July 31st, 2010

感謝!感謝!感謝!

 生かしてくてありがとう!

 私はほんとうにいろいろなものにありがとうの気分です。

 世界中の厳しい現実があります。

 日本の夏も暑いし、現代病の多くのストレスが精神面でも厳しいことになってもいる。

☆でも、汗をぬぐいながら、掃除をしながら片付けをしながら、こうして生きていることへの感謝がふつふつとわいてくるのです!

 人間にはいつなんどき死が訪れるかわかりません!

 でも、いつもいつでも感謝して死を迎えたいと思います。

☆長野から帰って、自宅を片づけていると本当にあちこち家事の怠りを示してくれることになっているのですが、なんとも温かい温もりを感じます。

☆ 私の仕事はアートで使命といってもいいでしょう。

 そのバック・ボーンは神です。

 神様が望むように制作する。

 それは人間が皆違っているように、それでも皆尊い存在であるように、小さなものを生かす道です。

 アートの仕事の間は私も今までも今でも、片手間にと言うことは絶対したことはないのです。

 神の魂が下りてくる聖なる場がアトリエであり、制作のときはいつでも心の準備で身辺を清め心を静かにして画面と対峙するのです。

☆芸術家の人生は厳しい。

 昨今の若者のようにアーティストが格好良くリッチな生活が営めるわけはないのです。

 誰でも同じように神様に愛されている私たちの人生は注意深く、心がけ良くしていれば神様が語りかけてくれる瞬間がある。

 人を愛せよ。

 美はある。

 美はあるだけでいいのです。

 美から何も受け取る必要はない。

 名声も富も。

☆私が神様に感謝しているのは、90歳と85歳の老人を抱えながらも制作時間をくださっていること。

 至らぬ主婦でありながら、追い出されもせず(追い出したいのかもしれませんが)、子にも「ママは、野尻で絵を描いていればいいのよ。」と言われ、姑にも「行ってらっしゃい。」と送り出されている現実です。

 私は三食そうめんでも、皆の残りの惣菜でもいい性格なのですが、今もカレー・ライスを作って食べられている現実です。

☆今も郵便受けから「聖母の騎士」の購読費の請求書が着きました。長野に行く前は、幾度も断っている「教育里親」からの寄付が届いていて、深く考えながら長野に出たのでした。

 使途不明金というのは多くの団体で問題になってます。
 そんな問題も長野で起きているのでした。

 野尻湖のグリーン・タウンは今から50年近く前に別荘地として分譲されたものでした
東京から遠くて不便なのでなかなか別荘を建てる人がいなかったのですが、土地が安いので土地だけ買った人は多かったのでした。

 時代は移り、新幹線も伸び高速道路もできて、昔7時間と言う距離も今では半分で行けるようになりました。それでも遠いですけどね。

 それで、始めの別荘地として買い別荘を建てて住んでいる人と今はやりの、山暮らしやエコ生活や定年退職後の暮らしに、お手軽値段の古い別荘を200万円くらいで買って住んでいる人や改築して住んでいる人も増えたのでした。

☆私自身の考えですが、みな違ってそれでいいという神的な考え方と一緒で誰でもしあわせに住めばいいと思うのです。

 東京や大阪に自宅があり、エクストラに別荘をお持ちの方と野尻の山が自宅で古い別荘を買われた方の経済感覚は確かにずいぶん差があります。

 管理費が当然といい考え方と「高い」「必要ない」という考え方があるのです。

 私たちが世界で抱えている格差社会のいいレッスンのような気がするのです。

 それで、「高い」「必要ない」と言う考え方のグループは「不払い運動」や「自主管理」を宣言しているそうです。

☆そうした動きは教会にもあるのです。
 教会の管理規制に「神との直接対話」を考え離れている人もいます。

☆しかし、もっともいけないのは寄付や多くの管理費でわずかな特権的な立場の人が甘い汁を吸っているということがあることです。

 ですからね。
 私はすべてクリーンにしたらいいと思います。

 ボランティアと言う人がいたら、本当にボランティアなのかいつでもだれでも見れるわかる記録をインターネットに記載することは簡単だと思います。

 そうしたら、皆が納得してボランティアをなさっている人たちに心からの感謝と敬意を持つと思います。

☆この野尻の山には詐欺が横行しているそうです。
 土地や家を建てる費用はやはり百万円単位のお金ですから、簡単な口利きやはったりでボロ儲けをするのはおいしいのでしょう。

☆今は全世界、浄化の時代です。
 嘘がばれる。
 はったりの仕事をしていた人たちが潰れていく時代です。

 最後には自然があって、自分が生きて行かれたらもう十分だと私などは思うのですが。

☆今回の私の「蚊帳教会」もアートの一環ですから、嗜好領域です。

 私たちアーティストは作品ができて、見てくださる人がいて、参加者がいてくれたら嬉しいというものです。

 しかし、近頃の御時勢、長野までの費用が痛いとか両親やペットの介護で離れられないとかでなかなか来て下されない方も多いのです。

 でも、それも本当に自由なんですよね。誰にも遠慮や気兼ねする必要がない。
来たくなければ来ることはないという娯楽なんですよ!

☆それでも、来て下さる人がいる。
 友、遠方から来たる。
 愉しからずや。

感謝、感謝、感謝、感謝、感謝!

感謝こそ神に最も近くて神に愛される秘訣です!

感謝には終わりがない!

 感謝するものは多いのですが、私の絵本や「マリア・コード」もポッツリ、ポッツリ買ってくれる人がいるのがありがたいです。

 而立書房の社長に「修道院回想録」のオーダーついでに電話をしたのですが、やはり本は売れない時代で出版社、本屋、作家みな大変な御苦難だそうです。

 


 而立書房から出版された
絵本シリーズも地味な古典ですが、本当に日本人としてアジアの1員として知っておきたい人間の誇りが感じられる本です。

 それぞれ縁があって書く描くことになりました。




 「マリア・コード」はたま出版から、自分に起こった霊的体験とその結果生まれた作品を求めています。この本もある女医さんから「祈り」の必要性を語る本を書いてと言われ書きました。


☆人生は不思議に満ちてます。
 知れば知るほど、年を重ねれば重ねるほど奥の深い神秘と神の愛を感じるものですよね!

☆☆☆☆☆
 神山のもっとも美しいもっとも恵みのある地にコテージを建てる準備を計画された神には感謝いっぱいです。

 私はそのために今日まで
 神から離れず、
 神を仰ぎ見て
 生きてきたのでした。

 神様の貸してくださった地を
 私は神様を喜ばすために
 神をたたえるために
 使いますよ!

 誰でもが幸福になる道しるべを立てますよ!

 神が愛なら
 地上も愛でお応えします。

 神が愛せよとおっしゃるのなら
 あなたの民は愛するのです。

 愛には何もいらない。

 愛には隔たりがない。

 愛には代価は要らないのです。

 神よ、

 あなたが代価を求めず地上に民を送ったのですから。

 神よ、

 あなたを信頼する民が増えますように!

二胡と古琴の夕べは悠久の時間でした!

 場所は新高輪プリンスホテルの中国茶館「春風秋月」です。
 お昼からやっているようですが、私は夕方からの6時からの部に参りました。

 琴の演奏は 高 欲生さん。

 二胡の演奏はワン・シャオフォンさんです。お父さまは中国東方歌舞伎団で首席二胡奏者で6歳の時から習われたそうです。シャオフォンさんは1987年来日して、千葉大学で文学部行動科学科で学ばれ卒業されて以降、日本で二胡奏者として生活されてます。

 鳥も呼応して囀っているので、近くに籠も持ってきました。

 私の籐のかごと中国茶。私はライチ紅茶を頼みました。



 涼しげな夏の急須!


 演奏家のおふたりとも日本語が堪能なので、丁寧な説明が聞けて楽しかったです。
長い歴史の中で作曲された音楽のテーマにはなかなか想像できなかったような悲しみやさびしさがありました。

 「源氏物語」の中で源氏が嫁に教えた琴の原曲とされているもの。

 自然界の水のい流れやろうそくの炎の消える様子を描いたもの。

 「空山鳥語」という鳥の自然界の会話を描いたものに本物の鳥が合わせて囀りだしたのには皆で思わず微笑んでしまいました。

 日本の歴史は中国を知らなくては語れないもの。

 多くの方たちと演奏の後で談話をしましたが、やはりお茶に御縁のある方や東洋の音楽に縁のある方が多かったのでした。

 私も今日は黒のシナ服で出かけたのでした。

貧乏礼讃したいけれど!無理かも!

ある2チャンネルからのコピーです。情報は2009年度

  1パイロット1,238万円
2医師※1,159
3大学教授1,122
4大学助教授871
5警察官*813
6弁護士※801
7公認会計士※791
7税理士※791
9公立高等学校教員*776
10記者772
11大学講師754
12公立小・中学校教員*742
13歯科医師※737
14高等学校教員723
15消防士*717
16不動産鑑定士※716
最下層デザイナー411万

画家の平均年収は・・・ 3,510,000円 

他人事ながら楽しいですね!
【嫉妬速報】 totoBIGで6億当てた男のブログが話題に

私も宝くじ買ったのであやかりたいです!

発表は8月11日!奇しくも蚊帳教会の日なんですが!
当たりますようになんて祈れません!

でも、平和にために使うんだったら祈っても許されるかも!

☆画家の生活の糧は?という質問にあった答え

 [画家」及び「芸術家」としてそれのみでご飯を食べられる人は今の日本には"居ない"と言っても過言ではないでしょう。

☆essay9
 コピーです。

 絵を描くには時間が必る。時間をつくるために仕事を辞める。生活苦に甘んじても、良い作品、完成度の高い作品にしようと努力する。
 世の中の人々は、レベルの高い絵を見たがるが、才能ある画家を援助しようとする姿勢を知らない。当然、絵を描き続けるか、生活苦のために筆を折るかの選択を迫られることにもなるだろう。このために、どれだけ才能ある人たちを葬り去ったか知れないのだ。
 
☆別のブログのコピーです。
岩波ホールでこの画家の映画は観た記憶があります。

おおいた発! 「芸短大放送局」です。管理人・下川正晴。姉妹サイト「日韓次世代交流映画祭」
January 11, 2009, 4:33 pm
いとおしい画家・李仲燮2
 李仲燮(イ・ジュンソプ、1916-1956)の話を続ける前に、彼の作品展を見たサムスン美術館「リウム」について、少し紹介しておこう。
 この美術館は日本人のショッピング客も多い梨泰院(イテウォン)の裏手の住宅街にある。地下鉄6号線「漢江津(ハンガンジン)」駅から徒歩10分。高級ホテル「グランドハイヤットソウル」の真下の方角だ。
 実は、神奈川大学教授の冨井正憲さん(建築学、ソウルの漢陽大学客員教授でもある)に、「ソウルでお勧めの建築物は?」に尋ねたら、すぐに返ってきたのが「サムスン美術館でしょうね」という答えだった。
 3つの建物があり、それぞれがOMA、マリオ・ボッタ、ジャン・ヌーベルという世界的な建築家による設計なんだそうだ。さらに、韓国美術に詳しい町田春子さん(国際交流基金ソウルセンター)が、「イ・ジュンソプの作品展が始まりますよ」と教えてくれた。そういういきさつがあって、李仲燮にめぐり合った。

 朝鮮の解放(日本の敗戦)後、仲燮が初めて発表したのが、「少年」と、「3人」の2作品だ。1945年秋、ソウルで開かれた「解放記念第1回美術展覧会」に出品しようとしたが、締め切りに間に合わず、その後、別の展示会に出品されたという鉛筆画である。
 「少年」は葉の落ちた立ち木と切り株の間の道に、一人の少年がひざを抱いてしゃがみ込む姿が描かれる。「3人」は仰向け、うつぶせ、ひざを抱き座る3人の少年が描かれる。2作品とも何かに絶望したかのような、沈鬱な印象の絵だ。「植民地時代の孤独な生を表現した」(チェ・ソクテ『李仲燮評伝』148ページ)。確かにそう感じ取れる作品である。
 『図録・年譜』で李仲燮の生涯をたどるーー。
 解放後の朝鮮では、美術界でも左派と右派が対立していた。仲燮もその渦に巻き込まれた。1946年、最初の息子が生まれたが、すぐにジフテリアにかかり死亡。1947年、元山文学家同盟の共同詩集『凝郷』の表紙を描いたが、詩集の内容と表紙が「人民性と党性がない」と批判を受けた。同年、泰賢が生まれた。翌年、泰成が誕生。
 1950年6月25日、朝鮮戦争が始まる。兄のジュンソクが北朝鮮当局に逮捕され、10月、米軍の爆撃で仲燮の家が壊れ、家族は姉の家に引っ越した。そして12月6日早朝、妻と二人の息子などとともに木造物船に乗り、元山から海に出た。3日後に釜山に着き、避難民収容所に収容された。元山時代に描いた絵は、母親に預けてきたといわれる。いま、その作品群はどうなっているのだろうか?
 釜山に着いた後も、情勢不安は続いた。1951年、家族を連れて、釜山から済州島の南岸・西帰浦(ソギポ)に移住した。1坪余りの小部屋に家族4人で生活しながら、「西帰浦の幻想」や「カニと子供」「森島が見える景色」などの作品を描いた。
 このころの作品は、とても伸びやかで、見ていて楽しいものが多い。李仲燮夫人の方子(まさこ)さんが、「当時が一番幸せだった」と語る通りなのだろう。
 「西帰浦の幻想」は、海岸で8人の子供たちが木の実を摘んだり、運んだりする様子が描かれている。黄色を主調にした楽しい絵だ。青い水平線には小さな島が浮かぶ。白い鳥が木の実を運び、鳥に乗っている子供もいる。実際、李仲燮一家が住んでいた家からは、海が見えたという。
 李仲燮は波止場で荷役作業などをしながら、家族の生活を支えた。
 しかし、生活苦は改善できず、さらに方子夫人の健康状態が悪化(吐血)したことなどから、1952年夏、夫人は息子2人を連れて日本に帰国することになった。
 家族との別離後、仲燮は新しい画法を考案した。タバコの包装紙の銀紙に鉄筆で線を引き、絵の具を塗りこめるという手法である。数多くの作品が残されている。もうひとつの作品群が、日本に帰った家族に送った葉書絵だ。前回紹介したように、父親としての愛情あふれる作品ばかりである。
 仲燮は1953年7月、家族に会うため、船員の資格を得て日本に向かう。友人の詩人・具常が準備してくれたのだ。しかし、書類上の問題などがあり、東京には5日間いただけで、韓国に帰らざるを得なかった。
 その後、韓国南部の都市・統営(トンヨン)に転居。ここで、代表作として知られる「黄牛」(夕焼けの前で泣き叫ぶ牛)「白牛」「夫婦」などの代表作を描いた。
 仲燮は少年時代から牛と子供の絵をたくさん描いてきた。「牛と子供のの画家」とも呼ばれる由縁だ。「黄牛」はその中でも一番名高い。赤と黄色の大胆な筆使いで描かれた、黄色い牛。背景は夕焼けの空のようだ。何かを訴えるようにいななく牛。力強く、そして、悲しげだ。仲燮の自画像とも言われる。悲しみとやさしさに満ちた牛の目が強く心に残る。

 1956年9月6日。仲燮はソウルの赤十字病院で亡くなる。見守る人もいなかった。天才画家の孤独な死だった。「自画像」は、その前年の作品である。
 仲燮は1955年、ソウルのデパートで生涯初の個展を開いた。しかし、警察から銀紙絵が「春画」と誤解され撤去されるなど、大きな痛手をこうむった。その心理的ストレスと飲酒による栄養失調から体は衰弱し、精神的にも病んでいたという。
 病院側が「無縁故者」として新聞に公告し、友人たちが彼の死に気づいたのだ。遺体は、ソウル郊外の共同墓地に埋葬された。彼が残した作品群への評価が始まったのは、韓国の高度成長が始まった1970年代になってからである。
 李仲燮の生涯と作品を調べていて、彼の遺作が最近、真贋論争に巻き込まれていることを知った。韓国の鑑定協会が遺族が所蔵していた絵の一部を「偽作」と判定し、遺族側が名誉毀損で告訴する事態になったのだから、ことは尋常でない。 僕は、仲燮ほどの優れた画家がなぜ、日本に多く知られていないのか疑問に思っていた。このような複雑な背景も関係あるらしい。
 いとおしい画家、李仲燮。
 周囲の無理解はいまも依然として続いている、というしかない。