July 30th, 2010

黒姫の国際村を訪ねる!読書も濃かった!

 今、長野から帰ってきました!

コテージを11時半ころ出て、トマトとトウモロコシを買って、そば屋さんでお昼。12時32分のバスで黒姫駅に向かい、12時55分の信越線と1時47分の新幹線で帰ってきました!

もっぱら読んでいた本で2度読みました!

而立書房から届いていた本!


7月29日火曜日 晴れ
長野駅に7時に着いたのですが、長野では7時にデパートも閉まってしまうのですね。それで、44分の信越線で黒姫まで向かったのでした。東京も長野も晴れていたのですが、黒姫のプラット・ホームは濡れていました。

私がコテージに着く午後8時前に大きな雷があり、2度の停電があったそうです。

7月28日水曜日 晴れ
国際村に「蚊帳教会」の簡易ポスターを貼りに出かけることにして、お隣さんに声をかけてみました。
午前11時過ぎでしたが、一緒に行ってくださるということで二人でお出かけしました。

湖畔はとても素敵でした!





 とても感じのいいところで外国人ばかりなので「ハワイみたい。」と友人のTさん。
事務所で快くポスターを貼ってくれました。

 それからふたりで国道まで戻って、そば屋さんで遅めのお昼にしました。グリーン・タウンを反対側から上ってロッジに着き、事務所にやはり「蚊帳教会」のポスターを貼ってもらいました。

 それから私たちは3時に来ると言う「生協」を待って、判を押し、注文票を渡しました。
Tさんと話し合った結果、少し他の山とのコミュニケートもだいいということになり、会ってみましょうとQさんに電話をしたのでした。Qさんは30分くらいで迎えにきてくれ、みなで6時にまtり合わせということになりました。

 その間、掃除をしたり片付けたりです。巣箱も掛けました!




アートっぽいTシャツやバッグもいつのまにやら集まってました!

そうこうしているうちに夕方になり、3人でお出かけした先も同じグリーンタウンの別山なのでした。
この地域は古くからの別荘地で大学村、学者村もあるのでした。

 平たい森林の中でかなりコテージが密集してますね。
 なんと12時までおしゃべるをしてしまいました!

 夕飯を食べるのを忘れて!

☆帰ってからは読書でしたが、非常に中身の濃い本でした。
この方は存じ上げませんでしたが、国際的にも活躍の方でした。

内容が戦争と言うか、慰安婦問題や差別問題で2日にわたって読みました。
絵も良かったです。89歳の方。

7月29日木曜日 雨
携帯が通じないとのことで焦ったのですが、長野のドコモに行って調べようと思ったら、電話が生協からかかってきて、壊れてないようでした。
それで、そのままUターンをして、コテージで制作してました。
油絵をそのまま床において乾かし中です。
着いた日にチェックして、翌日から窯にいれておいた粘土も焼きあがってましたが割れたのもありました。

 雨なので少し淋しかったので友人に電話をしたり弟に父の容態を訊いてました。

 深夜から朝の5時まで「アジアを抱く」を読んでました。

7月30日金曜日 晴れ ときどき雨!
 10時ころ起きて、軽い朝食。

二胡と古琴の演奏会に!


 今日の金曜日に帰ってきた理由の一つは明日の「二胡と古琴」の演奏会に誘われたから。

 理由は古琴の演奏家の高 欲生さんが、私の「宇津保物語絵本」を大変気に入り、自分のお弟子さんにはもちろん、お客様に紹介したいのでぜひ、来てほしいと連絡があったからである。



 「宇津保物語」は紫式部が最も好んだ本である。
 遣唐使の時代のこと。主人公は唐に向かい嵐にあって遭難する。そうしてペルシャ湾に流れ着いた。
あの大きな大陸で、白い馬に運ばれて行った先に音楽師たちがいて、彼に琴を教えてくれる。
彼は天の木から天女たちの手でお琴をいくつも作って貰い、日本に帰るときに戴いた。

 ほんもののアート。そしてアーティストの心意気は地位でも富でもなく、自然にともに演奏して天の呼応をいただく。

 琴のためにだけ生きた三代の人たち。

 現在のアーティストが忘れかけている本物の芸術は、こんなにも昔に知る人がいて、本にされていた。

☆私は今日は、朝取りの「トウモロコシ」を姑に持って行き、それから洗濯ものを持ってクリーニング屋に行った。

 そして、二段のアイスクリームを2セット買って、銀行で通帳に記入。

 アーティストといえども、全く経済を度外視できないのが現実。

 そして、目黒アトレで日常の雑貨や食糧を買い込んで帰ってきた。

 皿洗いや洗濯をしてテレビを回していると、海老蔵と真央ちゃんの結婚披露宴をしていた。
やはり美形揃いの歌舞伎と芸能畑で、豪華な結婚式でした。

 幸せっていうのはいいもので、誰でも彼らの幸せを祝福しただろう。

 でも、本当に恵まれたカップルであるのは確か。

☆帰りの新幹線で自分の子供を木箱に入れた虐待の母親の記事が出ていた。
ほんの少し前に起きた他人の赤ん坊を抱かしてもらい骨を折っていた離婚したシングル・ママの記事もあった。

 「アジアを抱く」の作家の富山妙子さんは画家である。


 彼女は育ちは相当いい人である。

 彼女の両親は彼女を画家にすることだけを楽しみにしていて1921年に生まれた人なのだが、2度の結婚で子供を得たが夫婦別姓をしていてわかれている。

 また、昔の女子美術とバウハウス運動に刺激を得たアートの学校を中退している。

 とても進んだ人なのだ。

☆コピー
富山妙子(とみやま たえこ、1921年-  )は、日本の画家。

兵庫県生まれ。1930年代を中国の東北部満州で過ごす。1938年ハルビン女学校卒業。女子美術専門学校(現・女子美術大学)中退。

1950年代に入り、筑豊炭鉱や鉱山労働者を描く。1970年代には韓国の詩人会芝河の詩に寄せて絵を措いたり、音楽家の高橋悠治と出会って絵やリトグラフと音楽によるスライド作品を発表。

日本の戦争責任やアジアの視線を持ち続け、常に政治や社会と芸術とのかかわりをテーマに、現存も意欲的な創作活動を続けている。少女時代に見た大陸の広人な風景や日本統治下の中国人や朝鮮人への深い悲Lみが、のちの創作活動の原点となる。

作品に「きつね物語・桜と菊の幻影に」、「20世紀へりレクイユム・ハルビン」などがある。 著書に 『はじけ!風仙花』『わたしの解放』『おばあさんのすぷーん』などがある。

☆ ここからは縷衣香記
 彼女は2人の女児を両親と一緒に育てるために絵筆を使う仕事ならなんでもしたそうだ。
 戦争があって、百姓仕事をして搾取される側の気持ちも体験した。

 総しぼりの手刺繍の着物が、お米1斗にしかならなかった、戦争中の貧しい生活。

 新しい時代の考えに一致して子供をなした男たちは、こどもができると女はと男のために犠牲いになると言う考えを当り前のように持ちだして、浮気した。

 彼女の同棲生活はすべて彼女の親の仕送りでなされていたそうだ。

 お嬢さん育ちの彼女も外国資本の会社で働いていた父親が朝鮮から帰ってくると、

「自由を履き違えている。絵を描くからなんでも赦してきた。女子美も次の学校も勝手にやめた。
勝手に子供を作り、勝手に別れた。これからは親の監視下できちんと生きさせる。」

 と言ったという。

☆お嬢さん育ちの彼女も戦争で惨い暮らしを知った。同じようなお嬢さん育ちの友人も親の反対をおしきって朝鮮の人を結婚して捨てられたり、画家の妻の貧しく惨い暮らしを山のように見てきた。

 彼女はそれで、貧しい人や差別に特別関心を持つようになる。

 ヨーロッパ帰りの洋行帰りが幅を利かせている時代に、アジアに目がいくようになる。

 10年間、炭鉱を回って炭鉱の絵を描く。

 40歳のころ、親に2人の子供を看させて(これは凄いと言うか、親が理解があると言うか)、1年間アフリカ、南米の旅に出かける。

 日本の炭鉱から流れた移住者がどんな暮らしをしてるかを見に行きたかった。

 実際に南アフリカで差別される側に立つ。

 ブラジルでは黒人が白人を使っているのも見たし、日本の移住者が政府に騙されて黒人奴隷のように使われているのも見た。

 キューバに行って革命を観る。

 メキシコや南米絵画が民衆から出て、ヨーロッパの風景画よりエネルギーがあると感じる。

☆彼女は炭鉱のルポ記も書いて、ラジオ化されたり、文章をあちこちで発表したりしていた。

 左翼的な仕事だが、高橋悠二のようなピアニストがアジアや第3世界に問題意識を感じているのと共鳴して、世界の革命に関心を持ち、ベトナムや韓国を訪ねるようになる。

 彼女の絵はスライドにしたり画集にして、世界中の教会やギャラリーで賛同者の援助で開かれた。

 朝鮮に関しては「慰安婦」に特に想いがいき、タイの売春などにも心痛みルポと作品制作をしている。

 彼女自身も傷ついた経験がそちら方面に向かったのだろう。

 彼女の言い分ではヨーロッパに行く画家たちはお金目当ての俗物のように見える。

☆しかし、それぞれの誠実さはそれぞれだと私は思う。

 「芸術とは祈りだ。」と彼女は言う。

 私も同感だ。

 私も政府や権力に不可抗力に慰安婦にされた人や親の無知に少女売春をさせられている人に痛みを感じる。

 それを書くことだけが良心ではないと思う。

 できれば、それを無くさなければと思う。

 彼女のやった運動で命の救われた韓国の詩人もいる。

 どこの国でも知識人は殺されているのには驚いた。

 チェ・ゲバラもでてきた。南アメリカはずいぶん勇気をもらったことだろう。

 彼女の絵は好きだ。うまいと思う。

 古い西洋館に住んでいたというが、父親の庇護の中で生きられたのであろう。

 主人のいない立場で家事をやってくれた母親もいて、彼女は発言も発表も自己責任で言えたのであろうと思う。

 彼女の本には懐かしい名前がたくさん出てきて、史実としても女性の生き方としてもとても参考になった。

 昨年の妻有トリエンナーレで「アジアを抱いて―富山妙子の全仕事展1950~2009 」があったそうだが、見たかったです!