November 14th, 2010

長野は濃い!

 11月12日は夜中の3時まで2階の画室で絵を描いてました。
 
 ユトリロが1日に1回泥酔して1枚絵を描くことに触発されて、私もデジカメとスケッチブックに色鉛筆で描いたデッサンを参考にして5枚の形の違うキャンパスに手をつけました。

 油絵は乾くのに時間がかかるので、そのやり方はとてもいいのでした。

 とにかくこの季節の美しさはどのシーンを思い出しても生き生きと目の前に出てくるのです。

 コンピューターの画面に拡大して、自分のその場にいた印象を描くのですが、ほんとうにとめどめないのでした。

 それでお風呂に入って寝たのは午前4時ころでした。

11月13日(土)晴れ、温かい。
 今日は9時半にチカちゃんが車で迎えに来てくれるので、その前に現金をキャッシングしにセブン・イレブンまで行き、ついでに朝食としてバナナや赤飯のおにぎりを買ってきました。
シチューを1杯に、おにぎりと温かい肉まんひとつ。


 4枚の「妖精」シリーズのキャンバスをチカちゃんに長野の善光寺近くのオーダー額屋さんに運ぶのを手伝ってもらうように頼んでいたのでした。

 今日は天気もいいので、小布施で「富士と桜」の北斎展も行きたいと誘ってみました。

 30分ほどドライブして額屋さんの駐車場に着きました。
事前に電話をしていたので、オーナーが顔を出してお店を開けてくれました。2階が住居で1階が仕事場とギャラリーで土・日・月が画廊で写真展をしてました。



  チカちゃんに手伝って貰って25号、20号2枚、10号のキャンバスをお店に運びました。
ビーズやボタンの厚みがあるので少し浮かせてアクリルを入れるのと、白木の額を頼みたいので、絵を並べて白木の色を決め、額の幅を決めたのですが、絵のイメージによって白木の色が微妙に違うのでした。
  若い額屋さんとチカちゃんが絵を褒めてくれたので、安堵しました!
  濡れている25号以外の額はそのまま預けました。1カ月くらいでできるそうでデポジットを2万円置いてきました。全部で5万円弱でできるそうです。

☆それから、私たちは小布施に行きました。
途中、須坂を通って行くのですが、なかなか古い町の情緒があって素敵なので、春になったらゆっくり歩きたいです。

 11月23日までの北斎「富士と桜」展と栗と紅葉の季節と言うので、小布施は満員で車を止めるのも大変でした。
 
 長野から予約を入れたお店は今日は満席とのことで「甘精堂」で栗おこわ飯を食べようとしたのですが1時ころでしたが、長蛇の列でサインをしましたが待ち時間が1時間とのことでした。

 それで、お菓子の隣のお店で「新栗のモンブラン」の列の方に並びました。
 これも30分くらいです。
 買ったのはモンブラン1個とシュー栗クリーム1個と日持ちのするフルーツ・ケーキと栗紅茶と3日くらい持つスコーンの3個入りパックです。




 まだ、時間があるので街を散策。
 スクエア・ワンは壊そうとした倉庫をアメリカ人が買って成功したお店。
 「枡1升」という日本語を英訳したそうです。


 1時間近く経ってお店に予約表をチェックしたら、まだ1時間も待たなければいけない感じなので、
お土産用の「栗おこわ飯」を買ってお茶ボトルを買って、和菓子展の前のテーブルで紅葉を観ながら戴くことにしました!



それから北斎館へ。
こちらの方はさほど混んでなかったのでゆっくりと観ました。


5分の短い北斎の生涯のビデオを観ましたが、「絵を描くこと以外はすべて無頓着」とのことでした。
晩年近くに描いたとされる富士山と龍の昇る墨絵は強く惹かれました。北斎自身が竜で使命を終えて天に昇るイメージに見えました。それで、絵ハガキを1枚購入しました。

☆チカちゃんが会いたい人が長野にいるとかで、再び長野に行きました。長野の駐車料金は結構するので、帰りには1400円くらいになりました。

 東京から長野に1年前に来たアーティストと現代美術のギャラリーに勤務していた奥さんが経営する「MAZEKOZE」に行きました。2階がワークショップやギャラリーで1階が喫茶です。可愛いお子さんもいてなんともいい感じのお店です。


 2階で個展をしていたのは若い長野の娘さん。
 タイの紙を使って絵をガッシュで描いているのでした。
きのこのキャラクターの名前は「しめりっこ」。

 1階でお茶をしながら御主人の作品集を観ていると。国立の東京の家の屋根は草だらけでなんだか壊すのに偲びたくて、家賃の負担もきついながら、やはりキープしているそうです。
ギャラリーに勤めておられた奥さんは、「主人と一緒になる前は現代美術の作品を買えたのだけど、今は貧乏で。」と幸せそうに話されるのでした。
 「蚊帳教会」のビデオを持っていたので名刺代わりに貰ってもらいました。

 チカちゃんは御主人の作品の枝の鉛筆を3本買いました。しかし、ご主人は今日は映画祭の方に行っているとか。
チケットが1枚あるのでと、招待券をくれました。これで、1枚買っていい映画なので夜は映画を観ることにしました。

☆それまでの時間は、長野東急の上で現代美術の作家の作品展があるそうで、観ることにしました。
駐車はそのまま駐車場におき、歩いて東急まで行きました。「MAZEKOZE」は映画館に近いので帰りまで、その駐車場に置くことにしました。


 半分の作家さんたちは会場にいて、絵を観ていると話しかけてきてくれました。
 まだ、学生の方もいて会場には若さが溢れていました。
 日本画やきり絵や油絵や陶芸などあって、小作品が多かったです。
 売ることも目的にしているようでした。

☆それから、別の道を通って映画館近くまで行き、開店したばかりの中華屋さんで野菜スープとチャーハンを2人で半分づつ食べたのでした。

 ちょうど、6時45分前に着き、招待券が1枚あるので当日券900円を1枚購入したのでした。
「映画祭」の今日だけ上映する映画だったのでした。
席はほぼ満席で、シスターたちの姿もあって、真摯な内容の映画でしたので長野の方の意識の高さに改めて敬服しました。シスターは長野の清泉のシスターたちで余った招待券はここから来ているそうでした。

 凄い映画でしたよ。
 ジャーナリストたちの命がけの隠し撮りのビデオの撮影です。
 睡眠時間が足りなかったので、疲れがどっと出たのですが、目が覚めてしまいました。





 映画が終わると、「ビルマで第3回の軟禁状態から、アウンサンスーチー女史が解放された」ビッグニュースが届きました!
 
 ビルマの報道カメラマンの方のトークが別の席で用意されてました。

 それで、私たちもすぐ隣の喫茶店「奈良堂」で写真展も開かれている二次会場に席を移しました。





 山本さんのお話はとてもショックな事実が多かったのです。
 アウンサンスーチー女史の解放のニュースで皆で乾杯をしました!


 11時のお開きになって、山道を通って神山までチカちゃんに送って貰いました。
チカちゃんは黒姫の牧場の近くの自宅に帰り、ふたりとも新栗のモンブランを食べることが最後の楽しみとして待っているのでした。


 左の方が新栗のモンブランで本当に栗というものは栗の精が宿っているのだと思ったほどおいしかったです。

 チカちゃん、今日は本当にありがとう。濃い長野でした。
 あまりに疲れてお風呂にも入らず寝ました!

11月13日の奇跡!ビルマの歓びのニュース!

13日は何かが起こる!私はそう予感してました。

山本宗補さんのトークのおかげで、日本のビルマ政府への軍事関与が今日のビルマの不幸の軍事体制
を招いたと知り、私たちはみなショックでアジアの国への責任を知ったのでした。

プロフィール  2010年9月更新  

山本宗補(やまもと むねすけ):1953年、長野県浅間山ろくの御代田町生まれ。
名前の「補(すけ)」の字は編集者にも「輔」に間違われることが多い。
twitterはここをクリック。   NEW
・アジアを主なフィールドとする、フリーランスのフォトジャーナリスト。
・サンディエゴ・シティカレッジ(米、1979-81年)で写真の基礎を学ぶ。
・フィリピンの先住民族であるピナトゥボ・アエタ族との出会いは、
 1991年のピナトゥボ火山噴火の取材がきっかけ。いらい、毎年のように
 アエタ族取材に通う。写真集としてまとめる予定。
・ビルマの少数民族問題、民主化闘争の取材は1988年に開始。
  アウンサンスーチー氏の4度目のインタビュー直後、秘密警察に
 身柄を拘束され、国外追放となる (1998年)。 
 ビルマ(ミャンマー)の民主化運動を支援する日本の市民組織、
 「ビルマ市民フォーラム」の運営委員。
・共同通信社が新聞協会賞(1997年度)を受賞した国際通年企画、
 「生の時・死の時」の写真担当(タイのエイズ・ホスピス、フィリピンの葬式とばく、
 インドの死者の家、ルワンダのジェノサイドなど)。
・インド仏教徒1億人のリーダーである佐々井秀嶺師の取材には定評がある。
・日本国内では「老い」と「戦争の記憶」のテーマで撮影中。人物ルポも手がける。
・日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)会員。
・琉球新報で「戦争の記憶」を連載中(2009年8月~2010年12月予定)。 NEW

著書:
「『戦地』で生きる人々」(JVJA編共著、2010年9月中旬、集英社新書) NEW

「日本行脚」佐々井秀嶺師大型写真集:44年ぶり母国日本64日間全記録
(2010年3月10日刊行、山本宗補撮影、大日如来南天鉄塔記念協会発行)
                                紹介記事(PDF)    NEW

「見えないアジアを歩く」(共著、2008年4月、三一書房) 
「また、あした -日本列島 老いの風景-」(2006年8月、アートン) 書評(PDF)   
「フォトジャーナリスト  13人の眼」(共著、2005年8月、集英社新書)
「まなざしの向こう側へ  須田治追悼集」(共著、2004年5月、オフィスエム)
「ビルマの子供たち」(写真集、2003年10月、第三書館)  書評
「世界の戦場から:フィリピン 最底辺を生きる」(2003年12月、岩波書店) 書評
「ビルマの大いなる幻影」(1996年、社会評論社)、
「ネグロス-嘆きの島(フィリピンの縮図)」(1991年、第三書館)など。

写真展(個展):
「老いの風景 日本列島縦断 お年寄り賛歌」川越展
2010年2月9日(火)~14日(日):埼玉県・川越鏡山酒造跡地

「ビルマ(ミャンマー)・チベット」・写真展とスライド&トーク
2009年11月17日~22日:国立市公民館1階ロビー
若手フォトジャーナリスト野田雅也さんとの二人展

「老いの風景・Part2」:2009年3月5日(木)~17日(火)。11日(水)休。
ギャラリー楽風(らふ),さいたま市浦和区。

「See You Tomorrow(また、あした)」:日本外国特派員協会(FCCJ):
 2008年6月1日~28日) 

「刻まれた いのちの 記憶 日本列島老いの風景」(東京都国立展:
 2007年11月20日~25日)(国立市公民館1階ロビー) 

「また、あした 日本列島老いの風景」松本市美術館展:2007年9月20日~24日

「また、あした 日本列島 老いの風景」:2007年6月24日-7月1日、
キッド・アイラック・アート・ホール(東京都世田谷区) 

「また、あした 日本列島 老いの風景」:2007年1月20日-25日、
ギャラリー島田(神戸市中央区) 
「また、あした 日本列島 老いの風景」:2006年11月8日-12月25日、
佐喜眞美術館(沖縄県、宜野湾市) 

「老いの風景・Part1」巡回展:2005年10月-12月、埼玉県越谷市、
                   長野県上田市、佐久市、御代田町
                   (日程の詳細はフォトギャラリー「老いの風景」に掲載) 
「老いの風景・Part1」:(2005年3月24日ー4月5日、さいたま市「楽風」

「ピナトゥボに還りたい(先住民アエタ族の葛藤)」
           (2002年4月、コニカプラザ・サッポロ)
           (2002年2月、コニカプラザ新宿)
「ビルマの大いなる幻影」(1997年8 月、浦和市内「楽風」)
「ビルマの大いなる幻影」(1996年7 月、コニカプラザ新宿)
            (1996年9 月、コニカギャラリー大阪)
「復活 ピナツボ・アエタ族」(1996年6 月、フィリピン・
                     マニラ市内アヤラモール)
「『アポ・ナマリヤーリの民』の受難」(1993 年6 月、銀座ニコンサロン)
「フィリピンの子供たち」(1993年4月、浦和市内「楽風」)
「Negros・嘆きの島-フィリピンの縮図」(1991年1月、ドイフォトプラザ渋谷)

(グループ展):JVJA写真展:「世界187の顔」(生命の現場から)
         2010年9月5日~16日:信濃デッサン館槐多庵    NEW

JVJA写真展2009:「世界187の顔」(生命の現場から)
         2009年11月3日~15日:キッド・アイラック・アート・ホール

         JVJA写真展&映像展2008「生命の現場から:序章」
         (2008年10月21日~26日:キッド・アイラック・アート・ホール)
         JVJA写真展「日本の報道写真家たちー世界の戦場からー」
         (11月4日~12月15日、原爆の図丸木美術館) 
          JVJA 写真展「世界の戦場から」神奈川展 
          (2006年7月22日-8月27日:あーすプラザ)
              JVJA写真展「フォトジャーナリスト13人の眼」
         (2005年9月20日-27日、キッド・アイラック・アート・ホール)
               (JVJA)写真展「世界の戦場から」広島展
          (2005年7月26日-30日、広島県民文化センター地下)
日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)写真展「世界の戦場から」
           (2004年8月21日-30日、東京都美術館)
日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)第二回写真展:「世界の戦場から」
          (2003年11-12 月3日、キッド・アイラック・アート・ホール)
日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)第一回写真展:「私が心に刻んだ写真」


 9月27日に起きた長井健司さんの射殺事件もこの映画には映っていたのです。
「この軍事政権の延命に日本政府が協力してきたことに対するビルマ人の鬱屈した憤りを、報道しようとする大手のマスメディアは無いに等しいのはどうしたことか」



◆スー・チーさん解放!7年半ぶり自宅軟禁解除
 2010.11.13 20:16 サンスポ

【シンガポール=宮野弘之】ミャンマーからの情報によると、同国の民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーさん(65)が13日、7年半ぶりに自宅軟禁から解放された。同日午後5時(日本時間同7時半)すぎ、スー・チーさんの自宅に軍政当局の車が入り、その後、自宅前に設置されたバリケードが撤去された。集まっていた支持者は自宅の敷地内に入った。ただ、軍政は外国メディアの取材は認めておらず、軟禁解除後もスー・チーさんの自由な政治活動を制限する可能性は残されている。

 ヤンゴンのインヤ湖のほとりにあるスー・チーさんの自宅周辺には幾重にもバリケードが設置されていたため、支持者らは近くの旧国民民主連盟(NLD)本部前から、自宅に通じる道路周辺に集まり、解放の知らせを待った。同日夕、バリケードが撤去されると数百人の支持者らが喜びの声を上げながら、自宅の敷地内に殺到したという。

 軍政が今回、予定通り解放を決めたのは、今月7日に行われた総選挙で、軍政の翼賛組織が衣替えした連邦団結発展党(USDP)の圧勝が確実となったことを受け、スー・チーさんを解放することにより欧米を中心とする国際社会からの批判をかわす狙いがある。

 ただ、過去21年間で通算16年近く軟禁されていたにもかかわらず、スー・チーさんに対する国民の人気は高く、軍政の計算通り、民主化勢力を今後も押さえ込むことができるかどうかは微妙だ。

 スー・チーさんは建国の父、アウン・サン将軍の長女。英国や日本などで研究活動を行っていたが、1988年に母親の看病のため帰国。ネ・ウィン政権崩壊を受け、民主化活動にかかわるようになる。91年にノーベル平和賞を受賞。2003年5月には遊説中に軍政翼賛団体に襲われ、混乱を理由に自宅軟禁された。

 昨年5月、自宅に侵入した米国人男性を無許可で滞在させたとして国家防御法違反で禁固3年の有罪判決を受け、直後に1年半の自宅軟禁に変更されていた。

 スー・チーさんは、解放後に予定している記者会見で、民主化実現に向けた活動の再開を宣言するとみられる。ただ、先の総選挙では自ら率いた旧NLDが不参加を決めただけでなく、選挙のボイコットを促したことで、参加した他の野党は票が伸びず民主化勢力の間に大きな亀裂を残した。まず民主化勢力の再構築を迫られることになる。

(転載終了)

 生年: 1945年6 月19日(65歳)
生地: British Burma 1937 flag.svg ラングーン管区ラングーン都
活動: ミャンマーの非暴力民主化運動
所属: 国民民主連盟
投獄: 自宅軟禁(現在は解除)
受賞: Nobel prize medal.svg ノーベル平和賞(1991年)
議会名誉黄金勲章(2008年)
  アウンサンスーチー(ビルマ語: AungSanSuuKyi1.png、ラテン文字転写: Aung San Suu Kyi、1945年6 月19日 - )は、ミャンマーにおける非暴力民主化運動の指導者。1991年、ノーベル平和賞受賞。

ビルマの独立運動を主導し、その達成を目前にして暗殺された「ビルマ建国の父」ことアウンサン将軍の娘。

日本での報道では「スー・チー」「スーチー女史」などと表記されることもあるが、原語では姓名の区別なく「アウンサンスーチー」と一語で表記する(# 名前の節を参照)。
目次
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* 1 来歴
* 2 名前
* 3 著書
* 4 逸話
* 5 脚注
* 6 関連項目
* 7 外部リンク

来歴 [編集]

アウンサンスーチーはビルマの首都だったラングーンに生まれた。

1960年に母親のキンチーがインド大使に着任すると、アウンサンスーチーはデリーで学ぶことになる。1962-63年にはデリー大学レディ・スリラム・カレッジで政治学を学ぶ。1964-67年にはイギリスのオックスフォード大学セント・ヒューズ・カレッジで哲学、政治学、経済学を学び、学士号を取得する。なお1990年には名誉フェローに選出された。 ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)で研究助手を務めた後、1969-71年にはニューヨークの国際連合事務局行政財政委員会で書記官補となる。

1972年にオックスフォードの後輩でチベット研究者のMichael Aris マイケル・アリス(1946-1999)と結婚し、アレキサンダーとキムの2人の息子をもうける。ブータン外務省研究員、オックスフォード大学ボーダリアン図書館の研究員を務める。その後1985-86年には京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として来日し、父アウンサン将軍についての歴史研究を進める。当時の受け入れを行ったのは、当時同センター長の石井米雄(前神田外語大学長)らである。

1988年4月、病気の母を看護するためビルマに戻る。1987年9月の高額紙幣廃止令などをきっかけに、学生を中心に始まった反政府運動(8888民主化運動)は、デモ中の学生が虐殺された同年3月以降に激化した。同年7月には1962年の軍事クーデターより独裁政治を敷いていたネ・ウィン将軍・ビルマ社会主義計画党議長が辞任した。戒厳令下では学生、市民らが大規模なデモを行った。アウンサンスーチーは8月 26日にシュエダゴン・パゴダ前集会で50万人に向け演説を行った。9月18日には国軍がクーデターを起こし、ソウ・マウン議長を首班とする軍事政権(国家法秩序回復評議会、SLORC。のちのSPDC―国家平和発展評議会)が誕生した。民主化運動は徹底的に弾圧され、数千人の犠牲者が出た。アウンサンスーチーは9月に、翌1990年に予定された選挙への参加を目指し、国民民主連盟(NLD)の結党に参加する。全国遊説を行うが、1989年7月に自宅軟禁された。国外退去を条件に自由を認めるともちかけられたが拒否したと言われる。

軍事政権は1990年5月27日に総選挙を行い、アウンサンスーチーの率いる国民民主連盟が大勝した。しかし軍政側は権力の移譲を拒否した。激しい国際的な非難を招き、アウンサンスーチーは91年にノーベル平和賞を受賞した。賞金の130万ドルはビルマ国民の健康と教育のための基金の設立に使われた。

1995年7月10日に自宅軟禁から解放される。週末に自宅前集会を行って大勢の聴衆を集めたが、最終的に軍政により中止に追い込まれる。NLDは同年11月に制憲国民会議のボイコットを決断し、軍政は、対抗措置として同党側委員を除名した。会議は事実上休眠状態となる(2003年に再開)。

NLDは1996年5月、アウンサンスーチー釈放以後初の党大会を計画したが、軍政側は国会議員235人を拘束する弾圧策に出た。軍政はアウンサンスーチーにヤンゴン外への移動を禁止していた。アウンサンスーチー側は1996年と 1998年にこれに抵抗したが、いずれも妨害された。NLDは1998年9月、国会招集要求を無視した軍政に対抗し、アウンサンスーチーら議員10人で構成する国会代表者委員会(CRPP)を発足させる。

1999年3月、夫マイケル・アリスが前立腺がんで死亡。ビルマ入国を求めたアリスの再三の要請を軍政は拒否した。再入国拒否の可能性があるアウンサンスーチーは出国できず、夫妻は再会することができなかった。

2000年8月24日、ダラーのNLD青年部への訪問を再び阻止される。抗議の篭城を行うが、9月2日に首都ヤンゴンに強制送還された。同月22日にマンダレー行きを試みたが、再度拘束され、翌22日から再度自宅軟禁された。同10月から、ラザリ国連事務総長特使らが仲介し、アウンサンスーチーと軍政との間で国民和解対話に向けた前段交渉が始まった。2002年5 月6日に自宅軟禁は解除される。その後NLDの党組織再建のため、各地を遊説し、訪問先で熱狂的な歓迎を受ける。2002年5月14日、アウンサンスーチーと久米宏が5分間の電話対談を行い、録音した音声がテレビ朝日系列の「ニュースステーション」で放送された。2003年5月30日、ビルマ北部を遊説中に軍政による計画的な襲撃に遭い、活動家や支援者に多数の死傷者と逮捕者が出た。襲撃の責任者が現首相のソー・ウィン中将とされる。その後は軍施設に連行され、三度目の軟禁状態に置かれる。外部からの訪問はほぼ完全にシャットアウトされた。同年9月に手術入院した後は自宅に移され、自宅軟禁状態となる。

2007年9月23日、仏教僧侶らの反政府デモが広がるのに伴い、軟禁先を自宅からインセイン刑務所に移されたとの情報がある。9月30日、ミャンマーを訪れたイブラヒム・ガンバリ国連事務総長特別顧問と1時間にわたり会談した。

2008年4月、アメリカにて議会名誉黄金勲章授与法案可決。同年5月10日に軍事政権が信任選挙を強行した新憲法草案では、当初「配偶者および子供が外国人、もしくは外国の市民権を有する国民には選挙権を認めない」との条項があり、前夫が外国人のアウンサンスーチーの被選挙権を事実上剥奪していた。しかし、諸外国の抗議もあり、軍事政府はこの条項は撤回。同月23日、アウンサンスーチーは事前投票したと伝えられた。

2009年5月、アメリカ人の男が自宅に侵入したのが軟禁条件違反に当たるとして、「国家転覆防御法」違反の罪で起訴される。5月18日、ヤンゴン市・インセイン刑務所内の裁判所で裁判が始まった。規定では有罪なら禁固3-5年が科せられる。自宅軟禁の最長期限は6年であるから、同月末を迎えると軟禁が解かれる予定だった。同日、スー・チー率いる野党・国民民主連盟(NLD)が刑務所周辺で抗議行動を行った。17日の前日には、ニコール・キッドマン、ブラッド・ピット、デビッド・ベッカムら著名人44人が、アウンサンスーチーの訴追に反対し、解放を求める共同声明を発表した。26日午前、タン・シュエをトップとする軍事政権は軟禁期限は同年11月との声明を出し、アウンサンスーチーと弁護士にも軟禁解除を伝えた。その上で8月11日、国家転覆の罪で禁固3年の実刑を言い渡し、直後に執行猶予と1年6か月分の特赦を付けて再度の軟禁状態に置いた。侵入者のアメリカ人は禁固7年の実刑判決を受けた。

2010 年1月21日、軍事政権のマウン・ウ内相が地方の会合でアウンサンスーチーについて「軟禁期限となる11月に解放される」と述べていたことが分かった。また、同内相は、最大野党国民民主連盟 (NLD) のティン・ウ副議長も2月に釈放されると語った[1]。 11月13日、予定通りに軟禁を解除された[2]。
名前 [編集]

アウンサンスーチーの名前は、父親の名前(アウンサン)に、父方の祖母の名前(スー)と母親の名前(キンチー)から一音節ずつ取って、付けられたものである。

ミャンマーに住むビルマ民族は性別に関係なく姓を持たない。アウンサンスーチーの「アウンサン」も姓や父姓ではなく、個人名の一部分に過ぎない。彼女の名前は「アウンサンスーチー」で、原語では分割することはない。したがって、彼女のことを「スー・チー」「スーチー」などと呼ぶのは実は誤りとなる。ただし日本の新聞や報道などでは便宜上短い表記を使うことがほとんどとなっている。

なお年配の女性につける「女史」に相当する敬称「ドー」(Daw) をつけて「ドー・アウンサンスーチー」ということはある。
著書 [編集]

* 『ビルマからの手紙』 アウンサンスーチー 著、土佐桂子・永井浩 共訳、毎日新聞社、1996年12月 ISBN 978-4-620-31147-0 (毎日新聞・Mainichi Daily Newsでの連載を単行本化)
* 『アウンサンスーチー演説集』 アウンサンスーチー 著、伊野憲治 編訳、みすず書房

逸話 [編集]

* アウンサンスーチーがいつも髪に差している鮮やかな花の髪飾りは、再会することなく死別した英国人の夫とかつて誕生日に贈りあった品種。彼女にとってこれをつけることが無言の抵抗の証となった。


脚注 [編集]

1. ^ スー・チーさん「11月に解放」=ミャンマー内相が発言 2010年1月25日  時事通信]
2. ^ “スー・チーさん解放、7年半ぶり自由に” (日本語). 読売新聞. (2010-11-13). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20101113-OYT1T00657.htm 2010年11月13日閲覧。

関連項目 [編集]

* オックスフォード大学の人物一覧

外部リンク [編集]

* ノーベル平和賞受賞のプレス・リリース(英語)
* アウンサンスーチー氏の経歴
* アウンサンスーチー氏の写真(山本宗補撮影)
* 京都精華大学「自由へのメッセージ」インタビュー

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表・話・編・歴
ノーベル賞 ノーベル平和賞受賞者

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7年半ぶりの軟禁解放(朝日新聞)



【バンコク=古田大輔】ミャンマー(ビルマ)軍事政権は13日、民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーさん(65)の自宅軟禁を解除した。スー・チーさんの解放は3度目の拘束が始まった2003年5月以来、約7年半ぶり。今も国民に高い人気があるスー・チーさんは、民主化運動を再開するとみられる。

 軟禁は解除したものの、スー・チーさんが総選挙の無効や民主化勢力の結集などを呼びかけ、その影響力が強まれば、軍政が4度目の拘束に踏み切る恐れもある。

 この日午後5時(日本時間同7時半)過ぎ、ヤンゴンの自宅前の道路を封鎖していたバリケードが軍政当局によって撤去された。解放を待っていた多数の支持者らが歓声をあげて一斉に敷地内に入った。スー・チーさんはその後、建物から出てきて群衆に笑顔で手を振った。ロイター通信によると、スー・チーさんは「私たちは目標に向かって力を合わせていかなければならない」と語った。また、14日に自身が率いる国民民主連盟(NLD)本部で演説する考えを支持者に伝えた。

 スー・チーさんは自宅軟禁中だった昨年5月に米国人を自宅に滞在させたことが国家防御法違反に問われ、禁固3年の有罪判決を受けた。その後軍政はこれを1年6カ月の自宅軟禁に減刑し、その期限が13日とされていた。

 スー・チーさんの弁護士によると、スー・チーさんは解放後はいかなる行動の制限も受け入れない意向を表明。NLDは7日投票の総選挙をボイコットして政党としては解党処分を受けたが、選挙での軍政側の不正疑惑に関する証拠収集を進ており、スー・チーさんを先頭に選挙の無効を訴える運動などを計画しているという。

 軍政は、前回総選挙(1990年)の前年にスー・チーさんを自宅軟禁下に置いたが、選挙ではNLDが圧勝。軍政は政権移譲を拒否し、スー・チーさんを国民から遠ざけるため、以後21年間で計15年間、スー・チーさんの行動の自由を奪ってきた。

 軍政が今回スー・チーさんを解放したのは、裁判で決まった軟禁期限が切れたことに加え、20年ぶりの総選挙を軍政に有利なかたちで乗り切ったことが背景にあるとみられる。ただ、スー・チーさんに自由な活動を認めれば、反軍政運動が広がる可能性が高く、軍政は神経をとがらせている。

    ◇

 〈アウン・サン・スー・チーさん〉「ビルマ独立の父」と敬愛される故アウン・サン将軍の長女。インドや英国で政治学などを学び、1985年には京都大学東南アジア研究センターの客員研究員を務めた。母親の看病で帰国した88年、民主化を求める大規模な学生デモと激しい武力弾圧を目の当たりにして国民の前で初めて演説。民主化運動の象徴となった。同年、90年総選挙に向けて国民民主連盟(NLD)を創設し、書記長に就いた。その後、繰り返し軍政によって拘束、軟禁された。91年、ノーベル平和賞を受賞。英国人学者の夫(99年病没)との間に2人の息子がいる。



今日はこの本をしっかり読みましょう!

寒いけれどコンピュータ―を使いにロッジに来てます!

これは12日夜の夕食です。チャーシューとラーメンと焼き豚の賞味期限が13日か14日だったのでおネギを切ってラーメンです。

ストーブの薪も昨年の分がこれで終わりです。
箱根のポーラ美術館で買った天使ローソクもいい感じです。


とにかく食料はなるべく捨てないように食べてます。

11月14日(日)晴れ。
昨日、疲れて入らなかったお風呂に入りました。
洗濯ものを洗って干して、お庭で朝食です。
シチューは最後のシチューです。そして、昨日買ったシュー栗クリームをコーヒーと一緒に戴きました。

お昼用にスコーンと小さな魔法瓶に温かいライチ茶とバナナとミカンを持ってロッジまできました。

この格好に暖かいコートを着て来ているのですが、とにかく暖房が無いのでここが死にそうに寒いです。




電話してきたので、ドアは開いていたのですが、誰もいません。

熊の案内が!



ここに3時間くらいいますが、体がかなり固まってきましたのでもう帰ります。
生協が来るので、冷凍ものを冷凍庫にいれなければいけないので水曜日まではいます。

希望!


スーチーさんの自宅前の道路を清掃する支持者ら(AP)

スー・チーさん「行動に条件なし」 政治犯釈放手続き開始 午後に記者会見
2010.11.14 12:13
14日、スーチーさんの自宅前の道路を清掃する支持者ら(AP)14日、スーチーさんの自宅前の道路を清掃する支持者ら(AP)

 【シンガポール=宮野弘之】ミャンマーからの情報では同国の民主化運動指導者、アウン・サン・スー・チーさんの弁護士は14日、今回の釈放にあたり、軍政側からスー・チーさんに対し、行動や発言について何の条件もついていないことを明らかにした。

 一方、軍政は残る2200人ともされる政治犯についても、釈放する手続きを始めた。政治犯の家族に手続きを始めたことを知らせる通知が届いたという。具体的な人数や日時は不明だ。

 スー・チーさんは14日午後1時(日本時間3時半)から、国民民主連盟(NLD)本部の事務所で記者会見を開く。この席でスー・チーさんは7年半にわたる軟禁生活や、今月7日に行われた総選挙結果について話すものとみられる。

 スー・チーさんは13日夕の解放直後、自宅前で詰めかけた支持者らに対し、「みなさんありがとう。これからやらなければならないことが沢山ある。私たちが共に働けば目的は達成できる」などと述べたが、「民主化」や軍政批判は口にしていない。

 スー・チーさんは13日深夜までNLD幹部と会談したが、その席で今後の対応を協議したとみられる。ただ、NLDは先の選挙にあたって政党登録をせず、すでに政党活動は禁止されている。スー・チーさんの発言そのものを規制しなくても、NLD本部で、軍政批判や選挙批判などを展開した場合、違法と見なされる可能性もある。
このニュースの写真
14日、スーチーさんの自宅前の道路を清掃する支持者ら(AP)
13日、軟禁から解放され、門に立って支持者らに語りかけるアウン・サン・スー・チーさん (AP)

オバマ大統領、戦略兵器削減に決意表明 米ロ首脳会談

2010年11月14日14時 28分

 オバマ米大統領とロシアのメドベージェフ大統領は14日午前、横浜市内で会談した。オバマ氏は、先の米中間選挙での与党・民主党の大敗で不透明感が出ていた米ロの新戦略兵器削減条約(新START)の批准について「外交の最重要課題」と言明し、年内に実現する決意を表明した。

 オバマ氏は会談後、記者団に対し、来年1月に新議員への交代で民主党の議席が減る前に、STARTの批准を「成し遂げる決意を強調した」と述べた。メドベージェフ氏は、ロシアの世界貿易機関(WTO)加盟に向けた米国の支援に謝意を示し、「作業を続けて速やかに加盟をしたい」と語った。

 米政府高官によると、オバマ氏は、上院での批准に向けた議会幹部との調整状況を説明し、年内批准を最優先して取り組む考えを強調。両首脳は、早期発効に向けて協力することを確認した。

 また、メドベージェフ氏は、来週リスボンで行う北大西洋条約機構(NATO)との首脳会議で、NATOとの関係を「リセット」する意欲を表明。欧州のミサイル防衛(MD)やアフガニスタン問題で議論を深めることでも一致した。(村山祐介)

「おひとり妻」と60代の孤独死の男たち!

AERAを読んでいたら、「おひとり妻」という言葉が出てきた。
そんなことばがあるようだ。

妻は別に不満が無くても一人になりたい時間があって、朝早く会社で出る前にひとりで外食したり、一人で家族と夕食を断り外食したりするという。

「ただトモ夫婦」という言葉もあって、20代30代に若い夫婦はさっぱりとした夫婦関係を築いていると言う。男女同権時代に育った家族が自然にそうなったという理解があるらしい。

☆一方、妻に先立たれたり、別離したり、一人で生きてきた男性が「まさか!」という家事能力のなさで一人、個室で死んでいたりすると言う。

 私たち夫婦も60を超えて、小学校の隣の席という環境から出発しているので、おじさん、おばさんながら「たたトモ夫婦」であり、一人になりたいと言う孤独癖の私は「ひとり妻」状態に関してはかなりの筋金入り。

 主人も東京へ帰るたびに家事能力がついて、自分の洗濯物を畳む、アイロンかけをするほかに、簡単な食事もできるようになり、いくらか家の中も落ち着いてきた。

 「孤舟」と「おひとりさまのその後、男性編」の本を置いて言ったかいがあったのか?

☆人間はわがままなもんだと思う。
 そして、その欲望は矛盾もするようだ。

 「ひとりになりたい。」タイプの女性も婚活はする。
 男性の4分の1は収入のおかげで(400万円の年収が無いと結婚は難しいそうだ)、結婚しないと言う。

 逆に、早めにそう制定すれば家事なども早めにマスターできるかもしれない。

☆私と妹の姉妹も母親から「結婚ほど馬鹿馬鹿しいものは無いので、無理してするものではない。」と家事などまるで習わないで成長した。

 末の弟はそれを観ていて、「親は2人に結婚させる気はなかったのだと思う。」という

 妹の著作に「飼い猫に捧げる」と前が気にあるので、人間との関係が下手なのだと言う
そして、それは親の教育の失敗だと言う。


 誰でも完全ではない。
 親だって。
 もっとひどい親だっている。
 女を作ってでていったわけでもないし、倒産して一家離散をしたわけではない。

 だからうちの親に対する不満はない。

 「人間は自由なのよ。
  親に逆らったって良かったのよ。」

 「親に従順で、今になって後悔しているのではないか?」と末の弟は姉である妹の心配をする。

 彼女が脳こうそくで倒れた時に、私の娘も「かわいそう。猫しかしない。」といった。

 そんなことは覚悟しているはず。

 私だって、長野かパリで(そう願います)、孤独死するかもしれない。

 でも、それは選んだものだもの。

☆娘は幸福であってほしい。

 でも、親にできることは少し。

 自分で耕して幸福になるのよ!

 それには、孤独もいいレッスンだし、何かを得るために何かを捨てるのはいつも試されている人生には必須のこと。

「ビルマJV」を観てね!

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ビルマVJ 消された革命
Burma VJ: Reporter i et lukket land
監督 アンドレス・オステルガールド
製作 リーゼ・レンゼー=ミュラー
脚本 アンドレス・オステルガールド
ヤン・クログスガード
編集 ヤヌス・ビレスコフ=ヤンセン
配給 日本の旗 東風
公開 デンマークの旗 2008年
日本の旗 2010年5 月15日
上映時間 84分
製作国 デンマークの旗 デンマーク
言語 英語
ビルマ語
興行収入 $123,477[1]
allcinema
キネマ旬報
allmovie
IMDb
表・話・編・歴

『ビルマVJ 消された革命』(丁: Burma VJ: Reporter i et lukket land)は、2008年のデンマーク映画。タイトルのVJはビデオ・ジャーナリストの略である。
目次
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* 1 概要
* 2 評価
* 3 脚注
* 4 関連項目
* 5 外部リンク

概要 [編集]

2007 年にミャンマー(ビルマ)で起こった反政府デモを報道するために命がけで潜入したジャーナリストたちの姿を描く、ドキュメンタリーである。
評価 [編集]

サンダンス映画祭やベルリン国際映画祭など多数の映画祭で上映され、好評を得た。

第82回アカデミー賞では長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。
脚注 [編集]

1. ^ “Burma VJ (2009)” (英語). Box Office Mojo. 2010年4月26日閲覧。

関連項目 [編集]

* 2007年ミャンマー反政府デモ
* 長井健司 - 取材中にミャンマー軍から射殺された日本人ジャーナリスト。本作でも触れられている。
* 民主ビルマの声 - 報道規制の厳しいミャンマーでの出来事を放送する地下放送。

外部リンク [編集]
UPLINK X 『総選挙で揺れるビルマ潜入ドキュメンタリー上映』(11/13-19)の中で上映 上映日11/14,16,17,19 連日15:00〜
  http://www.uplink.co.jp/ TEL:03-6825-5503
大阪府