January 20th, 2012

地球を救うために日々できること!


 朝起きたら、窓を開けましょう!
そして、雨だろうと曇りだろうと雪だろうと晴れだろうと、今日無事に夜が明けたことに感謝するのです!

 「お早う!今日も雨の恵みを!
         曇りの恵みを!
         雪の恵みを!
         青空をありがとう!」
 次に顔を洗い、歯を磨き、健康な顔を確認し、
 「今日も元気で楽しく生きよう!」と鏡の自分と誓います。

 多少、シワやくすみや白髪を発見しても老いを年輪に似た美しい輝かしい人生の足跡として肯定的に認めます!

☆ ご飯は楽しみのひとつ!
 何にしよかなと、賞味期限を参考に捨てるもののないように調理します。

 衣服も毎日洗濯しますが、気温に合わせ、色のコーディネートを楽しみ、安物でも高価なものでも同じように楽しんできます。

 それから、その日しなくてはいけないことをします。
洗濯、ごみだし、掃除、雪掻きなど。

 仕事を理想的にはします。
私たちの現代美術系のアートはシンキング(考える)とリサーチも仕事のうちです。

 買い物やメールチェック。

 フェアトレードや有機栽培のものや自立支援のものを優先的に応援します。

 週刊誌、新聞等はなるべく広い範囲に読むようにして、色々な考え方を理解する努力をし
す。

 会う人には、そのひとのためになせる最善を考えます。

 自分でできることはなるべく自分でします。


 情報はなるべく正しく知るようにして、次にその知識をどう活かし
たらいいか考えます。

☆毎日、毎日、一生懸命生きてれば悪いことは起こらないのではないか?
悪いように見えることも、本当には悪いことではない気がします。

 家族は大事ですが、家族だけが良くなっても地球が滅んだら意味ないでしょうね。

☆この間、テレビで自分達の作ったお米をアフリカのマリ国に送っている農家を紹介してました。今度は他所の食糧に恵まれない国に送るためにもっとお米を作りたいといってました。
被災地の日本ですが、もっと貧しい国もある。

 お金に恵まれても孤独な老人もいる。
私たちは何ももって無くてもできることがある。
 私はバスでよく会う老人が声をかけたら、信越線でボックス席の前に座ってくれたときに
しかったです。
                    
 自分ちのお嫁さんが寄り付かないので、一緒にお昼を食べてくださいと、老女から言われ
ときに家から遠かったので、困ったことがありました。多少の欠点はお互い様、なるべく年寄
りには優しくしたいものです。

 意地悪する人は哀しみがその人にあるので、バカになって鈍感でいましょう。

 そんな感じで1日が終わると、名作を読んで魂のレベルをあげてお風呂にはいって寝るのがパターンです。

 心配なこと。
 嫌なこと。
 悪いことはないと思えばない!

 ひとりひとりが、幸せになれば地球が救われる!

 幸福な人は他人を大事にする。
他人を痛めたり、食い物にしたりはしない。

☆私は聖書に「上着を求めるものがいれば、下着もあげなさい。」と言うのは、心の幸福の在り方だと思う。

 地球を救うのには、よく働いて与えられるようになることも必要だと思う。

☆そして、1日の恵みを感謝して寝ます!
 毎日、寝るのが惜しくてついつい夜更かし。

雪!

天気予報通り雪が降ってます!


つららも屋根の雪もみな落ちました!


この雪が落ちて通り道を塞いでいるのでシャベルで早速雪掻き!


今日から1週間は雪なのだそうなので、こまめに雪掻きをしましょう!
ビーフシチューにチーズフォンデュー-パン(サン-ジェルマン)と苺!

ケーキも買ったのですが、昨日、雪を掻き分けてコテージに入ったときに箱のなかでひっくり返ったようです。

なかは重層の苺ジャムがたてに入っていて、なかなかこくのある美味しさです。



☆今、1階のデッキから薪を運んだのですが、雪はやんでるのですが、風が冷たいのでお出かけはやめて、家の片付けをしようと思います。

always 3丁目'64!

昭和39年のようです。

 私は学童疎開で子供たちを名古屋から岐阜の養老乃瀧に連れていった小学校教師の母と中国で7年戦争で通訳をしていた父が、戦後結婚し名古屋の桜通りで、呉服屋を営む両親の長女として生まれました。

 父の両親は広小路というところで立派な家に住んでいたのですが、結婚して3ヶ月の同居で母も着物を縫わされたり、父の弟たちのご飯を作らさせたりそれなりの試練にあったそうです。

 呉服屋と言うのは、なかなか品のいい仕事で祖父は花を活け、茶道をたしなみ、庭もきれいでした。

 父の家には、立派な大黒さまが今もあるのですが、祖父が買ってくれと頼まれ、当日の家が1軒買える値段で買ったものです。そのせいか、それからも運がいい暮らし向きでした。

 母の父は、お見合いに母と姉を並べ「できれば、姉をもらってほしい。」と頼んだのですが、呉服屋なので、「英文科を出た人は要らない。家政科を出て着物を縫える人でないと。」と母を選んだのでした。

 母は、かなり現実的でしっかりものでしたから、自分の親がぼんやり母親と娘をアメリカ領事館に勤めさせるほど女の子にもキャリアと考える父親なので、これではいけないと横浜の軍人の未亡人の叔母さんが、「どちらでもいいから、家事手伝いに。」と言ってきたのを、進んで姉が気がないので、横浜で家事など学んだそうです。

 写真はたくさんあるのですが、ゲートル巻いた教師姿も緊張を絵に描いた顔をいつもしてます。
 プロテスタントの学校だったので、ソプラノで「ハレルヤコーラス」や「流浪の旅」等よく歌ってました。演歌は嫌いなようでしたが、母の弟はギターで哀愁漂う演歌を弾いてました。

☆私が生まれた1軒屋は1階が店舗で2階が住居で、飛ぶように着物が売れたそうです。母が素人ながら絞りや芋判(驚き!)をして、柄を作ると生産が間に合わないほど売れたそうです。
父は毎晩、麻雀で賭け事が好きでしたが負けないほど勝負強いのでした。

 その後、東京へ出て、肋膜で倒れたほど働いた父でしたが、私が幼稚園の頃は母はまだ30歳位でしたが、品川区の上大崎に家を買ってました。

 その頃が、always3丁目の世界に似てました。
4人の子供と東北から中学を出たお手伝いサンが離れに住み込んでました。

 お風呂は、五右衛門風呂で、外から母が薪をくべていたような。

 車はベビーフォードで、父はさっさと呉服屋はやめ、中古の輸入車の販売をしていたようです。父は狩猟も趣味でしていたので、ポインターを飼ってました。

 冷蔵庫、洗濯機、テレビが家のなかにはいり、公立の小学校へ通っていた私は綾取りとかリリアンとか匂いのついた消ゴムを文具屋でかう程度で、平凡に暮らしてました。

 白金台町は今はシロカネーゼの住むセレブの街ですが、その頃は恵比寿もごく普通の商店街でした。

 月刊「りぼん」とか「なかよし」とか「少女」等買ってもらい、話は大抵、お金持ちのお嬢様が綺麗で健気な貧乏な少女を苛め、最後には貧乏な少女が破格の成功をするシンデレラ-ストーリーが多かったように思えます。

 母は南瓜饅頭とかホットケーキとかおやつも手作りで、よく湯豆腐をしましたね。子供が多かったので、鍋物が多かったのですが、子供たちは普通に元気で仲良かったです。

 でも、妹が神経質で幼稚園の時はカステラしか食べず、小学校4年くらいのときは、どうゆうわけか沼津の養護学校へ行き、毎週末母が面会に行ってました。

 上の弟と妹は4人兄弟のまん中なんですが、上の私と下の末の弟ほど愛されなかったと今でも思っているようです。

 私は母とはしょっちゅう喧嘩していたのですが、父とよく一緒にいたので、「何か美味しい思いをしているに違いない。」と思われていたようです。

 そう言うわけで、父と母の介護は私と末の弟が引き受けてます。
末の弟は母が溺愛していたのですが、父にも可愛がられていたので、介護など本当に優しくよくやってます。

 母が倒れるまで毎週会って、食事や芝居など付き合っていたのは私で、父はそれを凄く評
してくれました。

☆昭和の日、私たち家族も戦後の焼け跡を希望を持って頑張ってきたのでした。

美しいアメリカのホームドラマは眩しく、母は憧れてよくアメヤ横丁に連れてってくれ、プ
スティックの髪留めや幌馬車のかたちのランチボックスやヒラヒラしたワンピースを買ってく
れました。

 母は裁縫もできましたから、妹とお揃いで内藤ルネのプリントのワンピースなど縫ってくれました。「それいゆ」や「ひまわり」を母は買ってました。

 宝塚も好きな女学生で姉と神戸の宝塚まで観に行ったそうです。
 私も「虞美人草」や「華麗なる千拍子」など、母と行った記憶があります。

☆☆☆
 日本が狂い始めたのは、ようやく衣食足りたこのあとだと思います。

 頑張ってアメリカ並みに車や電化製品を買う。

 家も1軒建てねば。

 子供たちを大学に入れねば。

 日本人は皆頑張ったのでした。

 そして、その頑張りについていけない人が出てきた。

☆子供はストレスで自分より弱い子を苛める。
 苛めても苛めても、自分の心が晴れないので死にまでおいやってしまう。

 大人社会でも「何かひとつかけると負けたようになって心が落ち着かない。」
 「痩せて綺麗でなければいけない。」
 「並の暮らしをしなければいけない。」
 「隣がピアノを買ったのでうちも。」
 といつまでたっても、ストレスから解放されなかったのですね。

★★★
 解雇されたくらいで自殺してしまう。
 同僚のいじめで鬱になる。
 子供のできが悪いとヒステリーになる。
 姑も嫁をいびると棄てられる時代になってしまった。

 老後が不安だ。

 体力に自信がなくなると頼れる者がないことにきがつく。

 競争して生きてきた日本人はもはや人の優しさを信用できない。

 それで、すがったのがお金である。

 お金さえあれば!

 と思ってきたものの、震災のお陰で税金も高くなり電気代も増える。

 お金は限りなく出ていく。

☆外は寒いが少し青空が出てきた。


 考えてみれば、家はなければ借りればいい。

 ひとりでいきるのには仲間がいればいい。

 お金がなければ愛される努力をすればいい。

 子がいなければ他人の子を可愛がればいい。

 子が生まれない親は被災地の遺児を育てればいいのではないか?

 自然は同じでなくてもいいことを知っている。

 自然は添いあっていかしあっているのだ!

甘いもののいやし!と美味しいものの恵み!



 鱈子と浅蜊の唐辛子オリーブオイルのスパゲッティ!
鰤!
クラムチャウダーが絶品!


☆電気代の節約と薪の節約がどちらがいいか考え中。
夕食後はほとんどお布団のなかでテレビ、読書をします!

☆テレビで松本のみすず細工と言う根曲がり竹で編む籠の再興プロジェクトが始まったことを放映してました。なかなか綺麗な籠あみですが作っているお爺さんがなくなってしまったそうです。

打出の小槌!

打出の小槌は大黒さまが持っているらしい。

神戸には打出の小槌町があるそうです。

竜の忘れものという説も!


☆「打出のの小槌」というものは、一寸法師では鬼が落していったもので、お姫様が振り落とすと一寸法師の身の丈がドンドン伸びて普通の若い男子の身長になる。つまり、お願いを叶える不思議な小槌ということらしい。

☆イエス-キリストは病めるものも死者も甦らせたが、背の低いものを高くしたと言うことはない。背の低いなどということは、それほど同情すべき不幸ではなかったのだろう。

☆☆☆
 私がなぜ「打出の小槌」のことを話題にしたのかと言うと、私は主人から「打出の小槌」と
言われてきたからである。

 結婚して主人の家族と同居23年くらいになるが、うち、アメリカ7年とフランス約1年と神山と旅行の留守を足して10年ひくと、実質13年くらいなのであるが、2世帯住宅というのは境界線が曖昧で、所有権の感覚がまぜこぜになってくる。

 姑はとても質素で賞味期限は2,3年はへいき。ケチャップやソースは10年くらい「大丈夫!」。とタフなのだった。

 そして、かなりちゃっかりしていて、「私は趣味が悪いから、あなた選んで!」というわけで、大きなパラソル付のガーデンチェアも支払いも私は当然!

 外の傘立ての新しい日傘は自分のものとして、持っていかれるのはザラ!

 私が怒ったこともないのだ。

 すると、お願いと言うのか夢と言うのか色々言ってくるのだ。

 「孫の小学校は私立のSかfかね。」とか。私と主人は公立の小学校でであったので、突っ込みどころいっぱいなのだが、嫁は自分の思い通りになると思っていたようだった。

☆兎に角、謙虚と言うか従順と言うか応えてしまう私なのだった。

 主人はその時貧乏で、そのためのお稽古代などの出費はふたりとも想像もしなかっただろう。それで、私は実家の支援と私達母子の頑張りで夢を叶えたのだった。

 それが、主人が言う「打出の小槌」なのであった。

 娘が大きくなると、主人は娘に「ママは打出の小槌だから、ママに頼みなさい。」と言うようになったし、姑も当たり前のようにパリの個展にもボストン出のpresentationにやってきた。
 
 これでよかったのか?

 主人は長男だが次男の嫁は、「干渉するな。」と結婚したときに姑といさかいがあったので、私は少しおとなげで波風立たない生き方を選んだのだった。

☆☆☆
 私は絵を描くことしか考えなかったし、母くらいにしか相談しなかったので、結婚生活の常識というのも知らなかった。

 最近、すこしづつ世の常識を知り始めると変なこともある。

 結婚式の祝儀などいまだに幾らかは知らないが、主人と姑とで計算して主人の口座にはいった。
 私は未だに主人のサラリーは知らないが、自分の洋服、画材代、勉強代などは自分の働きで支払ってきた。生活費を貰っているわけ。

 私の実家はお金のことで喧嘩をしてはいけないと言う考えで、貧しかったのだが怒ったこと
も一度もない。

☆☆☆
 どうなんだろう?
 
 結婚生活はいろいろだ。

 数億単位のお金を実家からつぎ込んでいる家も、マンションは実家が買ったという話もある。

 私は同居だけど、土地も家も主人の家の出費。

 私の手持ちのお金はほとんどないが、絵とコテージが残ったという感じか?

☆結婚のときに「絵を続ける。」と言うのは、条件だったがやはり、現実に主人にとって私の絵なんてどうでもいい感じ。

 女流アーティストの環境でこんなものでないかしら?
仮に主人がステージパパだったら、気持ち悪い。

☆誰と比べることもないけど、やはり、娘がいて主人がいてよかったと思う。
そのぶん、やることが増えたけど。

 今、64歳でしょ。

 ゴッホの一生37歳たして、101歳のグランマ-モーゼスの年齢!

 まだ、上手くするとゴッホの一生ぶんあると言うのは何でもできそうね!

 打出の小槌も自分のために使おう!

 これからも元気で絵が描けますように!