August 27th, 2010

未完のランナー「深井克美」を読む!

 昨晩、東京に帰ったらアマゾンから届いていた本。

 私と同じ1947年に生まれ、30歳で自殺した北海道のアーティスト。

☆アマゾン解説コピー
北海道立近代美術館 ミュージアム新書 柴 勤著
函館生まれの深井克美は病魔に苦しみながら、人間の肉体と魂の在り方を問い、独特の幻想的な世界を描き続けた。30歳で衝撃的な死を遂げた深井の作品と生涯を紹介する。

☆深井克美で検索
「ねりまの美術'98 神田日勝 深井克美展」(練馬区立美術館)
「深井克美――未完のランナー」(柴勤/北海道新聞社)

→1948 年3月、その男は生まれた。
画家・深井克美である。
1978年12月、この画家は母親と病院へ行く。
その帰途、画家は母親のもとを離れる。練馬の某所である。
画家はビル8階より飛び降り自殺をする。子を探しまわる母の眼前めがけて――。

1947年9月、わたしの母は生まれた。
1974年、結婚。1986年、精神病発症。1987年、自殺未遂。
2000年6月、早朝4時のことである。
母は子が外出したのをドアの開閉の音で知る。
子が戻ってくるのをベランダから見張る。ベランダの外側にまわる。
子の名前を大声で呼ぶ。ベランダから手を離す。落下。死亡診断書には即死とあった。

当時、小説を書いていた。苦しかった。だから書いた。苦しみを書いた。
書くことで状況が切り開かれるにちがいないと信じていた。
書いた。父のことを書いた。母のことを書いた。
そのあいだに生まれたわたしのことを書いた。
母からされたひどい仕打ちを書いた。父と母の板ばさみでつらいと書いた。
小説を書くために父と母の面会を企てた。
両親とわたしがそろって会うのは何年ぶりだったか。席上、母は狂乱した。
自殺をする半年ほどまえのことである。それからなにがあったか。
母と双方、泣きながら4時間話したこともある。わかりあえたと思った。
翌日には母は一転、わたしを悪罵する。棒でわたしを殴打しながらののしる。
「おまえは人間の土台ができていない。これでたたきなおしてやる」
かと思えば数日後には、だきついてくる。死にたいんだけど、どうすればいい?
もうあなたしか頼れるひとはいないの。もう限界かもしれない。死にたい。
こんな現実をまえに小説はストップしてしまった。とても書けないわけである。
あやしげな自己啓発書を読みあさった。なんにでもすがりつきたかった。
自己暗示やら自己催眠やら、いろいろ試したのを憶(おぼ)えている。
どうなるんだという思いもあった。小説のことである。
小説はまだ完結していない。この先、どんな結末がおとずれるのだろう。
わたしは作者であり読者であった。おもしろい小説を書きたかった。
いま思えば、なにか起これとどこかで思っていた。
なにか起これ。それを書いてやる。
6月下旬。梅雨明けはまだ先のある早朝。小雨がふっていた。
母が飛び降りた。名前を呼ばれた。落ちてきた。すべてを見た。見せつけられた。
生から死へ移りゆくその瞬間をである。
母が最後に口にしたことばはわたしの名前であった。

あの日以来、何度小説を書こうとしたことだろうか。
どうしても書くことができないのである。
いつだったか。死後、1年は経っていなかった。
書くことといったらひとつしかない。母の死に顔である。
わたしの目の前に飛び降りてきた母という存在である。しかしそれが書けない。
ことばでは書けない。ノートに絵をかいたことがある。
血まみれの母の顔である。泣きながらボールペンでかきなぐった。
へたくそな絵である。
あるひとに、ひょんなことから見せた。映画監督の原一男さんである。
おまえにそっくりだといわれた。
母親。大好きだったお母さん。
わたしを生み、これでもかというほど憎み、同時に無限に愛してくれた母。
わたしのかいた母の死に顔が、わたしに似ているといわれる――。

あれからもうすぐ6年である。
まだひとつも小説らしきものを書くことができていない。
あの日以来、いかにもありきたりな表現だが、ひとを愛することができなくなった。
わきおこる感情は憎悪や呪詛ばかりである。ひとを憎み、世界を呪う。
先日、偶然からある画家の存在を知る。深井克美。
知ったきっかけというのが皮肉である。
「眼前投身自殺」の検索にひっかかったのだから。
その絵をみる。もうひと目でわかるわけである。
この深井克美さんというひとは、お母さんが大好きだったんだな。
じぶんを生んでくれたお母さん。
かれは脊椎カリエスの後遺症で背中にこぶがある。
終生、コンプレックスをいだいていたようだ。
おのれを奇形とこの画家は意識する。
まわりとはことなる奇形。一般人にはとけこめぬ奇形。
こんな奇形を生んだ母。奇形のじぶんを守ってくれる母。奇形ゆえ愛してくれる母。
奇形をとおして母と子がむすびついていたにちがいない。
奇形を媒介に深まる母子関係。
深井克美は父を早くになくしている。
この母子は身をよせあいながら、世間の荒波を逃れる。
母子の強い一体感こそ深井克美の創作の原点である。

知りたいと思う。
深井克美の絵に感動するだけではなく、知りたいと思ってしまう。
深井克美に恋人はいたのだろうか。この画家は母以外の女を愛したことがあったのか。
画家は独身のまま死ぬ。母の目の前で飛び降り自殺をする。
この母子に、なにがあったのだろう。
今回、関連書を2冊読んだが、どちらにも言及はなかった。
わたしが調べてもいいが30年近くもまえのこと。わからないだろう。

深井克美の絵をみる。母のことを思う。
なかでも好きなのは「2時37分」と「オリオン」。
わたしは絵画の鑑賞作法を知らない。ただ母を思い返すのみである。
深井克美とおなじで、わたしも幼時、手がかかる子どもであった。
病気がちで母と複数の病院をまわったものである。
思いだす。手をつないで歩いた。母の手のぬくもり。
やさしい母。こわい母。末期の狂った母。
母の死後、ボールペンで記憶に残る死に顔をかいた。
もしわたしに画才があったら深井克美のような絵になったことと思う。
これは傲慢なのか。そうではない。
深井克美に親しみを感じるということなのだから。ただそれだけなのだから。
そして、深井克美の絵をただただすばらしいと思う。
この画家の絵をみると母のすべてを肯定したくなる。
狂った母にはずいぶんひどいことをされた。
日記にもさんざんなことを書かれたわけである。
それでもいいじゃないか。お母さん、大好きだよ。そういいたくなる。
母を肯定したい。わたしの目の前で飛び降り自殺をした母を肯定したい。

子に眼前で投身自殺をされた母親――。
深井克美の母は、子の悲劇の4年後に死亡。
自殺か病死かはどこにも書かれていない。
4年か。4年。わたしはもうすぐ6年である。
おのが若さを痛切に感じる。若い。強い。
また梅雨が来る。母を殺した梅雨である。毎年、この時期は精神的に追い込まれる。
おめおめと生きのびているじぶんを恨めしく思う。

深井克美の代表作↓
http://www1.linkclub.or.jp/~seiji-s/papa/fantasy/html/0011.html

「本の山」の過去ログ「目の前で飛び降り自殺」↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-584.html


☆この本はオーダーしてからずいぶんかかって着いた。
 「画家 自殺」で検索してでてきたアーティスト。

 彼の写真があるが、実に繊細な方。
 1948年 北海道に生まれる。父は建築関係者。母は東京からの戦争疎開者。
 1951年 10月に妹が生まれるが、11月に父が結核で死亡。母は妹を養子に出し、12月に母は克美を連れ上京。
 1954年 母は克美とともに旧姓に戻る。
 1959年 徳田カトリック教会にて洗礼を受ける。洗礼名はペテロ。
 1962年 11月、肺門リンパ腺結核、および腎臓結核などの治療のため都立清瀬小児病院に入院。翌月、清瀬町立清瀬中学校小児病院分教室に転入する。
 1963年 8月、都立清瀬小児病院を退院し、翌9月、豊島区立千早中学校に再編入する。このころより、美術に感心を持ち始める。
 1968年 20歳 都立杉並工業高校工業化学科を卒業し、4月、同校工業化学科実習助手として勤務。10月の第32回自由美術展(上野・東京都美術館)に出品された西八郎の「食事のあと」に感銘を受け、同氏を訪問、支持する。
 1969年、この年から71年まで同人誌「われらは今」に参加。このころから鷹美術研究所(品川区上大崎)に通う。
 1970年、9月から師西八郎の勧めに従い、武蔵野美術学園絵画教室夜間の部に入学する。
 1972年、10月第36回自由美術展に初入選し、佳作作家に選ばれる。
 1973年、会員に推挙される。
 1974年、77年まで同人誌「pre」に参加する。自由美術展に出品。
 1976年、12月頃、自宅近くの米軍ハウスをアトリエとして借りる。作品展多数。
 1977年、都立杉並工業高校退職。アトリエや所沢カトリック教会で絵画教室を開き、画業に専念する。
 1978年、30歳、3月、初めての個展「銀座シロタ画廊」を開催。自由美術展に出品。
        12月16日午後1時ころ、通りがかった練馬区のマンション8階から投身自殺をはかり、同1時13分、近くの病院で死亡。

 1979年、5月、遺作展。吉祥寺、画廊駱駝
        最終日に、深井の師西八郎が会場で吐血し、同月11日死亡。
       10月自由美術展よりアイコウ賞受賞。
        11月、深井克美遺作展、新宿、紀伊国屋。
 1980年、2月、東京カテドラル聖マリア大聖堂に納骨。
        3月、深井克美遺作展、銀座、あかね画廊。
       10月、栃木県立美術展に収蔵。
 1982年、母千枝子死亡。
       植木美術館開館(群馬県吾妻郡)深井克美作品収蔵。
        10月、北海道立近代美術館41点収蔵。

☆縷衣香記
 彼の作品はとても深くそして辛いほど厳しい。
 彼は見る人が気がつくか気がつかないほどのコブが背中にあったという。
 彼の描く人間の顔や体は臓器がはみ出し、ケロイドの後のように苦しみが露出した異形だ。

 彼が生まれた1948年、私が生まれた1947年。
 時代の共通のいくつかがすれ違って近いところにいた。

 上大崎の鷹美術も家の近くにあった。
 そして、「銀座シロタ画廊」もわたしも個展をしたところだ。

 彼は初めての個展で評判も良かった年に自殺した。
 彼は長い間の助手つぃて働いていた工業高校お勤務をやめて制作に専念できたのに。

 しかし、私は「専念」というのがワナだと思う。

 セラフィーヌの本をずっと読んで、赤線を引いて、さらに読んだ。
 彼女は応援者がお金をあげて制作に専念した幸せを長い間の家政婦生活の後で得た。
しかし、大不況がおそったときに、応援のお金は無くなった。
年老いて60台の後半に入っていた彼女は、もはや家政婦として働けず、バランスが取れなくなって精神病院に入った。もはや、制作もしていなかった。

 彼女は過酷な生い立ちと、家政婦としての待遇の中から夢を見た。

 いつかハンサムな将校がスペインから迎えに来て結婚して幸せになると。

 自分を冷たく侮蔑した誰よりも大邸宅に住み、絵で大成功して、お金を教会にも多額に寄付して、大聖人として列聖され、金の縁取りの墓に入ると。

 しかし、王子様は現れなかったし、実在してもいなかった。
 花嫁衣装はオーダーしたけれど、結婚式で着れたわけではなかった。

 絵で成功したのは本当。ヨーロッパやアメリカの美術記事にも紹介された。

 でも、大不況が世界を覆って、そんな暮らしはもはやできなかった。

 見返したかったけれど精神病院に幽閉されてしまう。

 他人事だけれど、どこが悪かったのかと思う。

 絵が売れて、専任して絵が描けて、お金も1作品1500フランから2000フランでずっと買いあげてくれた。そして、浪費の楽しみも覚えた。

 もしかしたら、「いつまでも続かないよ。」と誰かが教えたり、貯金や堅実な暮らしを教える人がいなかったのかもしれない。

☆☆☆
 私も絵の描き続けるのは過酷過ぎて、自殺はしないまでも「早く死にたいな。」と思うこともある。
夜更かしの不摂生も、無意識的な自殺行為で、早くボロボロになって死にたいとどこかで思っていたりする。

 惨い仕事ですよ。

 画業は。

 だから、気を紛らすいろいろなことが必要なのである。

 結婚や子育ては現実に引きづり込んでくれるので、精神のバランスにとてもいい。

 絵なんか大したものでないと思えるもの。

 結婚しなくても子供を得なくても、ほかにも方法はある。

 明るく生きる方法が。

 ばかばかしいことをやるべきだ。

 シリアスであっても、どこかで笑う勇気。

 肉体労働は体は草臥れて、精神を緩くするのでこれもお勧め。

 私は今日は東京の家と父の家の掃除をするのだけど、この家政婦のような仕事は具体的にきれいになるところが見えるし、確かに誰かの役に立つので大いにお勧め。

 自殺者の多い日本だけれど、誰でももっとふまじめでいいのよ。

 そう思う。

夏ぼけ!

 午前中はビデオの編集について最終編集の打ち合わせ。

 主人からズボンをクリーニング屋に出しておくようにいわれておでかけして、コンビニで浄化槽とコテージの電気代を計1万円弱を支払い、気がついたら洗濯袋が無い!
このまま家に引き帰るにしては長すぎる暑すぎる道。それで、タクシーに乗り、家まで帰りそのままクリーニング屋まで再び送ってもらった。父に見せるためにDVDプレーア―も持っていたのでそれが重い。それとお土産の餃子や水餃子と肉まんを氷とともになので

 せめてもの家事ぐらいしないとまずい!

 地下鉄の白金台までに行く道にかつて個展をした陶ギャラリー「くれあ」があって、バーゲンとあったので覗いた。父の話などして、部屋ばき草履を買った。少しおまけしてくれた。

 地下鉄で父の家の駅まで行って、いつものパン屋で食パンとチョコのエクレア2個。いつものお店でおふとんのコンフォートを探したけど、あまり売れないので生産してないのだそうだ。

 あまりにも重いのでタクシーで父の家までいった。ボランティアなんだけど91歳の誕生日もあったしね。

☆父は元気で補聴器がなくても耳も聴こえるようだ。
 餃子などポンズで食べて、さっそく長野の「蚊帳教会」を見せた。

 「家も映ってるの?」

 「そうそう。あとで出てくる。」

 12分くらいなので負担なく見て、結構喜んでくれた。

 コテージはよく映っていて、

 「大きいね。」

 と父はいう。

 「同じ値段で長野の大工に頼んだ家より見栄えがいいのだけど、中もきちんと建ててくれた。」

 部屋の中も父は広いと思ったようだった。

 「テーブルや机を片づけたのよ。」

 蚊帳のところも最後の湖の朝焼けのところも気に入ったようだった。

 「弟に見せるといい。」

 「これはテスト・バージョンで完全版がまたできるから、そうしたら弟にもあげるから。」

 これが私の父の誕生日プレゼントなのです。

☆それから昨日の朝の9時ころ、上の弟が突然父を連れ出して、ハンコを押させたようだった。

 そんな話もあったが、5時には父に挨拶をして帰った。

 父の体調はすこぶる良くて、これ方5,6年は生きれそうだし、本人も老いてるとは思ってないようだった。

☆呆けといえば、今、玄関のベルが鳴った。

 「どちら様ですか?」

 「近所のものです。」

 「庭から水が出てますが。」

 「庭から水が出ているのですか?」

 「そうです。」

 それで、2階の寝室から降りて、庭に出ると庭木用の水道の蛇口が開きっぱなしで確かに弧を描いて、水が出しっぱなしなのだ。姑が庭に出て、水蒔きついでに何かのきっかけで電話か用事か家に入り、忘れてしまったのだろう。

☆自宅に帰って、暑さに参ったのかベッドで数分寝てしまったようだ。

☆明日のことは心配しない主義。

 なるようになわるわ。

 ケセラセラの歌の好きな私だったが、「虹は見たのか?」

 We have a rainbow day after day?

 Que cela cela なるようになるわ。

 呆け老人を抱える境遇だが、私の呆ける日も来るかも!