April 6th, 2012

セザンヌ展!

新国立美術館の桜は本当にきれいでした!
携帯をすでに失くしていたので、撮影できなかったのですが。


「セザンヌ-パリとプロヴァンス」展は、「近代絵画の父」と称されるポール・セザンヌ(1839-1906年)の画業を、パリとプロヴァンスという2つの場所に注目して振り返る大規模な個展です。
南仏のエクス=アン=プロヴァンス(以下「エクス」と略)に生まれたセザンヌは、1860年代のはじめに、画家としての成功を夢見てパリに出ます。 1870年代に入り、セザンヌは、当時世に出た印象派の輝くような明るい色彩に大いに感化される一方、形態と空間の表現に創意を凝らしました。そして、伝統的なアカデミスム絵画とも同時代の印象派とも袂を分かつ、全く新しい絵画を確立したのです。
1880年代以降のセザンヌは、パリに背を向け、故郷のエクスにこもって制作した孤高の画家と見なされてきました。しかし、実際には、1861年から晩年に至るまで、20回以上もパリとプロヴァンスの間を行き来していたのです。フランス南北間の頻繁な移動は、これまで注目されてきませんでしたが、セザンヌの創作活動に決定的な役割を果たしたと考えられます。本展は、セザンヌの芸術的創造の軌跡を、南北の対比という新たな視座から捉えなおそうという画期的な試みです。

☆この頃の展示会はアトリエの復元があるので、何ともイメージがわきやすいです。
でも、セザンヌの本当のアトリエも開放しているそうなので観たいです。

 セザンヌのお家はリッチでしたけれども、やはり家族の反対があってそれなりの不遇を得たようです。
 奥さんとの結婚も隠していて家からの送金を送ってもらったり。

 どんな画家でも認められなくて、無視されたり、批判されたりの時代があって、今は近代絵画の巨匠ということになっているわけですが。

☆割と若くして亡くなられたのですね。
 60代。

 こうして、絵の前に立つとこの絵を描いた時のセザンヌと向かい合っているような青春の思いが伝わってきます。

マリリンを観て、陰謀について考えてしまった。

昨晩はとても疲れていて、却って目が覚めてしまったので、マリリンモンローの映画などをYOU TUBEで観ていた。

今の時代ではマリリンモンローの最後の死体の写真も出てくる。

骨が折られていて、死後の顔に出る死斑が異常なので普通の睡眠薬の自殺ではないとの検視報告。

☆あまりにも悲惨な生い立ち。
父親を知らない母親の私生児。
祖母は枕で幾度も殺そうとしたそうだ。

誰からも祝福されなかった誕生。

足の6本指の奇形。

母の死の後は30家族をまわされて育てられた。

孤児院。

☆美しく、愛嬌のある顔、素直な性格。
 モデルから銀幕のスターへ。

若い死。37歳?

3度の結婚。そして、結婚にならないまでの情事。

やはり、濃い37年だったのだろう。

お墓はコインロッカーのような仕立てで、その上の箱は、マリリンの上というので5億とかしたそうだ。

☆死については、ケネディ兄弟との不倫。
 ケネディが国家秘密をマリリンに話し、マリリンが結婚してくれないのならマスコミにばらすと騒いだので殺されてしまったという説も。
 ケネディ大統領の秘密には宇宙人の遺体をマリリンに見せたことやUFOの破片を見せたことがあるという。

 そして、やりたい放題のケネディ兄弟も次々と暗殺された。

☆マリリン・モンローがケネディの誕生日に歌った「ハッピー・バースディ」の歌はYOU TUBEで観れたが、そのときのケネディの顔は悪魔が入っていた。

 ケネディは孤児であるマリリンとはお遊びで結婚する気なんかなかったのだ。

 孤児である弱さや出目の悪さが、スーパー・スターになっても覆されることはない。

 マリリンはアメリカそのもの。

 権力の欲と性を最後まで見せたのだ。

 何か天が世界に送ったメッセンジャーのように見える。

生徒の暴言で教諭自殺!本当に敵は何だったのだろうか?

☆昨日、「週刊文春」で気になった記事がこれ。
・大分高校教師を自殺に追い込んだ教え子の「生活態度」
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◆「生徒の暴言で教諭自殺」…公務災害と逆転認定

2009年に自殺した大分県立高校の男性教諭(当時30歳代)の遺族が
請求した公務災害の認定を認めなかった地方公務員災害補償基金県支部の
決定について、同支部審査会が決定を覆したうえで、公務災害と認定する
裁決をしたことがわかった。3月27日付。

裁決は、生徒からの暴言などによる精神的ストレスが極めて大きかったとして、
自殺との因果関係を認めた。同支部は近く認定手続きを行う見通し。

同県高校教職員組合は「支部決定が覆るのは珍しい」としている。

組合によると、教諭は08年4月、校内でも荒れているとされるクラスの担任に
なった。生徒から暴言を浴びせられるなどして約1か月後にはうつ病などと
診断され、09年3月に自殺した。

遺族から公務災害の認定請求を受けた県支部は10年12月、生徒からの
暴言を認める一方、「それが重なって精神疾患を発症したとまでは認められない」
とし、公務災害と認めなかった。

しかし、遺族の審査請求を受け、審査会は「教諭は最も荒れた学級の担任を
命じられた被害者。問題を起こす生徒との関わり方を模索し、日々苦悩していた」
と判断、支部決定を覆した。

読売新聞 2012年4月1日
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120401-OYT1T00250.htm

☆コピーです。
大分県立高校の30代の男性教諭が2009年に自殺したのは、
生徒から受けた暴言などのストレスが原因として、
地方公務員災害補償基金大分県支部の審査会は2日までに、公務上の災害と裁決した。
これを受け、大分県支部は近く公務災害と認定する。

裁決では、男性教諭が赴任直後にもかかわらず、
校内で最も荒れているとされるクラスの担任となり、
生徒からの暴言などが大きなストレスになったとした。

教諭は08年4月にこの高校に赴任したが、翌月には休職。
うつ病と診断され、09年3月に自殺した。
遺族は09年8月、県支部に公務災害の認定請求をした。

県支部は10年に「公務外の災害」と認定したため、不服とした遺族が審査請求していた。

遺族の代理人弁護士は
「自殺やうつ病の発症が公務災害として補償されるなら、
教員は厳しい教育現場でも立ち向かえる」
と評価した。

☆☆☆縷衣香記
 人間の無知って怖い。

 若い教師(38)九州の国立大学出身は県内の偏差値約60の進学校から偏差値40以下の実業系の高校に転任し、2年生の担任になった。

 当時の教頭が言うには、
「1年生の時から厳しい生徒が集まるクラスで前年度に1年生を受け持った担任はいたが、年度末に校長先生と次の担任は誰がいいが相談した。親がいなかったり、人を信じられなかったり、いろいろな境遇の生徒が多く、学校内に適任者がいない。それで、赴任してくるA先生はラグビー部の顧問もされ、能力がある方なのでお願いした。副担任に相撲部の顧問もつけました。」
 別の学校関係者が言う。
「直前の春休みに喫煙やバイクなどの違反をしたせいとに、新任でありながら前面に立って聞き取りをしたことで、余計に生徒たちの反感をもたれた。」

 なんという学校だろう!

 4月だけで12人の生徒が校則違反をして処分を受けていた。

 遺族の弁護士言う。
「『殺すぞ。』
『担任代われ』」と生徒たちは脅迫。
授業中でも着席せずに学級崩壊。
 校長先が「一人残らず進級させろ。」と無理を言った。
 
前年度も退学者がかなり出たが、その中でも一番荒れたクラス。

☆生徒に対して適当に向き合えるタイプでなく、対話をしてきちんと指導していくスタイル。(素晴らしいと思うが)
校長先が「一人残らず進級させろ。」と無理を言ったので重責になっていた。

 遺族が言うには
「問題のある生徒には毎晩電話をかけていた。」
A教師は連休明けから、通算で約4カ月の長期入院となった。
カルテには自殺願望も書かれていた。

前の学校の生徒たちには辛抱が熱くはかま姿を見せに来たり、ラグビー部からたくさん手を合わせに来てくれた。
今の学校の校長と教頭には、遠慮していただきました。

☆これは優秀な先生に対する教頭や校長のいじめだったのではないか?
☆☆☆
 私の体験でも、27,8歳のころ京都で個展をやる際に、25歳の一浪、女子美短大、1留年、退学した女性に京都まで来させて
「小遣いやって雇って育ててくれ。」と押しつけられて激怒したことがあった。

 その女性は先ず「嘘つき」。
 個展前日の一番忙しい時に、頼んでも受け入れても居ないのに、現れて手伝いもしないのに、よこさせた叔父には「手伝った。」と言い、「良かった。良かった。個展準備手伝ったんだったね。」と個展初日のl電話がかかり「いいえ。何も。」と答えたのだが、会場に送って来た菓子折をすぐ送り返したのに、許可もしてないのに、ずっと会場の椅子に座って、お客さんが私を帰りにお店や自宅に招待をするとついてくるのであった。

 その叔父そのものも、1,2度会っただけで、3浪して東北大学に入ったことを幾度も話していた。

 いや、その姪がいうのには障害のある娘が居て奥さんの亡くなった後に介護している人と結婚したとのこと。

 姪からすれば、自分のことを心配する風を装ってもっと叔父の方がうまくいってないことを言いたかったのである。

☆もう、64歳の私にはその頃見えなかった心理状態が見える。

「 若くて頑張って、前途に夢のある娘を(28歳くらいの女性)をいじめてやろう、食い物にしてやろうという気持ち。

 自分は夢の持てない障害ある子の父親なんだ。」

 たぶん、その障害のある娘は私と同じ年くらいなのであろう。

☆でも、アートをやっていればわかるが、自分が食べるのが一杯の世界なのだ。
 材料費だって、64歳の今になってようやく大きなキャンバスが買えるようになった。そのころは、とにかく小さくて安い材料しか買えなかったのだ。

 私だって、芸大出でないので(芸大は受けれなかった。当時は能検があって、それが9月ごろで、11月から受験を考えたので時期が終わっていたのだ。)、ハンデがあるので人の数倍の努力をしているただ中だったのだ。

 私は2カ月の受験勉強で親が唯一つ許可してくれた女子美術のデザイン科の4大に浪人もせず、入学し、基礎が無いのは一生懸命在学中埋めて、自分で働き絵具を買い書物を買っていたので、1留年とか退学とかはわかならいのである。

 しかし、図々しい人は他人の迷惑を考えない。
 
 第一にお小遣いをあげる余裕がないのと、そんなに、嘘つきで怠惰で図々しい人は足を引っ張るばかりで、私の夢を実現させなくなるばかりではないか?

☆☆☆
 人間心理の中にはあるパターンらしい。
 次にたま出版の故瓜谷社長は東大を出ているものの出版社を合計3回、倒産させているのだが、この社長も50歳は行っていたと思うが、次々と精神病院に通っている人や入院していた人や障害者で学校に通えなかった人や大学に通ってない大学生に私の電話番号を無断で教え、電話をかけさせて世話をさせようと寄こしたのだった。

 若くて、29歳だった私の夢。国際的なアーティストになるためにアルバイトをしてはフランス語を学び、徹夜でアートをしていた女性に強姦目的を含む独身男性を十数人寄こさせたのは何か?

 今なら、わかる。
 苛めだ。
 失敗させて、惨めにしたかったのだ。

 しかし、若かった私はそれを神からの試練だと思った。
 どんな人でも大事にしよう。
 どんな人でも理解しようという。

 それで、神経をすり減らしながら、その人たちが少しでもいい人になるために努めたのだった。


「人間を知らない。」
とよく注意された。

「殺されてしまうよ。」
とも言われた。

「そのうちに夢が敗北して、年取って結婚の大事な時を奉仕させて、人生の敗北者にすればボロボロになるだろう。奇麗事の夢を見た結果だ。失敗したら嗤ってやろう。」

それが、彼らの本音だったのに、見えなかった若さだった。

☆この間、オーム真理教のサリンガスを作った土屋という死刑犯のことをテレビで紹介していた。

 マインド・コントロールの怖さをいろいろ見せる特集番組であった。

 土屋は筑波大学を出ていて、オーム真理教にいるメンバーではサリンガスを作る能力がなかった。
それで、どうしてもオーム真理教は土屋がほしかったのだという。

 オームのマインドコントロールは麻原のビデオを買わせ毎日聴かせたり、電波を流す音声で寝たり考える時間と余力を失わせる。

 麻原を絶対だと思わせて、アルバイトでお金を作らせ、家族とも離らかせ「世界平和」に貢献する「革命家」としての生き甲斐を梅つけさせる。

 土屋はマインドコントロールを逮捕されても抜けなかったという。

 しかし、地下鉄で子供を失くした母親が、
「あの子が死んで辛いが、土屋の両親はもっと辛いでしょうね。」
と言った言葉が土屋死刑犯に届いて、マインドコントローつが溶けたという。

 純粋で真面目。

 それは長所であるのだが、利用する方にとっては最もマインドコントロールがかけやすいようだ。

 土屋は、間違った人を信じた自分が悪いと死刑を受け止めているという。

 人間はいかに出会いが大事であるかという怖い教訓だ。

☆☆☆
 昨晩は花屋で白い奇麗なチューリップの切り花をたくさん買った。
 この白い花を自殺した教師とサリンガスで亡くなった人と土屋のためにマリア様にささげようと思う。

花見と娘の誕生日!


docomo ショップで仮の携帯を借りました!
日曜日の2時には新しいのが届く。
☆イタリアン-レストランで待ち合わせ!
この店は母と待ち合わせに使った店。
哀しいような懐かしさがあって。
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ざくろジュース

☆娘にサプライズでケーキオーダー!


☆ふたりで本屋に行き、文具部分でガムテープの赤と水色を買いました。
 家に帰ってから、ケーキを持って姑の家に。
 主人も呼んで皆で誕生日ケーキを頂いたのでした。

芸術家の家!

素敵です!



☆セザンヌも勉強しなくては!

セザンヌの凄さは私にはまだわからないのです。
お父様は大富豪で一人っ子のセザンヌは相続して高潔に理想を追求できたとのこと。

近代絵画の父はそんな幸せから生まれたのでした。
新友ゾラの「制作」も読みたいです。

モデルはセザンヌ。
一時期は一緒に住んでいたそうだ。

モーパッサンとともにフランス自然主義文学を代表する作家ゾラ(1840-1902)が、19世紀半ばの印象派による近代絵画革新運動の推移を描いた芸術小説(1884年刊)。画家クロードの作品創造の苦闘と自殺にいたる悲劇を描きながら、彼の友人として登場する小説家に托して、ゾラの体験と思想・感情を色こく反映した自伝的小説でもある。(全2冊)



イタリア人技術者である父とフランス人である母との1人息子として、パリに生まれた。ゾラは少年時代を南フランスのエクス=アン=プロヴァンスで過ごした。

18歳でパリに戻り、バカロレア(大学入学資格試験)に挑戦するが失敗し、出版社アシェット書店で働きながら(配送部に入社。後に広報部に移動)作家を目指してロマン主義的な作品を作った。このころから、評論を手がけ始め、マネなどの印象派の画家を擁護する批評を発表した。

1867年に『テレーズ・ラカン』を発表し、小説家としての足場を固めた。ゾラは実証的な自然科学の手法をそのまま文学に導入する「自然主義」を唱え(「実験小説論」)、その実践としてルーゴン・マッカール叢書を執筆した。当初は全くと言っていいほど売れず、専門家にしかその名を知られなかったが、第7作『居酒屋』で社会現象を起こすほどの大成功を収め、以後フランス自然主義文学の黄金期を築き、後にはフランス文芸家会長にも就任した。

ゾラがメダンに造った別荘は多くの文学者が集まるサロンとなった。モーパッサンやユイスマンスもゾラの別荘に出入りするうちに才能を認められた作家である。少年時代からの友人である画家のポール・セザンヌとは一時同居もしていたが、諸説により絶交している。

晩年は空想的社会主義に傾き、社会・政治活動に精力的に参加した。ドレフュス事件では、右翼的軍部の陰謀によりスパイ容疑にかけられたユダヤ系の参謀本部付砲兵大尉ドレフュスを弁護し、1898年に『我弾劾す』("J'accuse")に始まる公開状をオーロール紙に寄稿した。このため罪に問われ、イギリスに亡命するが、翌年帰国。ドレフュスの再審が決定(1906年に無罪確定)。

1902年パリの自宅で、一酸化炭素中毒のために死亡した。反対派による暗殺説もあり、本国では検証著作もある。遺骸はパンテオンに眠る。

神様の贈り物!米国で高額チップ100万円争奪戦、届け出たウエートレスに軍配


[5日 ロイター] 米ミネソタ州ムーアヘッドで、ウエートレスが客からチップとして受け取った1万2000ドル(約99万円)の行方に注目が集まっていたが、紆余(うよ)曲折を経てウエートレスのもとに返却されることが分かった。

5児の母でもあるステイシー・ナットソンさんは、地元レストランでウエートレスとして働いていた。昨年11月、女性客の1人が店内にテイクアウト用の箱を置き忘れていることに気付き、駐車場まで追いかけて渡そうとしたところ、その客はもらってくれと言い、受け取りを拒んだ。箱を開けてみると、現金1万2000ドルが入っていたという。

ナットソンさんは、そのお金を遺失物として警察に届け出た。警察は当初、60日間持ち主が現れなければナットソンさんのものになると話したという。ところが最終日になってみると、もう30日待つようにと言い、ナットソンさんに現金を渡すことはなかった。警察の説明は、お金にマリフアナの臭いがついており、法律に基づいて警察が押収したというものだった。

警察はその代わり、届け出の報酬として1000ドルを渡すことを持ちかけたが、ナットソンさんは拒否し、警察を相手取って訴訟を起こした。そして今月4日、ナットソンさんの弁護士は、警察が現金を彼女に返すことを決めたと発表した。

ナットソンさんは子どもの養育に経済的な問題を抱えており、弁護士はこのお金が神からの贈り物だと信じていると語った。