April 11th, 2012

セザンヌ!

「もっと知りたいセザンヌ 永井隆則」を、今、読めて良かったと思う。


☆1906年 67歳で亡くなったセザンヌ。
 彼の父親は88歳で亡くなった。
 早い死なのであろう。

☆セザンヌの父親は銀行家として成功者で、生涯、絵を売らなくても生活できたという。

 47歳の時、父親が亡くなり3億5000万円の遺産を受け継いだという。

 58歳の時、最初の大がかりの個展が開かれる。
 
 63歳の時、ローヴにアトリエが完成。

☆60歳を過ぎるとセザンヌは糖尿病と神経痛の持病に悩まされるようになったが、疲労回復剤を飲みながらも制作に励んだ。郊外に写生に行くときは四輪馬車をやとった。そうまでして制作三昧の日々を送った。

 絵の値段は高騰し、高まる名声のなかで若い画家たちが教えを乞おうと競ってエクスに巡礼した。

1903年、セザンヌからヴォラール宛の手紙より
「私は一心不乱に仕事をしてます。
 約束の土地が垣間見えるような気がします。
 私はヘブライの偉大な預言者のようになれるでしょうか、
 かの地に足を踏み入れることができるでしょうか。

☆☆☆
 1839年1月19日生まれ。
 農民を先祖とするセザンヌの父親は帽子製造の職人から出発し、勤勉に働き、帽子商会をおこし、販売、輸出仲介人として財をなした。やがてその財を元に、銀行家に転じて資産を確実に増やし続けた。

 しかしエクスでは、古くからの貴族の末裔や聖職者、司法官らが依然として支配者層をもちつづけていたため、かれは生涯、金貸しとして蔑視され、成り上がりものの扱いを受けた。

 13歳になるとセザンヌはブルボン中学校に入学し、人文主義教育を受け始めた。
そこでであったのがゾラだった。

 プロバンス訛りを話せないゾラは中学では虐めの対象であったが、セザンヌはゾラの味方をした。
翌日、ゾラは一籠の林檎をセザンヌに贈った。

 父の希望に添って法科大学に進む。
法科の勉強に身が入らずデッサン学校に行き油絵を習う。

 セザンヌ家の祖先はこっちゃ-アルプス地方の小さな町「セザンヌ」で貧しい生活を送っていたイタリア人一家だった。17世紀に、フランス南東部のブリアンソンに移住し、故郷の名を姓として名乗った。

☆羊毛商の店員、帽子職人、そして銀行家と着実にキャリアを築いてきたルイ-オーギュストは、放蕩や贅沢、乱費に陥ることなく、莫大な資産を築くことに生涯、情熱を燃やした。
 母はマルセイユの椅子職人の家系に生まれた。

 セザンヌにはイタリア人の造形感覚と先祖代々のものつくりの血が流れていた。父のパイオニア精神と一事に集中する情熱は、母から授かった想像力によって、金銭から芸術への関心へと転換されてセザンヌにうけつがれたのである。

 セザンヌの父親が総額85000フランで購入した14ヘクタールに及ぶセザンヌ家の別荘は「風の館」の意味を持つジャズ ド ブッファンは、実に立派だ。

 1861年4月、
22歳の時に画家を目指してゾラの待つパリに行く。
はやくも9月にエクスに舞い戻り、父の銀行で働き始めた。
仕事に身の入らぬ息子を見て父は毎月定額の生活費を支払う約束して息子をパリに送り出す。

 体制とブルジョワの美的価値観に揺さぶりをかけたマネにセザンヌは心酔していく、
サロンに入選を続けてアカデミー会員となり、最後には国家から勲章をもらうという出世コースにはすっかり関心を失う。反対に落選するとわかっている絵画をサロンに送っては審査員を激怒させてよろこぶ。マネ以上に過激な反体制分子となった。

 モデルのバイトをしていたオルタンスと親密な関係になる。

☆セザンヌは最大のパトロンとして父を得た。

 ーー私は多少の進歩を成し遂げましたが、
 それがなぜかかくも遅く、かくも辛いのでしょうか。
 芸術は結局のところ、司祭職のように、
 身をあげて自分に帰属する純粋な人をもとめているのでしょうか?

今日は雨と風!


☆日中はお片付け!
☆昨晩、朝5時半まで読んだ(見た)セザンヌの本で私は反省することしきり。
 痛みさえともなって。

 1000枚近い油絵の制作。
 セザンヌが亡くなった67歳まで64歳の私は3年しかない。

☆セザンヌと比べるのはおこがましいけれど、セザンヌは私とにていると思った。
作風ではなく考え方やあり方が。

 「わたばゴッホになる。」と棟方志功がいったが、私も言うなら「セザンヌになる。」という感じだ。

 私の育ちもセザンヌに似ている。
 父は一代と言うわけでもないが、財を築いた。
 セザンヌ-パパのように、勤勉で質素で実直だった。

 母は小学校の先生を結婚前はしていて、母の祖父は7つの蔵を潰した画家。
父は呉服問屋の息子で、戦争で中国に行き通訳をしていたので日中貿易商が夢だった。

 国交がなかったので、時流をうまく泳ぎ商人として成功した。

  父の家の系図は従兄弟が本にしたそうで、末の弟もルーツを個人的な小冊子にした。

 父の母のご自慢はご先祖の土地をとおらないと都に行けず、源頼朝が許可を得る手紙が残っている織田信長に続く家柄ということだ。父の父は百姓と言うことだが呉服屋だったので、立派な日本家屋にお茶と生け花をたしなむ美しい暮らしをしていた。もう、50くらいから隠居していて株を遊んで箱根の別荘に暮らしていた。

☆セザンヌの家と似ているのは、決して華族でも名門でもなく小商人として、父も母も分をわきまえて身分相応に暮らしていたことだ。父も母も「うちは普通だからいい。」と言っていた。父も私を誉めるときは「庶民的なのがいい。」と言っていた。

 庶民の子の良さは、自由ということだ。

 セザンヌが銀行家の道に惹かれなかったと同じ様に、私も経済的な成功とか所謂いい暮らしには興味が持てなかった。

☆セザンヌは国立の美術学校に落ちたそうだ。セザンヌの通ったアカデミー-スイスは誰でも入れるデッサン教室のようなところだという。

 そして、サロンにも4度落選したという。自信を失い故郷で法律学校にいったり父の銀行で働いたり。

 しかし、富を築いた優秀なる父親はセザンヌの応援にまわると生涯、送金をし、最後には遺産を残しアトリエが建てられることもできた。

 好きな女性と同棲しながら父親の送金を確保するため、父親に秘密にしたりちゃっかりとしたしたたかさも持っていセザンヌ。

 ロザリオを持っている老婆を描いていて、信心深いところもある。

 セザンヌの奥さんはデッサンの教室のモデルで決してお嬢様ではない。普通の人を自然に愛することのできたセ
ザンヌは特別社会運動などしなかった。



☆郷里の「サント-ヴィクトワール山」を晩年はよく描いた。31歳から幾度も。
古代ローマ時代に戦役の勝利の記念として「聖なる勝利の山」と名付けたという山。

 若いときの口癖
「林檎で世界を征服してやりたい」

☆☆☆
 セザンヌはわたしたちみんなの先生です。ーマティス

「セザンヌが唯一の先生だった。
ーーー私は何年も彼の絵を研究した。
ーーーセザンヌはまるで皆の父親のような存在だった。
私たちは彼に守られています」ピカソ(1943年11月12日、ブラッサイによる記録)

ラオスまとりょーしかとキクイ族まとりょーしか!


 蕎麦のたらこパスタ!
 牛肉とグリーンピースのソテー。
 白瓜の糠漬けとえんどう豆豆腐!

☆小さくなりました!

小さいのの間にキクイ族まとりょーしかが入ります!

 キクユ族
 顔のペインティングがきれい!
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☆今日は強風!
寒かったのでストーブに薪を入れました!
髪をダイして、家のなかで自然乾燥!



 あと3個!