「うつくしい墓」

うつくしい墓とはマティスのロザリオの聖堂。
晩年のマティスとピカソの友情を、若いみなしごの家政婦の目を通して書く。
実話かどうかはしらないが、マティスの死後、彼女は修道会に入る。
☆1981年だったと思うのだが、夏にマティスのロザリオの聖堂に行った。
☆1986年だったと思うのだが、パリで個展をしたときに来てくれた美術館が7年後に
パリまで持っていくゆとりがなかった私は日本から送った。
其のまま、忘れていた。
1995年、主人の仕事のため私たち家族はボストンに行き、私は7年住むことになり、再
ふと思い出して、パリの百人一首を買い上げてくれた美術館に行った。
ボストンからパリまで、7時間で行けるのだ。
☆パリ郊外の市立美術館はすっかり様変わりしていた。
半分は昔からの侯爵様の優美なお城。
半分は、コンテンポラリーの建築で、4階建ての美術館だった。
1999年後に、ヨーロッパの優秀な美術館として表彰された。
アポも取らず行ったが、受付ですぐ4階に案内された。
私の百人一首は、ガラスケースにはいって、展示されていた。
同じ部屋には、ダリやドゥ・ビュッフェの作品があった。
別の部屋には、それぞれ、ロダン、マティス、ドゥ・ビュッフェのコレクションがあり、
近くに住まわれていて、侯爵様が援助をされ作品を買われたと言うことであった。
☆マティスの作品は可能なかぎり、観たいが、私が思い出すのはこの事。
ロザリオの聖堂に行ったのは、夏の一人旅でお昼には美術館はしまり、2時まで開いてな
それで庶民的なレストランでお昼を食べ、絵を描いて時間を潰していたのだが、地元のお
不動産屋さんで、海の見える別荘をたくさん扱っていた。
「将来、山の別荘と海の別荘をもちたいけれど、海の別荘はヴァンスにするわ。芸術村も
「その時は、安くしてあげるよ。」
31歳くらいで、夢いっぱいの頃の話だ。
☆マティスのロザリオの聖堂は小さいが、ステンドグラスもし祭服も燭台もマティスのデ
聖ドミニコが啓示を受けた薔薇の冠、ロザリオの祈り。
ステンドグラスの色が光を浴び、踊るように床に散りばめられていた。
☆あれから、30年たった。
山の別荘の方は本宅になった。
海の別荘の方は未だに実現せず。
私の教会は蚊帳教会。
一応、未だ、夢の中。
このあとに、「タンギーおじさん」のセザンヌにあてた、タンギーの娘の手紙形式の文を
セザンヌは相当、遅咲きらしい。
タンギーおじさんの画材屋さんは貧しい画家が付けで買うので、お金の代わりに、作品を
タンギーさん亡きあとに、娘は借金を払うために、その絵を売った。
セザンヌも借金で絵の具を買っていたのだが、父親の死後、遺産で払い終えたと手紙には
☆この間、長野を歩いていたら、People Treeのお店を見つけた。
フェートレィドのお店。
そう言えば、ロスアンジェルスに住んでるアメリカ人が、私の詩を友人のやっているPe
Treeに載せたいと言ったので、いいよと言ったら、本当にnetで流されていた!
☆世界の繋がりは、ある良心があって、芸術家は通底器(アンドレ・ブルトンの言葉)で
芸術って、何はともあれ、最高!