May 13th, 2014

今日は天気!

庭は陽射しが強いが涼しい!

黄色い花も咲いて!

小さい方は昨年植えた紫陽花。

蕾がもうすぐ開く!

ラベンダーの香りが!

チコリ!

ミントも育って!

もぐらかネズミがチューリップの球根を掘ったあと。

こんなところにも水仙を植えたようだ!

揺りかごインスタレーションが!

このチューリップはバレリーナ!

椎茸を食べるために、白菜、ピーマン、豚肉、海老、いか、べびーほたて、生姜などと中華味仕立てで作ったが美味しい。

☆午前中は分別ゴミ捨てや、台所カーペットの洗濯に追われる!

 

朝ご飯とお昼御飯をかねてゆっくり食べる!

人間の夢。その7.

1979年、ローマの国際会議「宗教と科学」後、ギリシャ、ローマ、スイスを経てパリについて「ルルドにいきなさい。」と京都の天の橋立の知恩寺の僧侶がお金を突然送ってきたので(honnninnが言うのには私の訪問で彼の25年間の病が治ったお礼とのこと)で、8月15日前後の「聖母の被昇天の祝日」の祭りのスペイン国境近くのルルドにいく。

 

聖女ベルナデッタの100年祭りだった。

 

パリについたら 母が「そのままパリにいなさい」と、月に15万円の送金をしてくれることに。

 

日本で、京都の個展の際に、1,2度あっただけの中年男性に「25,6歳の一浪、留年 中退の女子美術短大の姪に、京都の個展に行かせるので小遣いをやって育てて欲しい。」と頼まれる。

 

「 そんな力も経済の余裕もないので、できません。」と断る。

 

が、個展展示の忙しい時に姪が現れて、手伝いもしないのに、オープニングに中年男性から菓子折りが届き、「姪が手伝っていたんだってね。」と言うので、嘘を平気でつくので、烈火のごとく腹が立ち、菓子折を宅配便で送り返す。

 

☆たま出版が、この姪に近いキャラクターの男子大学生に勝手に電話番号を教え、6人ほどやってくる。

 

25,6歳の姪を拒絶した罪の罰だと思い、償いのため半年程、世話する。
生きるマナーや考え方など。

 

ローマの国際会議に出るのを潮時に、解散するが、幾人かがロンドン、ジューネーブにいくと言うので「それぞれの場で頑張ろうね。」と解散する。

 

☆パリに落ち着いて、本格的に絵を頑張ろうと言うときに、どういうわけか、ロンドンからもジュネーブからもやって来て、住むところやお金がないと言うので、それなりに世話をする。

 

勝手に来た日本からの考古学者が汽車賃を払わなかったり、ホテル代を払わなかったりして、学生達が真似て放置しておくと犯罪を起こしそうなので、日本に帰す。

 

その間、ヨーローパのカトリック巡礼地、美術館を巡り、パリで易パーティを開いたり、1980年度の西陣織の紋紙カレンダー「平安千代細工」をカトリックバザーで売り、売り上げ全額寄付する。

 

見聞により、日本人は日本文化をしかヨーローパの年代による西洋画には太刀打ちできないと知る。

 

☆帰国後、カトリック洗礼を受け、ボランティアで児童福祉施設に通う。

 

これからは、何十年、何百年のスパンで仕事をすべきだと認識したので、焦らず、地に足のついた仕事をしようと決意。

 

そろそろ、結婚でもしようと思うと、25年ぶりに主人から電話がかかる。

 

イエルサレム巡礼と聖コルベ神父の列聖式の参加のためヴァチカンにいくことになり、帰国後会うと約束。

 

結婚か奉仕生活か狂気のアート生活か3たくを神に問う。

 

イエルサレム巡礼の時におなじ部屋に泊まった70歳の薬剤師の婦人に、「妹が修道女だがその道は勧めない。働けなくなった晩年が不幸だ。」と言って、多くの聖職者の前で、「このお嬢さんはこれから結婚する方ですから、皆様、祈ってください。」と言われる。

 

  このツアーは、ルルドとリジュー(幼きイエズスのテレジアの地)が終わりだったので、個人で1週間フランス滞在を延長し、芸術の道に残るべきかよく考える。

 

☆帰国後、主人にあったのが10月半ばで34歳。トントン拍子に話が決まり誰も反対する人がなく翌年5月に結婚。

 

☆前に書いたように、私的には商人の娘である私が、階層的に上だと思われる主人の家庭には、かなり、怖じ気づいて幾度かお断りをしている。

 

母もプレッシャーで7キログラム痩せて、父も「非常識だし、だらしがないし、お勧めできません。」母も「家事等教えたこともないし、昔なら、お手伝いさんをつれて嫁に出すべきですが、そんな時代でもありませんし。本当にいいんですか?」と、ダメだし、父は最後には「妹の方がまだましだと思うので、どうせなら妹を貰ってくれませんか?」と言った。

 

☆それで、7月に新婚旅行でスイス、オーストリア、ドイツ。

 

引き出物でお配りしたシルクスクリーンの絵から、列席者から「宇津保物語」の挿し絵を頼まれる。

 

娘が生まれるときに、「百人一首」の依頼があり、産まれる前と後に半年ずつ1日1枚、200枚の原画を和紙の多層コラージュで仕上げる。

 

その間、子連れで実家に泊まり、母に乳児の世話、食事の世話を依頼し、主人は夜に夕食を一緒にするため通う。

 

☆私は姑を好きな理由は、結婚の時に「息子の事はほおっておいていいから、絵を続けてね。」と言うのと、「私の☆は貴方を助ける☆なのよ。」と言ってくれたからだ。

 

大姑はその頃96歳で生きていたが、易の大家で、関東大震災の直前、たなびく七色の雲の上にお釈迦様と弟子たちが現れ、下界を見下ろされると、ダメだと言うように、首を降られ、雲より降りられた時に大震災が勃発したと言うのが見えた人。

 

大姑はとてもきれいな人で此の花咲や姫の生まれ変わりであると言っていた。とても華奢で、お手伝いさん3人が後から脱ぎ捨てた着物を畳んで歩くと言うお嬢様奥様で、家事は一切せずの人だった。

 

主人の家はとても質素だったが、国のためには多額の寄付をするような家だった。

 

☆子供が1歳になる前に、新聞で信濃町で上智の女子修道院で子連れの母親達に5か国語の言語を教えると言う案内があり、舅と姑の許可をとって、フランス語を1週間に2度2時間通う。修道女が2時間1000円でベビーシッターをしてくれるのだ。この家は犬養美智子氏の旧邸宅で素敵な西洋館だった。

 

☆娘に危害を与える親族がいて、大悲劇が起こる前に、娘を連れてパリ個展を理由に、2歳前に連れ出す。

 

これが37歳で、秋の個展では姑と実家の母が一緒に来た。

 

いつも思うのだが、母親は子供が殺されるという危機の時には思わぬ力が出てくるものである。

 

片言のフランス語で、2歳前の娘を連れて、何のバックもないパリによく行ったと思うが、子供の恐怖の鳴き声でこのまま日本においておいたらどんな事が起こるだろうと言う恐怖はパリ生活の困難を上回ったのであった。

 

☆パリでの個展は、宇津保物語や百人一首の原画、豆本、易カルタのニューバージョン等で、フランスや世界からパリに来ていた人たちに暖かく受け入れられた。

 

あるがままで、いいのよ♪

 

と言う感じ。

 

☆娘への危害の危機が終わり、4月にいって、11月には帰国。

 

vizaはユーロと言う9時から3時までのフランス語学校に登録して前後の時間を上手に計算し、取った。

 

無謀といえば無謀のようだが、毎日、夕焼けを住んでいたアパート近くで観る度に神の加護を感じたものだった。

 

住んでいたアパートも建築賞を取った建物で「昔々のおうち」と言うアパート郡で、庭の小道に井戸やテラスがあって、とても素敵な人達が住んでいた。

 

経済的には、主人が毎月生活費を送ってくれた。

 

☆結婚前の三択も、あまり意味はなく、神様は全部させたいようだった。

 

結婚も奉仕もアートも。

 

人間の夢。 その8.

日本に帰国した後は、姑の考えで娘はモッテーソーリの4年保育の幼稚園に。

 

1学年10人ほどの無認可の幼稚園は、受験用の幼稚園だったようだ。

 

ぼーとしていた私が、気がついて見たら1年たったら、3年保育の有名幼稚園に移動していた。更に、2年保育の有名幼稚園に移る事を前提に通っている人がほとんどで、気がついたら目ぼしい男子は他の幼稚園に移動していて、乱暴相手がいなくなったからか、ある男の子が娘の首を絞める、ブリキのおもちゃで頭を殴る、お弁当には烏龍茶を注いで食べれなくすると言うことが続き、ある日お迎えの時に注意したら、母親から感情的な口調で3時間に電話。「大衆の面前で息子に恥をかかせた。」と言う。娘はもう幼稚園に行きたくないと言う。いかなくても言いと言い聞かせ、園長に話をしに行ったら、「他言するな。」と更なる脅かし。娘の話ではその男の子は手を縄で縛られて、座敷に入れられていたそうだ。

 

こんなところにはいられないと言うショックで私は娘をやめさせ、寝込み、食べ物も口には入らなくなり、歩けないようになり3階のマンションからエレベーターはなかったのだが、降りれらくなり衰弱する。

 

☆その6月に、(3年保育にかかるときで4月に入学金30万円支払ったばかり)、その男の子は夜におトイレにいくときに暴れ、便座に落ちて、複雑骨折をしたと言う。それで通えなくなったせいか、園長からの電話で「何も言わずに来い」とあったが、人の不幸の上にかようのは嫌だと言うのと、私が連れてあるだけの体力が無い。

 

また、「そんなに心配なら貼り付いて幼稚園の教室で観ていろ。」とも、園長は言ったが、それは教育とは言えないと思った。

 

☆1年半年日本の幼稚園に通って、半年休み、二世帯住宅がおお姑の死去に伴い建ったので、4月から主人や私の末の弟の出た教会附属の聖アンセルモ幼稚園に入学。ここは、赤薔薇、白薔薇の2年保育で別に受験幼稚園ではなく。

 

生徒の性格はよく、のんびりで、主任教員もアメリカで教育を受けた「右の頬を打たれたら左の頬を打ち返しなさい」という修道女だった。看護大学でも教えているインテリ修道女。

 

しかし、体重が7キロ落ちて、歩けなくなった私に娘の送り迎えができない。

 

主人が朝送り、実家の母が迎えに行った。

 

☆幼稚園も1年も過ぎると、もう、小学校受験の準備に皆、入るのであった。

 

我が家の場合、姑は某私立の教員を25年していて、おまけに同窓会長。

 

誰でもが、お宅はいいわね。確実に入れるんですものと言った。

 

某私立のためなら、いくらでも出しますという人が私のところまでお願いに来るほどで、「コネ嫌い。裏口嫌い。」の私には、そこだけは行かせるわけに行かない。

 

しかし、その名門私立を蹴る以上、その上にいかせないとこれからの同居は快適にはいかないと思った。

 

仮に区立にいけば、娘の首を絞めた男の子と同じ区域であるのだ。また、ぶり返すだろう。

 

その後聞いた話では、私のやめた後に、その幼稚園からその男の子が原因で辞めた生徒2人、その後の区立で2人で女の子は編入試験を受けて私学に移ったと言う。

 

☆それで、娘を姑の学校から自由な私立にいくために4月になって、寝てられないと、たち上がったのである。

私立小学校の受験は11月3日前後で半年の受験勉強だった。

 

娘の首を幼稚園の帰りに絞めた同じ幼稚園の女の子も、妹が三年保育の名門幼稚園に受かり、(本人は5つ受けて全部落ちた幼稚園体験がある)益々、意地悪を極めていたので、その娘も受かるように努力し、私も娘も頑張った。

 

難関過ぎて、誰もが無理だと言っていたが受験に成功し、人間は正々堂々と頑張れば成功できるのだと思った。

 

今でも、娘には感謝される。

 

☆その間、聖アンセルモ教会に別のシスターに頼まれ、毎月、全紙大きさの絵を奉納した。季節のコラージュで材料費をくれると言ったが、信者の献金からのお金は受け取れない体質だった。

 

そうこうしているうちに、やや、体力が改善し、母の手を借りて、子供の通学にも1ヶ月くらい見送りできるようになった。

 

しかし、ご三家の一つと言われているこの学校も、素晴らしい教育の一方で子供のストレスからか苛めの問題があった。

 

女子の格差は子供の頃から明確に現れ、頭脳、家柄、容姿、親の学歴、職業まで及び、母親たちも皆熱心で、私のように絵を描いているだけの人は子にとっては、良かったのかどうか。

 

娘は10番くらいが一番生きやすいと、トップには決してならず、出来なすぎても良くないと言うことでのんびりやっていた。

 

人間の夢。 その9.


娘が2年生の時には聖コルベ神父の殉教50周年と言うことで、絵の奉納をコンベンツェル・フランシスコ会から依頼され、80号キャンバスを庭に広げ油絵で描いた。

 

自分でも下手だと思ったが信仰のものは下手でも言いと思い納めた。

 

展示してから、長崎の聖コルベ記念館に行ったときは、ブラザーゼノが作った聖コルベ神父の部屋の壁に飾ってあって、感動した。絵の下には遠藤周作の「沈黙」の原稿が飾ってあり、となりの部屋には蟻の街のマリアの北原玲子さんの五年生の時に書かれた書道が飾ってあった。

この頃、秋田の聖体奉仕会から、フランス人の障害者がフランスから父娘で来るのでボランティアを頼まれたが、成田までの送迎くらいだと思って受諾したら、10日間、秋田にいって手伝うとのことでお断りした。2年生の子供は学習の手伝いが必要で母親が留守できないもの。

 

それで、フランス人には日本訪問を断ったとのこと。

 

☆子供が4年生になってアメリカに行くことになった。子供も私も週に一度くらいイオンのプライベートレッスンを受けて、ほぼ半年くらい準備をした。

 

☆私たちがボストンに着いた年は終戦50周年で、娘が4月から通った5年生の体育は「禎子と千羽鶴のダンス」娘のアメリカでの初めての教科書は「Sadako」、次はアンダーグラウンドレールで南北戦争の時に黒人をクエーカー教徒がカナダに逃げさせる組織のはなし。3番目は「日本収容所キャンプ」で、第二次世界大戦時に日系人が馬小屋に収容されていたときのアメリカ人との友情物語である。

 

☆自分たちが世界でどういうところに置かれているか?

 

有色人種であり。

 

マイノリティであり。

 

敗戦国の人であると思い知らされる。

 

☆私は英語のレッスンから始め、2ヵ月の受験勉強で足りなかったデッサンを学び、あまりにも下手だと思った初めての油絵のために、ハーバード大学のサマースクールで油絵を初めて学んだ。

 

キャンバスを張り、パレットに油絵の具を出すところからだ。

 

☆娘も3ヵ月の公立小学校から、異例で前例のないとい短期滞在者の英語も満足にできない時に、私学小学校編入。中学受験も2校受け2校とも受かり、アメリカの正義を信用することになった。

 

アメリカン・ドリーム!

 

チャンスと夢の国。

 

頑張れば、道が開ける。

 

本当にねえ。

人間の夢。 その10. 5月13日はファチマの奇跡のあった祝日!

私は欲が無いねと言われるが、ちょっと心の片隅で思ったことですら実現してしまうタイプ。

 

デザイン科でしか受験を許されなかった美術大学だったが、主人から娘の教育をアメリカで終えさせたいので中学2年から帰国しなければならない主人の申し出で、私も滞在許可をとるために美大の学生vizaが必要になった際、ファインアートを専攻することにした。

 

娘の寮への送迎のために、車の運転をすることになり、左ハンドルなので、もう一度免許を、取り直した。

 

自分も美術学校にいくのに8時から制作で12時までいて、帰宅してからは宿題や家事を終えると3時から4時頃寝るのがやっとで、2時間ぐらいの睡眠で朝早く起きないと車がtowされてしまうので6時から7時に起きた。

 

こんなに忙しい日を送っていたのに日本から暇潰しに5時頃電話を掛けてくる人がいたので、黙って引っ越しして電話番号を変えた。

 

また、近所の人が雨だから学校に送って行けと言うのも閉口した。美術学校でウエズリーカレッジに行くときも乗せてってくれと言うので乗せたら、絵の具で車のあちこちが汚されていた。

 

私は争わない主義者なので、毎日限界のストレスだったが、1日も倒れることもなく、娘を金曜日から日曜日までは家に迎え、和食を作ったりモールで娘の衣服を買ったりした。

 

アメリカはそれでも、色々楽しいことがあって、奨学金でガウディの建築を観にバロセルナに行けたり、授業も神話の時間は教授から頼まれて、学期始まりクラスの面々が知り合うために易カルタで全員占うことから始まり、最後も全員の運勢を占うと言うことで終わったりした。

☆娘もさらに受験をして、高校に挑み私たちは夏休みとクリスマス休日は帰国した。短い春休みや早すぎる夏休みの6月は単位のとれるヴェネチアスタディズに参加したり、赤毛のアンのプリンス・エドワード島に行ったりした。

 

☆ほとんど自分の意志と言うより、運命に流されているような気がした。

 

母子家庭は日本人であるので幾重にもハンディで、本当に生きていればいいと言うハードルの低さ。

 

私たちはアジアで、母国語でない英語圏で、私もとうに50歳を過ぎていて、アメリカに住むマイナス条件6のうち5まで持っていたのだった。

 

唯一、免れたのは極貧ではなかったこと。

 

これも、世界の貧しさと戦うのには知っておかなければならない重要な体験だった。

 

☆しかし、それでも、夢のようなことが実現したのでもあった。

 

47歳からのアメリカの美術学校。娘も全寮制の高校に行き、多国籍の人たちともご縁ができた。

 

始めは、美術学校は娘のためのvizaをとるための進学だったので、よき思い出になれば良いと風景画のクラスを取った。

 

上はそのクラスで描いた温室の絵。

 

しかし、先生が誉めるので、いつのまにか火がついた感じ。

 

☆9.11があり、緊張が走り私たちも精神的に追い込まれた。

 

とんでもないことが起こっているのだ。

 

そう言えば、昔、パリにいたときにはチェルノブイリが爆発し、野菜や牛乳等飲めなくなった。