February 18th, 2015

父子家庭と創造!

冷たい雨!

お雑煮!

今日もドイツ語の授業はなしに。
それで、部屋の片付けをするつもり。

 

☆赤瀬川原平の奥さんの同じ美学校で学んだ人との対談は面白かった。

 

若い奥さんは美学校の教え子で後妻である。赤瀬川さんは小さな女の子と自分のお母さんと若い奥さんとでとてもよく仕事をして頑張ってきた。とても穏やかな人で77歳でなくなったあとも奥さんは有名なニラハウスといわれる家を大事にしておられる。

 

私が!と思ったのは赤瀬川さんの先妻が家を出る、または、赤瀬川さんが家を出たあとに小さな娘に話を聴かせた創造的な「桃太郎」の話だ。

 

主人公は花ちゃん。
お父さんは山に柴刈りにお母さんは川に洗濯に行き、お母さんは川に落ちて死んでしまったと言う。

 

賢い赤瀬川さんの娘は「花ちゃは私とは違うよね。」と言う。そこで、お父さんである赤瀬川さんは、「自分で何も作ろうとせず、人から奪うことしかのぞまないお母さんは死んでしまうのだ。」と子供の教訓?話をする。

 

☆創造的でなく人のものを奪うことしか考えない人間は生きていけない。

 

これは重要な教えである。

 

あの温厚な赤瀬川さんが激しい憤りがよっぽどあって、娘に残酷なおとぎ話をしたのだろう。

 

☆よく見るプログ「天下泰平」の滝川さんが、5ヵ月前から父子家庭になったと書いてあった。

 

絵に描いたような若く美しいカップルとかわいい坊や。そういう人が日本の未来の幸福のためにブログを書いていて時代はこういう人を求めているのだろうと思っていたが、細かい事情はなにも書いてない。

 

しかし、からだに良い食べ物や生き方をプログにいつも書いているので、息子と一緒にこれからも追求していくのだと思う。

 

そう言えば、山梨県であったことが一度あった。イヴェント会場の駐車場で車の整理をボランティアでしていた。

 

☆人間には大きく二つの種類のタイプがある。

 

創る人と壊す人。

 

自立する人と他人に頼る人。

 

私もいつも疑問に思ってきたが、学生時代のアルバイトのささやかな報酬ですら、必ず狙って来る人たちがいること。

 

20歳の時ですら、同じ年齢の人がお茶代はルイコに払わせればいい食事代はルイコに払わせればいいと言う人がいた。

 

見ず知らずの大学生が(私が27,8の頃)、自分の食べたスーパーの買い物のレシート7000円ほどを突き出して払ってくれと言う。

 

笑い話のようだが、有名なテレビによく出ていた考古学者が「神から啓示が降りて研究費はルイコが出すようにとあった」と手紙が来たり、(32歳の頃)33歳の頃は、60歳の修道院から脱出した修道女が、「孤児がかわいそうだと思わないのか?」と青梅の天使園まで働くように命じ、次に「ルイコさんにタダ働きさせて一生左団扇で楽して暮らすのよ。」と言うのを聞きつけた人が教えてくれたが、奉仕と言う危険にずずいぶん考えさせられたものである。

 

現実に25歳の頃は、一番乗っている制作時間の12時頃、自由が丘でスナックバーを雇われ経営していた元宝塚の50歳から「家賃が払えないから金もって来い。」と言う電話がかかる。

 

人が困っていたら助けなければいけないと言うキリストの教えがあるので、人が殺されたばかりの蓬莱公園を横切って20分くらい歩いてその店に駆けつけたが。家賃を払うだけの経済力はなかったので、せいぜい3000円から5000円くらいもって駆けつけていたのだが、彼女は体が弱いのかよく休んだ。すると店は閉まっていたのだった。

 

25歳くらいだった私は50になって若い娘からたかるようにはなるまいと決意したものだった。

 

☆それからも、不思議でしかたがないのは赤の他人が70歳の神父から「お小遣いをくれてもいいのよ。」と言われたり、私より7歳くらい上のパリ在住の女流画家から「家賃が払えないから送金して!」と5歳の幼女に言わせて電話が来たりしたことである。

 

家では、画家を甘やかしてはいけないと卒業後は一円もくれず(当たり前)、在学中は一月5000円で昼食代込みだったので働きづめだったが、知らないおじさんやおばさんが「絵を買え。」とか「金出せ。」と言ってくることがあった。

 

家では「お金がほしい人は働きなさい。」「贅沢をしたい場合は働きなさい。」と言う考えだったので、「なぜ、赤の他人から無心をするのだろう?」と不思議でしかたがなかった。

 

☆赤瀬川さんはとても忙しく仕事をして創造的な仕事をたくさんした人だから、前の奥さんが奪おう奪おうとしていたことに、本当に腹がたったのだとおもう。

 

お伽噺が本当ならば。

 

☆ドイツ語の復習で過去形で経歴のところを火曜日にしたのだが、何処の大学で勉強して何をして働いたかを話していると、私の20代って本当に凄く忙しかったのを思い出しました。

 

グラフィックデザインを学んだので、ポスターやウィンドーディスプレイや詩人の挿し絵等の注文の仕事や。

 

自分で企画する個展で作った版画やカルタ。個展の度に新聞や雑誌に記載されて、新しい仕事が来た。

 

サイン帳やポチ袋や年賀状やカレンダー。

 

ボランティアの仕事でフィンランドでのお伽草子26話の墨絵の挿し絵。

 

個展も7回東京で、京都と大阪1回づつ。

 

30歳でパリに行ったのでした。

 

☆大学の同級生が結婚して名古屋に嫁いだが、わざわざ私の家まで突然きて、玄関で殴る蹴るをしたのが25歳の頃だったか?

 

それで、悪口を言うのは嫌だったので女子美術の人との個人的交際は誰とも止めた。

 

その人は「あなたの画風なんかすぐ真似られる。」と言っていた。

 

暴力も中傷もひどくて赤坂に呼びつけられ、喫茶店で大声で「妊娠していると噂だ。」と未婚の時にですよ。言うのでした。

 

私はキリストの教えの遵法者なの7回の70倍許して来ましたが、自宅まできて殴る蹴るをされたときに、もう付き合わなくても神さまは許してくれると思えたのでした。

 

2年後に「軽蔑しないで。一緒に写真を撮ったことがあったではないか。」と電話がありましたが、「仕事で千葉まで出掛けなくてはいけないので電話を切ってください。」と言ったが、「もう、付き合ってくれないのか?」とくだくだ。15分くらい仕事に遅れて着
たのを覚えてます。他人の立場が考える頭がないのでした。

 

☆どんなに穏やかな人でも、怒ることがあります。

 

だから、「人の物を奪うことしか考えず、自らは苦しんで作ろうとしない人間は川に落ちて死んでしまう。」と言う赤瀬川さんのお伽噺は気に入りました。

 


おみくじ版画!

占い版画!

易カルタ!

ファンシーグッズ!

豆本カレンダーと葉書!

☆ずいぶん虐められたけれど、20代の10年頑張った良かったと思う。

 

母のお人形が右。
パリから帰った33歳の頃。 働きながら夢を実現していた時に両親は私のしていることがわからなかったのですが、父が亡くなる前に誉めてくれました。

壊すより創るほうがいいですよ。

哀しみの30代。

1979年の夏からローマ、イスタンブール、アテネ、ジュネーブ、チューリッヒを経てパリ。

 

いよいよ本格的にパリで画業を始めると言うときに、日本から集まって来た人達。

 


犯罪に巻き込まれそうになって、自分の画業どころではなくなった。

 

体が弱いときにアパートを乗っ取られたり、ホテル代金や鉄道運賃を踏み倒した人に注意したら暴力を振るわれたり。

 

それでも、可能な限り美術館を訪ねフランス語を学びに通ったが、信じられ無いことにそれすら妨害する日本人に驚く。

 

☆個人的には易カルタのパーティでフランス人を占ったり、1980年のカレンダーを教会のバザーで売って収入を全額寄付していた。

 

日本から住所をあちこち尋ねた人からの依頼で毎月20枚の原稿を1年半送ったが、もちろん原稿料は無料で送料すら払って貰えなかった。

 

1年半経って日本に帰国した際に、もう原稿は送る事はできないと言ったら、罵倒と中傷の記事が書かれた。

 

マンスリーの月刊雑誌に記事が出たのだが、その記事を読んだ人がパリを尋ねて来て、会わないと言う選択はできなかったので一日出向いた。

 

まだ若かったせいか、日本からモンペを穿いて絵を描きに来たご年配の婦人達(趣味のかた)にトコトン虐められてよく泣いたものだった。

 

夏、旅行に行っている間に、画家家族にアパートを貸したら、油絵具で汚されて知らん顔をされた。

 

私は日本帰国前に自前で部屋全部をペンキを塗り大家に喜ばれたが。

 

☆ニューヨーク、サンフランシスコ経由で日本に帰ったが、祖母が箱根で倒れ同じO型だったので輸血する際、栄養失調で輸血不可能だったので、父に烈火のごとく叱られた。

 

パリ在住の画家たちが日本人仲間にたかられて子供や妻を栄養失調にしてなくしたり、自分も弱り早死にしたり精神病になるのを、その後、本でよく知ったがフランスにいる日本人は同じ日本人をよく騙すのだった。

 

また、言葉の不自由やアジア人の特色によって辛い思いをしている人が多く、うさ払いのように弱い女性をいたぶったり、食い物にする人がいるのだった。

 

フランス人からは嫌な思いはほとんどなく、逆に近づいて来た日本人がなるべくフランスに迷惑をかけないように気を使う事も多くて、疲れすぎて12時間ぐらい寝てプロパンガスに載せていたヤカンがカラカラになったこともあった。

 

貧しい貧民窟のアパートにいたのだが、中庭に干していたシーツ全部が盗まれたり、お財布から札だけ抜かれて、わざわざ、ポストに空のお財布が入っていたこともあった。

 

日本人の外交官の奥さんが現れて、スイスに一緒に行こうと行くと、荷物持ちにされホテルを半額払わすことが目的のようだった。

 

パリを出るときは、私の茶碗もお皿も全部持っていった。

 

外交官のご主人はお手伝いさんに手をだしてとっくに離婚しているとの事だった。

 

☆そのようにされながらも取材し集めた資料も日本に帰国したら、勝手に週刊現代にたれこんだ人がいて、取材として来たその記者が全部乗っ取り、本をだしベストセラーになって、テレビで2時間のスペシャルに出て「誠実、愛!」と言っているのであった。

 

今、テレビで「ゴーストライター」で他人に書かせたものを自分のものにし、裁判では相手が狂った事にしようと言うところだが、白けるばかり。

 

佐村河内の「Hiroshima」でも、本当に作曲したニイガタさんを夫婦で心中すると脅かしたそうだが、映画の「Big eyes」でも妻が描いていた絵を夫のものとして世に出して妻が耐えかねてハワイに逃げ訴えると夫は妻が狂っていると言うのだった。

 

しかし、その元夫は貧しいなかで孤独死し、佐村河内氏はばれてしまったあとは世間から相手にされない。

 

☆そんなわけで、私は神に結果を任せ聖ヨハネパウロ二世が日本に来た時にテレビで武道館でのスピーチの時に額にトリノの聖蓋布のイエスが現れたので洗礼を受け、イエルサレム巡礼と聖コルベ神父の列聖式に誘われたので行くときに、主人から突然電話がかかってきたので帰国後、結婚したのが35歳の時であった。

 

☆引き出物でお配りしたシリクスクリーン画を見た人が依頼して来たのが「宇津保物語」の絵。

 

百人一首の依頼もあり、娘の出産前後に1年かけて原画制作。

 

36歳で銀座で「百人一首原画展」。
「百人一首」出版。
   関西NHKで紹介される。
37歳でパリで「百人一首」「宇津保物語の原画」「豆本」「サイン帳」等を展示。
娘と準備のため

 

パリ・ユネスコで働いている人やカルタ美術館に購入された。
8ヵ月パリ滞在。フランス語学校の入学でビザをとる。その前に上智大学の修道会女子寮に娘が8ヵ月の時から通ってフランス語を学ぶ。

 

☆パリから帰国して38歳の時、姑が4年保育の幼稚園に娘を入れるよう強要。

 

1年と3ヵ月通った6月、執拗に娘の首を絞めたり、お弁当に烏龍茶をかける男子に注意したところ、母親から、大衆の前で(お迎えのママが3人ほどいた)恥をかかせたと3時間にわたる威かしの電話を受け、園長はひたすら「黙っていてください。男子の未来のためになにもいわないで下さい。」と言われ。

 

あまりの低俗さにショックで1年半ほど歩けなくなる。

 

4年保育幼稚園をやめ、半年休み、大姑が96歳でなくなったのを機に古い家を立て替え、姑と同居が始まる。

 

新しい幼稚園は所属教会の付属幼稚園で主人や私の末の弟が通った幼稚園。

 

主人が朝、娘を送り帰りは私の母が迎えに行き、私は家から出れず(歩けないので)
私の30代は終わった。

 


☆母親は子供が殺されたら生きて
はいられない。

 

雅子さまも人には言えない辛い体験をされ、愛子さまを守るのを何より先にされたのだろう。

 

ご自身も壊されて。

 

うちの娘がやめたのちに入られたのが真子さまや佳子様だと言う。

 

☆私は権力の怖さ、人間の弱さを学び、30代を終えた。

人間は人を殺すのよ。
好い人そうに見える人が案外怖い。

 

人の物を狙う人もいる。

 

人の物を取ってでも有名になりたい人もいる。

 

人間が人間を殺すのはわけはない。

 

☆その首を絞めた男子の未来のために沈黙した私は更なる暴力を浴びた。

 

まるで、娘に欠陥が有るようにしていくのだ。

 

おとなしくしていると幼稚園も満足に通えない弱い少女で能力もないように流布して、自分達は悪くないと首を絞めた男子の母親も監督不届きの幼稚園もそう、片付けたいのであった

40代の決意。悪に負けるわけにはいかない!

神の働き。

 

教会付属幼稚園の2年保育の1年が終わり、周りが小学校受験をするのには驚いた。

 

私は修道女に頼まれて毎月教会のガラスケースに大きな絵を納める事になった。

 

季節に催し等を和紙のコラージュでした。

 

自分が悪くなくても、幼稚園を一年半でやめて2年保育に移ったので偏見の目まで注がれた。第一、娘はパリの幼稚園まで通っていたので幼稚園は行き過ぎなのであったが。

 

しかし、ママ友で形成される女の世界で負け組にはいると一生烙印されてしまう。

 

たかが幼稚園がですよ。

 

☆4月になって寝てはられない。小学校受験をしないと、公立にいけばあの首を絞めた男子と同じ教室になる可能性もあるのだ。

 

姑の25年間、奉職していた女子の私学は同窓会会長までしていたので、受けるわけにはいかない。入ればコネと言われるし、受かって蹴れば姑と同居している暮らしは不幸になる。

 

最も難しい道を選ぶことにした。何も文句を言わせない道だ。姑の学校より良くて自分たちのポリシーに外れない学校。

 

11月初旬の受験日まで短期決戦で7ヵ月の受験準備。

 

こうしてはいられないと立ち上がって、受験準備をして受験票も朝早く起きて並び10番で、「十字架の10」と言っていたが受かった。思わず涙が出てしまった。

 

下らないと思うが、園長も幼稚園のママ友も見る目が変わったのだ。

 

18人ほどの最初の教室で受かったのは娘一人。

 

行動観察があって、3人でおままごとがあって、奥様、お嬢様、お手伝いさん役があって娘は自分からお手伝いさん役を選んだのだ。

 

なるほどねえ。他人のために自分を低いところに置く子供を選ぶのねえ。

 

☆電車を乗り換え通い、南平台のドミニコ教会のガールスカウトに通った。

 

その時に先の4年生幼稚園に通った知らなかった先輩の子供と母親が来ていたのだ。

 

「園長先生のNさんとは同級生なの。それで、お昼を一緒に食べないと誘われたので、ルイコさんの子供に酷い事をしたでしょ?ルイコさんに謝らないと私はあなたと一緒にご飯を食べたくないわと答えたわ。」と言う。知らない上級生の母親まで知っていたの!

 

小学校受験で同じ幼児教育センターに通っていて仲良しになったKさんの子供もうちの娘が止めた後にその4年保育に入り、卒業後に下の子供が通っていて家の近くにその4年保育の幼稚園が引っ越ししてより近くなったので、一緒に遊びに行こうと言う。

 

おまけに、カトリック教会の連絡網が私の後が園長先生なので、嫌でも月に何度かは電話で話す事になる。

 

「ところでルイコさんのお嬢さんはどちらの学校へ?」と俗物らしい質問をするのだ。

 

大抵、この質問をする人はランクの低い学校を先に言う。

 

「いいえ。」

 

娘は親友のSちゃんとその4年保育幼稚園にいった。お持たせのクッキーは用意したがママ友のKさんが車で子供二人を連れてった。

 

「先生、覚えている?」
「いいえ。」

 

家に帰って、「本当は覚えていた。」と言う。子供ながら楽しく遊んでいた友人と切られ幼稚園をやめさせられたことをリベンジしたのであろう。

 

☆それから、聖コルベ記念館に殉教50周年記念に絵を描いて下さいとの事で80号の油絵を描き郵送した。

 

☆アメリカに行くことが決まったので、娘とイーオンにかよって英語の準備をした。

 

私はアレルギーが出るほど英語嫌いだったので、娘はマリアース・ベイビーという3歳以下の愛育病院での英語スクールに通ったり、イギリス人のベビーシッターに来てもらったりした。

 

小学校も週に2度ほどネイティブの英語の授業があったが、まるで役にたたなかったと後の日に言った。

 

☆1995年。1月17日に阪神大地震があった。

 

そして、3月の末にボストンに着く日にホテルで観たのがサリン・ガスのニュース。

 

4月から編入した公立小学校は生活保護区域の小学校でマイノリティーの子供達がほとんどだった。

 

1クラス18人くらいで15人が黒人でアジア人一人に白人一人で、娘が入った時は別の週から来たばかりで9月には名門私学の入学が決まっている女の子が娘のお世話係で、あるときに娘が9月からその娘がいなくなるなら、もうその公立には通わず日本に帰って、祖母の家からもとの学校に通うと言う。

 

それで、スクールバスにのって観にいったら授業中机の上に乗って踊っているこがいたり宿題もアジアの中国人と白人一人とうちの子しかしていかないのだった。

 

一軒隣の子供の家を訪ね、この辺では教育熱心の家と金持ちの子は私立に行くのだと教えられ、私立の小学校の卒業式に駆けつけ編入テストを受けさせてもらう手続きをした。

 

☆奇跡と言うのはあるものだ。
その入学担当が日本で通っていた教会幼稚園の出身者で日系二世だか三世で、日本からの通信簿とオールAのボストンで始めての公立小学校の成績表のお陰で入学を許可された!

 

いい学校でしたよ。理科は農業。社会はアフリカ。英語と数学に限り18人に二人の先生。子供達が本当に幸福そうでしたね。成績表がないのですもの。

 

6年生をそこで過ごしたのですが、卒業式に子供たちも先生も泣くんですよ。

 

私も絵の教師がいないと言うので俳句アートと百人一首を乞われるまま教えた。

 

☆9月に入ってすぐに学校あげての中学受験準備。
11月には一斉テスト。
12月には受ける中学のテストが始まり2校受けて、2校とも受かってしまった。

 

☆娘の受験をしつつ、自分も英語の勉強をしていたが。

 

アメリカには可能性がたくさんあって、47歳でボストンに言ったのだが、年齢に関係なく大きな手が広げられていた。

☆思うのだが、日本人は他人にチャンスを与えることが少ない。

 

日本人の多くは、英語を学ぼうとすると足を引っ張るものだ。

 

なぜかはわからない。

 

フランス語の時もそうで、たまたま22段階あったレベルのトップには入れたときに一つ下のクラスに外務省から来た日本男子3人組が「画家はフランス語なんか要らないよ。黙って描いている方がいい。」としつこい苛めがあった。

 

嘘みたいだが、高校から大学受験の時も美術の教師が「受かって恥をかかすんでないよ。」と言い、個展の案内状を卒業後に大学に持っていったときも、「ひけちらかしにきたのか?」と主任教授の言葉。

 

アメリカ人の先生は、もう40歳後半の生徒ですら、チャンスをくれ主人に協力するようにわざわざいいに来てくれた。

 

日本の美術学校は自分のところから頑張っている生徒をだした方が自分も値打ちが上がることに気がつかないようで、アメリカの先生は私の作品を誉めてから、「いかに先生が偉大か!」も付け足すのであった。

 

☆日本人はなぜ、他人を自分以下に置きたいのだろうか?

 

私はずいぶんそれに引っ掛かってきた。

 

なんだか頑張ったり努力することをせせら笑うような空気があった。

 

☆雅子様と愛子さまにも大きな力が潰しにかかっているのではないかと言うのがあるプログにあった。

恥をかかせ、居たたまれないように日々されていたら、普通の人間は壊れてしまう。

 

誰が得するのかわからないが、自分達以上の教育を受け、キャリアのある人間を普通以下に貶めるエネルギー。

 

意味もなく階段から突き落とされそうになったり、安いプリーツスカートに丸い焦げた煙草の穴がきれいに開けられていたり、買ったばかりのジャケットの背が真ん中にきれいに縦に引き裂かれていたりする。

 

作品を壊されたり無くされたりもザラ。

 

日本人は美しい心や優しい思いやりを忘れてしまったようだ。

 

☆40代の終わりに、もう一度アートを勉強する機会を得た。

 

ボストン美術館学校付属スクール。

☆3年の滞在後、東京に帰った主人。

 

娘と母子家庭になって通った4年間が始まった。