December 9th, 2014

(no subject)

朝、起きて外を見たら思ったより深い雪だった。

絵は無事だったのでまだ描きかけ4分の1ぐらいなので2階に運んで続きを室内で描く。

冷蔵庫の中にチャーシューがギリギリ賞味期限であったので。トーストで。 「羽を休めた天使のバスケット}翼はバスケットの両脇についてます。

アーチの緑のおリボンは色あせて変えないといけないかなと思っていたのだけれど、雪の白い中では鮮やかだ。

12月8日はマリア様の祝日。無原罪のお宿りの祝日。太平洋戦争勃発。

日本が真珠湾攻撃と機をいつにして米英に宣戦布告し、太平洋戦争が始まったのは、1941年12月8日。カトリック教会では、12月8日は、聖母マリアが、その母聖アンナの胎内に宿ったことを記念する「無原罪の聖マリアの祝日」で、盛大に祝われます。

昨年、氷になって落ちてしまったので早めにおろしておく、ハンギング・バスケット。

激しく雪が降ってます。

11:11amの信越線に乗れるようにタクシーを呼びました。スキーのシーズンが来るまでバスもない過疎の町です。


折り畳み式の杖も必須道具。

30センチ何て事ないですね!50センチはあるのではないかなあ?

明日の4時過ぎに絵の具が届くので明日から描き始めます!

マリア様もお湯で洗って布で拭いて室内に置きます。

「誰もヒットラーに逆らえなかった!」ブリキの太鼓の映画監督の「シャトーブリアンの手紙」

☆10時くらいから大雪でした。
☆11:11amの信越線で長野へ。
☆無印の30%引きで下着などを買う。
明日から改装閉店とのこと。

☆ぐるりンバスで長野ロキシーへ。
映画が始める1時10分までに隣の豚カツ屋でお昼を。



☆「シャトーブリアンからの手紙」を観る。
ドイツとフランスの実在した第二次大戦時のヒトラーによる処刑事件。
そのドイツ側とフランス側、ユダヤ人や共産党員。_
まだ17歳の少年を含む一人の暗殺犯の代わりに生け贄にされたフランスの人たち。
少年が最後に書いた手紙を実在している同志の彼女が今も持っている。

銃殺前の心。
誇り。
思い。
祈り。
銃殺する側の良心の痛みや諦めや職業としての納得。

あんな風に人が人を殺すのか?

あのバラックのなかでさえ、バイオリンを弾き踊り、ユーモアで笑い合う。フランス人。

あの過酷な状況でも自然の輝きも感じる。

愛して合う人との細やかな夢。

誰がそれを破壊する権利があるのか?

誰にでも許されているはずはない。

そんなヒットラーの命令に誰もが人間らしさを失っていく。

ヒットラーに逆らおうとした人は多かったが。

処刑は進められた。







☆掃除道具や食料を買ったので大荷物。
他にパン屋さんでピザ2枚。ひだスカートの腰をゴムにするようにゴムを買ったり、クリスマスのお菓子を買ったり。

5時27分の電車までひと休み。
ブラッド・オレンジジュース。

ストーブに薪!

今夜はおうどん!


チョコが入っている!


パン屋さんのピザパン!


ストーブの上に鍋をのせて!


スカートのウエストの芯にするゴム。店じまいで2割引き!


昨日頼んだ本がおう届いていた!


ストーブに薪!


今夜はこの本を読む!

「アートにとって価値とは何か」を読む!



☆著者の三潴末雄氏とは一度あったことがあった。

あったと言えるかどうか?
上野で中国の美術か文化との講演会に行ったときに、三潴氏が名刺を渡してくれて、後日、初めて中目黒のMizumaギャラリーを訪ねたのであった。

その後、北京のボランティア大会に行ったときに一日だけ自由行動にしてもらって、789の芸術村のMizumaギャラリーも訪ねた事もあった。

☆三潴氏は1946年生まれで、私より1年上のせいか、この本に描かれている時代背景は良く把握できる。

ギャラリストとアーティストの差はあるが世界に日本人がどう自己実現していくかは同じテーマである。

身につまされるというか、痛み無しには読めないアジア日本の世界進出である。

そして、同じような結論も得る。
アジアの同胞。世界のマイノリティーと組み引き上げる。

☆しかし、三潴氏はビジネスなので現実にはマネーゲームの勝利が重要である。
それは多くの名のある現代美術の画廊の戦いでもあるが。

☆僅かな接点らしいところは、タージ・マハル旅行団が出てくる70年代。

☆Y子さんと初めて会ったのは、この中目黒の三潴ギャラリーだった。
名刺をもらったので行ったときに、芳名帖に名を書いたら、Y子さんは「知っている。」と言い張るのだ。「そんなことないと思います。有名でないです。」
「お時間あったらお茶でも」と誘われ近くの喫茶店で話し、更に、松涛の喫茶店で個展中と言ったら、歩いて行くと言うので歩いて、飾ってあったマトリョーシカを気に入ってくれ、彼女の母校で同窓会の幹事をしているとかで、青山学院で一日講師でマトリョーシカを教えることになったのだった。33人も出席して同窓会としては大入りなのだそうだ。

☆三潴氏が例としてあげている草間彌生、村上隆、奈良美智の国際的成功者のあとに会田誠等三潴ギャラリーの取り扱い画家を世界マーケットに押し出すのが大きな関心と使命である三潴氏のたくさんの戦い。

☆それぞれのアーティストの個性というものの背景が違うように戦いの方法も作家の運もそれぞれだ。

三潴氏の最初の失敗と言うか。あまりにもフランスで成功した日本人アーティストがアメリカではフランス作家の模倣であるようにしか見えなかったこと。

☆アーティスト側の戦いと言うものがあるとしたら いかに他者から毒されず害を受けることなく自分の作風を展開していくかと言う事に尽きない。

アーティスト側から言わせてもらえば、お金儲け優先のギャラリーの餌食にならないように殺されないように、のらりくらりと生き延びることが最重要である。

☆三潴氏のツイッターを覗いたら、読売新聞に書評が出たらamazonで2位になって新聞の力は大きいと言っていた。

私は知らなかったが、テレビの「誰でもピカソ」のレギュラーの素人アーティストの審査員だったと言う。

私はその頃ボストンで、1995年から家族でアメリカに移住していたのだった。

そして、主人が帰る1998年からSMFAの学生となって、村上隆のcocoちゃんのフィギュアーやロンリー・カウボーイのフィギアーをニューヨークのアートシーンの授業で見ていたのであった。

三潴氏のギャラリーが1996年にオープンしていたそうで、私はボストンの日本食品スーパーマーケットの吉野屋で日本から送って来るビデオの「誰ピカ」を毎週借りていたのだった。それは「たけしの誰でもピカソ」と言うテレビ番組の録画で村上隆も常連だった。

そこから出て来たのが鉄拳で、パラパラ漫画?紙芝居?だった。

街の変わったおじさんや結構ちゃんとした作品を作っている作家のもあって、私には面白かった。

☆三潴氏は講演会でこうも言っていた。
「作品集を出すんだったら英語もつけてね。」

☆新しい戦略と言うことでは、所謂、権威にすがってはダメだと私は思う方。

あのときの小さな松涛の喫茶店で「縷衣香さんは、お母様が近くのセントラル松涛病院に入られているので、この喫茶店なら寄りやすいでしょう?」とお声がかかって、8月中旬くらいから半年間ほど壁に豆団扇等飾ってあったのだが、展示した次の日に、「ちい散歩」のテレビでこの喫茶店を使いたいと言われたと言う。地井さんがお元気な頃で、渋谷は広いので2度に渡って報道され、フェイシングの教室や神社や帽子屋によったあとにこの喫茶店でケーキやコーヒーを飲み、私の壁の絵を観て「凄いねえ。るいこさんって読むの。」と数分だと思うのだが、秋分の日の10時にテレビで放映された。

この日は休みで皆が家にいて、「ちい散歩」は人気番組だったので、ずいぶん多くの人から「観たよ。」と言われたのだが、後日、「エーッ!」ということになった。

3年も経ってから、「本当は「ちい散歩」に出る絵は自分の絵だったのだ。自分が忙しかったので、縷衣香さんにピンチヒッターで個展をやってもらうことにしたのだ。喫茶店のママが地井さんのファンで、幾度もテレビ局に手紙を出して自分のために来て貰えるように、裏で動いていたからテレビ局が来たのだ。」とネチネチと同じ年齢の男性アーティストから詰め寄られた。

喫茶店ママにもう一度尋ねると(テレビで取材の時に ママは喜んで「ルイコさん絵が幸運を運んでくれた!」と感謝されたので),「テレビ局に手紙を出したりはしていない。向こうがいきなり来たのよ。」と言う。

「そんなにテレビに絵を出したいのなら言ってくれたら その取材の日だけでも壁に取っ替えて展示してもらってもよかったのよ。私から頼んだのでもなく、やってくれと頼んできたのはKさんじゃないの?」

☆そんな嫌なことになるにが大嫌いなので、なかなか表に出ないようにいしているつもりだが。

新聞やテレビの力はまだ信じている人には大きいのだろうか?

☆三潴氏のこれからのギャラリーとしての戦い。

私の運だけ頼りのアート人生。

同じ時代と言うことで、何処か繋がっているような気もするが。