November 15th, 2013

速乾性の油彩は乾くのが速い!


しかしながら、外で描くのがベストなので描くには限界がある。

 

明日の 雨で雪が溶けると思うので微妙に苦しい。

 

食事が過ぎたらビニールを被せ、キャンバスを置きます。

 

☆それにしても寒い!

☆お風呂に入って体を温めましょう。

「アーティストになれる人、なれない人」宮島達男著を読む。


お風呂から出てぬくぬくとベッドで読み終えた。

 

☆対談1つ、鼎談3つからなりたっている本である。

 

その中で「佐藤卓-杉本博司-著者」と「茂木健一郎-やなぎみわ-著者」が、特に面白かった。

 

☆宮島達男氏が西暦1955年生まれ、杉本博司氏が1948年生まれ、デザイン科が佐藤卓氏55年生まれで、情報がとても分かりやすかった点があるかもしれない。

 

この本に出てくる現代の成功者は国際的で、海外で教育を受けている人が多い。

 

杉本氏はロスアンジェルスのアートセンター-カレッジ-オブ-デザインで2年。

 

大竹伸朗氏はロンドン滞在。

 

茂木健一郎氏はイギリスのケンブリッジ大学。

 

名和晃平氏はニューヨーク、ベルリン滞在。

 

宮島達男氏はニューヨーク、ベルリン、パリ滞在。

 

☆☆☆
この国際的視野から、日本の美術教育を家庭環境を幼児教育を語っているのだが、「日本教育にかけているのは批評性である。」と言うのには、同意する。

 

1947年生まれの私。
生まれながらの「はすっかい精神」を持っている私は日本ではいつもとても生きぬかった。

 

おそらく「批評精神、批判精神」と言うのは、学ぶと言うより個性のように性格として持っているものではないだろうか?

 

1984年生まれの娘もごく幼児の頃から批判精神を持っていて、日本の幼稚園では(モンテソーリー)、「頭でっかち」と園長に避難されたが、パリのルクセンブルク公園で遊んでいた2歳の時に、見知らぬフランスの老紳士が「今日朝から、子供たちが遊ぶのをずっと観ていたが、あなたのお子さんが一番インテリジェンスがある。」とわざわざ言いに来たのである。

 

その子供が自由に遊ぶことの許された一角には幼児から中学生の子供たちが遊んでいて、フランス語の話せない娘は草など摘んでおままごとのようなことをしていただけであったが。

 

日本の教育で異端だと、大抵は教師と同級生からいじめの対象となるであろう。

 

何しろ、目立たず知っていても知らない顔をするのが慎みだという文化の国なのだから。

 

☆この本で杉本氏が語っているように、アメリカでは自分の作品を語れなくてはならないのだ。

 

私がたまたま学べたハーバート大学、ボストン美術館付属美術学校はなにかと言うと「あなたの作品について語ってください。」と言われ、アレルギーが出るほど英語嫌いな私は地獄の思いをしたものだった。

 

☆ボストン美術館付属美術学校、以降、SMFA(school of museum of fine art)と記すが、絵の評価の半がcriticだった。

 

1年が前期と後期に分かれ、各期の最後に自分で選んだ教師2人とアトランダムに選んだ学生2人とに、そに学期中に描いた作った全作品を並べ、statementを発表し作品説明し、教授と学生からの質問に答える。

 

教授と学生は紙にその場で講評を渡し、発表した人はコピーをもらえる。

 

また、自分も他の学生の発表の場に参加し批評を紙に書いて本人に渡すのだ。

 

最後に評価と言うものが、他人を批評した文と自分の作品の批評能やstatementの評価と作品でgladeがつくのだが、実際には更に進化して、glade(成績)もつかない。

 

それは、長年の経験でいい成績をつけたものが、必ずしも成功者とならず、悪い点をつけられたものが必ずしも社会に出て失敗するとも限らず、根拠のない意味のないものだと思ったからだという。

 

☆日本の私の出た女子美術のデザイン科で教授の提案より進化し過ぎたら、私は授業拒否の処分を受けた事実がある。

 

☆この英語を母国語としない学生にとって、英語で他人の作品の批評をしたり、自分の作品の批評をするということが如何にハードルが高いことか?

 

この間の地下の大掃除の時に発見したボストンでの英語学校での修業証書。

 

このスクールは10段階まであって、ここでlevel 10まで学ぶと、TOFFELの550以上と評価され、SMFAでは英語能力はパスできるのである。

 

私が通っていたときにはオリンピックのゴールドメダリスト水泳選手の鈴木大地がいて、グループで一緒に食事をしたことがあった。

SMFAは日本のアートを認めたフェノロサが学んだり、岡倉天心の庭があったり、ボストン美術館の東洋美術は天心が買い付けたそうだが、学生である私たちは何時でも学生証を見せれば美術館に入ることができた。

 

☆ほとんどの外国人学生は本国も美術学校を出たあとに来ていたので、下手な人と言うのはいなかったが、それでも戦後に1人、名のあるアーティストが出たくらいで全世界どこでも、アーティストが成功するのは難しいということのようだった。

「アーティストになれる人、なれない人」その2.

☆作者はトップ-アーティストを産み出す大学院大学を作りたいと言う。

 

トップ-アーティストの定義、成功したアーティストの定義は多様である。

 

現実には大学はおろか、まともに小学校へ行ってない魅力的なアーティストはザラだからだ。

 

逆説には、美術大学で潰される才能もある。

 

なまじっか専門大学に行き、豊かな才能に恵まれた同胞を知って筆を折ったと言う話も聞くし、国際的に名声を残したグランマ-モーゼスや何とも不思議なヘンリー-ダガーの作品は生じっか教育を受けていないから生まれたもので、多くの美術学校で学んだ学生の夢見るような成功を彼らは自分の興味のあるがまま夢中になった結果である。

 

☆私は思う。

 

芸術家は血と運命に愛されなければと言われているが、神に愛されなければならないと。

 

この本の中にも性格的に素直さとかあまり悲観的なのは良くないようなことが語られているが、結局は社会優等生のものであるかのような印象はかなり了見が狭いと思う。

 

現実には、極めて苦しんだ魂にとって芸術は本人にとって救いなのだ。

 

芸術は下層社会にとって犯罪と言われるものが、それ以上の社会にとって自己発言、自己発散で社会に危ういエネルギーを画面に散らすことで無難にならしめている効果もある。

 

そうだ!
SMFAでは、障害者は授業料が無料でセラミックのクラスでは小児麻痺の中年女性が粘土を捏ねていて、ゆうがけや焼くのは先生がして、クラスが終わるとボーイフレンドが車椅子で彼女を地下から1階まで運び、カフェでコーヒーなど飲んでいたものだった。

 

おそらく体の為にも手で捏ねることは有効であった筈だ。

 

☆しかし、美術学校のいいところは個人で買えそうもない高価な機材が自由に使えるところだ。

 

今のところ、日本の私立美術学校が授業料が高く、インターネットによると材料代を込みで4年生大学で800万円くらいかかるそうだ。それで、経済力と言うふるい分けがあるわけだ。

 

国立の芸術大学の方は倍率が高くて、授業料は安いかわりに受験準備のために通う予備校というのかデッサン教室にかかる時間と費用がそれなりにかかるらしい。

 

私はこの部分が2ヶ月しかなかったので、デッサンには長い間劣等感を持っていたが、この間、古川という画家が40で脱サラして独学で絵を描きニューヨークのグッゲンハイム美術館館長に買い上げられて、国際的な画家として成功しているというのを知って、大枚はたいて夢見る美術大学で学んだ人の多くが諦めて他の職業についたり、挫折しているのは一体なんだろうか?と思うのである。

 

美術学校は本当に有効であるか?

 

☆私の場合。
教授が「目に見えるもの」しか描かせなかったので、授業拒否の処分にあったのだが、ある意味で勲章であって、私のアーティストの初めての闘いとしてとても意義ある一歩となった。

 

つまり、教授の能力に限界がある場合、美術学生は不遇な扱いを得るということ。

 

☆この件にことを、私が日本経済新聞の文化欄に書くことができた。

 

行き付けの「此花画廊」のオーナーの池田女史は「奥田土牛の富士山の絵と正月の一月に出たからとてもラッキー。」と喜んでくれた。向かえは現代美術画廊の南画廊で、「此花画廊」は川端康成の字の看板がかかっていた日本画や洋画を扱う画廊であったので、「そう言うものの価値観があるのか。」と思ったものである。

 

英訳


☆自分は現代美術のアーティストという意識はまるでなかったが、私は誰に教えられた訳でもなく極めて現代美術の考え方をしていたかわかる。

 

そう言えば、私のポスター作品を次の授業の教授は「芸術的だ。」と言ったのであった。

 

私はデザイン専攻グラフィックの学生で絵本や青図、建築スペース、レタリング、イラストレーション、工業デザインのレンダリングと技術的な事を緩く学んだと思う。

 

私は不器用で技術能力は皆無。良かったは芸術理論。ずっと知らなかったが成績表が出て来て、音楽がc! それ以外は英語がBあとは良かったのか?悪かったのか?

 

デザイン科は数学や色彩学や美術史がありました。哲学や法学もあったっけ。

 

しかし、卒業間際の授業で資生堂の中條正義氏(花椿等のデザインをしていた)が、絶賛され、「120点で完全。しかし、もう伸びないだろう。」と批評した。

 

☆これもいいような悪いような評価で、私としては卒業後は絵を描かないでお茶の稽古等していた。

 

教授指導というのは責任がある筈だがデザイン科のものの見方でしかなく結果としては、自然に芸術の方に移行していった。

 

そして、デザイナーとして就職することなく、運を引き寄せる能力があったのでその年のうちに、渋谷の西武デパートで個展。翌年、ギャラリープリントアートで個展と続いたが、絵を描く時間よりも社会学、thinkingに時間を割いていた。

 

☆この原稿用紙、確か400字摘め7枚だったと思う記事だが7段抜きで広告料として支払うとずいぶん高いものだったようだ。

 

現代の物質文化に自分が適応できないこと。権威に疑問を持ちその対局にある底辺社会に真実を求め歩いているうちに普遍性のある易経に出会い、自然から学ぶ中国の古代の思想家に学び、難解とされているものを誰にでもわかるものにして、易カルタを創案して自分で占えるように占い方を考えたこと。

 

生きる目的は皆が幸福になれるように努めること等、書いたのだった。

 

その時、ジョン-ケージの「changes」という易に触発された音楽やボブ-デュランの「全てのものは信じるに足らないが易経だけは信じるに足る。」という言葉も引用していた。

 

☆「アーティストになれる人、なれない人」に出てくる横尾忠則が三島由紀夫の文にイラストを描いてデビューし、大学生だった私は西銀座デパートの地下の宝くじ売り場で壁に絵を描いていた忠則氏に英語の教科書カバーの上にサインを頼んだら、「Tadanori Yokoo」と赤のサインペンで女性の横顔の口から名前が出てくる絵を描いてくれた。

 

とてもいい時代でした。

 

この本に出てくる榎倉康一氏の家にもいったことがあります。「点展」というのがあって、奥沢にあった日本家屋の中庭にヒビの入ったカラカラの土が作品ということでした。

 

そう言えば、八田準という人も家の近くで家から見える富士山をガラス越しにチョークで線をなぞったのが作品でした。

 

現代美術を見る目と言うのには、やはり年期があって、反発しながらも影響を受けて20代を生きていた気がします。

 

コンセプショナル-アートと言うんですか観念アートには批判的でした。むしろアートの大衆路線を意図してました。

 

女子供のアート。内職のような手仕事。難解でないものをと。

 

「アーティストになれる人、なれない人」その3.

自分が表現してきたのはスピチュアルの世界です。
東洋の世界です。

 

能、狂言。(板に和紙コラージュ)
おみくじ画。(自由が丘画廊のオークションで発表。限定200部だったが正直に原価が130円であることを言って拍手を得る。)
占い版画。(シルクスクリーン,英字新聞、毎日デイリー-ニュースに記事がでる)
易カルタ。 (週刊朝日のライターに銀座を歩いていたら声をかけられ、記事が出たその日に出版社から電話で出版される。高島屋百貨店、キディランド等で販売。英語、独語、仏語、西語翻訳あり,国内-国外特許)
俳画。(京都、紙泉堂ギャラリーで)
豆団扇。(ホテル-オークラのアメリカ人経営のフランネル-ギャラリーで販売)
日本お伽草子。(フィンランドの大使夫人に頼まれる)。

 

こう振り返って見ると、私のアートを最初に評価してくれたのはアメリカ人で、日本で認められるまでは外国に出まいと決意していたが、外国の人に作品は買われていたのであった。

 

ホテル-オークラのギャラリーは私の作品は100%外国人と言った。

 

おみくじ版画。

易カルタ。

↓ この作品の1枚をA4くらいのシルクスクリーンにしてとフランネル-ギャラリーのオーナーは言いましたが。

「アーティストになれる人、なれない人」その4.

20代の仕事がほぼ順調だったとて、30代の前半は人間の様々な弱さ、醜さ、負の部分を見た時間だった。

 

身から出た錆と言えるが、大阪大学の工学博士というおじいちゃんという年齢の人に頼まれて、いきなり送ってきた原稿の出版社を探してほしいということで、地球ロマン誌の編集長の紹介でたま出版に持ち込んだのだが、そこから闇のどん底に陥れられることになった。

 

ここの社長はどういうわけか、いろいろな問題ある人に私の電話番号を教え、どう言い含められていたのか、卑猥な電話やお金の要求、タダ働きを「前世召し使いだった。」「前世姉であったのに自分の世話をせずに逃げたので今世は世話しろ。」と言ってくるような中年女や大学生たちで客観的にマイノリティなので、精神病患者とか身体の障害者を邪見にするかのように陥れられ、タダ働きやたかりで身動きできなくなってしまった。

 

集りも始末が悪く「天からルイコさんの出資で研究するように言われた。」というレベルで、無視すると大の男が顔から血を流すほど張り倒してきたのである。

 

中年女性の宗教はやがて死者を出すほど世を騒がせた。

 

後でわかった事だがたま出版は3度倒産していたようで、世の中を良くしたい等と考えてきた独身の20代が終わる頃の女性は格好の餌だったのだ。

 

しかし、脱出はパリに行くことでできた。計算外は大学生がジュネーブだロンドンだと言っていたのにパリに来てしまったことだ。

 

20代の頃から少しでもお金ができると仕事の合間にアテネ-フランセやお茶の水キリスト教会でフランス語を学んでいた私も極初歩レベルの語学能力しかなかったが、彼らは英語もフランス語もできるようではなく自分で住むところを探すようでもなく転がり込んできたのである。

 

パリの本物のアーティストに打ちのめされた私は制作はしなかったが、行ける近隣の国の美術館巡りをしていた。ノルウェーのムンク。オランダのゴッホ。フィレンチェのメディチ-コレクション。スペインのゴヤ。

 

しかし、迷惑をかけられること多くうんざりしながらも、お人好しさが災いして兎に角無事に日本に帰って貰い、自分はニューヨーク、ロス-アンジェロス、サンフランシスコを経過して日本に帰国した。

 

パリでは1980年度の西陣織りの紋紙に私の豆本をカレンダーにしたものができていたので、それを教会のバザーで売って売り上げは全額寄付した。また、易カルタで占う易パーティも幾度もした。

 

そして、スピリチュアルではローマの国際会議の「宗教と科学」に出席したのち、聖母マリアの御出現地を訪問して1年半ほどルポを書いた。それも必死に私のパリの住所を調べて頼んできた「日本神学」というごく少数発行の月刊誌であったが、毎月20枚の原稿を送ったが無料。もらったのは静岡のお茶缶1本で、その読者と言う中年の女性がパリまで訪ねてきたが、「忙しい。」等と言おうものなら、非人間と罵倒されそうな気配であった。

 

30になったぐらいの絵を描いただけの世間知らずの独身女性は中年や老人の目からみると良い鴨であったのだ。

 

母親が泣いて「娘を食い物にしないで!」と故瓜田社長に騒いだが、もう欲望に狂った人間にはそんな良心の欠片はなかったのだ。

 

救出してくれたのは、ローマの国際会議であった内田秀男工学博士で、ドイツ人と結婚した息子さんが通訳としてローマに駆けつけたのに、日本からの妨害で内田博士のプレゼンテーションが中止になっていた。それで、平和の為に役立てるはずのスピリチュアルの世界が実はマイノリティの野心の巣窟で、お金と名誉を求めていかがわしいことがたくさん行われていたのだった。

 

私がそう言う人たちに利用されてタダ働きやお金の無心にあるのを知って、内田工学博士は、それらと縁を切るように注意してくれたのであった。

 

悪質と言うことは怖いことで、その後、誰でも同情せずにはいられない障害者を使ってたま出版を助けるように言ってきた。

 

へとへとに疲れ栄養失調となって帰国した私はスピリチュアルのけじめとしてカトリックの洗礼を受けたが、この宗教家の一部も俗世界と等しくお金を無心し、公然とタダ働きさせて自分は楽をしたいと言うのであった。70代の神父はやがて未亡人の画家と20年同棲し 60だった修道女は共産党と組んで福祉施設の給料を引き上げさせ、「孤児が可哀想でないのか!」と連れ出された児童福祉施設もボランティアで働かせ業績が終わり月刊誌の取材が来ると家族ぐるみで「ルイコさんは邪魔」と追い出された。取材するように手紙を出したのも私がしたのだが、栄光は自分達が独占したいのだった。強引に山梨の瑞牆山に雪の降るなか連れ出され、肺炎でゼイゼイする癖はそこから始まったのだった。

 

これらが宗教の愛のなのもとに行われたのだ。誰が孤児が可哀想でないと言えるであろう。

 

☆最近読んだ中沢伸一の言葉に「オームの信徒はスピリチュアル野心に利用されたので本当に可哀想だ。」と言うのがあったが、驚くほどスピリチュアル野心のある人が多いのだ。それも自分が努力するとか勤勉にするとかの野心なら構わないが、他人を騙して野心を叶えようとするのだから犯罪である。

 

そう言えば、日本神学に書いた記事のために集めた聖母マリアの資料も、勝手に「週刊現代」の記者に知らせ、取材と言って来たその記者が全部横取りし、大変なベストセラーになって本を山ほど出版している。

 

☆私の反省は絵を描いているだけでよいのに親切と同情心で偏見も差別もなく関わったことがいけないのであった。

 

それで、35歳で結婚することにしたが、神父はこの機会すら逃がさず「お小遣いをくれてもいいのよ。」と20万円ほどせしめた。もちろん正規の公的な御礼は支払った別にだ。

 

66歳になった今ならわかる。私が講演すればその仕事は私に直接来たのにも関わらず、報酬は神父が貰っていたのだ。だから、これからは結婚すればその甘い報酬が消えるので、甘い報酬の最後のチャンスだったのだ。

 

☆結婚と同時に、百人一首の注文や「宇津保物語絵本」の仕事が来て、母に乳児の世話を頼み実家に泊まり込み1年かけて原画を描いた百人一首は37歳でパリ個展で発表し、パリ近郊のカルタ美術館で買い上げられたり、パリ-ユネスコで働く人に購入され、レジョン-ド-ノオール賞を受賞した画家の家に招かれたりした。

 

姑は協力的で実家の母と一緒に来てくれたりした。
姑と。

母と。

スイスのデザイナーと。

↓ 右の人はテレアビブで個展を企画してくれると言ったが、私にはその余力はなかった。そして、湾岸戦争になったのだ。

奥様と。

舞台美術とか5つの仕事のオファーが来たが、主人が個展が終わったら一日たりともパリに居てはならずと言ったのでアーティスト-チャンスより家庭の幸福をとって帰国したのであった。

 

それからは、目黒アンセルモ教会の毎月の掲示板に全紙サイズのコラージュを納めたが(シスターに頼まれ)、和紙のいいのを使うのでもちろん持ち出し。

 

材料費をくれると言ったが、私の考えでは信者の寄付何てとてもじゃないが受け取れないのであった。

 

☆私はアーティストになれたのかなれなかったのか?

 

私のハンディは女性であり、姑と同居していることであり、幼い子供を育てなければならなかったことである。

「アーティストになれる人、なれない人」その5.


40代に入ると子供の受験や姑や親戚との付き合いなど生活一般に忙しく、頼まれて聖コルベ殉教50周年記念に絵を納めてくれといわれ、子供をモデルにして少年時代の聖母マリアの示現の絵を描いた。油彩は習ったことなかったが度胸よく80号の絵を描いて送った。

 

自分でも下手だと思うが、頼んだ方が悪いのだと思って、何時かきちんと習っみたいと思った。

 

その頃は子供が小学校2年生で、ファイナルファンタジー等のゲームに親子ではまっていた。

 

1995年阪神大地震が起こり、子供が4年の終了式を終えると主人の仕事の都合でボストンに行くことになった。

 

英語がアレルギーができるほど嫌いな私は英語の授業をいくつかとったが。やがてデッサンを選択した。

 

子供が学校にいっている間の暇潰しのようなもので、2ヵ月の美大受験準備のハンディを埋めておこうとも思った。

 

☆それが、教授が「才能がある。」と言い出したのだ。

 

47歳からの美術学校入学。両親から女子美術のデザイン科に限って受験を許されたのであったが、本当はfine artがやりたかったのだ。

 

それで、ハーバート大学のサマースクールで油彩とデッサンを習ったのだ。

 

パレットに絵の具を出すところから学び、キャンバスの作り方、全く基礎から一人の先生に3年つくことができた。

 

こう言うのを木炭デッサンするのだが、コルビジェの建てたカーペンターセンターが教室なので、怖いような気持ちだった。

先生はこういうのが好きなようだ。

アメリカの最高峰の教師は本当に気高くピュワーで日本での教授たちと比べると雲泥の差だった。

 

更に、アメリカの教師は真摯で我が家まで来て、主人に「奥さんは才能があるから協力してあげてほしい。」と言ったのである。

 

次に秋の正規の授業に出られるように手続きをとってくれ、次の教授は熱意のある南アフリカから亡命したホワイトアフリカンだった。思想せいとか社会性はこの教授から学んだのだった。

 

先生のデッサン力は凄いもので政治家の肖像があまりにも心まで現すものであったので、作品の国外発表禁止令が出て亡命を決意なさったようだ。

 

↓は先生の作品。もう一人の先生のアートは東京にあるが素晴らしいものだ。

この絵は新聞に批評が出た絵でかもめの詩から生まれた作品。

 

カモメ、ひとつとってもデッサンがきちんとしているんです。

 

☆ボストン滞在3年。私は主人の考え方で学生となり娘と私がアメリカに残って母子家庭をする事になった。

 

それで、娘が高校に入る頃は私はSMFAの学生となってエッグ-テンペラ絵や油彩、インスタレーション、パフォーマンス、陶芸、溶接など学んだ。

 

とても忙しく、インターナショナルスクールの寮にいる娘を金曜の午後から日曜日の夜まで向かえ、和食を作り買い物に出掛けた。

 

他の日は朝6時頃起きて8時にはSMFAにいかないと駐車ができず、帰りは夜の12時まで学校でワークし、帰宅して英語シャワーから解毒するために日本のビデオをみて3時か4時頃寝た。

 

16歳の 娘と夏休みに3週間のヴェネチア-studiesと言うのに参加したのが1998年で、ヴェネチア-ビエンナーレの年であり日本館でこの本の作者のデジタルの数字の作品を観たのだった。

 

SMFAの授業であったのでアメリカ館はフリーパスで入れ赤い粉が天井の隅から涌き出ている作品であった。

 

☆私の観たかったラヴェンナのダンテの墓やフィレンツェ、ミラノ、コモ湖等も週末に娘と通った。

 

40代はこのように過ぎた。