま修道院に入ってしまいます。

 そのまえにガールスカウトとして世のため人のために生きたいと言う考えを持ってます。
教会から「アフリカ」でのミッションにとても実乗りがあると講演に来た時に、「アフリカの困っている人たちを助けたい。」と思って食卓で話すと、母親はコロコロ変わる考えにあきれ、父親はおだやかに受け止めますが、母親の方が主権のある家でそれは無視されます。

 夫婦は仲がいいのです。「ケーキ屋」を娘に継がせるために頑張ってきた夫婦には平凡は家庭の幸福に疑いを持たない。

 主人公は実際にはパリに行って美術の勉強をしているのですが、映画の中では「パリに行って、美術の勉強をしたい。」と言うと、母親から「どうやって食べて行くの?」と、とんでもないと阻止されます。
彼女も映画の中では収入がなく働いた経験もなく母親の手伝いをするしか道はない。

 いとこは実の母親を失って、彼女の家にいそうろうしながら店の手伝いをしていて、主人公と同じ夢を観て「アフリカで奉仕したい。」夢を持っている。

☆主人公はわがままで自己主張が確かに強く、映画の中では結婚をあきらめた時点で好意的だったボーイフレンドに重厚なキスをします。「1度は経験したかったの。」と。実際は知りませんが、映画の主人公は実に魅力的でかわいい。

☆修道院は私は前世でいたのではないかと思えるほど懐かしく美しい。
そして、ずいぶん厳しい処罰がある。従順でないのは致命的であるらしく、勝手に冷蔵庫からパンを出して食べて、雨の中手を後ろで縛られて、口でお皿まで屈み、1人夕飯になって、後で毛布でふるえていた。

 好きなギターも取り上げられたが、なんとか取り返して、修道会好みに聖ドミニコをたたえる歌を作ったのだ。

 雨の中、中庭の聖ドミニコ像の前で手を縛られて反省をさせられるように置き去りにされた。
 
 聖ドミニコ像というのがメッセージなのだ。
☆以下は聖ドミニコで検索して得たコピーです。

 聖ドミニコは、スペインのブルゴス県のカレルエガにフェリックス・デ・グスマンを父に福者ホアナ・デ・アサを母として1170年頃に誕生した。彼に関して初期の伝記作者は、ドミニコの人生を象徴していると思われる二つのエピソードを書き記している。彼の母はドミニコが生まれる前にある象徴的な夢を見た。それは、胎内の子供が燃える松明を口にくわえた白黒まだらな子犬の形をしていたというもので、彼が胎外に出るとその火でもって世界を燃やすかのようであったという。 また彼を洗礼盤から取り出した婦人によれば、幼児聖ドミニコの額に星があり、その光は全世界をあかるくしているように思え、代母である彼女は、将来彼が人々の光となると理解したということである。
2. パレンシア

 ドミニコが6歳になるとグミエル・デ・イサンの首席司祭であった叔父のもとに送られ教育を受け(一般学業の初歩をおさめる)、幼少の時から聖なる芳香で満たされていたという。勉学の初歩と共に、教会の人としての道を学んでいくことになる。

 14歳になると、ドミニコは叔父の教会を離れてさらに上の学校に通うためパレンシアに行く。そこでは、伝統的自由七学科を6年間くらい学び、後には神学と聖書の養成を4年間受けた。彼は非凡な記憶力に恵まれていたが、神の言葉を自分の中に保ったのは、単に記憶にとどめることによってではなく、行いによってもそれを保ったのである。

 ドミニコは、他者に対して自分を閉じていたのではない。一人で祈るとき、彼は祈りの中で他者と共にあった。このことがはっきりと示されるのは、パレンシアに滞在中、厳しい飢饉でスペイン全土が荒廃した時のことである。彼は「人が飢えて死んでいくとき死んだ皮の上で勉強していることはできない」と言って非常に高価だった本を売り、代金を貧しいひとたちのために使った。このように苦しんでいる人と苦しみ、英雄的な愛徳に励んだのである。

 貧者を救うために自分の書籍や家具・衣服などを売ることで、本も家具もなくなったパレンシアの部屋で、ドミニコは自分の生命の意味を発見する。-飢えた人々に食物を与え自分自身までも与えること-しかしどういう食物に人々が飢えているかを理解するまでには、もう少し時を要する。

 ドミニコは自分の計画を長い時間をかけて熟させ、着実に実現させていくというタイプだった。何かあるできごとで衝撃をうけると、まずショックを心で受け止め、心中に変化が起こるのであったと言われている。

 
3. オスマ

 ドミニコの聖性の名声は広がった。オスマの司教(Martín Bazán)は1196年または1197年頃にドミニコを司教参事会員にした。ここで彼は約一世紀来、オスマの司教、より広くは全カスティリア地方の司教たちが取り組んでいる大事業に、自分の立場を通して協力していくことになる。25歳・司教参事会員として誓願を宣立して後、間もなく司祭となる。司祭となる最低年齢である。

 1199年8月18日の文書によると、司教座聖堂の典礼生活の責任者になっている。彼の聖性は、驚くほど高いものであったから1201年1月3日に、参事会員たちは彼を称賛し、ドミニコの意志に反してではあったが司教参事会員の副院長に選出した。オスマの司教参事会は、聖アウグスチヌスの戒律を採用していた。当初は初代教会に帰り、使徒たちの生活に倣おうという気運のもとに教会の改革がなされていた。

 ドミニコは、カシアヌスの『砂漠の師父たちの説教集』を愛読し、深い内的生活を深めた。それと同時に彼の生活は、不断の祈り、優れた愛徳、聖務日課の詠唱といった参事会員本来の役目に熱心に励んだ。

 
4. 誤謬の世界において

 カスティリア王アルフォンソ8世は、司教ディエゴ(Diego de Acebo)に北ヨーロッパに妃(デンマークの貴族の姫君のひとり)を迎えるための使者となるように依頼した。ディエゴは司教参事会員の副院長ドミニコを同行使者として選んだ。1204年の外交使節としての旅行は彼の人生における大きな変革をもたらすシンボリックな出来事であった。司教参事会員として、日々聖書に親しみ、典礼生活にいそしみ、祈りと勉学に余念のなかったドミニコの観想的生活を突然変えた。この生活の溢れからくる活動的生活において彼の使命を示していくことになる。

 南フランスのツールーズには、カタリ派の異端者がたくさんいた。旅行一日目に夜を徹して語りあかした宿主もその異端を信奉していた。ドミニコの英知に満ちた力強い話をもって、その宿の主人を回心させた。これは彼が最初に回心させた人である。おそらくこの一夜は、その生涯に大きな意味を持たせたことに疑いの余地はない。三年後にドミニコは自分のすべてをかけて対カタリ派の活動をすることになる。十数年後には、このツールーズに、ドミニコ会の最初の礎を置く。

 その後、1205年には、再び使節としてオスマ司教に同行し、二回目のデンマークへの旅に出た。この時道すがら異端が蔓延していることに心を痛めることになる。

 1206年にローマを訪れる。ディエゴはオスマの司教座を退いて、北方の異民族のところに宣教に行く許可をインノケンティウスⅢ世教皇に願うが、これは許されなかった。そのためドミニコが持っていたクマーノ人・異端者・キリストを知らない人々・諸国民に福音を告げたいとの願いは許可されず、ディエゴと共にスペインに帰ることになる。その後、教皇使節団およびシトー会の大修道院長団に会う。「貧しいキリストの福音を与えるためには不似合いであるから大仰な経費、馬、衣服、道具の身分不相応な華美なもの全てを放棄し、真実なる福音の貧しさを受け入れること、および議論や言葉だけでなく、行動し模範を示すことによってキリストの信仰を広めること。こうすれば、異端者が徳と慈悲の偽りの像で惑わしていた霊魂を、霊性と信仰の正しい手本を示すことにより、真実の信仰へと呼び戻すことができるであろう」とモンペリエでディエゴと共にいた時に識別したこと、つまり教会から派遣されてキリストが弟子たちを派遣なさった時のように、慎ましい仕方で説教することをドミニコは決して捨てなかった。 


5. 観想会の修道院とその宣教活動

 1206年には、カタリ派の異端から改宗した貴族の娘たち(高貴な婦人たち)のためにプルイユに修道院を建設した。

 同年10月には、ファンジョーに居を定めた。そこはカタリ派の共同体があり、また完全者と呼ばれ教皇に従うことなく彼らの仕方で完徳を目指していた人々が住んでいた。ツールーズの司教が寄付したプルイユの荒れたサンタ・マリア教会をセンター修道院として譲り受ける代わりに、ドミニコはファンジョーの教会の主任司祭となることを承諾した。カタリ派の中心地であるこの町で、困難な司牧活動にも携わることになる。数ヶ月後には、これがモデルになってあちこちに説教センターがつくられていく。

 1207年4月17日教区の権利を譲りうける。そしてファンジョーは霊的な慰めの地となる。ここを拠点として8年間アルビ派と戦うことになる。

 1207年には、モンレアルでの宣教に従事する。その年の12月30日には、オスマのディエゴ司教が帰天する。しかし、聖なる説教をドミニコは一人になっても続けた。

 1212年には、クセランス、ベッシェルス及びコメンジェの司教の位を受けることを拒絶する。彼は位階など持たず、単なる説教者に過ぎない自由を大切にしていたのである。彼の使命は説教を続けることであった。
(6)説教者兄弟会としての活動の始まり

 1215年ツールーズに会の修道院を設立し、当地のフルク司教によりドミニコ会(説教者兄弟会)は、公式に位置づけられる。その時点でドミニコ会共同体に永続的に説教の権利が与えられた。これによって、彼の説教活動はかつては南フランスの異端者を根絶することを目的としていたが、この時からカトリックである人たちも対象に、教会の教えを説いていくことになる。これは、いわば教会のシステムを変えることであった。

 彼の名声は広がり、多くの人々が集まり、大きな家を必要とする。同年4月にツールーズの裕福な市民二人が、ドミニコの手の中に誓願をたてた。彼らのうちのひとり、ペトロ・セイラは、ナルボンヌ城に接する自分の家をドミニコとその兄弟たちに提供した。ここで、通称ドミニコ会として呼ばれる説教者兄弟会は生まれた。そこで修道者として生きる基盤を養うことになる。ドミニコの創立者としての考えが固まり、修道生活の新しい理念が確立していくのである。裕福な修道者は、異端者に何もできないのであるから、何も持たずキリストのために貧しく生きるべきだというものである。

同じく1215年にはローマに向かい、修道会の教皇認可を求めた。第四ラテラノ公会議の議決は新しく修道団体を設立することを固く禁じた。今後修道院を設立しようと思うものは、既存の承認されている戒律の中から選ぶことが要求され、ドミニコは聖アウグスチヌスの戒律を選んだ。会の慣習法は、プレモントレ会のものを基盤とし、それに自分たちの独特のものを加えた。中でもドミニコがとった最も独創的な方法は、観想による実りを、説教をとおしての使徒職中心に展開していくために、幾世紀にもわたる伝統を破って修道院を都市に、しかも大学都市の真只中に建てた。生活面では、托鉢、免除という方式があげられる。
7. 世界全体に向けての歩み

1216年12月22日、教皇ホノリウス三世はこの修道会を認可した。しかし、ドミニコは、1217年8月15日、彼の保護のものである16名の修道士をスペインへ4人、パリヘ7人の会員の派遣を計画する。これが、ドミニコ会のペンテコステである。この破壊的な冒険に対してフルク司教などが反対したが、ドミニコは「種子を蒔けば実を結ぶが、重ねておくと腐る」と言って、この新たな一歩を踏み出したのである。それは本来念願であった「すべての魂の救い」という普遍的、使徒的活動の一歩であった。兄弟たちを大学に通わせた。それは、間接的に意図することなく新しい知的傾向にも答えることになるのである。また大学とドミニコ会の結びつきは、新たな精神的世界に飛翔し、言葉を語ることによって、当時の哲学や法学、特にアリストテレスとの出会いを通し、またアラビア文化の吸収を媒介に普遍的場と内的充溢を得るために絶対に必要なものであった。このため1218年には、修道士を法学専攻の大学都市であるボローニヤへ派遣する。

 翌年ドミニコは全く托鉢によって生きることを認める勅書を得る。それによってそれまでは説教行脚の時にのみとっていた托鉢の生き方を、修道院にも及ぼすことができるようになった。ローマの諸修道院に散在する修道女をサン・シスト修道院に集め、兄弟のためには現在修道会総長のいるサンタ・サビーナを手に入れる。

 1220年には、ドミニコ会第一回総会がボローニヤにおいて開かれ、ドミニコがこれに列席する。ここで会憲も法的体裁を整え整備されていく。ドミニコは、会議を支配せず謙遜に一人の兄弟として、会憲や将来の方針の決定を全会員の総意にまかせた。ドミニコ会の最高決議機関は、君主制と結合したが極めて民主的な形態をとったことは、中世の真只中にあって、霊性の自由さと預言的資質が満ち溢れていることがわかる。

 さらに特筆すべきこととしては、その総会議で免除の可能性を一般的な原則として宣言したことである。これは人間の弱さに同情しての免除ではなく、時に諸要素間に葛藤を招く複雑な生活様式の中で、より効果的に目的を達成させるための有機的免除である。

具体的には「上長者は、それが適当であると認める場合、特に、勉学、説教、そして人々の益の妨げと見えるすべてのことについて、免除を与える権能を持つ。何故なら、我々の会は、はじめから説教と人々の救いのために建てられたものであり、我々の勉学も、本来熱烈に、力の限り、我々を隣人の霊魂に益あるものとすることを目指さなければならないことを知るべきである」というものである。そしてドミニコの息子たちは世界に広がっていき福音を宣べ伝えた。

1221年二回目の総会議が終わったとき、創立者としてのドミニコの仕事も終わった。会は完成したのである。(現在に至るまで、会は、このボローニヤの総会が決定した制度に従って運営されている)ドミニコは、安心して説教の役務に専念することができた。

 ドミニコは、ベニスに枢機卿ウゴリーノ、その後の教皇グレゴリウス九世を訪ね、ボローニヤに帰った。彼は、その時すでに患っており、8月6日、ボローニヤのサン・ニコラス修道院で死去し葬られた。その後は、彼が臨終でなした至福なる約束が成就されることになる。

☆☆☆☆☆
聖母マリアが望まれる「ロザリオの祈り」を広めたのは聖ドミニコ
以下はコピーです。
広めたのは聖ドミニコ
ロザリオの祈りは、聖ドミニコとドミニコ会の修道士たちによって、広められました。聖ドミニコが、なぜロザリオへの信心を人々にすすめたかについては、次のような話しが残っています。
聖ドミニコが人々の回心を求めて、森の中で三日三晩不眠不休で祈りました。疲れて昏睡状態に陥ったとき、聖母マリアが天使とともにあらわれ、彼を慰めました。そこで、彼は、すぐに立ち上がり、大聖堂に行き説教をはじめました。すると雷が鳴り、稲光が光りました。皆が恐れ、聖母の絵を見あげると、聖母は天に向かって祈り、「回心して神の母のご保護を求めるように」と言われた、と伝えられえています。

☆縷衣香記

 主人公は神を愛し、聖ドミニコのようにキリストを語ろうと彼女の歌の才能や絵の才能を生かそうとする。
 それは修道会としては驚くほど不服従で彼女が隠れていることが彼女のためだと信じて、芸名を「シスター・スマイル」と名付け、レコーディングを許し、全収入を教会へ寄付と言う条件にサインをさせる。

 修道会に入れば、それは普通のことだったと思う。
個人財産はないのだから。

 しかし、若い彼女は自分の作った歌で自分の声で歌った歌が世界的なヒットを飛ばし、プレスリーやビートルズを抜いての売り上げだと知ると、教会から離れても歌手として直接に大衆と係れて、自由な活動や資金ができると思ってしまう。

 現実にはどこの世界でも、表に現れる売上高が作者や歌手に全額得られることはない。

 スターと言われても、どんなにマスコミに騒がれても。ファンが押しかけても、まわりにちやほやされても、ほとんど何も保証がないのだ。

 主人公が勘違いしても無理もない。主人公が同じキリストを愛す教会や修道会の冷たさに、取り返したが使いと感じたのは自殺する前だっただろうか?

 誰も、カトリック国であれば、教会や修道会に逆らっては生きていけない。敵に回しては生きていけない。それを教えるのが両親の役目だっただろう。

 しかし、その両親にも逆らって出て行った主人公だ。
 世間知らずということだ。

☆歌う場所はなくなり、場末のいかがわしいクラブや誰も歌など聴いてないバーだったりする。
主人公は「こんなところでは歌えない。」と言う。

 画家のロートレックは貴族だったが、場末のヌードダンサーや娼婦にひかれその哀愁を描いた。
画家のゴッホは牧師の息子だったが、娼婦や父のない子を産んだ女性にキリスト愛を見せた。

 だが、主人公はおじょうさんのまま。キリストが愛したように現実の弱い人間に何もするわけでなく、実際は元修道女とは思えない庭付きの豪邸をい銀行のローンで買ってしまう。

 まるで普通の人!

☆主人公は歌を聴いてもらえず、マネージャーと一緒に車で宿泊する暮らしにも疲れ、教会の神父に「教会が騙した!誰も愛してくれない。誰も愛せない!」と告解しながら、訴える。

 神父は言う。
「修道会に入ったのも、出たのも君の自由意思だ。」

 マネージャーは言う。
「シスター・スマイルの修道会と実際の主人公の自由は両立できないものだ!」

☆主人公は
「自分を愛してくれるところを大事にしなさい。」という神父の言葉に背中を押され、
愛せなかったが、愛してくれたレスビアンの女性の住み、彼女の買った家に戻るのだ。

☆家に帰れば、おだやかなレスビアンの彼女は優しく受け入れてくれるが、現実に借金や税金の催促がシビアに来る。

 キリストを愛し、
永遠の眠りに。

 主人公はゆるやかな自殺か?

 アルコールと薬漬けで50代で死んだ。

☆☆☆☆☆
 ファチマの第3預言は「教会の死」「バチカンの存続」に関することのようだ。

 この映画は実にタイムリーなのではないだろうか?

 今はレスビアンであろうとゲイであろうと人権で受けいられる時代だ。

 彼女たちのような犠牲者が時代を切り開いたのかもしれない。

 映画の中でも「バチカン第二公会議」のことが主人公に希望を持ってあることが語られる。

 「黄金のピル」が恋人たちを幸せにしてくれると歌う彼女。

 極めて新しい彼女の人生をかけたメッセージ。

☆映画を観てから私は、三越で今日の夕飯の支度とおやつを買った。おやつは「銀座かのこ」の蜜豆。

 それから、夢を実現させるにはなにしろお金なので、西銀座デパートの前の宝くじ売り場1番の行列に並んだ。20分とも25分とも言われた長さの行列だが、日がさを差しながら何の苦もなく自分の番になったので、バラで30枚買った。

☆今日は五反田を出るときに、ホームレスさんに吉野家の食事券を10枚プレゼントした。1枚300円の券で10回ぐらいのご飯代が浮くだろう。

☆昨日のテレサからの電話で「所属教会」を辞めたと言う話。
マザー・テレサとのことを書いた本が8月23日に出版される。

 テレサは71歳でお嬢さんは44歳。二人とも美しくきわめてまじめなキリスト教徒だが、その熱心が必ずしも教会から歓迎されるものではなくて、いつもの古着を売るバザーを教会のバザーでやったところ、出されたお祭りのハッピが亡くなられた人の遺品として、教会のバザーでお役に立てばと遺族が出したところが、売ってはいけないと祭り主催側の目にとまり「盗品を売ると犯罪になる。」とまで言われたそうだ。テレサたちは全売上を毎年教会に全額寄付をしていたので、あまりにも無干渉な教会の態度に辛かったようだ。祭り主催側ももう教会とかかかわらないと言う発言をしたそうだ。

 う~ん。

 私は教会に献金はするが、出入りは最小限。
神が望むように隣人に奉仕していれば神のみ心にかなっていると言う考えだ。
それで、信者たちとのトラブルもないのだ。

☆「ファチマの第三の預言」で、教会はほろびていくのではないかなあ。
 「教会はもっとおおらかでないとね。」
 「神様からどんどん離れていきそう。」

 「だから、ドミニクの歌が映画化されるようになったというのは教会の真実を語れるようになったということでもあるね。」

 「教会献金がなくなれば、他にももっと使えるし。」
 「私があるときに、献金袋を探しているときに見たのだけど月500円というのがあった!
 「月500円?」
 「私もあなたみ月10000円でしょ。そのぐらい皆出していると思ったけれど、それはほんの数人。
5000円でも多い方。3000円2000円っていうのが普通かも。」

 「私なんか純朴に、それこそ襤褸を着てても、少しでも多く献金をと働いてきたのにね。
 「私もそう。」
 「それを教会がどう使おうがいいと思っていた。」
 「あげてからはそっちのお金だもの。」
 「でも、現実を知ったら馬鹿馬鹿しいかも。」
 「ホームレスさんに炊き出し辞めたでしょ?」
 「うん、教会はしていない。」
 「こんな時代に、自殺者と路上生活者の溢れている時代に何もしてないと言うのは考えられない。」
 「教会とは去る時がきたのかも。」

 「人間だものね。」
 「一番意地悪なのは修道女よ。」
 「マザー・テレサのところで横領をしていたシスターがひどい末路を送ったのを知った。
 「原因・結果を見通せる運命にあるから、いつも結果まで見えてしまう。」

 「そういうこと。神は知っている。」
 「自分もろくでもないけどね。」
 「うん。うん。せめて、自分がろくでもないことくらいは知らないとね。」

☆今日のシンクロは「革命」か?
 家に帰った同時に姑がピンポーン。友人の軽井沢の別荘に行くからと卵やネギやホウレンソウなど使いかけの野菜を痛まないようにくれたのだ。
 
☆☆☆☆☆
 私は今日の映画を観て教訓を得ました!
1、払うべきものは払いましょう。自殺をしなくてもいいように。
2、両親とはいい関係にいましょう。失敗しても帰れるようにしましょう。(結婚でも修道会でも)
3、自分の能力は僥倖と思いましょう。1人でやっていけると思ってはいけない。
  神のために歌ったのだから、神の役立つようにアフリカでも教会でも修道会でも使われればいいと思いましょう。
4、教会とも修道会とも仲良くしましょう。イエス様はその方が喜ばれます!

さて、私の実践は?
 私は昨晩、主人と仲良く「ぶらぶら美術館」とかいう番組で「オセロー美術館」の展示を観てました。

 私は結構解説をして、「ゴッホの弟は月に13万円くらいゴッホに送ってたらしい。」
「13万円でいいのか?」
「テオはこれで、世界中にゴッホを支えた弟ということで讃えられているので、あなたも支援すると奥さんを支えた夫として世界中に評価されるようになるわよ。」
「評価されなくてもいい。」
「評価された方がいいと思うけれど・・・。」

「ゴーギャンは悪いらしい。」
「妻子の世話を放棄して奥さんから三くだり半をくらったらしい。」

「ゼザンヌやモネは多金持ちだったらしい。」
「机ゆがんで間違っている。」
「そんなことはどうでもいいのよ。そんなことを気にするのは天才になれないのよ。」

と勝手な情報を教えたら、結構気分よく書斎に上がって言ったので、それから自由にテレビ・チャンネル権を行使したのでした。