April 24th, 2015

深夜の読書!


あんドーナツのあじ。
シベリアのようだけれどトーストにあんが挟まれていて、揚げてある。

⭐ 「そして」編
芹澤光治良との交流がなかなか感じることがあった。

⭐半分しか読んでないけれど、佐伯祐三が30歳の8月15日に亡くなったことを知った。

結核と精神衰弱でだ。

前の晩は大声で泣いていたと言う。

悔しかったと思う。

芹澤光治良は佐伯祐三にカフェまで、呼び出され帰国のための旅費の一分を貸してくれと言った。

芹澤は返す代わりに絵を一枚くれればいいとお金をわたした。

佐伯祐三は泣いて感謝して、2枚の絵を渡したと言う。

バリで入選し生活費2ヶ月分くらい作品が売れたと言う佐伯祐三も最後まで貧乏だった。

⭐たまたま今日読んだ純粋な画家は、精神病院で亡くなった。

時代や運命の過酷さ。

佐伯祐三は被昇天の祝日に亡くなった。

聖母の祝日だ。

⭐ 聖母の声を聴いて絵を描いていたせらふぃーは、68歳になって気が狂ってしまった。

ドイツ人のヴディが大戦中フランスに入れなかったのと、世界恐慌で十分な経済的援助ができなかったからだ。

貧しい底辺の暮らしから、41歳で聖母から絵を描きなさいと言われ、描き続けてきた絵が、ルソーのコレクターの眼に触れ、バリの美術界で認められアメリカやイギリスの新聞にも記事が記載されるようになり、女らしい幸福な結婚や豪邸暮らしを夢見るようになったのだ。

現実が直視できず、神に見放されてしまった。

(no subject)

5時過ぎに。
4時頃、電話をして確かめたので空いてました!

さすがに山なのでこの時間は寒い!

区分けに随分かかりました!

下のお蕎麦屋さんで海鮮ラーメンを!

懐中電灯も持って来たのでゆっくり食べてます!

5月1日オープン!

地下から出てきた!

マトリョーシカ!

バスケットのモールド!

ハーブの本!

お宝箱の中から出てきた!

⭐蕎麦屋さんから帰ってくると届いていた。


⭐佐伯祐三は30歳で死ぬと言っていた。
ブラマンクに見もらった時、アカデミズムから抜けでていないと激怒された時、泣いていたと言う。

しかし、彼はブラマンクを師と仰ぎ、それからも見てもらった。

ブラマンクは塩と砂糖と卵をデッサンするように宿題を出したと言う。

凄い。

そして、尊敬する師に出逢えた幸せがある。

⭐死んでもいいと思えた仕事を選べた幸せ。

幾冊も同じ系列の本を読むのは贅沢だが、発見も多い。

画家の幸福!

30歳で亡くなられたが、佐伯祐三は幸福な画家だったと思う。

育ちの良さと家族や友人に恵まれた。
裕福で文化的な寺の次男。

美しく聡明な育ちのいい奥様。

バリの小学校にかよっていたかわいい娘。

しかし、日本に留学中に浮気を一度して、奥様は本気で離婚する気だったそうだ。

芸大で最後からⅠ、2番の成績ながらも、25歳で卒業すると、その年の暮れには親子3人でバリに向かう。

日本には、アトリエつきの自宅を親の援助でたててもらい、兄の援助でバリに暮らす。

当時のパリには藤田を筆頭に300人の日本人画家がすんでいたそうだ。

パリで師ブラマンクに出会い、日本に帰国すれば絵も評価され、各メディアも絶賛し、絵も売れた。

酷評したブラマンクも色を誉めてくれた。

たった一つの難が身体が弱いことだったのだ。

⭐本を読んだところでは、彼を嫌う人もいない。

そして、彼は凄い速度で制作する。
1日、20号の油彩を2枚から3枚描いたと言う。

精神病院に入れたのは奥様だが、佐伯祐三はゴッホのようだと喜んだと言う。

交遊関係も凄い。荻須や山口長男や日本を代表する画家ばかりで、低次元な人間が出て来ない。

ひとり娘も彼の死後、結核を移されて亡くなった。

二つの遺骨を抱いて帰国した美しい絵の才能もある奥様は、その後73歳迄生きられたと言う。

⭐その長い時間は佐伯祐三の作品を護るためにも必要だっただろう。

佐伯祐三の作品はドイツ人の絵の具屋が買ったとあるから、フランスでも売れる実力があるのだろう。

ビリ近くで25歳で卒業した画家が5年間で国際レベルにあがたのか?

いいや、そうでないと思う。

日本の教育や日本人の絵を観る力が、本物ではないのではないかと私は思う。

それで、病身を押してバリに向かったのだ。

日本人の湿度の多い体質が合わなくて、ただちにバリに帰ったとあるが、品格良く、何があったとは書かれてない。

バリに死すしか道がなかったような気がする、

⭐下落合のアトリエ。