September 7th, 2011

神の沈黙の意味!

 日本の世界遺産のひとつ熊野が台風で壊れた。

 神道の神さ間を、神様は護ってくださらないのか?

☆酷い未来ある子供たちが台風による洪水で流された。

 若く美しい乙女たちを、お母さんになるのを不安にさせた福島原発の事故。

 どうして、こんなに罪のない人に、耐え難い苦しみを与えるのを神はお赦しになったのか?



☆旧約聖書の神は、よく人間に声をかけられた。

 それで、人間は自分を悔い改めることも、神との約束を信じることもできやすかった。

 では、21世紀には、神は人間に話しかけられなくなったのか?

 いいえ。

 神は話しかけられているのだ。

 あらゆるメッセージは来ているのだ。

 心が曇ってなければ読みとれ、聞き取れ、どう生きたらいいかわかりやすく神は教えているのだ。

☆自然界のものは奇麗なシンメトリの葉が出るという。

 そういう風にまっすぐに、美しく、神様はお創りになったのだ。

 現在も、神のインスピレーションをいただいたアーティストの創る作品には神のメッセージが描かれている。

☆私は優秀な映画を観て、神が語りかけているのを知る。

 スペインのバロセロナで創られた「Biutiful」の映画に神は話しているではないか?

 メキシコ生まれの監督が大都市バロセロナの底辺で生きるマイノリティたちの生き方の中に、

 忘れられた異国の貧しい人の中に、

 神はメッセージを載せている。

 あの「Welcome」の中でも、亡命してきたイラクの青年が夢見たロンドンでサッカーをする夢や恋人に会う夢もドーバー海峡を泳議きれず、果ててしまう。

 マイノリティの人々に課す、あまりにも不公平な干渉。

 そんなことを人間の思い上がった傲慢は平気でしているのだ!

 マイノリティの人はどこの国でもいる。

 そして、鈍感な差別や不公平が一生を厳しいものにする。

☆お笑い芸人がヤクザとの交際を認めて、引退した。

 私はその傲慢なやり手の芸能人を好きではなかったが、

 その青年が「三流大学出だから、漫才で勝とうと思って努力した。漫才で勝てたから、今度はお金儲けでも勝とうとした。」と言っていたということに、ある悲しみをもった。

 そうなのだ。

 生まれながらに名門や恵まれた環境にいない者には、

 人間の世の中は容赦なく生きる場を限定させる。

 誰が本当の悪人かといったら、そういう風に人間に不平等を創ってしまった神の沈黙が不可解だ。

☆でも、
 
 と私は思う。

 本物の歌は、決して苦しみを知らない名門のお嬢様や生まれながらの与えられた才能だけでは歌えない。

 美空ひばり

 ピアフ

 どん底で最下位に暮らす人たちの流す涙をくぐって、人を癒し、救いとなる太陽にも☆にもなれるのだ。

 ビートたけし

 三輪明宏

 蔑まれた性や生い立ちの貧しさが

 ヤクザにさえも妙に理解ある

 人心の機微を感じる人に育つのだ。

☆人は鈍感であってはならない。

 人は哀しみを知ったほうがいい。

 人はそして、できれば多く愛せるほうがいい。

☆神の沈黙にはそんな深い人間の成熟への期待がある。

 子を失っても、魂は永遠。

 子は使命を終えて、天国に帰ったのだ。

 子を失った親は、他人の辛さに少し近づくことができる。

 子が産めない親は、成長すれば他人の産んだ子にほほ笑みを放ち

 自分の子のように愛することができるかもしれない。

 それは、あまりにも人間の本性からあり得ないことで、

 なさぬ子を苛め、苦しめ、死なせた親が世間に知られた。

 誰でも簡単にできないからこそ、

 自分の子と同じように愛することができたら、

 そんなに神様の通信簿に5が並ぶだろうか?

☆私たちは大きな成熟を期待されて、物を失い、肉親と離れ、愛する大地をも海をも汚された試練を迎えた。

 もはや、個人レベルの努力では生きることすら不可能な試練だ。

 国を復興するには

 幼い感傷や単なるヒロイズムでは無理だ。

 より聡明に人間を知ることだ。

 人間は被災地で義捐金でパチンコをして憂さを晴らし、パチンコ店はどこでも大繁盛だという。

 ある人は「そんなことに義捐金を使うなんて!」と怒り。

 ある人は「そんな憂さ晴らしも必要だ。」と理解する。

 美容師のボランティアできれいに化粧をされて、喜ぶ女性も自然だ。

 私は素敵なものを着て、御洒落を楽しめばいいと思う。

 今日、見た被災地の福島、飯館村の村長さんの明るさ。彼を包む村人の屈託のない笑い顔。

 凄い!人間ってとてつもなく凄い。

 そんな風になることを神は沈黙しながら期待をしたかもしれない。

☆復興とは前よりも素晴らしい理想に近い形になること。

 それでも、しょげたり、やる気の無くなった人を責めたりはしない。

 立ち上がるのを神にまねて、沈黙して見守っていればいい。

☆☆☆
 輝ける大地。
 粘土でも何かを創るときには捏ねるのだ。

 捏ねて、捏ねて、混ぜて、混ぜて

 新しいものが生まれる土ができる。

 もうすぐ至福の時代が始まる。

 誰でもが幸せに輝き
 もはや、だれをいじめようとか虐げようとか奴隷にしようなどと考える人がいない

 完全な理想郷が生まれる。

 その理想郷に一緒に立ちたいものだ。

東京自宅の平穏!

 主人は「ところで、娘は生きてるんだろうか?」と訊く。

 「この間、電話したから生きてるわよ。明日は仙台に行って、被災グッズと靴を持って行ってあげる。」

 「今日は、いい天気ですよ。」と出勤前の主人。

☆昨晩は洗濯ものを干し、いつも主人のアームチェアに上にかかっているシーツを洗いながら、買ってきたばかりの本を読み終えた。

内容紹介
難病女子による、画期的エンタメ闘病記!

ビルマ難民を研究していた大学院生女子が、ある日とつぜん原因不明の難病を発症。自らが「難民」となり、日本社会をサバイブするはめになる。
知性とユーモアがほとばしる、命がけエッセイ!!


【推薦のことば】

究極のエンタメ・ノンフィクション。今困ってるすべての人に読んでほしい。
──高野秀行(作家)

想像を絶する難病者の日常なのに、ここに書かれているのはあなたや私の姿だ。この現代の「神曲」に、私はいくども救われ続ける。          
──星野智幸(作家)

著者が本書を通して、現代日本社会に刻み続けているのは、絶望の淵にあっても、すべてを肯定してみせる「世界観」である。
──清水康之(自殺対策支援センターライフリンク代表)

みんなでこの本を本気で売りましょう。そのぶんだけ、この社会が豊かになりますから。そういう力のある本です。                
──荻上チキ(評論家)
内容(「BOOK」データベースより)
ある日、原因不明の難病を発症した、大学院生女子の、冒険、恋、闘い―。知性とユーモアがほとばしる、命がけエッセイ。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
大野 更紗
1984年、福島県生まれ。上智大学外国語学部フランス語学科卒。上智大学大学院グローバルスタディーズ研究科地域研究専攻博士前期課程休学中。学部在学中にビルマ(ミャンマー)難民に出会い、民主化運動や人権問題に関心を抱き研究、NGOでの活動に没頭。大学院に進学した2008年、自己免疫疾患系の難病を発病する。1年間の検査期間、9か月間の入院治療を経て、現在も都内某所で生存中(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

☆私の娘と同じ年だ。
 福島生まれの御勉強好きなお嬢さん。
 フランス語科に進むものの、アジアの難民を知り、NGO活動。
 あまりの過労も助けて、難病を発症。
 この更紗ちゃんは、その名の示すようにアジアの普通の生活を自然に体験し、タフで健気に動きつつも、とんでもない難病にかかる。
 しかし、ほとんど体が動かないまま、ミャンマーには入れなければ(NGO運動をしてるので国には入れない)、その周辺に入り、医療機関に体を拘束されながらもその熱い思いと、健康な若い日の恋にも燃える。

 若い娘さんたちって、すごい!
 こんなに過酷な環境の中でも、ほとばしる情熱を学問や奉仕や命に捧げられる!

☆世界の動きはめまぐるしい!
 カダフィ政権も崩壊寸前。
 国際社会を視野に入れる若者たちの研究は、アジアに向かうのはとても健全だ!

 私たちは白人でもないし、ヨーロッパやアメリカに旅行に行っても、祖国はアジアの一部の島国「日本」。

 自分をごまかして、リッチなバブルの中にいた日本人は、ヨーロッパのブランドに包まれ、アメリカの車社会や家電に囲まれた生活を夢見て頑張ってきた。

☆戦争が生まれて、私も主人も生まれた。
 ベビーブーマーだ。
 
 主人の家は、2階をアメリカ人ファミリーに貸していた。
 姑はアメリカン・ライブラリーで働き、
 私の叔母はアメリカ領事館を経て、アメリカ大使館で働いていた。

 父も母も終戦を経て、中国大陸で中国語の通訳をしていた父と小学校の教師として学童疎開で岐阜の養老の滝に赴任していた母は一生懸命働いた。

 父の家は名古屋の呉服問屋。
 母は大学の家政科(プロテスタントの女子大)を出ていたので、染の技術を知っていた。

 親から独立して、名古屋の桜木町の2階建ての1階が店舗で、2階が自宅の新居で20代後半だった父と戦争ではしょおり卒業をした22、3の母は夢に溢れ、呉服の小売業を始めた。

 毎日毎日、まっ白い布に、絞りや芋判(信じられないことだが、これで模様をつけたという)で、柄をつけて、物質のないころだったせいか、飛ぶように売れたそうだ。

 「毎晩、売り上げを数えるのが楽しくてね。」と母は言っていた。

 「今は世間でいう豪邸に住んで、子供も独立して楽だけど、あのなにもない真っ白から、パパと二人で毎日一生懸命に働いて、あなたが生まれた頃が一番幸せだった!」

☆戦争が終わって、努力すればいい暮らしができる!
 子供たちに教育をしっかりつけて、好きなことをして生きていかれるように育てよう!
 そのために、私たちはしっかり働こうね!

 東京に出てきた父は、過労で寝たきりになり、幼稚園に行く前の年齢だった私と上の弟は、父の介護に明け暮れる母の邪魔になるというので、母の実家に預けられた。

 虐待されたわけではないが、二人があまりにも痩せて帰ってきたので、2度と預けるのはよそうと思ったという。半年くらい。

☆人間は判断力が大事で戦地を無事生きてきた父は、中国語を駆使して、仲間の日本人のために食糧調達も要領よくできたひと。凄いハンサムでいつも写真館に出征の時の姿写真が飾ってあったほどなので、中国でももてたらしく、終戦後、日本に帰るのは嫌だ。ここに残ると言ったらしい。それで、同僚たちが「ひと先ず、日本に帰ろう。」と諭したという。それで、父の夢は中国と日本の貿易をする商人になることだった。そのための資金稼ぎにいろいろ頑張ったそうだ。

 母もしたたかなタイプで、軍人の家のおばさんに結婚前に家事手伝いとして横浜にいたときに何か学んだらしく、とにかく、目ざとく父を見つけ(といっても幼馴染で子供のころから知っていた、いとこの友人とか)、ともに迷うことなく直進に進んできた。

 こどもも女、男、女、男と4人。
 自宅の車は、アメリカのベビーフォード。
 日本の高度成長と足並みそろえて次々と家電が増えていた。
 それも、大型のアメリカ製品が多かった。

☆小学校に行く頃には、家は普通に落ち着いていて、アメリカ領事館に勤める母の姉がアメリカ製のいろいろな絵本やお菓子などを常に持ちこんできてくれた。

 小学校教師をしていた母の将来の展望は、それなりに評価できて、
「世界の国歌」のレコードや、どういうわけか「一茶のおじさん」の童謡があった。

 「一茶のおじさん、一茶のおじさん、
 あなたのお家はどこですか?

 信州信濃の山奥の
 そのまた奥の
 一軒家
 雀とお話しているの。

 我と来て
 遊べや親のない雀。」
 
その碑は一茶記念館で近日見つけた。
不思議な縁で今は、その信濃に住んでいる。

☆私は日本舞踊を習っていて、週に3度、歩いて5分くらいの花柳流の稽古場に、自分で浴衣を着て通っていた。
 その頃、住んでいた家は高校3年まで住んでいたのだが、お能の役者が建てた家で、純粋の日本家屋で平屋だった。庭は260坪あって、空池を中心に日本庭園でこだわりでできていた。

 右奥の小高い所に東屋。
 そこにたどり着くまでは栗林。
 そして、小さな柔らかい坂に一面は石垣苺を植えられていた。

 空池には灯篭が2つほどあって、美意識で造園で、空池に菖蒲やアヤメや梔子が植えられていた。

 空池に遠方には、梨棚があって、20世紀と普通の茶色の梨の木が1本づつ、植えられていた。チャンと大きな実もなった。

 左手には桃の木1本と、大きな枇杷の木があって、左手の広い空地のようになっていて、車の駐車場の延長として車が幾台もとめられるようになっていた。

☆そんな完璧な日本庭園に4人の子連れの私の母は、平たいところを芝生にして、右側の手前にはデージーや三色すみれの咲く花壇にしたラッパ水仙やヒヤシンス、チューリップ。母は末の妹を抱いて、次に生れた末の弟を抱いて、幸せだったと思う。

 芝生のアリアには、ブランコも設置した。左右に2人づつ座れるようになっている体をゆすって、4人ぐらいで乗れる家庭ブランコである。もう1台は、ふつうのブランコで一人乗りがあったように思う。左の大きな枇杷の木のほうだ。その横にイチジクの木もあった。

 花木もボケや梅の木があった。1年中に実のなるように植えた能役者の試みだという。

☆主人はそのころ小学校の隣の席で毎日、自宅に弟を連れて通っていた。
「こどもの喜ぶものがたくさんあったからねえ。」

 父は狩猟の趣味があって、ポインター犬を飼っていた。
 メリーさんにローリーさん。

 ガレージの中には卓球台があって、近所の子供たちというよりは、弟の同級生や妹の同級生(幼稚園だったが)自宅には皆来ていて、私も日舞の稽古から帰ってくると主人やその弟が犬小屋から顔を出しても、なにも疑問にも持たなかった。

 今、思うと、本当に幸せな子供時代だったと思う。

☆私たち夫婦はそのころからの知り合いなので、お祭りで雉の宮神社で踊りの奉納をすると、主人が海軍軍人だった祖父と一緒に見に来てくれたそうだが、そんな平凡な公立小学校で地元で普通に暮らしていたのが私である。

 主人の家はスペイン風のレンガのおうちで手作りのステンドグラスがあって、日本家屋に住んでいた私には夢のお屋敷に思えた。
事実、結婚した時もその家はあって、通りががる人が「素敵ねえ。」というほど素敵な家だったのである。

 そこに行くと、ハイカラなママが、手作りのバラが乗っていて、銀の玉が載っているチョコレートのデコレーションケーキが誕生日に出てきた。

 家にある軍艦の模型も、やはり池があった庭も懐かしい。
 日本犬が飼われていて、池には当たり前だが水が入っていた。

☆そんな夢のような生活が、わたしの転校と世の流れで塾通いが始まって変わっていった。
路地で石けりをして、夕方まで遊んでいた生活。主人の自転車は大人用でその後ろの席に乗せてもらっていた私の生活が急に変化したのだった。

 越境が半分の港区の受験公立。狭い校舎と屋上に遊び、1学年8クラスもあった公立小学校に5年の秋に転校してから。

☆競争社会の始まりだった。
 素朴な前の学校は土でできた校庭で、タンポポやレンゲのある広大な敷地があって、みなノンビリ。いじめもなければ競争もなかった。

 しかし、転校生故か、いじめが始まった。
 5,6人で待ち伏せして男の子がいじめる。

 また、女の子もちょっとした小物や衣服に嫉妬をするようないじめがあって、小さくなっていたもののなんだか急に別世界に入っていったようだった。

 6年生の2学期から、その辺で有名な塾に通った。毎日、お弁当を持って学校帰りによって(都電で2駅位)
10時くらいかな?毎日あったのだ。日曜日は大塚進学とかで模擬テストがあった。

 それが結構楽しくて、ずいぶん遠くから通っている子がいて、帰りは目黒駅まで都電で一緒に帰るのだ。小さな日本間2つをふすまを取って、長い机にびっしりと並んで子供が50人くらいはいたのかな?

 とにかく、その塾に入るのが大変で、根性のある母親は日参したのだった。

 毎日曜のテストの結果が日本の例えば5000人の何位を言う順位が出てくるので、結果が見え安く面白かった。

 私は特別ではなくて、普通だったと思うが、それでも塾全体の水準が高いので模擬テストに行くと2ケタ位に入ってしまう。

☆そうして、いい加減ながらも志望校に入った。
 ベビー・ブーマーの子どもだったので、結構受験は厳しかった。しかし、受験塾がその頃、ようやく出来たころでもあった。

☆あこがれの制服を着て、女学校に通ったのだが、住んでいた家は一緒だったので、同じ公立だった友人や元小学校の先生にも駅まで歩く10分くらいの間に会うのだ。

 特別なエリート校でもない私学だが、制服が目立つある後ろめたさが生まれてきたのがそのころだった。

 「どうして、私立は全員いれてあげないの?」

 落ちた人と受かった人がいる。
 そして、制服着て、落ちた人の前を通る辛さ。

 私は格差というか?
 生まれながらの生きる道の差のようなものに苦しみ始めて
 勉強に励むことはなくなった。

 母親も次の子供の受験のほうが男の子なので、手を抜けず、私の気持などは考えもしなかっただろう。

☆それから大学受験を始める高校3年生の秋の11月まで、暗雲の中にいた。

☆私学の小学校から上がってきた子どもたちはまた別世界で、独特の豊かな空気を持つものだったが、この学校は大学がついてなかったので、やはり受験を意識してしっかり勉強する半分の生徒がいたのだった。

 私の親は名古屋だったせいか、女の子は短大にいいという考え方の持ち主で、「勉強なんかしなくてもいい。それよりは家事を。」みたいな価値観だった。母親は家政科を出ていたので、英文科を出ていた姉にライバル意識を持ち、常に「勉強なんかできるよりは、女の子は結婚して子供を産み、幸福な家庭生活をするのを一番。」と言っていた。

 六本木がおしゃれな街として名があったころ、せいぜい学校帰りに六本木や青山であんみつを食べたりするくらいの不良だったのだが、おしゃれな同級生の何人かは非常にませていたように思う。

☆父親も母親も舶来のものが好きでアメ横に買い物に行っていたりしていたので、学校ではやはり、なんとなく垢ぬけた方のグループに入っていたのだろうか?

 しかし、素朴すぎた私の鈍感さに今は呆れるが、小学校から上がってきた人の中に家庭的に壊れた人が幾人かがいて、私はその陥れにはまってしまう。

 離婚家庭や、私生児の生まれの人が、どんな思いで私を壊すことを考えていたかは想像もできなかった。

 私は容姿も普通。お勉強も普通。家柄も普通で、私は私なんかを羨む人がいるのは想像もできなかったのであった。

 その中に何人かが組んで、他校の男子学生に私の家のお風呂を覗かせるような嗾けをしたのだった。

☆それが、騒ぎになって、その生徒が自殺未遂をして、私はすっかり目が覚めたのだ。
 のんびりしててはいけないんだ!

 自分は本当に何をすべきか?

 自分はもう、親の思うように鈍感でおっとりとは生きてはいけない。

 それで、受験まで2カ月という時間帯に、「美術学校に行きたい。」と両親に訴えて、毎日曜日に受験用のデッサン教室に通って女子美術に入った。これも、平凡な考えの両親が「男女共学はダメ。油絵も日本画も彫刻もダメ。デザイン科に限って受験を許す。大学ならいいが、短大だったら、今までの学校の付属の短大に行くこと。」という条件で、それしかなかったのだった。

☆やはり、付属の中学校・高校で6年間も、デッサンと色彩構成を勉強してきた人と2カ月の受験勉強で入ってきた人との差はあって、ずいぶん焦って勉強したものである。

☆これはすべて、宇宙の計画に入っていたことだったのか?

 大学行くと同時に、私は新築した家に引っ越しした。
 
 私は親がアトリエ付きのほかの3人より広めの部屋を用意してくれた。それは父親の考えで、母親は「子供4人は平等にしなければいけない。一人だけ大きくするなんて!」と言って怒っていた。

 私と父親は仲良しで、中学校くらいからゴルフする父親と一緒にゴルフ場に行ったり、父の交遊関係はいつもつれて歩かれていたので、なんとなく全部知っていた。

 父は弱い人や貧しい人のとてもやさしく、「ほとけさま」と言われていた。

 母親は無条件の弱者の対する父親の優しさを、「やりすぎ!なめられる。」といつも批判的で、それが夫婦喧嘩になっていたりもした。

 戦争中に自殺しかけた人を介護して、その人を事業的成功までもっていき、その結婚相手が父の結婚前の家の隣の娘で美人だったので、特に母親は怒っていた。隣の娘は父が大好きだったが、父の家が貰われっこというので反対したから結婚しなかった。その戦友の葬儀も父が取り仕切っていあtので、母親は親戚でもないのにと、ヒステリーで大変だった。

 父は何も語らなかったが、多くの人から「あなたのお父様には、こういう時に助けて貰った。「初めて銀座に店を出した時に、高価な時計を買ってくださった。」とか言われた。もう、私が大学を出たころから「ボランティア」と称して、自分の経営するゴルフ練習場もおばさんたちが、お惣菜を持ち寄りお昼をシェアし、安い料金で1日中いても、にこにこしていて、囲碁が趣味だったのも、打ち相手を求めてただで遊びに来る人をも拒んだことはなかった。

☆父親は本当にすごいと思う。
 一切自慢はしない。
 自分のことは卑下。
 とにかく、囲碁をしても本当に強く、藤沢名人と中国に行ってもボランティア通訳をして楽しく生きてる人。
 
 父の従兄は医者で系図の本を出すくらい家柄に執着していたが、父はそんなものを誇っても仕方がないというタイプで一切口に出さなかった。

 父は、この間見た映画の「Biutiful」のような人なのだ。弱い人とことろに立って、引き揚げるというか黙って幸せにしてやって去っていくというタイプ。母親はもっとエリートと付き合ってほしいと願うタイプだったが、父親はま逆で底辺の日本に来た中国人や在留孤児などの世話をしていたので、暮らしが大変な人が多く、援助をする額も母親から見れば「馬鹿らしい!」であったのだ。

 そして、この人の勤勉さには叶わないのは、中国語も暮らしが落ち着くと、ちゃんと続け、「お茶の水大学で先生が今日学んだことを暗記してらっしゃいというのを、自分しか、最後には残らなかったよ。」と、楽しそうに笑っていた。

 とにかく、父親は「毎日、楽しくてしかたがない!」というのだ。
 母親は「ばかばかしい!自分だけ楽しんで!」という人。

☆私が父から学んだのは、おひとよしは損しないということだ。
 人にやさしくすればするほど、富む。

 楽しくて楽しくて仕方がないという人生はまったくに「あたえ」の人生から来る。
 そんなことが、一緒に暮らしているとわかるのだ。

 父には、神さまがずいぶんいいものをプレゼントしたと思う。

 私の大学時代から暮した家からは「富士山」が奇麗に見えた。
 左手は沢になっていて、敷地は狭いのに、すごく広く感じる設計なのだ。

 そして、縮小した庭に、庭師が元の家にあった木や石を運び、さらにちいさな空池を創ったのだった。

 母親は、そのころは茶花に凝っていて、花いじりを楽しんでいた。半分は日本家屋で小さな渡り廊下を通ると現代建築の2階屋になっているのだ。テラスには母親がバラを天使の像が持っている花瓶などに植えていた。

☆私は2階の角の1面がガラス張りのところにベッドを置いて、毎晩毎晩、飽きることなく多摩川に映る高速のともしびと、星を眺めていた。
 とにかく、何もかも素敵で、寝るのが惜しいのだ。

 私は画家になることしか考えなかったし、父親はそれでいいと思っていた。

 母親は、見ず知らずのアートの世界に警戒心を持っていて、大学に帰りにお茶やお花、お料理教室も通っていた私だった。

☆☆☆
 私たちの家族は宇宙の遠大な計画に組み込まれていたようだった。
 
 20歳の4月7日に現れた光からのメッセージ。
「人類は、目に見えるものしか信じられないので不幸なのです。

 あなたは、目に見えない真理を絵に描きなさい。

 それが人類愛である。

 本当の美は真理と愛と同じものです。

 あなたに絵の才能をあげましょう。

 あなたは、それを使って人類を幸福にしなさい。

 その代わり、わたしがあなたに送るだんなものをも拒絶せずに、愛と真理と美のために働きなさい!」


  
 ある夜明け、あの唯物論者の母親が自分の寝ている寝室から、庭の空池の近くに停泊しているオレンジ色の小型円盤を見た。直経1メートルくらいのオレンジ色に輝く円盤だ。
 
専門家を知っていたので尋ねると「偵察機」だそうだ。

ある日、
「宇宙人の基地のような家ね。」と、妹を訪ねた友人が前後の脈絡なく言ったので、妹は驚いたという。

私もいつもぞっとする。
「人類は、まだ、こんなところにいるのか?」と。

不思議に神様側の心がわかってしまう。

私は誰でしょう?

安堵の空間!

 いつも、東京の家で迎えてくれる玄関のグッズたち。
 風水になっているバスケットの絵。


 あちこちの聖地巡礼で買ってきた聖母像や聖パトリック像。

 クリスマス・ツリーの右横は聖フランシスコのテディ。姑がくれた。

 白の聖母マリアの右はオバマ大統領のテディ。限定らしい。

 右には娘が小学校に入ったときにプレゼントにいただいた「ノアの箱舟」。
 オバマ・テディの右横は娘の大学のテディ。ほかのテディは実家の母からの贈り物で、まだまだ家のあちこちにテディがおいてあるのだ。


☆いろいろなものを神山に送ったせいか家の中はかなりすっきりし始めた。
 今日は、預金通帳の書き込みを数か所と父の家への訪問。
 いつものように、中華レストランで八宝菜と五目チャーハンを作って貰う。

 父の家へはタクシー。熱いうちに食べてもらえるように。
 
 父は元気で夕食前で、私も一緒に持ってきた中華を食べた。やはり、中華は父は好きなのだ。

 かわいい猫が2匹来ていて、末の弟が餌をやっている。野鳥用の餌もインターネットで取り寄せて、毎日、たくさんの小鳥の声で起こされるそうだ。

 平和な風景。

☆現実には、ある闇の勢力の罠によって財産をほとんど失っているのだ。
  闇の勢力の逮捕も近いんだそうだ。

 ところが、私も父も末の弟もちっとも暗くならない。
 「食べていかれればいいんだよ。」という感じ。

 2階の母のベッドのある部屋で、今日は暑いほどだったので、少し眩しい夕陽の明るさの中で、末の弟としばし、話す。

 母は意識不明で、もう8年くらいは病院にいるままだ。
 なんだか、平和な感じなのだ。

 こうして、父も母も生きていて、やはり私たちを守っている。

☆私は末の弟に送られて家に帰ってきて、着替えをして洗濯をした。
 姑には、出かける前に、お誕生日のプレゼントを渡しといた。

☆後は家の掃除を済ませれば、いいわけなのだけど、明日は朝から仙台に行って日帰りをしようと思う。
そうして、明日も東京の家に一泊して最後の日に、家の掃除や宅配便の梱包と出荷をして、長野新幹線で帰るのが賢いやり方ではないかと思う。

☆青春から還暦を迎えた40年間は、やはり社会勉強タイムだったのだと思う。

 今日、迎えた日本の現実は、社会の在り方そのものの鏡だ。

 熊野の世界遺産の日本の神様が台風で流された。壊された。
 神を祭っているはずだったのに、神はもはや住んでおられないということが、全世界に知られてしまった。

 神道だけではない。
 キリスト教も堕落をしているのだ。

 お金儲けを優先させるシステムの在り方で、聖職者たちには神の声が聴こえてこないようだった。

 無心や詐欺。
 聖職者たちが、楽を生活を求めて、信者を騙し食い物にする。

 芸術。
 学問。
 福祉。
 経済。
 宗教。

 どの世界も、真摯な求心はなく、安易な搾取と強欲で成り立っていた。

 神でなくても、「これなら、日本には特に、お灸をすえなくては!」と思えるほどにひどいことばかりの日常だった。

☆子供社会のいじめも、やくざ世界のように、一人をターゲットに追い詰めていたブリ、自殺にまで追い込む悪質さが、日々、新聞に記載された。

 学校教師が教え子にセクハラまがいの行為をしたり、下着泥棒をしたり、父兄と不倫をしたりで、教職はもはや聖職ではなくなった。

 医師が臓器を売り、やくざとつるんでお金もうけに走る。

 しなくてもよい手術をして、お金を取りつつも患者の体をボロボロにした。

 福祉は汚職の宝庫で、寄付で遊び暮らすのももはや、驚かなくなった。

 政治家は原発設置でお金を得ていて、国民が死のうと子供が被爆しようと「大丈夫」なのだった。

 世界中、搾取とわいろだらけ。

 貧しくて純朴な国はターゲットで、要りもしない薬を高いお金でヨーロッパに買わされた。

 原因はそこにあるのにもかかわらず。

 資源のある国は乗っ取られ、邪魔者は殺された。

 人を殺す武器や人を廃人にする薬はお金を得るためにどんどん作られ売られた。

 貧しくて無知なものを奴隷のように使って、おごった暮らしをしてきた人は、これからもそんな暮らしをするために、いつも獲物を狙っていた。

 マインド・コントロールやマルチ詐欺や、人の親子の情を使ってお金を取り立てようとする「おれおれ詐欺」がはやって、子供のため、孫のために箪笥貯金を差し出した善良な民は、深い挫折を味わった。

 そんなひどい人がこの世にいるとは!

 そんな人間の悪事が積りに積って、神様も呆れ果てて「人間というのはどうしようもないな。」と天罰を下したのだった。

☆人をないがしろにした罪は、子を失い、親を失う悲しい家族を日本全部で見ることで、少しは反省するのであろう。

 山を失い
 海の水が侵され
 野菜も
 果物も
 魚も
 安全に口には入れられなくなって、

 人間は神さまへの冒涜を思い出すであろうかと!

☆日本全体が被爆の国として、これからは世界から見られるであろう。

 広島や長崎は、アメリカの落とした原爆だが。

 福島は日本人が欲にかまけて、安全を無視した結果のモデルのように見えた。

 「子供の命より、お金儲けを考えた日本人」と世界のマスコミは書いた。

 「神国ではなかったのか?」

☆どう復興したらいいのか?

 それは、原点に戻ることだ。

 初めに神ありきの原点に。

 そして、感謝をして食べ物をいただいた昔に心を戻すことだ。

9月8日は聖母マリアのお誕生日です!

 明日は朝1で、娘のいる仙台に参ります!

 娘に被災グッズを届けるのが私の今回の訪問の目的です。

 私はガイガー・カウンターも持っていきますが、明後日までJRが有効なので、新潟のほうを通って長野に帰るかもしれません。

 本当に地球を愛する聖母のメッセージ

「悔い改めよ。

 そして、たがいに愛し合いなさい。」

 さあ、これからキャリーのパッキングをしっかりして、元気で仙台に出発しましょう。

 今回はこんなかわいい動物たちを一緒に連れていくことにしました!