May 10th, 2014

人間の夢。 その4.

お赤飯は明日に!

 

映画館のなかでは、柏餅を頂いた!

 

☆今日、観た「ある精肉店の話」の映画は、部落の人の話だが、このドキュメントの人達は皆立派で働き者であり、普通に清潔で、この人達を数百年前から差別していた日本政府の構造の愚かしさに、やれやれと思った。

 

生物を殺すシーンが耐えられるかどうか自信が無かったが、極めて冷静に事実をドキュメントし、言いにくいはずの質問もさらりとしてしまう映画監督の手腕に敬服。

 

そして、観客が多く、実に長野県民はしっかりと事実を観ようという姿勢を持った真面目な人達なのだと思った。

 

こう言うドキュメントは、大声で差別解放を叫んだりはしないが、よく理解を促し、私たちも盲目から引き上げてくれる。

 

☆私が中学校高校で、観た世界はお茶の水を出た教師のおおよそ人間味の無い教育と少女たちのどこか大人への反発のある思春期の暗闇であった。

 

ぼんやりとした学生生活から抜け出さなければと、少し、目覚めて選んだのが美術の道だった。

 

☆本物の芸術とは?
かけられるに足る生き方とは?

 

そして、受験勉強たった2ヵ月のデッサンの不備さを、なんとか補うための大学生活の多忙さ。

 

眠っていた6年があって、エネルギーが蓄積されたように、私はタフだったし、夢一杯の青春だった。

 

夢。
絵を頑張れば幸せな未来と充実が待っていると信じられた。

 

☆子供4人もいる家庭では、大学に通うようになった娘にいちいち注目などしないので自分はとてつもない自由が広がっ
た。

 

バブルのただ中。街は弾ける価値観の転換で若者は閉塞もしてなかったし、大人もそれをあたたかい目で受け入れていた。

 

連合赤軍、安保闘争、三里塚闘争。

 

若者はなすべき闘いに忙しかった。

 

今の若者よりも世界を変える主人公じゃ自分達だと信じていた。

人間の夢。 その5.

若かった私は、社会の不幸にとても興味を持った。

 

差別を受けている人や苦しい生活を強いられている人達に。

 

☆絵の道は厳しく、あまりにも巨大なハードルの高さに打ちのめされそうだったが、選んだ道なので頑張るしかなかった。

 

級友も世間の人も、私から放つある豊かな育ちから来る甘さに両親からふんだんに与えられる経済的援助を受けていると思ったらしいが、現実には親は厳しく、私はアルバイトをしながら画材をやりくりするような苦学生だった。都立大学駅の近くの「グラナダ」です井戸を買って15日に届くのだが、経営者の河村さんは70歳くらいの独身女性だが、「Ruiicoさんはご両親の強烈なバックアップでお金に困ることなく絵を描いていたと思った。」と、私が自立して働きながら大学に言っていたのを聞いて驚いていた。

 

私の同級生や芸大の学生たちはイメージ的に私は、経済的な苦労はしてないと思っていたらしく、私に集るのは正義だと思っていたらしく、私は、大学時代はとにかく朝から晩まで働きづくめで、さらに、学校の課題も人の3倍は努力して提出するタイプだったので、毎日、肉体の限界に頑張っていた。

 

それは、20歳の4月7日の過労から1週間の昏睡から目覚めた日に、神と遭遇し、自分の使命をはっきりと知る事があったので、私は、聖書の福音を生きる決心ができたからなのであった。

 

人間の夢は世界を美しくすること。
人類に貢献すること。人を愛すること。

 

そう言うことが何よりの価値だった。

 

私は、世俗からの興味はなかったし、今は結婚し家庭もあるのでバランスをある程度は取っているが、その頃は着ているものも清貧で自分を美しく見せるとかにおおよそ興味の無い女子大生だった。

 

しかし、皮肉なことに母親はお洋服大好き人間で当時痩せていた私に、よくファッションショーでモデルが着ていたブランド服を買って着せていたので、外見だけを観る人からは、恵まれたお嬢様に見えたのも仕方がなかった。 私は、もっぱら、底辺で働いている人達とともに最下位の賃金で働くのを自分に課していた。

 

不当な特権と反対の生活である。

 

それを、わざわざ他人には言わない性格だったが、神の側からしてみれば正しい行為がある種類の人には嫌味に思えたらしい。

 

☆キリスト教の教えは、上着を求める人には下着まで惜しんではならない与えの教えだが、逆に求める側を徹底的に貶める教えでもある。

 

確かに信じる者は救われるが信じない方は地獄に堕ちてしまう。

 

私は、喜び溢れて信仰に燃えていたが、友人のなかには、「悪どい。」と言うものまでいた。

 

私が自分を犠牲にして同級生たちのむさぼりに奉仕をすればするほど、その人達が救いの無い不幸にいる構図になっていた。

 

私の生き方をしゃくにさわる人達は暴行にも至ったが、私は、福音を信じ、心から抱擁し満面の笑みで許した。そうすると、暴行をしている方は恐ろしくなってしまうらしく、後退りしたり、「劣等感のか溜まりだ!」と叫んだりした。

 

「馬鹿!」と罵られても、私は、心から「言いたいだけいいなさい。あなたはそんな風に言うことが楽しいのね。」と、優しく受け入れていたので、「気味が悪い。」とも言われた。そうなのだ。私はそのあとで、神に彼らの罪を許すように祈り、代わりに償いまでしていたのだ。

 

☆私は、あれから46年たった今日でもほぼ考え方は同じであるが、やや、緩和したやり方にはなっている。

 

主人は「君って本当に怒らない人なんだね。」と言う。

 

そうなのよね。悲しさの方が先に来る。

 

それでも、怒ったほうがその人の為となるときは怒ることにしている。

 

集りについても、実際のキャラクターは「嫌。」と言えない人ではない。理路整然と相手に、その非を言えない人でもない。しかし、あえて、福音の教えをとっているのである。

 

☆そうするとどうなるか?

 

私は、20歳の頃に「易経」にも出合っている。孔子が50にして、「もし、私が若いときに出逢っていたらもっと完璧な人生を歩めたろうに。」と嘆いた中国何千年の叡知だ。

 

この易の教えは因果応報の教えだ。「積善の家には余慶有り」の教えだ。積悪の家はどうなるかである。

 

聖書の教えと易の教え(東洋のバイブルと言われている)を、融合すると、さらに宇宙の仕組み、道理の仕組みがわかって来るのであった。

 

最良の善は、誰でもが積善の余慶になることである。

 

☆こうして、私のアートの指針はいかに多くの人を喜び溢れる世界に誘導するかであった。

 

物質的な喜びの人も侮ってはならない。

 

人には段階がある。

 

物質的な喜びを卒業すると、精神的な喜びを求め始めるのである。

 

☆私が社会に出て驚いたのは多くの人が「いい暮らしをしたい。」「裕福に暮らしたい。」と思っていることであった。

 

その為には嘘もつくし、騙しもする。ずるもするということであった。

 

本当の幸福。
与える幸福。
に到達するのには長い道がある。

 

ある時に好意を持ってくれた東大の博士号を持った若い研究者に、「私は、不幸度の高い人を選びます。辛いね。」と言ったら、「自分はそこまでいってない。」と言われた。

 

また、別の人は「お嬢さんは厳しすぎる。うーん。うーん。」と唸った。

 

そうなの?

 

私は、今日までエリートとつるんでいい思いをしようなどとは思ったことはなく、専ら、社会の不正義にマイノリティとともに生きていたのだが、それもある人達には、「世間知らず。」「お嬢様過ぎる。」と言われるので、信仰に生きるというのは結構、道楽なのかなあとも思う。

 

そんなわけで、自分を可能な限り低いところに置いて来ているのだが、周囲バランスを年齢とともに多少は持つことになった。今ではそれほど過激ではない。

 

☆しかし、福音に生きるとどんないいことが起きるかというと、天からエネルギーが注がれることである。

 

昨日も食事が終わった頃、光の雨が降って来て、天からの励ましというか激励があったわけなのだが、多分、本人は幸せななのである。

 

☆私は、いつも「幸福オーラーをはなっている」と言われるのだが、それは、天からの気の賜物である。

 

私は、精神は豊かだが物質的には並みである。ただ、愚痴や不足を言わないので裕福そうに思われるけど、結構貧乏。

 

女性としても女子力にかけているので、特別な恩恵は無い方だと思う。美人はブスより生涯2億くらい格差があると言われるが、損も得もしてないと思う。

 

美人だとタクシーも無料なことが多いというが、そんなことは一度もなく、ただ、私のお話がとてもいいので2度ほど、代金は要らないのでそのまましゃべってほしいと言われて、2000円くらいが2度無料になったことはある

 

だから、話術ではいくらか得をしている。

 

☆そんな感じで、35歳まで独身をして結婚もしたが、とても貧乏な人と結婚したので、自分の良心としては満足だった。

 

だって、大富豪と結婚したら今までの言動が嘘になってしまうもの。

 

ただ、今までの因果応報が働きだして、今は極貧と言うよりはややリッチぐらいになっていると思う。

 

今までの集られて来た金額が、天に貯蓄されて返って来ているので、困らない生活になっているようだ。

 

逆に、いつも集っていた人達はどうなっているかと思うと、キリスト教の上着を求める人に下着まで与えるのはいかがなものかと思ってしまうのである。

 

人に与えた物は全部、自分に返ってくるし、「与えよ。去らば、与えられん。」と言うのも本当なので、人間はgive give giveが本人はいいのであろう。

 

私の場合は人に与えた物は、自分の賜物、才能になって返って来るので、やはり損をしたと思ったことはない。

人間の夢。 その6.

さて、私の場合は夢が叶ってしまうタイプ。

 

あまり太それた夢ではないから、叶えやすいのかもしれないが。

 

☆私は、長い間、母とは合わなくて、子供の頃の力バランスは母親の方が断然強かったので ずいぶん意地悪をされていた。

 

仕事の電話は繋げないのは当たり前、仕事の相手先には罵倒したりするので、もう二度と電話をしたくないと言われることもあった。

 

人間は不思議なもので反対されればされるほど、頑張るものであるのだ。

 

それで、私も母親のどんな妨害にもめげず、やれる範囲で絵を頑張ってきたのであった。

 

母親の方も本能のように娘が離れていくのが怖かったのだろう。

 

☆母はもちろん、父もお小遣いなどくれるわけはないので、沼部の図書館に歩いて通い本を読み、必要があればどんなアルバイトでもする。そうして、社会見学というか普通には知らなくてもいい世界を見ることは楽しかったのである。  そう言う底辺行脚で、私は世の中の仕組みというものが残酷に満ちていることを知った。

 

多くの人たちが、思考の問題や生まれながらのハンディのなかで、もがくように生きている。

 

若い革命家たちも空しい内ゲバで殺し会う。

 

私たちの住んでいる世界はなんと不完全なのだろう。

 

☆私のアートは、いつもそう言う問題への疑問や知ろうと言う探求のプロセスだった。 1.一部の富裕層だけしか買えないアートへの疑問。 手に入りやすい版画をシルクスクリーンで制作。 1972年 プリントアート・ギャラリーで個展。 「名あるもの形有るものが信じられなくて占いの世界を版画にしてみました」流異展。 「占い版画」 「おみくじ版画」 「易ミニ色紙 64枚 千代紙コラージュ」 2.易色紙の評判が良く、易カルタとして、64組制作し続ける。 「世の流れと異なりて、低きに流れ、富より貧を愛し 我 愚を誇りに思う」「不思議な国の流異展」 1973年 村松画廊で個展。 コラージュのアリスカード。 アリスカード100枚組が新宿ぬれ甘納豆の正月ポスターに使われる。 1974年 シロタ画廊で 「広島、長崎、私の傷、キリスト マリア 私の涙」100号キャンバス、蒔絵、聖母子マリア像に血と銀の涙を描いたインスタレーション。 秋田の聖体奉仕会(女子修道院)の木像の聖母像から、その後、血と涙が流されたと知り、直ちに秋田へ。 こう言う呼応は良くあった。 1975年「オカルタ」オカルトカルタの略 山岸氏命名。真木画廊 週刊朝日の記事から「易カルタ」出版 1976年「遊び絵」田村画廊 豆団扇や行灯、易色紙の現代美術バージョンを制作。 同時に日本橋高島屋で「易カルタ」独占販売になる。 ギャラリー吾八の依頼で豆本7種制作。 1977年「魔術的発明 magia inventorix」パラケルスス 藍画廊 フィンランド大使夫人の依頼で日本お伽草子26話の挿し絵を墨絵で描く。 1978年「桜咲く大日本ぞ日本ぞ 一茶 」「俳画展」京都 四条河原町 紙泉堂ギャラリー 「豆団扇」がホテルオークラ、フランネルギャラリーで売れたため、材料を買いにいった縁で紙泉堂から依頼されたもの。 京都個展から、京都印刷からの依頼で1980年度の西陣織物紋紙に豆本からとった「平安千代絵巻」カレンダー制作。 1979年「メビウスの輪」転性輪廻。大阪 本町 このあとにローマを経てパリに。 安価な大衆アートとしてのファンシーグッズとしての年賀状やサイン帳、ポチ袋をクイーン社から販売。 年賀状は400万枚売れたという。

 

☆庶民の普通である家庭の家でも、それほど誰もが自由ではないのだ。

 

生きていることは何て苦しみの多いものなのだろう!

 

誰もが幸福であるために、普通の名の無い庶民はどう暮らしたらいいのだろう?

 

それが、私の青春だった。

 

毎年、個展をしながら背後でその為の読書やアルバイトをしていた。多少のボランティアと。

 それで、あっという間に30歳になった。  それで、次のステージはパリだった。  別にパリに行きたいなどとは言ったことはなかった。でも、お金をためてはフランス語をしていたので、そちらの方向に向かっていたのだろう。 ☆今、思うと、人生はよくできている。 良いことは単独には来ない。バランス的に相応な悪いことというか、負担とともに来るのであった。  それと、ブーメランのように最低辺に落ちると次に最高辺に弾みのように投げがされるようなことが運命にはあるので、次の舞台となったローマでは広い輝きの場に送られたようでもあった。  細かく言えば、日本にいるときでもフィンランド大使館の大使夫人から頼まれて日本御伽草子の挿絵をボランティアで描いたり、最初の個展と次の個展が英字新聞に記載されたりした利で、日本にいながら外への発信もしていたのかもしれなかったが。  フランス滞在2年間のうちに、北欧や南欧やギリシャ、イタリー、トルコなどを訪ねたりできたので、夢の世界が地理的にも広がったのである。  精神的にも、ベトナム難民の家族に招待され亡命することの悲しみを聞かされたり、チェコからスイスからの亡命者やチベット難民を訪ねてダライラマがチューリッヒに来たりに遭遇したり、世界というの自国に住みにくい多くの問題を持っている人のいることも知ったのであった。