August 6th, 2012

雨上がりの庭の輝き!

テーブルや椅子の水を拭いて、洗濯物を干して庭の花をチェック!

もう、朝顔は咲いてないのですが、蕾があるので明日は咲くでしょう。

百合は白、黄色、ピンクと咲いてます!

可憐で華奢なコスモスはずいぶん咲いてます。種から蒔いたコスモスが2段階に葉が出ているので、これからずっと楽しめるでしょう!

☆鳥のオブジェが吊るしてある枝に、小さなきれいな蜂の巣がかかってました!
黄色なのです。鮮やかな!

☆お野菜のほうはかわいい茄子2個、キュウリ1本、トマト多数。
始めに、もぎ取って置いた緑のトマトもきれない真っ赤になりました!
4個あります。

☆朝食はなめこのお味噌汁に野菜(トマト、キュウリ、アスパラ)に、温室みかん小。
☆日が射してきたので、庭で新しいキャンバスを出しましょう!

☆熊本からのメールで、イングリッシュ-ラベンダーの苗は水曜日に届くとのこと!
 ハーブ用の土を大量に買おうと思うのですが、草刈りも始めなければ!

☆オリンピックをみて選手たちのそれぞれの家庭の家族力を感じました。
 絵の仕事も同じで、昨晩、セザンヌの父親がセザンヌのために年金を用意したことに感謝している文章を読み、偉大な仕事は一人ではできなかったのだと思いました。

☆オリンピックのコマーシャルで「誰でも子供の時はランナーに憧れて、なりたいと思う。やがて、少年は成長し自分の力を知って諦める。青年になってギリギリのところで負傷したランナーの思いを背負って走れる選ばれたものが走る」という意味合いのものがあって考えさせられました。

 絵の道も同じようなところがあります。
 趣味で描くのは自由ですが、プロとしてやっていける水準のアーティストはそうはいないでしょう。

 そして、いろいろな条件があるのです。

 才能。
 健康。
 生活支援。
 家族力。
 時の運。

 同じように努力してもほとんどのアーティストは歴史から忘れ去られるでしょう。

☆中国の画家からのメールで来年中国の二つの美術館で個展ができることになり中国の母親に二人の息子の世話を任せ現地の学校に入れ(いつもは日本の学校)、個展用の制作を終えたとのこと。長男はアメリカの高校。ご主人は日本の大学の教授をしている中国人。3人の子供を中国で教授をしながら育てるのは経済的に不可能だそうだ。彼女は京都市立芸大の大学院を出ているので日本でも個展を多数している。

☆女性が芸術をしながら、家庭も子供も持てる時代が始まった。
うまくいくと、国際的に活躍できる時代になったのだった。

 家族の協力があれば!
☆彼女とはボストンでであった。
 主人同士が知り合いで、私たちが絵描き同士ということで仲良くなったのだ。

 ハーバート大学のサークルで墨絵を教えることになった私は彼女の協力でチャイナタウンの文具屋や中国人の水墨画廊で個展をしていたカナダ在住の国際アーティストと中国語で交流できた。彼女の車を買う手伝いなども主人が手伝って免許を取るところも知っているが、とにかく中国人はタフ!

 私が観察している限りでも中国人に日本人は親切でなく、京都でもご主人と別居して大学院にいったのだが、子連れだったのでなかなかアパートを借りれなかったという。

 私は彼女の絵を買ったのだが(4号の油絵)、百人一首を買うとのことだがいつなのだろう?
☆今回は上野の中国の山水画の展示会があるので一緒にいこうとのこと(5日)だが、それは不可能だったので断った。

☆とにかく、芸術家が育つには家族力と他人の応援が必要なのだ。

 若い時に見えなかったが、それがどれだけ必要な世界か?

 子供が4人もいた我が家では、特別な援助を私にしたわけではなかったがアトリエ兼の私の部屋は水も出るようになっ
ていたし、絵を飾る棚も作られた。窓は一面グラスで、毎晩星を観ながら神と話をしていたわけだが。

 しかし、両親とも私の個展に1円の援助もしてくれたことはなく、最初の1972年京橋の個展に父がきた以来は銀座教会で2003年に銀座教会で個展するまで両親は関心もあるように見えなかった。

☆そんな程度の家族力の中で絵の世界を生きてきたのだが、とにかく恐ろしい世界。
画廊や画家仲間の集りも実に多く、私はいつも散々な目に遭っていたのだが両親も「世間知らず。」「甘い!」と言って笑って観ていた。

☆母の母方の祖父が7つの蔵を潰した画家ということで画家は家を潰す仕事と思われ、「穀潰し!」と罵られ、どんなに
困っても1円もくれなかった。

 (雷が鳴り、雨が降ってきたので洗濯物を取り入れる)
☆とにかく、女性が芸術をして生きるのには厳しい社会なのである。
☆小さなことでは「?」がたくさん。
 秋田の聖体奉仕会の修道女が「こけしの絵」をカードにして売っているのだが、「一緒に2人展をやりたい。」と言うと、私は返事ができない。プロの道と言うのはそんなに甘いものではないし、その世間知らずの修道女の名誉を傷つけないように説明する術を知らない。

 恐らく同じように涙を流し体を消耗している真剣にいきる画家にしかわからないだろう

☆女子美術の同級生でも集ったり、暴力を振るったりの人が「一緒に遊びましょう。」「一緒に写真を撮ったことがある。これからも付きあって。」と言われても、現実に「これから仕事の打ち合わせで出掛けなくてはいけないので電話を切ってくれ。」と、言っても「もう、付き合ってくれないの。友達って大事でない?」等と長々。いきなりきて
玄関で殴る蹴るをする人とせっかく大学(中学でない)を終えてまで、これ以上嫌な思いはごめんだ!

☆話しはそれるが、「いじめっ子は暇だ。」というのが大津の中学生自殺事件である教育家が言っていた。
 こっちは、その時間が惜しいのでいつもレシートを握り、支払いを終えてあげて早めに去っていく。
 「応援してあげる。」と言うが、1枚も1冊も買うわけでなく、「応援しなくていいから妨害しないでくれ。」という感じ。
 だから、セザンヌの被害妄想はわかるような気がする。

☆そんなわけで辛酸を浴びた私は不遇の人への同情心も強いのだが、これも災いの元だった。
 人間の欲望のすさまじさには驚くばかりで、自分の気の毒さをアッピールする人が耐えないのであった。

 世間知らずで人間の強かさに疎かった私は自分の大事な時間やエネルギーをずいぶん騙されて使ってしまったものである。

 「孤児の子はかわいそうだろう?」
 誰でも、親のいない子はかわいそうだと思う。

 「児童福祉施設を手伝ってくれ。」
  家から駅まで7分、渋谷まで東急線で20分。山手線で新宿まで15分、中央線で立川まで30分?立川から青梅線で青梅まで、20分?青梅からタクシーで1000円の地まで毎週1泊して通ったが、泊まった場所はアメリカの収容所キャンプでもここまでひどくはない感じ。望まれるままよく働いたが、「あんなに働くのはおかしい。この児童福祉施設を乗っ取る気だろう!」とか、「ここの子は親に捨てられ勉強もできないので夢がなくつまらない。」と園長に言われたり、「ボランティアが魅力的だと子供たちが保母よりなつくので遠慮してほしい。」と保母に言われたり、「寄付を集めてくれ。」と言うので、友人が高級なソックスを大量に贈ったら、「これはいいものだ。」と、園長の家族が山分けしていたり、「バザーの前に良いものを選んで取っておこう。」とシスターに誘われたり「エエーッ?」と言うことばかりで唖然とするなか、最後には体をボロボロに酷使された結果「ルイコさんは、お嬢様過ぎて可愛そう!」と言われた。さらに、誘ったシ
スターは私に無断で、80代の園長夫人に「ルイコさんがフランスの癒しの泉のルルドに連れててくれるから。」と言って
いて「えっ?聞いてないです。お金もないしそんな高齢のかたをフランスに連れるなんてできません。」と、マジ顔で
言ったら、シスタ-は片目をつぶり、「半分、私もお金の支援をしてやるから。」と、口を封じるのに躍起となっていた。
さらに、「ルイコさんは離婚して結婚できない人だから(離婚してない)、一生タダ働きさせて、左団扇で暮らすつもりよ。」と、言っていると教えてくれる人までいて、ここをやめることにした。

 怖いでしょ?

 それからもテレサに「一度、山谷に行きたいので行くときに連れてって。」と古着を運ぶときに連れてって貰ったら、ボランティアでホームレスの人に配るおにぎりを握っているのだが、その主婦たちがジャムの瓶など支援で贈られたものを持って帰ることにも驚いた。

 私も海苔、梅干し、お米を家中、空にして送ってきたので。
人間のさもしさには驚く限りで、ボランティア団体の事務の人が来て「私にも梅干しの樽をくださいよ。」と自分の家庭用に持っていった。

 この頃、わかってきたのだが、富裕そうとかキリスト教の教えで
奉仕をしている場所に上手に入り込んで私欲をむさぼっている人がいると言うことだ。

 この児童施設の園長も「福祉施設は無税で美味しい仕事だ。」と言い、彼の兄弟が、「園長の息子と娘を裏口で有名私立に入れてやった。」というのも聞かされ、吐き気が出るばかりだった。

☆日本人は大津の中学生苛め自殺事件といい、放射能の情報隠蔽事件といい、何か人間の品性が堕ちるところまで堕ちている気がする。

 オリンピックのすがすがしい若い選手がほとんど家族力で乗り気って勝ち進んでいる姿をみると、
もう、国は信用できないし、マスコミにのっている無責任なきわもの本をだしているような人もインチキが多い。

☆この国できちんと生き続けるには孤独にもなるし、敵も多くなるわけである。

高原の雨は爽やか!

今日は雨になった!
絵の道具も濡れないようにチェック!

室内も窓を閉めてるものの涼しい。

☆体を暖めた方がいいようなのでワンタン麺でお昼を終える。

☆写真を入れるのもまだ大変。
 携帯電話撮影した写真がその時間にアップはできない。ある日突然入っていてかなりの作業を経てアップできるのである。
 アメリカの有料ブログで10000円近いお金を払ってこういう状態。
 娘に言わせれば「アメリカはマネー?」なのだそうだ。

 とにかく、娘の在籍した4つの私学からの「寄附依頼」も定期的にある。
1年いた小学校A、2年いた中学校S、4年いた高校D、4年いた大学B。それに私の大学のMや主人のいたHなど。
私の家族は律儀なので支払ってます。

☆そんなわけで一人っ子でようやくできてることなのだが、それだけの価値もあるのがアメリカの学校だ。

☆教育の世界ではアメリカン-ドリームはある!
 夢のようなことが起こるのだ!

 そして、実力の世界。
 それはフランスでもそう。

☆日本の美術学校を出た私は美術教育に絶望しきっていた。
 女子美術の男性教授は芸大出だったが、デザイン科の主任教授がどう私に言っていたかをいうと
「いい加減に。いい加減に!」と言うことである。
 私は黙っていたが、「馬鹿じゃないか?」と思っていた。

 ある人は、たぶん私の生き方についてだと思うが、
 「う~ん。厳しい。厳しい。」と言っていた。

☆セザンヌは近代絵画の父であり、師と言われるが、今、彼の言葉を通して、私も学んでいる。

 セザンヌの厳しさは私には快い。

☆女子美術の教育に絶望し、さらに画壇のセクハラとギャラリーのたかり、同業者の苛めにも絶望した。
 嫌、マスコミにも。

☆フランスに30歳の頃に行って、マチスのロザリオの礼拝堂が開くのを待ちながらお昼を食べていると、地元の不動産屋が2時から開くから、それまで自分の顔を描いてくれという。
それで、たぶん10分くらい描いたら、不動産のお店につれてってくれて「将来、アトリエをヴァンスに持つのなら安くし
てやるよ。」と約束してくれた。お昼代は支払ってくれた。

 その時、私は根拠なく「3e!」と言った。「3つ目のお家はね。」と。
「1軒目は東京、2軒目は山、3軒目は海」

 それはたわいのない夢であったが、現実に湖の見える山のコテージに今いるではないか
ですから、海のアトリエも実現できる可能性はあるのである。

☆日本の美術界に絶望していた私は、パリに1980年用のカレンダーを持っていって(1979年に京都印刷より頼まれて、豆本を選んで『平安千代絵巻』という西陣織の紋紙にプリントしたカレンダーを作った)労働許可証がないので、パト-カトリック教会のバザー寄附として提供したのだが、飛ぶように売れた。他に片言のフランス語を使って自分の考案した易カルタでフランス人相手に幾度もパーティーしたのである。

 それで、フランスでは私の絵は受け入れられるかもしれないと確信した。

☆日本に帰国してから、ロンドン大学で博士号をとったという学者から「宇津保物語」の絵を描くよう頼まれて、「百人一首」の仕事もきた。

☆娘が2歳になる少し前に、パリで個展をする気で東京を出た。
37歳の時だった。その前にパリのY子から30万円+旅費の詐欺にあったので、誰も頼らず自分の直観だけを信じてやることにした。

☆日本のアテネ-フランセの掲示板で見つけたアパートはパリ郊外の『昔々のおうち』という名の建築賞を受賞したアパートの一棟で、その持ち主が日本医科歯科大学に来る心理学の研究者でその留守の間を借りるということで主人も安心した。

 それはそれは素敵なアパートで毎日その中の小道をとおってバス停にかよって駅からパリまで1時間くらいかかっていくのが楽しかった。

 周りはパリに住む人の別荘がたくさん建っていて、どの家も小さかったが家も庭も可愛らしかった。

 娘と一緒にパリに朝7時で、娘は幼稚園私はユーローのフランス学校に9時までに行く
娘の幼稚園からはアクセスが悪く毎朝タクシーでそれがなかなか捕まらなかった。

 帰りは私は3時に終わり、娘を引き取りル-ノートルでお総菜を買ったり、自分の住む駅の中華料理屋で春巻きや炒飯を食べたりして、いつも5時頃『昔々のおうち』に着くのであった。
その頃の夕焼けはとてもきれいで、かわいい別荘のおうちを照らし癒しの光を放つのであった。

 毎日、お風呂に入ってから娘と遊び、9時になるとぐったり疲れ眠り、朝4時に起きて私はフランス語の宿題をするのであった。

 その前に上智大学の女子修道会「明泉会」、上智大学のミッシェルの研究室でグループレッスン、最後には上智の工学部で交換教授できた教授の奥さんからプライベートレッスン、ほかにもアテネ-フランセにも通っていた。

 そして、ビザはユーローのフランス語がっこうで前後2ヶ月まで滞在可能ということで登録してえた。
☆最初の3週間は実家の母が一緒に来てくれ、デパートからベビーベッドを買ったり、借りたアパートの掃除を手伝ってくれた。

 借りたアパートの部屋は前に借りていた日本人研究者のかたが油など垂れっぱなしの台所やシャッターも壊れていて、鍵を受け取りにいった設計者の建築家も家を空けるときにとても驚いていた。おまけに心理学者の飼っている猫の餌やりも条件だった。心理学者はユングの研究者で奥さんが日本人でよく日本語を話した。

つづく
これから、第一スーパーのバスでコメリでハーブ用の土を買う支度を!

もう、すっかり晴れて!

さて、すっかり晴れて雨も乾き始めているので、帰って少し休んだら絵を描きます!

☆今日の第一スーパーのバスは大学村と神山だけを走るバスだったのですが超満員。
 最後にロッジ近くの車椅子の老女が乗り、車椅子はおりたたんで一杯になるのでした。

 それで、カートは私ももうのせれないので2回前くらいから持っていかないのでした。

☆「ナカジマ」でセイロガンの大瓶と鎮痛剤を買い、コメリで土をかったのですが運んでくれないそうで、一袋だけ買い、あとはインターネットで買うことにしました。

 第一スーパーでは色々買って、10回ほどバスのスタンプがたまったので、タカ子さんも私もティッシュペーパー5箱と白上砂糖を一袋貰いました!

☆さて、続きです。
 そうして4月4日から2歳にもならない娘連れでパリでの生活が始まったのですが、子供も賢いもので、週に5日ほどの語学学校で水曜日になると満員のRERを乗り換え、地下鉄で16区のパリの幼稚園に着く頃「今日は幼稚園に行きたくないの。動物園がいい。」と言うので、フランス語学校を休み、水曜日と土曜日と日曜日は、バンセンヌの森、リヨン植物園、フォンテンブローの森と動物園に行くのでした。

 夏には夏休みの長い主人がパリに2ヶ月ほど来てくれました。

 後にわかったことですが、私の父親が彼に80万円ほど渡し「娘と孫に会いにいってくれ。」と言ったようです。主人はその頃は、月20万円より収入は増えてました。私が「アカチャンのミルク代だって要るのよ。私だったら屋台を引っ張っていても妻子のために働く。余っている時間を働いて欲しい。」と言ったので色々空いてる時間を埋めて働きだしてパリにも生活費を送ってくれてました。

 父はこのように気が利く人なので、セザンヌ以上に父のお陰を得ているわけです。

 主人の弟が私の娘に何かをして哀しいまでの悲鳴をあげたのがパリ行きの原因であることを父も知っていたので、やんわりと主人の弟に「娘に良くしてくれてありがとう。」と言ったのも父で、義理の弟はばつの悪い顔をして俯いてました。

 母が心配して「娘と孫が知らないところで母子家庭をするなら、孫は死んでしまう。」と心配で眠れないと言うので、「それなら、お前も付いていけ。」と母も一緒に3週間いることになったのも、父のアドバイスなのでした。


☆晴れているので絵を描いてきます!

 つづく

夕焼けが消えるまで絵を描いてました!

 あれから、7時まで2枚のキャンバスにピンクの百合と黄色の百合を別々に描きました。あとで、12枚のキャンバスを1枚の絵にするつもりです。

 今日の夕焼けは青い空にピンクの空がちぎれているように散らばりとてもきれいでした

☆いつも油絵の具の片付けには雑巾とタオルを4,5枚汚し捨てます。

 体も筆洗油で洗うのですが、それでも着ているものも手足も靴も汚れます。
それで、すぐにお風呂に入り、手足の絵の具を落とすのでした。
今日のハーブはワコールという杜松で、髪の毛も5色のハーブでシャンプーしました。

☆さて、パリ時代の続きです。
 私はフランスにいるときはフランス人のようにという考え方の持ち主で、子供も私も衣服には気を付けました。
 そして、土日にはフランス人のようにウィークエンドを郊外に泊まりがけで行きました

 ミレーのバルビゾン。
 モネのいつも泊まっていたオンフルールのホテル。
 モン-サンミッシェル。

 フランス人は本当に絵が好きなんですね。
 どこでもとても良くしてくれました。
 モン-サンミッシェルで私と娘を駅まで乗せてくれた祖母と母と娘さんの乗っていた車は駅のとなりに住む人で御茶を薦められ、「パリでは藤田と同じホテルだったわ。とても
寡黙な人だったわ。」と言ってました。

 とにかく、個展の頃はくたくたで自分で百人一首も宇津保物語も仏訳し、フランス人に最後には直して貰い日本からやって来た姑と母を迎えました。

 とても幸せで、ポスターも自分で貼ったのですが「プロに貼らせることができる。」とアドバイスあったのですが、自分で何もかもすることで本当の反響を知りたかったのでしたが、ブラボーと皆がいと言ってくれたのでした。

 フランス人には感心しました。2時間ぐらいかけて宇津保の物語も読み、百人一首も読み、最後にサイン帳に優しい励ましのコメントを書いてくれたのです。

 プライベート-レッスンを受けていた上智大学の教授の奥さん家族もリヨンから駆けつけてくれました!

 パリには色々な国の人が住んでるのでアラブ語やドイツ語でのコメントもありました。

 コメントの最後には「素敵な個展をしてくれて有り難う!」と書いてくれ、レ-ジョン-ドヌール賞を受賞した画家は3度も来てくれ、おうちにも招待されました。とても有名な人のようでダリやピカソや有名人との写真が家中に飾ってありました。

 個展会期中も5つの仕事のオファーがありましたが、主人の希望ですぐ断り日本に帰国しました。

☆日本での個展とのあまりにもの違いに驚きました。

遅すぎることはない!

 日本では、母校(女子美術)に、個展の案内状を持っていくと主任教授が「ひけちらかしにきたのか?」と言うのです。
 そして、同級生たちも「ふん!」と言うのです。親から1円ももらわずやり続けてきたのですが、「お金があればできるんだ!ぺっ。」と言う人もいました。

 そして、前にも書きましたが名も知らぬ芸大での20代後半と思える人が、銀座で個展中に「ちょっと来てくれ。」と裏通りのバーに連れ込み「寝なくても良いから、ここで働け。」と言うのでした。彼はそこで、集金の仕事をしていたようで女性を連れていけばお金をもらえるのでしょう。

 そのくらい日本の画壇は腐っていて汚いところで、若い女性を食い物にするのを恥じない男社会でした。その頃、25歳くらいでした。まだ、世間知らずで夢一杯に頑張っていたので、早く女性として扱われることのないお婆さんになりたいと心の底から思ったものです。

☆私は20代の頃は「日本で認められない限り、外国にいっても仕方がない。」と思ってました。
それで、母と16日間の「世界一周」というのにいっただけです。世界一周と言っても、マドリード、ロンドン、パリ、
ローマ、ナポリ、サンフランシスコ、ニューヨークを周遊しただけです。

☆母親もかなり気まぐれで「絵を一生描け。」と言ったり、「絵を描いているばかりで紅衛兵みたいだ。」と言ったり、夜遅く帰ってくると家中鍵をかけられて家には入れなかったり、仕事の電話を知らせず苦情が一杯ありました。
どちらが悪いかはともかく画廊が無料の働き手として「留守をするから手伝ってくれ。」と電話がかかると、「娘をくいものにして!」と相当厳しく怒ったそうで、「もう2度と電話をかけれない。」とギャラリーの奥さんに言われたこともありました。確かにケーキ1個でアルバイト代も払わず店番をさせるのですから、母の怒りも娘を守る正当なものだったのです。そのギャラリーも潰れましたが。

 ☆とにかく、日本には30になるまでは居ると決意したのですが、実際にはフィンランドの大使館からお伽草子の挿し絵
24枚やアメリカ人経営のホテル-オークラ内のフランドル画廊でプチ団扇を売ってくれたりして、ドルの小切手をもらっ
ていたので、日本よりちゃんと評価されていたのかもしれません。

 ☆しかし、裏では凄い怖い陥れが日常茶飯事で、北斎の絵が障子に描いてあった小料理屋では「不幸にしてやる。」と小料理の経営者の女主人に仕組まれたことがあり、そこの客が私の版画を6枚買ってくれ連れていった「ジェリコ」と言うスナック経営者の元宝塚の人からは毎晩電話がかかり、たかられたりツバキを吐かれたりしました。

 私は自分では気づかなったのですが、その頃はオーラーが大きくて道を歩いているだけで「殺されるよ。」と注意されたこともありました。

 それで、多くの余り幸福でない女性が苛めてやろうと思ったようです。

 ☆さて、30歳になって待望の国外進出が実現できる時になって、「まさかのまさか!」が起こったのでした。
 たま出版社長の故瓜谷氏が、何が目的であったか多くの10代から70代の男性に勝手に電話番号を教え、集まってきた人達のセクハラ、パワハラ、たかり、脅かしに出会い、6月にローマの国際会議「宗教と科学」に出席するので、集まってきた人にも解散を報告しそのままヨーロッパを回りパリに落ち着いたのですが、ロンドンやジュネーブに行くとい人達がパリに来てしまったのでした。

 さらに、幾人に訊ね私の住所を聞き出した「日本神学」と言う月刊誌が原稿を依頼してきたのです。私がとても貧乏なパリ生活で大変だと書いているにも関わらず、原稿だいを払うどころか、その読書がパリに行くからあって欲しいと言うことも。

 そんな中で故瓜谷社長が電話を教えたロンドンやジュネーブにいるはずの青年と秋田からきた青年が(皆、大学生)ぐるになって風邪を引いて弱っていた私をアパートから追い出して乗っ取ると言うことが起こったので氏あ。

 階下のボザールの国立美術学校の生徒が私が友人とホテルにスーツケースをもって風邪が治るまで休んで、直して帰ってくると、待っていて、「追い出したよ。」と言ってくれて助けられたのでした。

 今でも彼らが何を求めて寄って来たかはわかりません。

 故瓜谷氏の出版社がその前に2度倒産し、私が絶交してから1度倒産したことも蚊帳教会イヴェントでキャンドル-アートを手伝ってくれた千絵ちゃんが教えてくれて知ったのは最近です。

 故瓜谷氏がなんでそのようなことをしたかも知りません。
母は「娘を食い物にして!」と怒ってました。

 しかし、やがて結婚してアメリカに行く少し前に、こずるいことに身体障害者の人を使って「たま出版の手伝いをしてくれるように。」打診してきました。多くのベストセラーになった本を紹介してあげたからです。全部、タダ働きで、ほかにも同じようなことをされた佐々木功一先生は「瓜谷は紳士でない。瓜田は刑事事件しすると言わないと印税も払わない。」と、大変憤っているのを見たことがありましたから、紳士的でない陰謀で色々な男性に電話番号を流布していたのでしょう。

 しかし、最近の大津の苛めのように、実に多くのどうしようもなさを秘めてる事件でした。
強姦狙いと思える青山大学夜間部の郵便局の配達をしていた青年は親は熊本の教育委員会でした。その頃は働きながら大学に通っていると感心しましたが、今、思うと昼間の方は落ちていたのかもしれません。

 また、一生ルイコさんにタダ働きさせて左団扇で暮らすと言っていた修道女は60歳でしたが兄が新潟市教区の司教で世俗では知事と同じ権力をもっているそうで、児童福祉施設の人たちも共産党と組んで園側を経済的に揺さぶったときも「司教を敵に回してカトリックの福祉施設はやっていけない。」と言ってました。

 権力に守られている人の奢りといつの間にか正しくものを見れなくなった哀しさがありました。

 そして、ちゃんと生きてる人に迷惑や不愉快を与えるのです。

 その修道女は秋田の聖体奉仕会を脱走し、小金井の頼山陽の子孫だと言う信者の家にいました。それから女主は娘のいる京都に行って留守でした。それで、食事も一人でしなければならず児童福祉施設に「月3万円でいいから働かせてくれ。」と言って来たそうです。そこから電話で呼び出されたのが私で、寂しかったのでしょうか?朝のミサとかに付き合わされたりしましたので、おとなしく従順だったので、「一生タダ働きさせて大事にされいいおもいをしよう。」まで進化してしまったのでしょう。

☆そんなわけで、30代の始めのパリも帰国してからの日本でも宗教にも福祉にも
絶望したのでした。

 それで結婚したのですが、結婚前には神父から「お小遣いをくれてもいいのよ。」と凄まれ、手切れ金と思い20万円支払いましたが、私のタダ働きで楽をしたいと思っていた人はかなり多かったようで、がっかりしたようでした。

☆しかし、私は夢を失いはしませんでした。
 娘が10ヶ月頃から、再びフランス語を始めました。

 子育てで肉体的な労働奉仕ができなくなったで、寄付と言う形で恵まれない人への支援は続けました。

 そして、パリ個展ができて将来に夢が開きました。

☆宗教でも心あるところも有りました。

 長崎の「聖母の騎士」の修道会コンヴェンツェル-フランシスコ会で聖コルベ神父の列聖式に結婚前に誘われ行ったの
ですが、そこから聖コルベ神父の殉教50周年煮えを納めるように依頼されたのです。

 ローマの列聖式の前はイスラエル巡礼がついているツアーでフランスも入っている16日間のツアーでした。
旅行前に主人から電話がかかって来たので、神様に「芸術の道か宗教の道か結婚の道か」決めて貰おうと悔いのないよう
に16日間のツアーのあとに1週間延長して個人でパリに残ったのです。

 ツアーで同室の薬剤師の老婦人は、私のそんな巡礼参加の目的を知り、「妹が修道女だが、晩年の働けなくなったときが惨めだ。家庭の主婦のがいい。」と、巡礼旅行なので一日に3度くらいミサがあるのですが、「このお嬢様の結婚のために祈ってください。」とすっぱかれ、なにしろほとんどが修道会の聖職者と言うツアーだったので、結婚することになったのでした!

☆しかし、神様は実に気前のいい方で、結局は芸術も信仰もそのまま続行なのでした。
☆「聖母の騎士」はアウシュヴィッツでユダヤ人の家族のある人のために身代わりに死ぬことを選んだ聖コルベ神父の作った修道会で長崎にありますが、ブラザー-ゼノや蟻の街のマリアと言われる北原玲子(さとこ」さんの立派な働きを戦後の日本の子供たちにもたらした教えを作ったところです。

 ここはなかなか立派です。
 甥が2歳過ぎて「話せないし歩けない。」と義理の弟嫁から電話があったときも黙って聖母の騎士に3万円送り、ミサをあげてもらうよう依頼したのですが、その2日後ぐらいに義理の弟嫁から電話があり、「息子が喋った。はじめての言葉はパパだった。」と言いました。主人に話したら「余計なことをした!」と叱られました。それで誰も知らない事実です。

 他に80号の油絵を「聖コルベ神父の殉教50周年」に納めるときに、父が額代を30万円くれました。それを長崎に贈りなさいと言うのです。それで、「額代金」として現金書留で郵送したら、感動的なことに聖母の騎士は返してきたのです。
「私たちにも額代金は払えます。」と。

 この時に2年生の娘をモデルに聖母マリアより啓示を受け『殉教か純潔か選びなさい』と、白薔薇と赤薔薇を差し出された少年の日のお召しだしに『両方とも』と答えた逸話を描いたのですが、余りの下手さに「これ
では不味い。第一今まで油絵を習ったことはないのだ!いつかちゃんと勉強し直そう」と決意したのでした。

 このような絵であるにも関わらず、母と娘と私とで長崎に行って「聖コルベ記念館」に行ったら、ドアを開けて真正面のゼノ修道士が作った聖コルベ神父の部屋の壁にかけてありました!
さらに、その下のショーケースには遠藤周作の「沈黙」の生原稿が!
隣の部屋には北原玲子さんの書道が飾ってあり、畏れ多いことだと思ったのでした。

☆そして、「いつかちゃんと油絵の基礎を勉強したい。」「いつかちゃんとデッサンの勉強をしたい。」「日本の美術学校(女子美術)では、評価されなかった私の絵だけど世界一と言われるハーバード大学ならきっと認めてくれる先生がいるはず。」とこの祈りの全てが2年後に実現したのです!

☆アメリカに行くことが決まって娘と私はイーオンでプライベート-レッスンを1年ほど受けました。
 いつも書いているように私はアレルギーができるくらい英語が嫌いなのです。
 今まで「英語ができなくても生きていける」と、居直っていたのですが、アメリカ暮らしでは、「英語ができなければ生きていけない!」のでした。

 アメリカに着いてすぐにあったオームの地下鉄サリンガス事件は初めてのホテルの夜のテレビで観ました!

 娘の学校も家の前だと主人が言っていたのですが建て直し中でかなり遠いところにあり、スクールバスで通うのでした。

 「だから、あれほど一年前のゴールデンウィークに下見に主人がボストンに行く用事があるときついでに私たちも行くとあれほど言ったのに!」に、主人の爪の甘さに子供がかわいそうと思ったのでした。おまけに生活保護区域でクラス19人のうち白人2人に中国人1人以外は黒人で、宿題も3人しかやってこないのです。娘が「もう、学校へ行くのは嫌だ。」
と言うので観に行ったら、授業中に黒人の子が学習机の上でウォークマンで踊っているのです。

 娘のお世話係に任命されたサリーちゃんはとても優秀で9月には名門の女学校に入学が決まっていて両親ともハーバード大学の教授で他州から数ヵ月前にマサチューセッツ州に来たので臨時的にその学校にいたのでした。なぜなら私の家もそうでしたが、9月前でないと人気の公立小学校は区域が決まっているので入れないのでした。

 9月にはサリーちゃんはいないと知った娘は「日本に帰る。おばあちゃまのところから小学校に通う。」と言うのです。

 それで、一軒先のアメリカ人夫婦の家に行き、「この地域の学校はとても悪いと思うのですが、歩いていたらいい学校もある。この辺の学校はどうなっているのでしょう?」と、訊ねました。

 そのカップルもハーバード大学医学部教授とMITの研究者カップルだったので、子供もいることだし訊いてみたのでした。

「この辺では、教育熱心な家とお金持ちの子は私学に行きます。公立の悪い地域なのです。」
私が余りにも困っていたので、「うちの子達が通っている小学校ならまだ、できて10年にしかならないので、入れるかもしれません。」と、卒業式の6月始めだったのですがママは私を連れてってくれました。

 とにかく、子供たちが幸せそうで色々な国の子がいます。
親子3者面接の日も決めて貰えました!

 奇跡がいくつも起こりました!

 入学担当のオフィスの人が目黒の所属教会の聖アンセルモの幼稚園を出たという片言の日系人。
先の公立小学校の通信簿はオールAで日本の4年生までの成績表も提出しましたがこれも「みな良い。」他にも先の公立の小学校の教師が本当にマザーテレサのような人で大いに好意的な推薦状を書いてくれ、私を連れてってくれたユダヤの超教育ママのハーバード医学部教授も「ここは、絵の先生がいないのよ。ママはパリで個展をした絵描きだから、絵の先生もやってくれるわよ。」と、一緒に売り込んでくれました

 それで、「初めての日本人、しかもノン-ネーティブスピーカーで、短期滞在者。前例のないことですが入学を許可しします。」と受け入れてくれました!

 アメリカには夢のようなことがおこるんです!

 夏はベルモント-デイスクールという私立小学校のサマースクールで英語に馴れるように水泳したり絵を習ったりしてました。

 娘はここで、回転飛び込みでプールに入ることを覚え、拍手喝采を浴びたのでいつもくるっと回って飛び込んでました。

 土曜日は500人もいる日本人学校に行き、算数1時間国語2時間習いましたが、
苛め子等一人もいず子供たちはアメリカ社会と必死で闘っていました。

 とにかく、感動的に在米の母親たちは子供のことに全力をあげて頑張ってました。

☆私も娘がデイ-スクールのサマースクールに通っている間、ハーバード大学のサマースクールの英語を受講していました。
 ハードでしたが、とてもいい先生に恵まれ楽しかったです。クラス分けテストが最初にあり、5段階の真ん中のClevelでした。
 クエート、ウクライナ、コスタリカ、アラブ首長国連邦等、色々な国から来ていて先生のアイデアで各国の料理の本を作って表紙は私にデザインをさせてくれました。

 私の主人は社交的でない無口の人なんですが、その英語の先生は秋の感謝祭に私たち家族を自宅に招待してくれボストン名物の七面鳥をご馳走してくれました!

☆そんなわけで、アレルギーの出るほど嫌いな英語も47歳にしてやることになったわけです。
遅すぎることはないということは、このことです。

☆娘の学校も6年生の始まる9月となると、私の絵の先生もしっかりカリキュラムにくりこまれ、4年生5年生6年生相手に「俳句画」と「百人一首」を教えることになりました。とにかく、英語にはコンプレックスがあるしさらに、絵を教えるのも大嫌いなんですよ。絵って教えられるもんでないもの。

 しかし、娘の入学に私が絵を教えることも条件付きだったようなので、私も頑張りました!

☆本当に素敵な学校でした。
 盲導犬を連れた目の不自由な女性が音楽の先生でした!
 全てが実験的で理科が農業!
 社会がアフリカ!
 算数と国語だけは18人の5年生と6年生の混合クラスが2組あるのですが、2人の先生が見てくれました。

 英語のできない娘(入国6ヶ月目)に劣等感を味あわせないように上手にピアノを誉め、「先生は踊りたくなっちょうよ。」と男の受け持ちが言えば、女の受け持ちが娘のために連弾のピアノ楽譜を持ってきて先生と連弾ができるようにしてくれるのでした。

 とても娘にとってハンディだったのは10月には学校で放課後中学受験の準備が始まったことでした。
一斉テストISSEと言うのがあり、1月には受験校のそれぞれの学校の入学テストがあるのでした。
両親の面接もあり、私も引き続きハーバードの一般用の英語クラスのDlevelを取ってました。

 奇跡に奇跡が起こり、小学校の入試担当では「短期滞在者で英語ができない子供は手間がかかるので先ず無理だと思うので諦めてくださいね。」と癌の死の宣告のように言われてました。娘も日本の友達が桜蔭を受けるのに小さいときから塾にいっているのを知っていたので、白髪ができるほど心配してます。

 ところが、娘はケンブリッジの双璧と呼ばれる2つの名門校を2つとも受かったのです
  
 それには、小学校の先生たちも驚き喜んでくれました。一番よかったのは、アメリカに娘が信頼を持てることだったと思います。

☆娘は公立の小学校の「サダコと千羽鶴」の初めての教科書のことや広島のサダコ像の前で踊る日米の子供たちの戦後50周年のダンスを体育の授業で習い学芸会で踊ったことや、エイトリウム小学校で理解の農業や卒業式に皆で泣いたことなど書いて書いて作文コンクールに出して入選し活字になり、エイトリウム小学校の卒業の思い出の方は読売アメリカに載り、暮れにニューヨークのジャパン-ソサイティで授賞式に招待され、親子でニューヨークにいきました。

 アメリカの娘の入学した中学は男女合わせて一学年50人しかいないのですが、クラスは3つに分かれてました。
余りの意識の高さに驚くことばかりでした。

 2年かけて世界地図を見ないで描けるようにするのです。ですから、ユーゴーのあの入りくんだ国々も娘はよく知っているし、「この子達が30になった時にそれぞれの国の代表になる子供たちを作る。30になったら、皆で手を繋ぎ世界平和を作る子供たちになるように育てる」という趣旨なのでした。この学校の先生は小学校でも博士号を持った教師が教えるというのもポリシーでした。

 私も頼まれて、小学生に折り紙、中学生に油絵を教えることになったのですが、子供たちの優秀性には本当に驚きました。
 私が立っていると小さな一年生の子供が自分の小さな椅子を半分ずらし、座ってと言うのです。

☆私立ですので日本の私学の3倍の授業料他、父兄の寄付で恵まれない家の子供を無料で丸抱えで入学させているのです。
 娘の世話係のリサちゃんもロシアからの亡命者で両親ともモスクワ大学出でママはハーバードの図書館で働き、パパは古いロシア語の詩人ということで貧しかったけれど、とても優秀な子でした。
とにかく、卑しいところ惨めなところがひとかけらもないのです。毎日、行き帰り一緒で朝は主人が車で送って行きました。帰りは二人で歩いて20分くらいで帰って来るのですが、リサちゃんのお陰で英語がかなり上手になったようです。

 頭のいい子と言うのは自分の貧しい家も恥じることなく、「あれが私の家よ。」とバスで出掛ける時にクラスメートに言ったら、クラスメートは「へえ?あそこに人間が住んでいるの?」と言ったそうですが、リサちゃんはケロリとしてました。
 私はリサちゃんにとても感謝してます。
幼稚園の時にアメリカに亡命し、4年生まで公立に通い優秀過ぎるので私学に行くように公立学校から言われてきたそうでした。

☆大津の中学2年生苛め自殺の学校とはなんという違いでしょう?
私は苛められたら、思いきって外国に出せと言いたいくらいです。

 アメリカの私学の先生は24時間中、生徒のことを考えているともよく言われることです。

☆それで、私の2度目の夏は英語も苦手なことだし、サマースクールでデッサンと油絵を学ぶことにしたのでした!
☆さらに、素敵なことが起こりサマースクールの英語のパンフレットの表紙に私の写真が使われていて、ウクライナの18歳のお嬢さんとアラブ首長国連邦のミリアムと年齢は絶対に
言わなかったけどカイロ大学の英文科の学生でドバイから来ていた人といっしょに写っていたのでした!それはポスターんもなっていて、ハーバード大学のキャンパス中に貼られていました。

 英語も習うものですね!
 47歳になっても!

☆デッサンと油絵のレッスンでどういうわけか教授がとても評価してくれたのです!
 油絵もパレットにグラデーション順に絵の具を並べることから、キャンパスをホッチキスで張るところからです。

 女子美術で教授たちに苛められたりセクハラで追われたりして絶望していたときに「きっと世界一の言われるハーバード大学なら認めてくれるに違いない」と確信が実現したのです!

 油絵も基礎から徹底的に習ったのでしっかり描けるようになったかもしれません。
 デッサンも同じ先生に習ったのですがクリティックもする訓練ができたので絵を見る目も養ったのでした。

 秋の正規の授業にも出れるようにしてくれたので、私以外はハーバード大学の医学生だったり生物の専門学生だったりで英語ができないハンディを熱意でカバーするべく頑張ったのでした!

 その時18歳から22歳までの女子美術の教育から受けた傷が消えたのでした。
☆教育って恐ろしいですね。
 立派なところで大切にされる真剣さや厳しさが一方では「いい加減にやれ。」と潰すのです。

☆私も64にもなって、嫌われてもいいから本当のことを言おうという心境になれました
それが、日本で苦しんでいる若い人への誠実さなのではないかと思えるのです。

 お金もロシアのリサちゃんのように、能力に応じてちゃんと集まってくる法則があるようです。
 
 苛めっ子たちも同級生を殺すことだけが楽しみのような学生生活でなく、自分が一生懸命になれるものをやはり教師が早く見つけてあげることが大事だと思う。

 自分は思うんですけど、人間の夢は100%といってもいいほど実現するのですよ。
 引き寄せというのではなく、私は神との取引です。

 無料で夢を実現させようとは思いません。
 神の喜ぶことをたくさんし続けるのですよ。

 与えて与えて与えきる!

 そうすると遠慮しても遠慮しても願いが叶ってしまう。

これが運命の法則です!