September 27th, 2014 , 01:41 am
<赤ちゃんポスト>7年間に受け入れ101人 11人に障害 毎日新聞 9月26日(金)22時21分配信 . 熊本市の慈恵病院が運営する「赤ちゃんポスト(こうのとりのゆりかご)」の運用を検 証する市の専門部会(部会長=山縣文治・関西大学教授)は26日、2007年5月の運 用開始から約7年間に受け入れた101人のうち約1割にあたる11人に何らかの障害が あることを明らかにした。専門部会が幸山政史市長に提出した検証報告書は、障害が預け 入れの理由かは不明としながらも「新たな課題となる懸念がある」としている。 報告書によると、ゆりかごが受け入れた人数は、運用開始から最初の2年半(第1期) が51人で、次の2年(第2期)は30人、今回(第3期)は20人と徐々に減少してい る。このうち障害のある子供は▽第1期5人▽第2期3人▽第3期3人--だった。 また、101人のうち身元が分からない子供は26人。特に第3期は受け入れた20人 のうち4割(8人)の身元が分からず、改めて匿名での預け入れを「容認できない」と指 摘した。慈恵病院に対しては「預け入れに来た者と積極的に接触しない病院側の姿勢も増 加に影響している」として、子供の出自を知る権利を守るために努力を払うよう求めた。 一方、低体温などで医療措置を必要とした子供が第3期は9人に上り、第1期(4人) や第2期(2人)に比べて増えていた。車中を含む自宅出産を経て預けられた子供も第2 期から増加し、ゆりかごの扉の外側に子供を置く事例も1件あった。 幸山市長は「報告書の内容は重く受け止めなければならない。身元の確認について病院 には最大限の努力をしてほしい」と述べた。 報告書提出を受けて記者会見した慈恵病院の蓮田太二理事長は「預けた人への接触には 限界がある。(身元を確認される)恐怖感から、親が病院の近くに子供を捨てることにな ってもいいのか。そこまで踏み込んで考えてほしい」と反論した。【井川加菜美、松田栄 二郎】 ◇匿名か実名か…熊本市と病院、平行線のまま 「子供の命」と「出自を知る権利」のどちらを優先するべきか--。「こうのとりのゆ りかご」を巡る専門部会は検証報告書で匿名での利用を容認しない姿勢を改めて強調し、 慈恵病院に出自に関する情報確保の努力を求めた。逆に慈恵病院は「預け入れ数低迷の背 景には匿名性が保たれない恐れがあるのでは」と指摘するなど、利用者と積極的に接触し ない姿勢を崩さない。報告書に強制力はなく、両者の主張は平行線で着地点は見えない。 一方、ゆりかごを設置する慈恵病院に設置された相談窓口への妊娠・出産に関する相談 件数は急増しており、今年4~6月は3カ月間の件数で運用開始から最多となる712件 に上った。県外からの相談が大半で、自治体での相談受け付けなど公的支援が機能してお らず、慈恵病院の負担は増すばかりだ。 ゆりかご設置の参考にされたドイツでは今年、出産前に相談機関に実名を明かし、仮名 のまま医療機関で出産する「内密出産法」が施行された。匿名性を維持しながら出自を知 る権利も担保しようと、行政が真剣に取り組む姿勢がうかがえる。日本でも行政が主導し 、足踏みが続くゆりかごを巡る状況を打開すべきではないか。【井川加菜美】 .
September 27th, 2014 , 10:58 am
経歴 ☆1947年10月27日名古屋生まれ。 ☆1969年3月、女子美術大学産業デザイン科グラフィック専攻在学中、20歳の4月7日 、「愛と真理と美に生きよ」と天のお告げを聴く。 以降、既成の概念との厳しい闘いが始まる。 時には授業を受けることを教授から拒否される。 在学中、「モダンアート展」入選。審査員のセクハラ行為により以降出展せず。 在学中、日本橋「白木屋」で大学イラスト展出展した自動書記アートを上講師より「豪華 で新鮮!」と評価される。 1971年12月から1月の2週間、西武デパートのマイ・ギャラリーで個展。雅号を「 流異」と命名。世の流れと異なって生きるという意味。 1972年6月、自由が丘ギャラリー・オークションで「おみくじ版画」を発表。 12月、京橋、プリント・アートギャラリー、「名あるもの形あるものが信じられなくて 占いを版画にしてみました」個展。 毎日デイリー・ニュースに写真入りでアリタ・フ ェルドマン女史の批評が記載される。 1973年10月、銀座、村松画廊で「不思議な国の流異香展」。公明新聞に記事。 1974年1月、新宿、花園ぬれ納豆、正月カレンダーにアリス・カード使用。 7月、銀座、シロタギャラリーで「広島、長崎、私の傷。マリア、イエス、私の涙」展。 「月刊ヤングロード」誌に毎月、現代詩のイラストを描く。天沢退二朗、加藤郁乎、白石 かずこなど。後に秋田の聖体奉仕会の木像の聖母像から血と涙がでたこととシンクロして いたことを知る。「美術手帖」にたにあらた氏の展評が記載。 1975年6月、日本橋、真木画廊にて「OKARUTTA」展。オカルトとカルタの山 岸氏の命名。「週刊朝日」の「ひと欄」に記載され、翌日出版社からの電話で日本商業社 より「易カルタ」出版。 1976年1月、日本橋、田村画廊にて「あそびえ展」。「美術手帖」展覧会案内に記載 。 ホテル・オークラ内「フランネル画廊」にて、豆団扇販売される。 1977年1月25日、「日本経済新聞」文化欄「易カルタで天の声を聞く」記載。 アンアン誌、ノンノ誌など50か所に「易カルタ」記事記載される。 1月、「クイン社」より年賀はがき出版。400万枚売れる。ポチ袋、サイン帳など出版 される。 4月、「因果な嫁業」流異香著出版。 4月、バドル・ソドル読唱会 おおえまさのり「チベット死者の書」。小杉武久タージ マハル・トラベラーズのポスター。 8月、銀座、藍画廊で、「Magia Inventrix(魔術的発明)」展。 フィンランドの大使夫人より「日本御伽草子」26話の挿絵を依頼され、墨絵で26点描 く。フィンランドにて、数話紹介。 8月、銀座、ギャラリー吾八より私家版豆本を販売。「平安絵巻」「千鳥姫」「闇姫」「 妖姫」「豆姫」など7種それぞれ限定100部。 1978年3月、京都、紙泉堂ギャラリー「因果律の歌はやさしく流れる」展。「桜咲く 大日本ぞ 日本ぞ 一茶」の俳句を始め芭蕉、蕪村、山頭火の俳画を主に出展。京都印 刷より1980年度のカレンダーを依頼される。西陣織の紋紙に豆本から絵を選ぶ「平安 絵巻」。 1979年1月、南青山辰村組マンション704号室にて、青少年のための浄化塾主催。 毎日塾。 4月、大阪、本町、うつほギャラリーにて「メビウスのからくり世界」展。2階にて「 霊的談話サロン」。 5月、京都、天橋立、知恩院住職より「フランスのルルドにいきなさい」と寄金。浄化 塾解散。 6月、ローマの「宗教と科学」の国際会議に参加。以降トルコ、ギリシャ、イタリア、 スイスを経てパリに入る。 8月15日、フランス、ルルドの「聖べルナデッタ百年祭」に行く。 母親から 「今年は台風が凄いからそのままパリにいるよう」に指示されパリに住む。(現実に私の 部屋のベッドに台風は直撃したので命拾いしたのかもしれない。台所にいた母親は、円形 に並んでいた食器棚が飛び、たまたま身をかがめて食器を片づけて無事だったが、前の家 の屋根の一部が直撃したのである。ガラスは全部破損。) 8月、「日本神学」誌に毎月、記事を連載。18か月にわたり、ルポして記事を日本に 送った。月20枚の原稿を書く。日本と海外から浄化塾生がパリに来てしまったので、イ ンターナショナル浄化塾として運営続行。聖母マリアの出現地訪問と北欧まで美術館巡り をする。 1980年 1月、「平安カレンダー」はよく売れ、売上全額をパリノパト・カトリック センターに寄付。1981年 ニューヨーク、サンフランシスコを経由して帰国。確かジ ョンレノンの死をロスアンジェルスで聞いた気がする。 カトリックの洗礼後、青 梅の児童福祉施設「天使園」でボランティア。塾生も参加。 1982年9月から「イエルサレム巡礼を経てバチカンで聖コルベ神父の列聖式に出て、 ツアーから離れパリで1週間延期滞在。 雅号を「流異香」から「縷衣香」に変え る。体制に抗うのではなく細い糸のように静かに存在し続けることにした。 1983年2月11日のルルドの祝日の婚約式を経て、5月の三位一体の祝日に結婚。引 き出物は「聖母子像」のシルク・スクリーン版画。 1984年 娘の出産前後1年かけて「百人一首」の原画を描く。神楽坂「赤い馬」経営 者の金子美智子氏からの依頼。ほぼ1日1枚で計読み札と取り札で200枚の古色紙大。 実家に泊まり、母親に赤子のお守を助けてもらいながら、主人は毎晩通い夕飯を一緒にし た。 11月から信濃町、上智大学の修道会女子寮(犬養美智子旧邸)。で赤子を連れてフラ ンス語を習いに通う。修道女が2時間1000円で幼児を看てくれていた。 12月、銀座、藍画廊で「百人一首原画展」。 1985年、百人一首出版。 1986年4月、娘を連れて個展をしにパリに行く。10か月のパリ滞在中、「百人一首 」がインターナショナル名誉総裁である美智子妃の謝礼贈り物に選ばれ、姑が水引をかけ て皇居に運ぶ。 10月、「ジュンク堂」ギャラリーで個展。実家の母と姑が駆けつけてくれる。パリの ユネスコの方とパリの「かるた美術 館」に百人一首買いあげられる。後にボストンから パリに行って美術館を訪れたら、「百人一首」は常設されていた。1999年にヨーロッ パの優秀美術館として表彰された美術館です。ロダン、マチス、デュ・ビッフェの部屋が あり、彼らは 近くに住んでいたので侯爵がたくさん作品を買ったということだ。美術館 は侯爵の城を半分はそのまま、半分は現代建築の4階建ての素敵な建築です。滞在中はN oisy- le -Grandの建築賞を受賞した「レジデンス昔々」に住む。 帰国後、4年保育の幼稚園に姑に従順に子を入園させたところ、幼稚園の卑劣な児童の 存在に精神的ショックで私が2年間、間歩けなくなり寝込む。幼稚園を2年保育の所属教 会に変えて以降、子育てに集中。所属教会の目黒アンセルモ教会に毎年和紙コラージュ を毎月を修道女に求められるまま2年間毎月献納。 姑に逆らえず、自分の哲学に 反した罰で倒れた私は、大きな使命のために譲らぬ教育をする決意で同居しつつも「強く ならねば」と決意。それで、ようやく歩けるようになった。子供のために寝てはいられな いと思ったのである。 1993年長崎、コンヴェンツアル・フランシスコ会の修道士から聖コルベ神父のアウシ ュビッツ殉教50年記念に絵を納めるよう修道士に依頼され、80号の油彩を贈る。母と 娘と長崎まで行く。聖コルベ神父が使っていた部屋の壁(ゼノ修道士が作った)に絵が展 示してあり感動。下のガラス・ケースには遠藤周作の「沈黙」の生原稿が展示してあり、 他の部屋には蟻の街のマリアと言われた北原玲子さんのお習字などが展示してあった。 1995年3月に家族3人でアメリカ、ボストンに移住。到着後、ホテルのテレビで「 地下鉄サリンガス事件」を知る。 初めてのボストンでのカトリックミサでは、日本の阪 神大地震のために祈っていた。 子の現地の公立小学校で初めての教科書が「サダコ」。広島に原爆体験をしたサダ子と 千羽鶴の物語。体育の授業は「サダ子と千羽鶴」のダンス。戦後50周年の日米の企画で 広島のサダコ像の前で、選ばれた日米の子供たちが踊るダンスである。発表会では、反物 をひらひらさせて、大田川を表現していた。次はアンダーグランドで南部の黒人を救って 北部に逃げさせたクエーカー教徒の話で、3番目は「日本収容所」の話で日系作家の体験 で太平洋戦争時に日本人が馬小屋に入れられ、仲良かったアメリカの女の子と離れる話。 英語を学びつつ、ハーバート大学のサマースクールでデッサンや油彩を習う。 求められるまま、正規の授業とボランティアで小学生に「俳句と俳画。折り紙。百人 一首と自分の好きな人の言葉と似顔絵を制作指導。」中学生には「油彩」。大人には「張 り子」「和紙づくり」「墨絵」「和綴じ本」など教える。 ハーバート大学アジア大 会では「百人一首」のプレゼンテーション。 ハーバート大学内のアート・フェ アでは「墨絵のデモストレーション」や生徒たちとグループ展。 私もハーバート大やボストン美術館付属学校などで、デッサン、油彩、テンペラ画、パ フォーマンス、インスタレーション、陶芸を学ぶ。テンペラ画では半年助手として働きま した。 4年間でポスト・バカロレアコース、ディプロマ・コース、5th yearの3コ ースを卒業しました。油彩はジャノビッツ師で3年かけてキャンバスを張り、油絵の具を 並べるところから学べたのは幸いだった。彼はハーバート大のカーペンター・センター( アメリカにある唯一のコルビジェ建築)で授業を受けるように手配してくれた恩人です。 ポール・ストップス師はそこでデッサンを教えてくれたのですが南アフリカのアパルトヘ イトに反発し亡命したホワイト・アフリカンでデッサンはもちろん素晴らしいのですが、 思想的に人権を描くということを学んだ大恩人です。毎日の授業が真剣に打ちこめて、今 、思うともっとも幸せな時だった気がする。 1998年6月 ヴェネチア・スタディズ3週間参加。1999年2月GROSSMAN GALLERY「Lovely Coffins」。彫刻ショー。棺桶「ホワイトハウス 」と「万里の長城」を出品。 2001年4月、卒業制作に「100 lovely coffins and One empty cradle」発表しました。人類は神の前に跪いて謙虚に自分たちの罪を省みようとい う趣旨。不思議なことがたくさんあって、奨学金を得て行けたバルセロナのガウディのカ ーサミラの家に飾ってあったドールハウスの祈り部屋の祈り椅子を拡大して作ろうとデッ サンしたのだが、椅子を作ったもののなかなか大変なのであった。それで、ボストンの骨 とう品屋さんに尋ねたら「イタリアかスペインかフランスにしかない。」というのです。 現代的なデザインは教会にあったのですが、雰囲気がだいぶ違うのです。あるときにフ ランスに行くと、スーツケースがなくなり、帰りのボストンエアポートで発見され、弁償 の格安のチケットを発券してくれたのでもう1度行ったときにあり展示会を観ようと知ら ぬ街で探していて、ふと後ろを振り返ると「祈り椅子」がドールハウスのものと瓜二つの 実物大のものが蚤の市で売られていたのでした。売り主のおばあさんの使用したもので埃 がたくさん 出ていましたが、張り替えて、今は神山にある。 そうして、人 類の救済には祈りと空の揺り籠と100の象徴的な罪を埋めた陶器の棺桶100を2年間 かけて制作したのです。 2001年の9月11日にニューヨークで世界貿易センターのビルが2機の飛行機の追突 で崩壊された事件の予言となったのでした。卒業後1年間はバスケット制作を学んでいま した。3人の先生に段階的に学んだのですけど、最後は全米トップ4に入るナンタケット 島のキャロルに師事。2003年7年間にわたるアメリカ滞在より帰国。 9月、ハーバート・ネ―バースにて個展。主にバスケット。「Happy Weavi ng!」Happy Weavingの英詩はPeople Treeのフェア・トレードの趣旨にあっているらしくインターネットに記載される。2 004年9月バロセロナ「市民のための革新の力となるボランティア活動」IAVE世界 会議参加。ゴッホの追跡旅行。 11月スペイン、姑と「カミーノ巡礼」。 2005年5月、銀座教会ギャラリーアガペー、ギャラリービスティスにて個展「希望の 春」。「I・A ・V・E」よりグリーティング・カード4種出版。(International Association of Volunteer Effort 略)カードを作ったときに宇津保物語は絵本にすべ きといわれ、墨絵を足した。 10月、銀座、G2ギャラリーにて個展「宇津保物語原画展」「宇津保物語絵本」而立 書房より出版。英語、口語。2006年1月、銀座「サロン・デ・縷衣香」アンパンマン 表紙のビッグ・イッシューに「ホームレスのお姫さま、宇津保物語」記載される。 12月、たま出版より「マリア・コード」出版。 12月、白金、ギャラリー「くれあ」で個展「マリア・コード」クリスマス・バスケッ トを3点発表。 「地震が起こらないようにグループで祈っている。病人も医術だけ では治らない。祈りが必要だ。 あなたのような人は本を書くべき」と2度も展示会 に来て言ってくださった能見医師に応えて。2007年4月、ブログ「縷衣香NOW」を 書き始める。 4月17日第2回「まめまつり」参加。(豆本) 5月、三渓クルーズ。世界遺産張家界と武陵源。重慶の墨絵作家と友人になる。後に扇 子を贈ってくれる。 7月,銀座、ギャラリー、GK「文月のアーティスト展」 8月、「コノハナサクヤヒメ物語」を而立書房より出版。英語、口語。 8月11日 「蚊帳教会」1泊インスタレーション・イベント 北軽井沢、ドームパラダイスにて。 9月17日四谷、石響、「展覧会のマリンバ」「宇津保物語」に吉岡孝悦が作曲。 1 0月都立大学 「グラナダ展」。 11月、桂林旅行。2008年6月「クロアチア。スロヴェニア、メジュゴリエ巡礼の旅 」公式カトリック第一次巡礼団。 8月から2月、渋谷、松濤画廊喫茶「パンの木」で個展。 9月23日秋分の日にテレビ朝日の「ちい散歩」で放映。 母が近くの病院に入院中なので通いやすかった。 9月16日「展覧会のマリンバ」 10月12日、13日「豆本フェスタ」お茶ノ水「東京古書会館」 2009年3月、「絵本二十四孝物語」而立書房から出版。中国語、口語。 3月G2ギャラリー「絵本二十四孝物語 原画展」 4月、「絵本二十四孝物語」YOU TUBE。 5月IAVE北京ボランティア視察旅行。芸術村798を訪問。 7月 神山コテージ建設。 8月11日「蚊帳教会」1泊インスタレーション・イベント 野尻、神山。9月、竹の廃 物利用の竹紙で団扇を作る。 10月、黄山旅行。中国の墨絵作家と会う。 2010年3月、アイルランドのノック巡礼。アイスランドの火山爆発のため、イギリス に6日間延長滞在。ストーンヘンジやテート・モダンでゴーキ展を観たのは収穫。8月1 1日「蚊帳教会」1泊インスタレーション・イベント 野尻、神山。 8月12日、「彦坂尚嘉が縷衣香さんのバスケットを見る」YOU TUBE 9月「蚊帳教会」YOU TUBE。 ☆2011年1月大崎「夢のイストワール展」O美術館「雪の聖母」出展。「蚊帳教会」 ビデオも上映。 2月12日「Invisible flying church」YOU TUBE。「蚊帳教会」の英語版。 4月27日、 3月「Rebirth from lovely coffins 」YOU TUBE.(3月6日、7日、8日に神山で撮影したビデオ。)「再生」というタイトル は3月5日に発表した焦げたバスケットから花が咲くのと麦やキノコが出る作品をすでに つけていた。3.11の予言となる作品。棺桶はボストンで作ったのもので、雪の中でキ ャンドルに灯をともし、やがて雪に埋もれるものまで縷衣香自身の撮影。 8月、長野「ちょっくら おいらい館」で絵本展示。 12月、高輪、ギャラリー啓祐堂「森の精霊 神山からのメッセージ」展~ 引用終わり ~ ☆2012年 3月10日 父、帰天。 7月フランス旅行(10日間ほどツアー旅行) 。 神山コテージにて100号キャンバス油彩始める。 冬に世界平和のため30体のマトリョーシカを作り始める。 ☆2013年 神山コテージにて庭のインスタレーションを始める。 5月5日から1年。一茶生誕250年祭りに一茶記念館にて一茶マトリョーシ カの展示。信濃毎日新聞に記事記載。 一茶豆本制作。 油彩100号。 バスケット制作。 ☆2014年7月1日~29日 ウィーン、ブタペスト、ミュンヘン、ベンゲンの聖人ヒ ルデガルド巡礼フランクフルト、ベルリン、プラハ、アウシュビッツ、クラコフ、コペン ハーゲン、ストックホルム、聖人エリザベド教会巡礼。シャウレイ巡礼(リトアニア)、 パリを旅行。ブリキの太鼓作者のギュンスター・グラスのアトリエ。ケイト・コルヴィッ ツのひ孫のヤン・コルビッツのアトリエ訪問。 10月2日~7日「マイノリティ・ビューティ」ギャラリーG2個展。 マトリョーシカ30体等展示。他に豆団扇。豆本。