May 9th, 2014

人間の夢! 今日は寒くて風も吹いている!

☆昨晩は従姉妹からの電話で亡くなった母の姉の話で盛り上がった!

 

叔母は母と年子で、名古屋の金城学院の英文科を出て、名古屋のアメリカ領事館から虎ノ門のアメリカ大使館に移り、独身で人生を終えた人だった。

 

母は金城の家政科出身で女子寮の舎監にという口もあったが、小学校教員を2年して、(学童疎開で岐阜の養老の滝に連れていったと言う時代)父と結婚した。

 

祖父はアメリカにいきたくて仕方がなかった人で、毎日、英字新聞を読み、その夢を優秀だった叔母に託した。

 

祖父のラフなところは、父とのお見合いに姉妹を連れてった事である。

 

呉服問屋だった父の両親は英文科の嫁は要らないが、家政科で着物を縫える妹なら貰ってもいいと言った。

 

アレンジしたのは父の親戚で名古屋では名士の一族で著名な料理家になっているのも居て、従姉妹は朝日新聞の記者をしていたときの取材で訪れたその料理家に姉が生涯独身で人生を終えたのに心を傷め、詫びていたと言う。

 

本当は父は姉の方を気に入っていたと言うのだ。

 

☆叔母は美しく颯爽としたキャリアウーマンでアメリカの匂いのする風をいつも放っていた。YWCAにも参加していてキリスト教徒らしい意識で生きていた印象。

 

母は金城時代、合唱団でソプラノ、叔母はアルトで、台所で「ハレルヤコーラス」や「流浪の歌」を声を張り上げて歌っていた。幸い一戸建てなので、苦情を持ち込まれることはなかった。

 

ずいぶん仲のよい姉妹で想い出で、色々語っていたが、二人で宝塚歌劇を観に行くのも楽しみのひとつで、私の名前は当時の母の憧れの娘役の名から取った。

 

百人一首一首の和歌から「雲の通い地」という句である。

 

母はとても文化的なことが好きで、寺山修司や三輪明宏のこともいろいと言っていたが、直感的に判断することがいつも正しかった。

 

そして、従姉妹が言うには母の実家の血が文学的なことや美術的なことを好むと言うのだ。

 

☆母は男女二人づつの子に恵まれ、特別プレッシャーを与えられることもなく平凡第一の暮らしを得た。

 

母の幸せは父との結婚にあって、だんだん実家とも疎遠になっていたが、母の姉妹にはそれなりに心がけて、暮らし向きの良くない長女には(離婚の後、再婚死別で子供二人を養っていた)多少の経済援助をしていた。

 

雨が降ってきた!

☆姉妹に格差がつくというのは辛いものだ。

比べる必要もない生き方の違いなのだが、父は破格の成功を納め、美しい絵に描いたような暮らしを得た。

 

叔母はあるときに、私に「妹は猫を被っていたのよね。お見合いの時に本性を隠して。」と言った。

 

戦後の男性が不足していた時代、キャリアウーマンと言えども、独身の女性には辛いときもあったに違いない。

 

母は、末の弟の手を叔母が引っ張って脱臼したときに、叔母の悪意を感じたと言ったこともあった。

 

母は英語には興味がなく、生涯学ぶこともなかったが、女性には家事だできる事が大事と言う思想の持ち主で、自分の母親がおっとりしすぎて家事が巧みでないと思って、父の姉の軍人妻が家事見習いに横浜に来るように姉妹に呼び掛けたときに、断る姉にかわって進んで横浜で家事を学んだ。

 

つまり、母は家庭の幸福を望み、結婚したかったのである。

 

☆しかし、やがて自由が丘に住むようになった姉(この女子だけのマンションは私が探してきた。なぜなら、叔母は田園調布の母の家に住んで、そこから大使館に通うつもりであったからだ。それについて母は憤って、子供4人いる家庭に
上から目線で姉面して無料で住み込もうなんて常識がないと言うのだった)とは、家にも招いたが買い物の時に偶然よくであったと言う。

 

☆叔母は穏やかで知的で、子供であった私には母と違う世界を持っている素敵な人で、母の考えと叔母の考えを両方聞きながら育ったが、年子であった性か終生ライバルのようだった。

 

叔母は「私の方が幸せよ。」と言っていたが、母は母で、家庭的でないと女は結婚できないと、母なりのレベルで勝った気であった。

 

でも、高校生の時にはアメリカのセブンティーンという月刊誌を持ってきてくれたり、日本中の旅行の絵葉書やアメリカのクリスマスカードもずいぶんくれたので、叔母はYで行ったと言っていたが、Ywcaの活動が主で充実しているように見えた。

 

☆祖父のアメリカへの夢。
戦争中に日本は負けると言っていた祖父。

 

娘が領事館から大使館。

 

私の妹が大学院に通い、私の娘が小学校から大学までアメリカで学ぶようになったのも、祖父の夢が持続しているような。

 

☆私の子供の頃、母は世界国歌のレコードを流していた。

 

ピアノの上にはルノアールの「姉妹と犬の絵」の複写がかかっていて、畳の上に絨毯を敷き、丸テーブルに応接セット。庭にはポインターとその仔犬が7匹。能の役者の建てた家でしょうしゃな平屋の日本家屋に純日本庭園に母が芝生を植え、チューリップとディジーの花壇を隅に作って、この風景が母の夢だったと思う。

 

☆私は週に3度ごく近所で日本舞踊を学び、小学校の同級生だった主人は毎日ランドセルを自宅において、私の家に弟を連れて来ていた。

 

姑は津田の英文科にいたときに結婚したので、子供ができて中退して、子供が小学生になったときにYWCAで英文速記と英文タイプを習い、やがて母校で英語の教師を25年間するようになった。

 

主人は母親が勉強に通っていたので家にいるよりは、私の家にきた方が楽しかったのだろう。

 

それで、学校でもお隣の席、家に帰っても主人が5時までいるので、子供の頃から夫婦をやっているようなものなので、縁と言うのか、離れているからどういいうこともないのだ。

人間の夢 その2.


主人の家はそれは素敵な西洋館だった。

 

皇后様のご実家はドイツ風の西洋館だったが、主人の家はスペイン風の西洋館で孔雀のステンドグラスや煉瓦に蔦の絡む素敵な2階建てで、この一帯は子供心にも階層の違う住民の住む地域で、どの家も風格のある別世界であった。

 

☆主人に言わせると、私はおすましだったそうで、母の夢の暮らしの実現能力のお陰で妹とお揃いのワンピースを母が仕立てたり、オーダーで専門家に作ってもらったり幸せな少女時代を暮らした。

 

やがて、後に母の考えで5年生の後期には越境して白金小学校に通うようになり、主人とは離れることになった。

 

自宅はそのままで、中学校からは東京女学館に通った。

 

皮肉にも、子供の頃から豊かな生活のなかで格差と言うか、貧しい暮らしをしている人達のことが気になるようになった。

 

制服を来て目黒駅まで通う間に、前の学校のクラスメートにもあった事があった。

 

公立の小学校なので、戦後のベビーブーマーである私に同級生の中には貧しい暮らしの人も障害のあるひともいて、親に守られている暮らしに単純に幸せを感じられなくなってきたのである。

 

どうして、この社会には豊かな人とそうでない人がいて、自己責任だけではない社会の間違いがあるのではないかと漠然と感じられるようになった。

 

☆「ある精肉店の話」が今日まで長野ロキシーでやっているので、行くことにした。3時10分からのが最終なので今出かけることに。

 

☆さて、駅に着いてみると晴れてしまった!

 

昨晩はこのテキストを50ページまでしたので、(半分くらい)まだ、習ってない過去などもあるので、時間がかかるが続行しようと思う。

人間の夢 その3. 皆が幸福になればいい!

☆雨の中、黒姫駅にいって「婦人公論」を買って、テイクアウトのホットコーヒーを頼んだ。 この間、「日本一のお米のカレーライス」にいけなかったことを詫びたら、180人も来て混んでいたので、店主も断念したとのこと。

長野駅前で、ポスター展をしていた。

☆長野13度。

観て良かった。
とても混んでいた。




パティセリースガで。アップルケーキを2個お土産用に!

映画を観ると100円割引になるコーヒー。シューも美味しかった!


「まいまい堂」による。

  「まいまい堂」 さんが現地で勝った
ドイツの魔女。


寒いので。

美術学校の生徒さんが課題で作ったポスターに「まいまい堂」が駅前にあったので、映画の帰りに寄ることにしたのだ。

☆権堂アーケードの若いお兄ちゃんの新しい八百屋んで。アスパラガスを買ったら蕪を3個おまけにくれた!飯山から運んでくるそうだ。l

8時20分の信越線で帰る