March 1st, 2012

冒険!今日は映画の日!

長野の裏通り!

いとも簡単に携帯は修復され!

携帯で映画館をチェックすると話題作が!
東急のちかでサンジェルマンのサンドイッチを買ってながの電鉄で権堂まで!



だいぶ、日暮れが遅くなりました!

 まだあかるかったので、5時21分のバスに乘って帰りました!
坂道はさほど危なくなかったのですが、コテージをいつもの近回りでなく(急なので)遠回りの道から上がったのですが、かなり雪が緩んで長くつがはまってしまい、一時はどうなるかと思ったほど身動きできなかったです。


月が出て!


早く、外で食事がいただけるようになりたいです。



放浪の画家 ニコ-ピロスマニ!

☆2008年『青春のロシア-アヴァンギャルド展』Bunkamuraザ-ミュージアムで出展された10数点のピロスマニの作品を観たことがありました。

以下はこの本の中から抜粋です。

P15.
画家は神のようなもの、だがつつましい
(M-B-ゴフスタイン 谷川俊太郎訳)

「百万本のバラ」
信じてくれますか 一人の若者が 小さな家を売り バラを買いました
信じてくれますか 嘘だと思うでしょ 街中のバラを 貴女に贈るなんて
バラを バラを バラをください ありったけの バラをください 貴女の好きな
バラの花で あなたを あなたを あなたを包みたい
バラを バラを バラをください 百万本の バラをください 僕の 僕の 僕の
この生命 貴女に 貴女に 捧げましょ
貧しい絵描きの僕に 出来るのは ひとつ 何もかも捨てて 貴女を想うこと
誰も知らない 心のささやきを 花びらにそえて 貴女に贈りたい
出逢いは短く あなたはもう いない あなたは 踊り子 街から街へ
夜汽車の窓辺で あなたは思うだろう 見えない愛の灯がこの世にあるのだと?(略)
(松山善三 訳詩)





 グルジアは美しい国のようです。
 黒海とカスピ海の間の、国の総面積は北海道の84%くらいのちいさな国。
 この国は100を越える民族からなっている。現在はグルジア人は84%になった。
 葡萄はグルジアの象徴で葡萄十字と言う十字かもある。
 古都トビリシは二つのシルクロードが通っていて、ペルシャからトルコをへてローマに至る道とカフカスへの山越への道。そのためヨーロッパとアジアの影響を受けている。
 マルコ-ポーロはこの都を「絵に描いたように美しい」と讃えたそうです。

 絵を描くことが人生のすべてであったピロスマニは聖人が現れたという伝説もある。
欲はなく、信仰深い。
 
 ピロスマニは、人々から変わり者と思われる一方で、「かれの胸には天使がいる」あるいは「彼の手からは善が表れる」ともいわれて、敬意を払われていた。

 1914年に始まった第一次世界対戦の間も、ピロスマニは、キャンバスとして愛用していたムシャンバの代わりに、厚紙を使ったり、絵の具の代わりに、ストーブの煤などで色を作って、画材がなくなっても絵を絵がきつづけていた。
 1916年5月5日、1日の個展が開、かれ80にんもの人が来て、新聞には
「彼はグルジア文化の最も優れた継承者のひとりだ。私たちのお伽噺や民話の世界を、絵をとおして語っている」と評価された。
 同年7月10日、新聞に酷評が載り、貧困、孤独、老いのため衰弱する。

 生涯1000点の絵を描いた。
 一時は、チフリスの旧市街にはピロスマニの絵が溢れて、ある居酒屋には15点の絵が飾られていたという。
 ピロスマニは、グルジア正教の敬虔な信者だった。彼がどんなに厳しい境遇におかれても、絵を描き続けた理由のひとつに、深い信仰心があった。このような言葉が伝えられている。「聖ギオルギが、私の枕元に来て、恐れるなという。そして翌朝起きると、私の手が、ひとりでに絵を描き始めるのだ。」聖人ギオルギとは、グルジア正教の守護聖人である。

1862(0歳)グルジアの東部、カヘティ地方の農村ミルザアニに生まれる。
1870(8)父が死去。ついで母も亡くなる。長姉夫婦を頼り、首都チフリス(現トビリシ)へ。
1872(10)長姉が病死し、裕福なカランタロフ家に引き取られ住み込みで働く。一家の庇護を受けて、読書や絵を描くことを好む少年時代を過ごす。印刷屋で徒弟として働くが、長く続かない。
1890(28)カランタロフ家の未亡人の年上の娘に手紙を書き、家を追い出される。友人と看板屋を開くが挫折。ザカフカス鉄道に職を得る。
1894(32)ザカフカス鉄道をなかばクビになる。知人と乳製品の販売店を開き、一時期は繁盛するが、数年出たちゆかなくなり店を閉める。遊興場に足しげく通うようになる。
1905(43)フランスからやって来た旅回りの踊り子マリガリータに出会い、恋に陥る。(他の年
の説も)街中の花を買い、彼女の宿泊するホテルの前を花で埋めつくすという伝説を残す。

定住せずに街中を転々として暮らし、パンや酒と引き換えに、店の看板や壁に絵を描く日々を送る。1910年までの5年間は、主にワイン商人のベゴ-ヤキエフの世話になる。
1912(50)ペテルブルグからやって来た若い3人の芸術家に見いだされて、その才能が広く紹介
されてゆく。
1913(51)モスクワの美術展に作品4点が出展され、反響を呼ぶ。
1916(54)5月、チフレスで1日だけの個展が開かれ、多くの来場者を集める。後日、グルジア芸術家協会の会合に招かれスピーチをする。7月、誹謗する記事が新聞に記載され深く傷つく。
1918(55)春の復活祭の日に、階段下の部屋で、病のために衰弱したピロスマニを隣人が発見し、病院に運ぶが、よく翌日に亡くなる。