July 9th, 2015

東京も雨。東京の家の中のものの梱包!

要らないものは捨て。

つかえそうなものは、一つづつ洗って乾かし拭く。

家が建って27年くらい。

娘は実質10年くらい住み。

私は、20年くらいで、主人は22年、姑は24年、舅は4年くらい(亡くなった)か。

結婚した時は、大姑が住んでいて、子供のころから知っているスベイン風の西洋館だった。

舅と姑と大姑と主人が住んでいて、すきま風が入る古い家なので、私たち夫婦は近くのマンションに住んだのだ。

大姑が96歳で、亡くなり家を建てて同居した。



☆私は34歳だったし、パリに2年近く住み、帰国後ボランティアしていたのだか、疲れて果てて「そろそろ、結婚でもするか?」と思ってはいたものの、同級生たち(私の祖母の葬儀で25年ぶりにであった小学校同級生の母親が、私の父の弟の仲人をした)から嵌められた(同級生たちが互いに嘘をついて会いたがっているといった)出会いだが、私の家より格が高いので、幾度も断った。

両親も「家事ができないし、絵だけ描かせてきたので、常識もないし、おすすめできましせん。身分も違いますし。私どもは商人ですから。」畏れ多く、ご辞退した。

そのせいかどうか、家に関しては主人の家は土地も建物も全部出資してくれた。

私の父は、先方から言われれば(建築費用を半分出してくださいと)、半分出す気でいて、こちらから言い出すのは失礼たから、我慢すると言っていた。

とうとう、家が建つまでの5年近くのマンション暮らしの家賃代も請求されることなく、父はお金にきれいだと感心していた。

☆それで、同居の二世帯住宅が建ったときに、カーテンや家具を実家が買ってくれたり、ピアノ、お雛様や七五三や成人式の着物も買ってくれた。

私は舅姑との同居は嫌ではなかった。

階層的に、私の家の庶民性にも寛容だったし、子供のころから知っているので、手作りチョコレートケーキが誕生会ででてきたりで、悪い想い出がなかったのだ。

私の家になかったものを教えていただければいいし、同居は嫌と言う発想はなかった。

姑は英語の教師として働いていたし、私も絵を続けることを結婚の条件のひとつにしたので、応援してくれた。

「息子のことは放っておいていいのよ!絵を頑張ってね!」と言われた。

他に大姑が易の達人だったので、易の道具を形見にいただき、姑は「私はあなたを助ける☆なのよ。」と、占いで出ていると言った。

大姑はとても華奢で96歳で亡くなる日まで杖をついて歩いていた。お手伝いさんが3人いて、着物を脱いだらお手伝いさんが後ろから畳んで片付けた。家事などしたこともない。

とてもきれいな人で、(大原麗子さんにそっくりとか)お風呂でも体を洗うタオルが各部によって違い、70歳でパリにいったり、車の免許も若いときにとってヒルマンに乗っていたとか。

ある日、天を仰ぐと七色にたなびく雲に、お釈迦様がお弟子達を連れておられるのが見えた。お釈迦様が下界をご覧になると、「もうだめだ。」というように、手を振られ雲より降りられると、関東大震災が勃発したという。


☆そんなわけで大姑の目の黒いうちは家の建て替えられなかった家の新築をしたわけであった。

娘のアメリカ12年、フランス10ケ月の荷物が全部あり、姑の代々の持ち物かあり、私の絵もあり、大変なことになっているのだ。

☆同居と言うものは、実際にしてみると、子供の学校から、私のお稽古に至るまで干渉され、でかけける前には、服装なども上から下まで無言のチェックがはいり、それなりに大変である。

☆アメリカに行くまでは、週に3度お手伝いさんが来てくれ、二人て家中掃除をした。それは、小学校受験などもしたので、実家が費用を出してくれた。

二世帯住宅であるが、姑が鍵を持っているので、入り込んでくる日常だったので、部屋をきれいにいつでもしてなくてはならなかったからである。

☆お稽古も「上智大学の修道会の女子寮で子供をシスターがみてくれ、その間、語学を教えてくれるのがあるそうですが、行っても良いですか?
」と許可を取ってから、行くのである。

☆修道会だと思って結婚したので、院長様のご主旨を仰ぐというわけ。

亮くん「先生、助けてください。」

「許したから、これからも友達でいる。」

「づっとづっと暴力、づっと悪口。」

「もう、死に場所きまっているのですけれどね。」

いじめで死ぬ子たちは、きれいな顔をしている。

亮くんもお坊っちゃまがおで整った顔立ちだ。

村松亮くん。

13歳。

青空を背景にネクタイをした亮くんの遺影。

ひまわりにかこまれて。



☆連絡ノート4冊。
1年で担任代わる。

先生の密度の差。

5年前に両親離婚で妹たち2人は母親に引き取られた。

亮くんは父親に引き取られた。

☆尾木先生の話だと、先生の子供いじめもあると。(この事件でいっているわけではない)

「死なないで。」

「亮くんは優しい子で父親に心配かけたくなかった。」

別れたお母さんも妹たちも悲しくて悔しいだろう。

日本では教師も聖職者も苦しんでいる人を救わない!

岩手の学校の評判では、先生が悪いと言う。

☆私かある日、カトリックの教会に行った時に、電話か鳴っていたが、神父は出なかった。信者が苦しんで助けを呼んでいるかもしれないのに、「出なくてもいいのだ。」と言ったので驚いたことがある。



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☆学校教師に当たりハズレがあるとは思うが、日本で人格者と思える教師にあった記憶がない。

娘がアメリカの高校生だったときに、講演会で講演した講師に質問したら、あまり納得のいく返事かなかった時に、校長先生がきて、「ごめんなさいね。あなたの質問はとても良かったのに、講師の質が低くて、いい回答がなくて。」と、いいに来てくれたと言う。

寮生活で月から金迄寮にいたが、4年生になったときに、テキサスからのアメリカ人の同級生が子分を連れて苛めるからと、家から鉄道で毎日通うようになった。

ある日、父兄会で学校に行った時に、娘が、「アメリカには正義があった!」と喜んでいう。

そのテキサスからの女の子は大富豪の娘で1億を越える巨額な寄付をしているので、アジアの日本人より、学校は彼女の味方をするだろうと諦めていた娘だったが、主犯のGは退校処分にされたという。

美人なので、許可を得ず(女子高なので親が登録した兄弟親戚しか寮にはいれない。)ボーイフレンドを引き入れたり、タバコを吸っていたのがバレたらしい。

アーリー-ディシジョンで名門大学にも入学が決定していたが、卒業出来ないわけなので、それも取り消しになった。

もう、イヤーブックも印刷されて、Gのページも印刷されていたが、娘はGと自分は似ていたのだと発見した。大抵の同級生たちは紙を縦書きに使ったが、Gも自分も横書きに使って、おしゃれだったらも似ていたと言う。それが苛めの理由!

☆2歳だった娘に顔をぶってきたフランスの男の子の母親は、「ママはあなたが恥ずかしい!女の子に手をかけるなんて!」と厳しく叱っていた。

文化の差だろうか?

日本に帰って、日本の男の子が、首を締める、ブリキの電車でガンガン頭をぶつ、お弁当にウーロン茶をかけて食べれなくするので注意したときに、「大勢のママたちの前で3歳の息子に恥をかかせた。」と、やくざのような凄みのある口調で3時間も母親から、電話がかかってきた。

幼稚園の園長は、「誰にでもしているのだから。その男子の未来の為に黙っていて欲しい。(自分の園の評判を落としたくないため)」と、脅かした。

その低次元さに、ショックで私は驚き歩けなくなった。

その夏に大姑が亡くなり、家を建て替えたので、その幼稚園をやめ、主人の出た2年保育に次の年の4月から通った。それからでも、2年通ったのである。

個人的に雅子さまが愛子さまに付き添われたのはよくわかる。幼児のいじめにも殺意があるのだ。階段や窓から突き落とされれば、死ぬかもしれない。

幼児の場合は不注意や無邪気な遊びで殺人罪に適用されるわけがないのだから。

☆新しい幼稚園に行きある男の子のおばあさんが、「自分の孫を小学校の教師をしていた経験から、小学校受験のためのお稽古勉強をさせたいが、お友だちも一緒に。」と、誘われ目黒から白金のお祖母さんの家に週3度通うことにとなたが、「もう一人。」と言われ、お誘いしてある女の子をも仲間にした。

そのOさんと、私は交互に幼稚園から白金のマンションまで送ることにした。

お祖母さん先生か、ある日言うのには
「Oちゃんが、娘さんの首を後ろから絞めているのて、注意して娘さんの手を引いてOちゃんから離しました。」と言った。

☆私は最近、娘から世の中の汚いところを教えてくれなかったと責められた。

☆67歳まで生きて、どこもかしこも汚い世界なのだった。

アメリカでは転校生いじめもなかった。

初めてのプレゼンテーションのときも、
「皆さん、日本に行って、1年ちょっとで、日本語で発表すると想像してごらんなさい。彼女は今、それをしようとしているのよ。」と生徒に言った。終わったときに、拍手と「よくわかったよ。」と言いにくる子供たちの健全さ。

日本では、国際的な優秀な皇妃を皆でバッシングして病にさせ、お姫様にまでおとなげない苛めをこぞってする。

嫉妬心が強いのだ。

中心でいじめをなくさず、岩手の加害者の子供たちを批判する権利があるかどうか?

子供のいじめは大人の苛めの写しである。

苛めの原因のひとつは劣等感!

苛めがあったので出れた易カルタ。

人生には因果応報が、正しくある。

厳密な天の計らいがある。

苛めはいつかは負ける。

神の正義は永遠。

苛められてる人たちに力を送ります。

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私の体験したいじめ。

1、大学の斡旋したアルバイト。
カラー写真の現像所で。都立大学駅近く。

経営者(30代始め)から、いきなり殴られる。
「劣等感のかたまりにやるから観るな!」

「おめえ、俺と寝たな。
そういって、ゆすってやるんだ。」

定時制高校を出たとの事で私は偉いなあと思っていた。

自分の奥さんも常に張り倒していた。

私はただ驚き!

結婚写真の修正も仕事のひとつだったが、雅叙園に届けると、元華族のおじいさんがレストランでレモンティーを出してくれ、雅叙園の天井画は日本画の学生が描いた等説明してくれるので、どこで道草をくってきたのかとその時もなぐられたような気もします。

自分にとっても社会勉強で、森ビルの娘さんが、カリスマ美容師宮崎ただおに 髪をまとめてもらいスタジオで婚礼写真をの撮影してましたね。



他にも、たくさんのアルバイトを日常的にしてました。

☆このように働きながら大学に通っていたのですが、どういうわけか、そうゆう風に見られなかったらしくて、女子美術でも芸術大学生たちからも日常的に、カツ上げされました。

芸大生達も、集るだけでは体裁がわるいのか指導するように、「働けよ。」と言ってました。(彼らは親が小遣いを沢山やっているんだろうから、集っても悪くないと思いたいのでした)

私は同じ年齢なのに、同じように健康なのに、他人から巻き上げる心理がわからなかったのですが、気の毒過ぎて「あなたの集っているお金は私が朝から晩まで汗水垂らして働いたお金ですよ。」と、言えなかったのでした。

集りながらも、「コンプレックスの塊だあ。」と叫ぶように言ってました。芸大の方が女子美術より偏差値上なのにね。

また、別の芸大生からは、一度も二人きりでお茶をしたこともないのに、「地方から上京したら、あってくれるか?」というので、お茶を断ったら殴られたこともありました。

女の子が自分の思い道理になら無いと暴力を振るうのでした。

☆大学教師の苛めはそれ以上でした。

年功序列という教授もいました。

授業中、自分の授業をすっぽかして、そばに来て、「愛人にならないか?」と言うのです。すでにバツイチの助教授でした。迷惑なことです。

別の教授は心を描いたら興奮して「目に見えるものだけ描けばいいのだ。」と、授業停止の処分を受けました。(呆れ)

そういう事実は、27歳くらいのときに、日本経済新聞の文化欄で400字詰め7枚で書くことが出来ました。

20歳4月7日に、神と真理を人類に伝えると約束したので、私も命がけで使命を果たしてますが、神の方も確りと支え、機会を与えてくれるのでした。

右に土牛の富士山、左に井上靖の私の履歴書、下が松本清張の「利」という連載小説でした。

☆卒業後、家にいきなり来て、殴る蹴りの暴力を振るった女子美術の同級生は、真夜中強姦の群れのなかに呼び足したりする人でしたが、父親もご主人も東大出で、日本のトップの車会社に勤めているエリートの奥さんです。社会的には決して、マイノリティではないのです。

個展に来て、日経の記事を見たときに、チェっと、舌打ちしてました。

もう一人のいじめっこは、ご主人の著名な日本画家が文化功労賞をとって、同じ欄に出ていたことがあったので、震えあがっていました。

卒業後すぐ、早々と東大博士と結婚していた方で、調子に乗って、「自分は頭がいいが、あなたは馬鹿だ。」と説教たれていた人でした。30歳で離婚されると妙におとなしくなってましたが。

卒業後、突然、家に来て、殴る蹴るをした人は在学中整形で目を二重になさったときも、これでいじめがなくなるならばと、おおいに期待したものでした。

不思議にそのことを同級生に話しても、「すんだ話だし。」と、暴力の味方の方が多いです。

ある日、27歳くらいの時に、その卒業後いきなり私の自宅に来て、殴る蹴りをした人から電話がかかってきて、「軽蔑しないで。」「一緒に写真を撮った事があった。」と、言うのですが、「これから千葉にいかなければならないのですが、電話を切ってくれませんか?」「もう、つきあってくれないの?」と、言ってきたのには驚き!

サイン帳等のデザインのため、千葉のクイン社にいく時だったのですが、15分くらい到着か遅れてしまったのでした。

赤坂に呼び出され、「妊娠していると言う噂が出ている。」と、喫茶店でおお声で叫んだりしていた人でしたが、知らね人には「大親友」と、言っているそうです!

親は何千坪の家に住んでいたといってましたが、川崎にその時は普通のサイズの家に住まわれてました。

☆「結婚するんでないよ。」と、在学中、頬をいきなり平手打ちしてきた人や毎日、学食でお茶を奢らせる人もいました。

☆他にも「あなたのお母さん、本を読んだ事がないんでないの?」と、勝手に決め込んで侮蔑していた同級生もいましたが、有るとき、私を観ると震えあがって、「馬鹿だから馬鹿だから。」と自分を責めて後ずさりするのです。

「御願いだから、御願いだから、馬鹿にしないでね。」と言うのです。

☆あまりにも、人間の質が低いので絶望することもありましたが、神への信頼がありましたので、希望があったので自殺する気はなかったです。

復讐するは我にあり。

神というものは、実に見事に事を運ぶのです。

ほんとうの神を知るほど、幸福があるでしょうか?

ほんとうの神は人類を幸福にします。

人間の頭には、想像ができないやり方で真理をみせるのです。

☆もうすぐ、希望が実現する時代になります。

正しいものが、報われ、正しくないものは化けの顔が剥がされます。



☆人の権利を奪い取る人もいました。

資料を横取りして、出版しベストセラー作家となり、講演したりテレビに出たり
、本も沢山出してます。

そんな人が誰にも咎められずに愛とか誠実と説教しているのです。

☆この頃、最初の過去生がわかりかけてきました。

竹内てるよ先生。
美智子妃の和歌の先生で、NHKの連続ドラマ「海のオルゴール」の原作者です。

その竹内てるよ先生の記事を女性週刊誌で見つけ、霊的能力が非凡なので、たま出版の社長に本を出したら良いと薦めたのでした。

それで、「因縁霊の不思議」と言う本が出たのです。その縁で表紙のデザインは私がしたのでした。いつもの和紙コラージュで。

それで、竹内てるよ先生と手紙を交わした時に、「あなたの過去生は天照に仕えた織姫です。大変、古い魂です。」と書かれてました。

あまり、知識のない私は、天照に仕えた織姫は召し使いのようなものと思ったのでした。

京都で西陣織の紋紙に豆本の絵が印刷されてカレンダーを出して貰えたり、父親が呉服問屋の息子だったり、衣に縁があるなあと思った程度の認識です。

☆しかし、29歳頃の4月、天橋立の知恩寺の住職に呼ばれ、20人くらいの人の前で、15分ほど神の話をしたことがありました。

その時に、元伊勢の籠神社の宮司さんがおられ、私の頭上から天に光の柱が見えたと言うのです。

2015年6月17日縷衣nowブログに宮司さんからいただいた色紙が記載されてます。
「祟神教祖」81代の方の署名がありました。

☆「天下泰平」さんのブログでは、瀬織津姫はマグダレナのマリアというのです。

これについても、不思議な話があります。

お釈迦様のお誕生日を過ぎた1979年の4月、天橋立の知恩院に着いた私に、住職は特別に、重要無形文化財の文殊の菩薩を開帳してくれて、見せてくれました。

1年に1度、花祭りの日にしか開帳されないのです。

それから、東京に帰ったのですが、住職から電話がありました。

その日、住職は夢を見た。

悪霊に寺が、囲まれ、母親と住職は一心に経を唱えていたら、文殊菩薩とマリア観音が手を繋いで現れ、マリア観音が手でさらっと悪霊を払うと、消えてしまったそうです。

マリア観音は縷衣香さんだったと言うのです。

住職の25年間の病も治ったそうです。

それで、お礼にお金を送りますから、フランスのルルドに行って下さいというのです。

それで1979年夏フランスに行き、長い聖母マリアの御出現地を訪ね、ヨーロッパを歩くことになったのです。(聖女ベルナデッタの100年祭の被昇天の祝日)

住職が送ってくれたお金は30万円です。
後は母が毎月15万円送金してくれました。

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2012-11-25 08.07.22
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南フランスのオリーブのカーテンと庭のグリーングラスの干し草、ボストンのチャールズ川の近辺の風景。
日本、神州、神山ですべての経験が一つになります。
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「希望」
ボストン美術館付属美学校時代の宿題。
ろうそくに不透明の紙をかけて、見える効果に変化をみせるのです。
先生はとてもほめてくれました。
真夜中、描きました。

2012-10-11 15.40.21

ノアの箱舟は何もしなくては現れない。
私たちの心を律し日々の他者への愛を育てることでしか現れない。
2012-10-11 01.45.32

昨年、夏、ノートルダム寺院に行った時に幼きイエズスのテレジアの写真展をしていた。

天から薔薇の花びらの雨を降らしますと、言っていた。

光の雨も降りますが、薔薇の香りがして天から降り注ぐ見えない薔薇の花びらの雨も感じます。

世が悪いので天界も総力あげて地球を救うためにエネルギーを送ってます。
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私の本名は宝塚ファンだった母が、女形スターの雲居通子からとったもので、百人一首の「雲の通い路、乙女よくらん」から命名されたと思われます。

天津風 雲の通い路 吹きとぢよ をとめの姿 しばし とどめむ

僧正偏昭 古今和歌集

風よ、天に往き来できる路を、塞いで美しい天女の姿を少しの間、見せてください。

☆当時、大阪の本町で(ギャラリー靭でメビウスの輪のテーマで)個展をしていた私に、知恩寺の住職は元伊勢の籠神社の宮司さんから「大変大切なお話がありますので、私が交通費と旅館代を持ちますから大阪にいる間にもう一度天橋立に来てください」と言われたのでした。

☆今、「天下泰平」ブログで元伊勢訪問記が書かれているのですが、天照は男で、妻が瀬織津姫だというのです。

☆東北大震災があった後、私は幾度も東北を訪れています。

ある日、遠野物語で名高い遠野に行きました。

遠野は地盤が固く無事で、その地に宿泊しながら多くのボランティアが、陸前高田等の被災地に向かうのです。

午前中観光バスに乗ると、大型バスに運転手一人、ガイド一人、客一人で、瀬織津姫の山に案内されたのでした。

畏れ多くも、瀬織津姫の転生の可能性があるのです。

瀬織津姫は縄文の神で、弥生文化が効率の農耕で階層文化で差別を産んだのに比べ、皆同じように尊い、障害者も大切にされた社会でした。

弥生文化が平等社会の縄文文化を嫌い、瀬織津姫の奉ってある社は皆消され、別の名にされたり、壊されたそうです。

しかし、今、縄文の魂があちらこちらで台頭してます。

皆が幸福に鳴るために、競争よりは助けあいが必要と気がついたのです。

縄文文化では苛めは要らない。
争う必要がないのですから。