November 10th, 2019

Christmas

世界を目指す日本の若いア-ティスト達の為に!




 私が日本の美大を出てほぼ、50年になります!

 私が47歳にもなって、ハ-バ-ト大やボストン美術館付属美大で学んだのは実を言うと娘のため私の滞在許可を取るため学生ビザF1が必要だったからでした。

 未だ中学だった娘には母親が必要で、独りでアメリカに残せ無かったからです。

 3年の家族3人の滞在後、主人が仕事で帰国する時期が来たとき、賭けとして、娘にアメリカでの教育を全うさせるため、私にもボストンに残ることを主人は私に命じたのでした。

 私自身は、「易カルタ」も「百人一首」もあったし、学歴は重視しないタイプだし、別に今更、大学に行く必要があるかなと思っていたのです。

 第一、私は英語はアレルギーが出るほど嫌いなのです。

 しかし、先にハ-バ-ト大学のサマ-スク-ルでデッサン、油絵を学んで教授達の計らいで正規の授業に出れることになったので、推薦文2通を書いて頂けました。30年前に卒業した女子美術大学の教授にはいびられっばなしでしたから、推薦文を書いてくれるとは思えませんし、英文ですからねえ、よほど礼金を払わないと引き受けてはくれなかったと思います。

 異国で、中学生の娘の高校受験も母子で乗り切り、自分も美大に通うのですから、大変だし、物入りです。

 娘が高校に入り、母も美大に通う為に、私は毎日2時間くらいしか睡眠が取れず、1分たりとも、睡眠時間以外は横になったこともないです。宿題をするとそういうことになるのです。

 娘は高校は寮のあるところに入りましたが、金曜日の午後から日曜の夜までは自宅に帰りますから、車で学校まで送迎し、その間は日本料理を食べたり、衣服を買う為に、ブティックに行ったり家庭をやるのです。絵は描けません。

 しかし、アメリカ的な教育と世界基準と言うのを知った良い4年間になりました。

 ❇❇❇❇❇
 話を、アメリカの美術教育に絞ると、アメリカでは常に自分の作品の説明や他の学生の作品、既に名のある作家の作品評価を話したり、書いたりすることが要求されます。

 発音や文法が間違っていても良いのです。半分は他国からの留学生なので、皆、自国の美術学校を出てから来てますので、絵を描く能力はある水準はいっているのです。

 奨学金もらってきていた人もいましたし、社会で働いてから美大留学した人もいました。

 年齢は19歳から84歳までいました。

 弁護士や生物の教授で、晩年は好きなことをやりたいと美術学校に来ている人もいました。

 私のような母子家庭はいたかどうか?

 しかし、日本では親が女子美術大学のデザイン科に限って受験を許してくれたので、自分のお金で授業料を払うのでしたから、今度は遠慮無く、学びたかった油絵やエッグテンペラ画、おまけにセラミック、パフォーマンス、インスタレーションを学べたのは、良かったです。

 アメリカの現代美術を学んだのも良かったし、村上隆が台頭してきた時で、なかなか日本人の私には面白い時代でした。

 毎週土曜日は、「今週のニューヨ-ク」の授業で、二人の先生がバイクでニュ-ヨ-クまで飛ばし、ギャラリーをまわり、スライドで90分の授業で見せてくれるのです。

 村上隆のcocoちゃんもLonely cowboyもこのスライドショーで見て、たどたどしい英語でオタクの説明をしたのでした。
 英語ができないことで意地悪をするのは日本人で、外国の人はそれで人を傷つけたりはしないです。

 この授業で良く「男になる!」と言うのを「ポロックはthe manになった!」と言ってましたね。

 芸術の仕事は命がけで、それが格好良いのですね。


 私は「神話」の授業の学期の始まりと終わりに、クラス全員の易カルタ占いを教授から求められて、易カルタ占いをしました。教授はクラス全員がしたしくなるために役立つというのです。
恋愛や仕事運占うのですから、若い学生はわくわくです。

 更に2年かけて制作した100個の棺桶の中にアウシュビッツが入っていたので、「ナチスの宣伝工作がいかにして成功したか?」と言う授業では、「棺桶作品の説明をして下さい。」と教授に言われ、英語能力の無い私は身を縮む思いで話したものです。この種の授業は大学生、大学院生に解放された大人数のクラスです。

 しかし、ユダヤ人の怒りはここのファミリーツリーやカセットテープの遺言を持ってきて、私たち日本の広島、長崎の被爆者とは違い決して、忘れられない許しがたい歴史なのです。
 「あなたの国の被爆者たちは?」と訊かれて、「沈黙してます。被爆者であることで不利益があり、差別の対象になります。」と話しました。

 やはり、世界を知ることは大事なのでした。そして、沈黙の日本人を知っていただくことも大事なのでした。

 72歳になり、普通の暮らしをしてますが、驚くことに、京都であったユタ州に住むアメリカ人と北しなの鉄道に乗っていたスキ-客のオーストラリア人から「あなたはどうして英語がそんなに上手なの?どう勉強したらそんなに話せるの?」と訊かれたことです。

 中学1年の時に英語の担任教師に虐められ、いじけてしまい英語アレルギーになったのでした。

 母が姉とライバル意識がつよく英文科を出て名古屋の領事館から虎の門のアメリカ大使館に勤務したのをいつも嘲り、オ-ルドミスと言って、女は家事ができなければ仕方がないと、家政科を出た自分の方が上と言っていたのです。
 それで、英語はできないし嫌いでした。

 しかし、仕方なくTOFFEL スコアを提出するために美大に行くために、ニューイングランド英語スク-ルに行きました。鈴木大地さんもいて、日本男子二人とお昼ご一緒したこともありました。
 そのニューイングランド英語スク-ルで10までレベルがあり、10を卒業すると、toffel試験が必要ないのでした。
 成績表は日本の自宅に送られてきて、ずっと知らなかったのですが、後で観たら、Hがたくさんついてました。Hはオナ-(誉れ)の略です。つくづく、教師の責任は大きいと思いました。虐めた教師は御茶ノ水大を出て大変な美人だったのですが、戦争で未婚だったので生徒を虐めるのがストレス解消だったのでしょうか?

❇❇❇❇❇
 アメリカでの授業のグレ-ドは絵の点が半分、批評能力が半分です。

 他の学生の作品を批評して、すぐその場で紙に書いて提出するのです。それがグレ-ド(成績)の半分なのです。批評能力が絵を描く能力と同格にあるのです。

 日本で人の絵を批判したら大変なことなります。名誉毀損も問われるようです。

 日本では黙りが一番賢いのです。

しかし、アメリカでは、20代の若者から批判されようが、快く受け入れる度量や若者を育てるぐらいの大らかさが必要なのでした!

 どの美大でも、歴史に残るぐらいのア-ティストは、50年に一人くらいしか生まれません。

 サイ トゥオンブリーもボストン美術館美大 SMFAで学んだ人ですが、他校でも学ばれてます。


 サイ・トゥオンブリーは1928年アメリカ・ヴァージニア州生まれ。ボストン美術学院、ニューヨークのアート・ステューデンツ・リーグで絵画を学ぶ。51年にロバート・ラウシェンバーグの勧めで、先鋭的な美術学校の短期講習であるブラック・マウンテン・カレッジに参加し、ロバート・マザウェルに師事。アメリカ抽象表現主義の次世代を代表する作家であり、即興的な線や絵具、数字やアルファベットを組み合わせた絵画や彫刻、素描、写真作品を多く残している。52年に初めてローマを訪れた際に古代文明に魅了され、57年にイタリアに移住して以来、ギリシャ・ローマ神話や歴史、文学作品をインスピレーション源にした絵画を制作する。

 60年代からは無彩色に近い背景にクレヨンなどでドローイングを重ねた作品や、植物をモチーフに色彩を多用した独自の表現様式を確立し、「孤高の詩人」と評された。高松宮殿下記念世界文化賞(1996)やヴェニス ビエンナーレ金獅子賞(2001)など受賞歴多数。近年の主な個展に「サイ トゥオンブリー:紙の作品、50年の軌跡」(原美術館、東京、2015)、「サイ・トゥオンブリーの写真-変奏のリリシズム-」(DIC川村記念美術館、千葉、2016)、「Cy Twombly」(ポンピドゥー・センター、パリ、2016-17)。11年没。


 体力的にも経済的にも大変ですが、日本にいて世界水準のア-トの感性を維持するには、動き回らなくてはならないのです。

 ヨ-ゼフ・ボイスも語っていたが、反対意見も浴びるし傷つくこともあるのです。

 ほとんどドイツ語でしたが、ヨ-ゼフ・ボイスは英語も上手ですね。デュッセルドルフ美大で教えてられたのと、医師を目指していたのと、ナチスのパイロットをやっていたぐらいですから、知力体力非凡な人だった人が、やり遂げたア-ト革命なのでした!




 
Christmas

寒い!6度から8度!


読書!

 夜中の3時半に、読み終える。

 今日の夕食は牛蒡と鶏肉のおこわ飯。
8 時に夕食なのだが、炊き終わった頃、娘が来て、居間食べたいと言うので、6時頃食べたら美味しいと2膳食べたので、私も一膳食べて満たされしまったので、写真は撮らず夕食は終わった!に
Christmas

過去プログのコピー。2010 8 11 神山コテージで。

2009 12 24 ホワイト クリスマス!

東京駅から長野。3人で城山動物園と善光寺。雪の跡がきれいでした。動物園が無料で小動物がかわいかったです。参道も風情があっていい感じでした。駅までタクシーで長野東急で食料を買うために下ろしてもらいましたが、タクシーの運転手が格安で黒姫の自宅まで乗せていってくれるということになり、子供たちがロッカーに荷物を取りに行っている間に私は地下でケーキなどを買ったのでした。
長野駅よりもう暗く3人の荷物が重かったのでタクシーだったのですが、親切に戸隠神社のほうを通って家路に向かいました。富士山の遭難には2度あって20数名の人がコチンコチンに固まるのを見たそうです。冬山は侮れないですね。

 家に着いたのが6時ころでしたか。ストーブに火をたきつけ、こどもたちが2階のこたつに入った途端、電気が消えてしまって真っ暗です。さて、ブレーカーはどこにあるのでしょう!裏の未亡人のところに電話をしたら、P君がいたので
きてもらいました。
 家まであがる階段も50センチくらいの雪でたどりつけないほどなのですが、P君が20日から毎日、雪かきをしてくれていたのでした。幸いお風呂場のブレーカーを私が見つけ、P君がすぐに明かりをつけてくれました。
長野で買ってきたケーキがあるので24日のお昼に未亡人と来てもらうようにお頼みしました!

善光寺で買ったお正月飾り!

24日
 前日の夜からお鍋をぐつぐつ煮込みました。クラム・チャウダーというわけではないのですが魚介類のえびやいか、貝をいれ牛乳でたまねぎ、ジャガイモ、にんにくなどあるものを全部入れて1晩煮込みました。
中国のちいさな飲茶用の小包各種、おおきな肉まん、鴨肉の燻製、栗とお豆のおこわ飯、白米も炊きましたね。パンにクリーム・チーズや各種のジャムなど。あとは何だったかしら?ドライフルーツが結構好評でしたね。キャンディーやチョコや果物もありました。ワインは白です。おいしかったです。
イタリアン・トマトのショート・ケーキ。
 12時にP君と未亡人がやってきました。
 P君が雪かきをしてくれたおかげで無事に家に入ることができたのでほんの御礼のつもりだったのですが、クラッカー、ソーダー水3本、きりたんぽ。クリスマスの昔懐かしい音楽のCDとギターまで担いできてクリスマスの生演奏をしてくれたのでした。未亡人は友人にいただいたお漬物をお皿に盛ってもってきてくれました。そして、若者たちにそりを貸してくれました。
1度すべって、上まで歩いてかえるところです。目の前が子供スキー場になっているのです。



 夜は牟礼にあるサンクザールのクリスマス・ディナーです。プロテスタントの教会も同じ敷地の中にあるのでした。
とてもすてきなお料理で8品目のフレンチで生のピアノ演奏もついてました。クリスマス・ソングが主でした。



パンにまでサンタクロースがついていてリングのパンでした。ひとりひとりに手書きのカードがついていて、お久しぶりのフレンチでした。
この費用は主人が娘が大変豪華な接待を受けたお返しに出してくれたので、やはり主人には感謝しないとね。(冷蔵庫に冷凍しておいたステーキ肉を特別のソースを買ったので、東京でごちそうしてあげますね)

帰りのタクシーが私たちをおろした後に溝に車輪を落とし、助っ人を呼ぶのにあちこちの家を訪ねたのですがイブなので留守でした。大きな車が来て牽引してようやく来た道を帰ったのですが、30分くらいかかったでしょうか?雪がそれほど深くタクシー料金が20%増しですので、以後はみなで懐中電灯を持ってバス停から歩くことにしました。

 午前中にはIさんからクリスマス・プレゼントのローヤルゼリーと高価な中国のお茶が届きました。ありがとうございます。

25日 娘が目が痛いといいますので3人で信越病院にいきました。眼科は長野に行かないとないそうで、3人で長野まで行き本屋さんのビルだったのでお茶を飲みながら診察を待ってました。本屋さんのビルの中ですが中国のきんもくせいのお茶も飲めました。

 娘たちが薬局へ行っている間、ボブ・ディランのクリスマスの歌を買いました。このCDの収益は食べ物の無い人たちの食料になるのです。岩波新書ナーマ・フィールド著「小林多喜二」の本と新潮文庫「大いなる看取り」中村智志著「死を待つ人の山谷の希望の家の住人」(仮題)を買いました。R君と娘の診察を待ちながら話していたのですが、携帯にはいっている写真を見せてくれたのですがR君の親戚の人の美しいのには驚きです。いとこも姪もおばさんもおじいさんも美男美女ばかりなのでした。娘に「美男美女ばかりのところでいずらくなかった?」と訊いたら「私は頭がいいということになっている。」というので笑ってしまいました。「何専攻って訊かれたので東洋哲学って答えた。」「それじゃあ、バレバレだったでしょ?」「うん。」だって。

 病院は意外に混んでいて時間がないので3人で帰りの電車の中で江戸寿司をいただきました。そして、懐中電灯をともしながら雪の坂道を歩いて家まで戻りました。

26日 夜明けはきれいですね。5時ではまだ暗いです。30分ごとに玄関をあけて写真を撮ってました。

 2人が長野に出かけ、私は郵便物を待ってました。Y子さん、ありがとう!
チョコのロールケーキは夜のデザートに頂き、残りの半分は未亡人のところに持って行きました。
長野から帰ってきた2人に重いイーゼルを起こしてもらいました。組み立ては結構大変でした。これで室内でも油絵が描けるでしょう。

 2人が外食したので、私は24日に炊いたご飯に朝は卵かけ、お昼はシャケをほぐしたのをかけて家を片付けながら、クリスマスの飾りもですが、読書と音楽を聴いてました。

 ボブ・デュランの声って暖かいのですね。すごく素敵なCDでした。
「小林多喜二」ノーマ・フィールド著・岩波新書の本は貧しさの救いは正義だというのです。
片方の本「大いなる看取り」山谷のホスピスで生きる人々。中村智志著・新潮文庫。山谷のホームレスのひとたちが「きぼうの家」で亡くなる姿を読んでいるとホームレスというのは非常に身近なところにいるということがわかりました。本当に普通の人。普通以上に優れているような人がふとしたことで
ホームレスになってしまうのですよね。
また、スーザン・ボルドさんの経歴を「週刊新潮」で読むと、酸欠で生まれ知的障害があり、小学校では教師にずいぶんいじめられていたそうです。
神さまというのは凄いですよね。
雪のクリスマスを不思議な世界と歌うボブ・ディランも素敵でした。
雪の世界って本当に神秘です。

27日
 夜中のうちに雪が降って枝に雪がかかってました。
毎日、がんがんとストーブにたきぎをくべてましたが、外に出るとちゃんと煙が出ていました。これがプラスティックのそりなのですが、若い2人は2人乗りをして、セブン・イレブンまでの坂道をそりで買い物をしてました。
ビデオをみせてくれましたが、対向車が来たらちょっと怖いですよね。でも彼はF1のレーサーになりたかったので車の運転が上手ですから、きっときりまわせる自信があったのでしょうね。

3人で洗濯とごみ捨て、掃除などをしてタクシーを呼んだのは12時20分でした。帰りは私は新幹線の東京駅から帰り、こどもたちは秋葉原にいったのでした。
 主人と二人でステーキを焼いてアスパラガスとカリフラワーとトマトのサラダでおいしくいただきました。

 これから悪天候で野尻は大雪とか。




🔑神山の奇跡!!!!!お祈りありがとう!準備編

「蚊帳教会」イヴェントの8月11日~12日に向けて、10日には蚊帳を吊る秋田からの元浄化塾生のSさんとビデオ作家の麻布からのハリー。地元信濃からは一茶記念館で働くはカレー作りの手伝いのTさんと黒姫からはアート・インスタレーションの助っ人の帰国子女アーティストのチカちゃんが朝から来てくれるので、私は9日の夕方には野尻の神山に着くつもりで出かけました。

 9日は大忙しです。
 重いカートはヤマト宅配便に託しました。それでも手荷物はまだ重い。
 そして月曜日を待って、信用組合銀行からお金をおろし「りそな銀行」に口座を作りました。すべて長野生協のためです。実印も通帳も持って。

 次に目黒のアトレで長野にないかもしれなし調味料や黒豚ソーセージなどを買いました。あとは好物の柿山せんべいなど。

 それから新幹線に乗り、つかの間の長野の乗り換えで買った本が凄く私には良かった。

以下アマゾン・コピー
内容(「BOOK」データベースより)
天才哲学者を含む八人きょうだいは、芸術家も出入りするウィーンの大邸宅で育った。音楽への異様な執着、兄たちの相次ぐ自殺、そしてナチとの攻防…ルートウィヒと、「片腕のピアニスト」として名を馳せたすぐ上の兄パウルを中心に、不屈の精神で荒波に挑んだ一族の百年を描く。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
ウォー,アレグザンダー
1963年生まれ。曾祖父は文芸評論家のアーサー・ウォー、祖父は国民的作家のイーヴリン・ウォー、父もコラムニストという作家一族で、自身の系譜について書いたFathers and Sonsが高い評価を呼んだ。また音楽評論家、作曲家でもあり、Mail on SundayやEvening Standardでオペラ批評を担当

塩原 通緒
1966年生まれ。立教大学文学部英米文学科卒業(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

☆黒姫駅についてからは喫茶「しなの」に寄る。
 それからまだ5時台だったのでバスでコテージに!

 夜に気になって読み始めた本やコテージに前からあった「利休にたずねよ」。

4分の1ほど読みました。

8月10日(火曜日)晴れ
 元浄化塾の佐藤君が朝7時頃のバスで来るはずだが、遅いと思っているとあれだけ丁寧にセブン・イレブンの横の道と書いてあったが、わざわざセブン・イレブンの販売員に訊ねて1駅戻り、「グリーン・タウン」駅まで歩き、神山を遠回りして登ってきている途中だと言うので、迎えに行った。

 庭のガーデン・チェアで朝食を取る。
 
 ビデオ・作家のハリーさんから携帯で無事長野に着いたとの報告があり。善光寺を撮影するように依頼する。レンタル・カーを借りて来るという。

 地元黒姫のアーティストのチカちゃんが早々と到着。ちいさなセラミックの籠に釣り糸通しを頼む。

 地元信濃の一茶記念館でボランティア?のTさんが着く。早速カレー作りの采配。
Tさんの持ってきてくれたトマト、とうもろこし、ピーマン、キュウリ、オクラのフレッシュなこと!

 お昼はハリ―さんを待って4人でひやしそうめんです。たくわんは秋田からパンチ君がお土産に持ってきてくれた「たくわん」で燻製のようでおいしかったです。

 横浜からは「マリア・コード」を書くことを勧めてくれた麻酔医の能見先生から神田の名物のお菓子が届きました!「祈り」が医療にはとても必要との考えの持ち主で世界を救うには祈りが必要と「蚊帳教会」への応援でしょう。ありがとうございました。


☆私は庭でインスタレーションを始めました!「ゆりかご」

 チカちゃんはちいさな揺りかごを木につるしてます。
 佐藤さんは蚊帳吊りの準備です。

 百合のつぼみも膨らんで何か予感が!






佐藤君の用意してくれたカンテラ!ろうそくは山火事の原因になるので助かりました!

棺桶も吊ります!「ハートを棺桶に入れないで!」という重大なメッセージなのでした!




 準備ができたのですが、雨が降ってきたので蚊帳吊りのマーキングが終わったので蚊帳を吊るには11日の朝ということにしました。
 ハリ―さんと佐藤君は地元のチカちゃんの案内で「コメリ」に行ってビニールひもなどの最後の買い物で出かけ、チカちゃんの車でTさんも自宅まで時間通り4時ころにお帰りになりました。

 本当にこのように達人がそろって皆がそれぞれの場で一生懸命に働いたのでした。

 夕方は佐藤君とハリーと私とで地元のイタリア・レストラン「ピか丹」でそれぞれのイタリア料理を食べたのでした。

 皆、朝が早かったので9時ころには男の方2人は「樹香」ペンションに車で出かけました。
 
 気になったのは天気!
 でも、楽天的な私でした!


🔑8・11「蚊帳教会」のしあわせ!
朝から順調に蚊帳が吊れました。


 風が強いので直前になってまた直すとのこと。吊り降ろすのにはひもを引っ張れば簡単に落ちるように工夫があるのでした。ハリ―さんと佐藤君の2人の手があってきれいに吊れたのでした。

 時間があったので黒姫駅に3時に帰ると言う佐藤君にぜひと思い3人で戸隠神社に行くことにしました。レンタカーがあるので25分くらいで戸隠神社の奥社に着きました。
とにかく凄い人出で駐車場も満員。しかし縦位置にバスに並べて他の車も泊めてあったのでだいぶ余裕を持って(1メートルくらい)留めることができました。

 山門を通ってますます気が満ちます。
 幾度訪ねてもまた行きたい戸隠神社です。11時半くらいでしょうか?






ハリ―さんは重たい三脚とビデオ・カメラを持って早く歩くのですね。
佐藤さんとは久しぶりなのでゆっくりと近況の話を聞いてました。

☆さて、第1の奇跡は帰りの駐車場なんです。
 「あっ!ぶつかっている!」
 ハリ―さんの声。
 よく見ると、ほんの数ミリでぶつかってないのです。
 それより前の車との距離が1メートルはあったと思われるのに後ろから押しだされて、ぶつかりそうで 同じように参詣から帰って来た家族が、
「警察を呼んでいるところで、待っています。」
 と携帯で写真を撮ってます。家族が4人ほど車の外で心配してます。
 ほんの数ミリで!
 レンタルカーですからもっとやっかいなことになるでしょう。
 
 気がつくともう開催時間の1時前です。
 さあ、大変。急いで帰りコンビニでおにぎりを買ってコテージに着きました。

 佐藤君は気になる蚊帳をもう少しピンと直したようでした。
 同郷のパンチ君もきて、トウモロコシを置いて行きましたが、佐藤君の家とは30分くらいのところでほぼ同じ年齢なのでした。
☆昨日は近所のヤマネさんが来て、
 「6畳2間に冷房をつけたから、蚊帳で気持ちが悪くなった人がいたら家に泊まってくださいね。野郎部屋だけど布団はいくつでもあるから。」
 と言ってくれたので安心。
 また、昨日「道の駅」で買い物をした佐藤君からは桃やカッターやビニールひも、ハリ―さんは黒姫特産の黒豚のチャーシューやソーセージなどいろいろな差し入れがあり冷蔵庫は満杯です。

 早々と登場したのは昨年の黄山旅行で御一緒した平田さんです。元気な方で車から降りてすぐに自転車に乗り換えて湖一周に出かけられました。
平田さんからはビールや麦茶やおつまみがいっぱい。冷蔵庫はいっぱいなのでボールに氷を入れて缶などを冷やしました。
 ハリ―さんも朝起きで朝のうちに近辺の国際村や赤倉の教会や湖一周をしたようでした
近所のトウモロコシ畑を撮影していると、たくさんの唐土をくれたようです。それはフルーツのトウモロコシで生で食べるものだそうです。
 電話が入り午前10時に藤沢を出た彦坂さんの車が渋滞に巻き込まれ送れるとのこと。
「どんなに遅くてもいいので安全に。」
と言いました。

☆福岡から元浄化塾生の入谷君が3時ころ黒姫に着く予定で、ハリ―さんの車で黒姫に向かった佐藤さんはホームで5分ほど昔なじみに会えたようです。佐藤君はお盆の忙しさで蚊帳を吊るために家族を説得して来てくれたのです。

☆入谷君がようやく着くと、ハリ―さんと3人でフルーツ・トウモロコシを食べました。それがおいしくて食べやすいのです。入谷君はお茶の名産の八代茶のお菓子を持ってきてくれました。いつも撮影担当です。
 元浄化塾生はいつも秋田や福岡という多大が交通費となかなか休暇の取れない事情に中によく駆けつけてくれ、不思議な感じです。佐藤君は蚊帳吊るまでに庭の草が無くなるまで刈ってしまいそうで、「少しは草も残して。」と頼んだのでした。

☆ひとり野尻湖まで来た女性が迷子になっていて、誰でも迎えに行くから居場所を教えてと言う間に、夕方には帰りの新幹線で帰られたのでした。住所もわかっていてと思うと不思議です。

☆遅め遅めで、言いだしっぺの彦坂さんが無事7時ころに着きました。
本当に渋滞の中10時間もかけて超多忙な方が来てくれたのには大感激です。





 彦坂尚嘉さんは「皇居美術館」の本を朝日新聞出版社から出されたばかり、昨晩は徹夜のまま今日10時間運転してきたそうですが、熱が入った「皇居美術館」のお話に皆、しっかりひきずりこまれたようでした。

 もはや大学の講義です!
 カレーライスは1日寝かしてとてもおいしかったようです。
 ズッキーニ、ポテト、オニオン、キャロット、マッシュルームなど。ベースは中村屋のしました。やや辛口かな?後は新鮮な野菜を丸かじりです。
 彦坂さんはワインを持ってきてくれました。コーヒーの缶も増えてましたからどなたかが持っていらしたのでしょう。地元のチカちゃんのお父さんは金賞受賞の「戸隠そば」です。

 バンド演奏も楽しかったですよ。テッシーのエレキギターはさすが!
また、パンチ君のずうずう弁バージョンの「古時計」も面白かったです。

 チカちゃんの弟さんの建築家学生も飛び入りでドラムをたたいて楽しかったです。


 黒姫駅前の書店&喫茶「しなの」のたかし君。小林一茶の子孫です。彼も楽しそうでした。

 パンチ君の「古時計」はCD化したらと声がかかる人気でした。

☆今回は不思議と彦坂さんの声がかかったせいか、建築家とアーティストの参加が多かったんですよ。高橋堅さんは受賞した建築家でチカちゃんのお父さんもログハウスで金賞。C.W.ニコルさんの東屋も作ったそうです。パンチ君もログハウス作りでは一緒に仕事をするようです。

 彦坂さんは今度西部さんと対談するのでその話についての質疑応答や、「皇居美術館」の本を「しなの」から取り寄せてあったのでサインをしてもらえて購入できた平田さんやハリーさんは直接生の彦坂さんの話を聞けて本当に幸せそうでした。

☆私も美にはうるさい彦坂さんに作品を観られるので覚悟をしてお迎えしたのですが、とても好意的に一つ一つ見て下さり、「思ったより数段いい。100次元ある。」とのお言葉。アイ・フォーンで蚊帳屋庭のインスタレーションを観ながら、部屋の各部屋のアートなども彦坂流で解説してくださったのです。
こうなるとビデオを観るのが楽しみです。

 副社長の比比奈さんや常に呼び出される気のいいご近所の山口青年もながドライブの疲れもあったのでしょうが、楽しそうに音楽や講演にしびれてました。

☆11時半にお開きにして、汗のシーズンですのでお風呂でもシャワーでも使ってもらうことにして順番に体を流し、それぞれ蚊帳に入ったり、持参のテントを組み立てたり、昨晩寝てないとのことで彦坂さんには2階のゲスト・ベッドをお勧めして、私は最後のお風呂に入って洗濯機を2度回し、1階を片づけると3時半になってしまったので、考えると男性ばかりの蚊帳教会なので自分にベッドで休みました。



Christmas
15th August 2010, 02:17 am
「蚊帳教会」へのプレゼントは神からの虹!!!
 午前6時前にほんの数分現れた虹。そして忽ち雨が降り始め、蚊帳の住民はみな起きていて直ちに蚊帳を畳んでくれました。
撮影は入谷頼和さん




そして聖母像の横には百合の花が開いて待っていたのでした。カサ・ブランカです。
スペイン語で白い家。コテージも白くありたいです。

 蚊帳教会はこんな台風の季節だったのに、やはり今年も守られたのでした。
それには多くの祈りが集められたのです。

 心を合わせて祈ってくださった方たち。

 自宅に帰ったら、ノックの巡礼で御一緒だった方から、スペインのカミ―ノ巡礼の途中とのことでした。

 それぞれの生き方が祈りなのです。

 とにかく同じ思いの方たちの澄み切った祈り。

 恵みを戴いたこの3日間に大感謝です。

 
 ベッド組もテント組も起きてきて、朝はいただきもののたくわんやゴボウ漬け、牛肉巻き、キュウリ、トマト、黒豚ソーセージ(これは鹿児島産で目黒で買ってきましたが)、ハム(サンドイッチ用に生協で買ったもの)とパンなど簡素でしたが、おいしかったかも

 そして、お名残り惜しいですがバラバラと去っていかれました。
 途中で比比奈さんがお財布を忘れ、インター料金を払ってから気がついて一回りして戻られました。
山梨の志田寿男さんのところにはそれで彦坂さんと比比奈さんが寄られたそうです。
お盆の渋滞ですからさぞお疲れでしょう。遠路はるばる本当にありがとう。

 
 カレーが余っていたのでハリ―さんと入谷さんとでご飯が炊きあがるのを待ってお昼にいただきました。入谷さんの飛行機が羽田で7時。それに合わせてハリ―さんがレンタカーで長野駅まで送ることになり、みなお人柄のいい方ばかりなので本当にありがたかったです。

 私は皆さまが帰られてから戴きものの記念撮影をしました。
Christmas

過去プログのコピー。2011 3 11 まで。

実験「Lovely Coffins(愛すべき棺桶)Installation」!

 10日間かけて、長野、神山でインスタレーションをしてみました。

 100個のセラミックの棺桶を手にもてるサイズと言えどもずっしり重く、設置するのはかなり難行です。

 幸い天候はベスト・コンディションで無事「棺桶たちが雪に浄化されて埋没するまで」を、ビデオと写真で撮影できました。

3月6日(日)晴れ
 雪が解け始めた黒姫・神山。
 キャンバス地の箱から取り出して、自分の敷地内の家のドアまでの遊歩道に設置です。
 
 これがずしりと重い。

 手伝いを申し出てくれる方たちがいたのですが、自分ひとりで気の向くままにすることにしました。

 1日かかかって、設置したのです。
ジャンヌ・ダルクは雪がどんなに積もっても、隠れませんでしたね。




 イエローカブ。日本の尻軽女。

 ミス・サイゴン。ベトナム戦争の被害者、ダスト(埃)という扱いを受けたアメリカ兵との私生児を生んだ女の涙。


 次にテーブルの蝋燭を100個以上用意したので、作品の横に置いて火を灯して撮影しました。

大正解です!なんとも美しい夜の風景にうっとり。

しかしながら、ちいさなろうそくが次々と燃え尽きて、全体像が撮影できないのでした。

セルビア語で「なぜ?」です。
隣国とは親戚だったのに、犠牲となった死者の墓に書かれているそうです。

3月7日(月)曇り、雪

  バスに乗って、古間の「コメリ」に長い赤い芯の蝋燭を100本以上買いました。重いです。

  バスのない時間なので、歩いたり現金が無くなって「かけそば」350円でお昼にしたりでした。

  

3月8日(火)雪。
 あとは、雪が降ってほしいと夜中の4時ころまで、起きて庭を観ていたのですがゆっくりと遅めに起きたら、窓の外の木が雪でまっしろで、あわてて庭に出たら、雪で棺桶たちはうずもれて意図どおりです。

 もう、ほんの少し顔を出したり、「ノアの箱舟」や「バベルの塔」の棺桶作品の先が出ているだけ。雪の中からきれいな色が点々と見えるのですが、私だからわかるもののどこに何があるんだかと言う具合です。


 もう少し溶けたらと思い、風邪薬を買う必要もあって出かけたりしていたらちょうどいい具合になって撮影。
3時ころは雪がとけて最高にきれいでした。
ロンドンで買った陶芸ボトルに種を蒔いたんですが、ようやく芽が出て感激!

これらのバスケット群は雪で遊ぶと言うイヴェントに「ルイコさんも、何か出して!」て言われて創ったものです。焼け跡からも目が出て花が咲き、麦の穂が垂れる。自然界にも人間にも希望があると言う作品です。猫も生きるということです。麦の穂はゴッホの終焉の地の美術館で美術館員がくださったものです。


 夜は雪が止んだので、キャンドルを並べて、火を灯しました!
ビデオの方がもっときれいに撮れてます。

  もう、素敵でしたよ。

  風も吹いていたので、方向や流れによっては消えてしまうので、雪を掘って埋めたりとそれなりの工夫が!2階の窓やベランダから見たり、家から出て山の少し離れたところからも撮影しましたが、コテージそのものが雪明りに輝いて、別世界でした。

  ほとんど人の来ない時間帯でしたが、知らない人が見たらびっくりとするでしょうね。
そして、半分ぐらいの棺桶たちをコテージのストーブの上に次々と載せて、乾かしたり布で雪を拭き取って収納です。重いのと場所が無いので半分でしたが、手がかじかんだり寒さで体がおかしくなったり、疲労でぐったりでした。

3月9日(水)雪。吹雪。
  今日は3時に生協が来るので一生懸命片付けて、残りの棺桶も収納終わったのが2時ころでした。
一晩、雪の中に棺桶が使って氷の中状態でしたので、熱湯の入ったケトルで幾度も雪を溶かして往復したのでした。
 主人から電話があって、娘が帰ってくると言うので、木曜日に帰る予定を繰り上げて4時42分のバスの乗って、5時27分の信越線が遅れて到着するまで、喫茶「しなの」でお茶をして帰ってきたのでした。
凄い雪でしたので、佐久間も軽井沢も雪が降ってました。

 1日遅れていたら、インスタレーションはできなかったでしょうね。
 また、新しいカメラをうまく使いこなせていなかったとは思うのですが、自分のコンピューターに夜には取りこんで観て実験としては大成功だったと思います。

 古いカメラとビデオ(といっても、カメラは未使用、ビデオは1回のみ使用)は盗難にあったようで、コテージから消えてしまったのです。まあ、いろいろな人が出入りもしたし、管理人も鍵も持っていますしね。

不思議だったのは、最後の朝に玄関から湖に向かう、足跡がくっきりと雪の上に残っていたことです。
小動物だったのでしょうけれど、イエス様の足跡のようにも感じました。
妖精かもね!

冷凍庫の中をのぞいて、残りものでも楽しく戴いているお昼です。

「猫バスケッ」トはとてもちいさいです。こどもたちはみなキティちゃんが好きですね。


☆夜は今までの作品や展示会は雑誌や新聞に紹介された記録を英語のRESUMEとして、インターネットに書き込んでます。資料も神山に運んできました。
懐かしいものも多くて、われながらよく捨てずに持っていたと思うものもあります。

フィンランドの大使館の外交官の奥様からの依頼の26話の日本御伽草子の挿絵です。
ボランティアでしたが、こうしてフィンランドの雑誌に載せて戴けるのはうれしいですね。

 信濃町の写真屋さんに撮影した写真を現像に行くと「幸せですね。」と言われました。
本当に!

幸せですね。
こうして63歳になっても、絵を続けられているのはありがたいです。
「24孝物語」のビデオがYOU TUBEで流れているんですが、イギリスの方も観に来て下さっているようでした。

 「Lovely Coffins」のインスタレーションも素人の撮影で下手なのですが、YOU TUBEで流そうと思ってます。
雪の都合と言うのがあるので、プロの方の宿泊していただくのはできなかったです。
そして、棺桶もデリケートな作品が多く、雪に埋もれて破損も進みました。
麻原彰晃のサリンのは、雪にまだ埋まったままです。
そんなことで、棺桶インスタレーションは再びできるかどうかはわかりません。

 この世のから消えてしまいたいもの。

 大事なものなのにないがしろにされているもの。

 そう言えば、「相撲」が棺桶に入ったのは2000年でしたが、八百長でやはり問題があるのを観ていたのでしょうか?

🔑これは地震を棺桶に入れましょうという作品です。


 私は長野の黒姫、神山に行くことが多くなって、自然界の厳しさには常に到底かなわないのが人間だと思うようになりました。

 雪が凄い音を立てて屋根から落ちます。信濃町でも雪下ろしや除雪で毎年、数人の方が亡くなるそうです。それでも雪国に住む人々がいる。

 日本は地震国と言われ、1995年1月17日、神戸の地震の記憶は新しい。
 
 「マリア・コード」の本は、祈りによって地震を無くそう言う考え方の持ち主から「ぜひ、出版してほしい。」と言われて書いた本です。

☆個人的に、人間の心の在り方がとても悪くなっていて、このままでいいのかという思いが積み重なってきた昨今です。

 人間がここまで堕ちている。
 母が子を殺す。虐待する。

 子が親を殺す。年金欲しさに親の死すらなかったことにする。

 子供が苛めで自殺する。

 学校で教師が生徒にわいせつ行為をする。

 宗教家の堕落がある。

 医師が経済的利益のために命をもてあそぶ。

 あってはいけないことが起こり過ぎている。

🔑祈りが足りないのか!大地震が東北に起きる。

☆東京の品川区に住む我が家。

 地震時は娘と寝室にいたが、私の部屋のアンプはかなり重くて私の力では持ち上げれないのだが、2つとも棚から落ちていた。主人の部屋は書類が散らばっていた。1階の本だなの上の陶器の器が落ちて2つほど割れていて、破片を拾い、細かい破片は掃除機ですった。
 キャビネットの扉は開き、バッグがたくさん落ちていた。

 東京でも、居場所次第では死んでも不思議はなかった。アンプがもろ当たれば即死もありえたし。

☆テレビで映る仙台市や岩手の盛岡市の津波の様子。
 家が流れ、車が流される。

 東北は夜には氷点下になるだろう。

 行くえ不明の方たち。
 少し前のニュージランドのビルの崩壊は日本のものとなった。

 あのビルはクライスト教会。キリストの名のキリストの体。

☆私たちは驕り続け、物欲に明け暮れて、互いに争い、思いやりの気持ちを忘れ始めた。
 
 この大不況で経済的な試練でものを買えなくなり、古いものを繕い、大切にし始めた。

 それでも足りないレッスン。

 石油が高くなり暮らしにくくなり、家から追われた住む人たちを受け入れるために、私たちは隣人愛を学ぶのだろう。

☆老いた父も姑も無事だった。家もしっかり建っているらしく特別傾いだわけでもない。

 ホームレスのおじさんたちはどうするんだろうと思った。

☆私は自分の部屋を片付けながら、流行遅れだってダサかろうと捨てられなかった靴や衣類が「いつかは、こんなものでもあることがありがたいと思う時が来る。」と思ったことを思い出した。

毛布やシーツもある。こどもの幼稚園時代のクレヨンもハンカチもあるくらいなので。

☆「棺桶インスタレーション」は神様がとても急がした。
 早く浄化を!
 人類の罪の浄化を!

 それで、寒さをものともせずに風邪をひいたが雪仲で設置したのだった。

 神山の雪の中で?

☆私は胸が痛む。

 人類の歴史がこんなにも多くの犠牲の上に成り立っている事実に。

 祈りがないがしろにされているという告発の作品もある。


 左の小さい方は祈りの椅子だ。

☆「ノアの箱舟はどこから来るのか?」と娘が訊いた。
「自分で創るのよ。」

雪の山に乗せたので、アララト山に到着したように見えた。

今は私たちは、大海原に漂流中なのかもしれない。


しかし、やがて新しい芽が出るだろう。  

🔑
世界中からお見舞いメールが!
 娘が12年間アメリカ・ボストンで学んでたせいか、アメリカや中国の知人から安否を気遣うメールが凄いです。
彦坂尚嘉さんのブログにあった写真映像が凄いので、さぞ心配なさったことでしょう。
http://www.boston.com/bigpicture/2011/03/massive_earthquake_hits_japan.html

 娘は仙台から地震が始める15時間前に東京に帰ったばかりなので、「仙台って皆知ってるの?」と訊くと、日本と言うことで心配しているそうです。中国も四川や雲南省で地震があったばかりなのに、東京を含む東北沖地震の過酷さは世界中に流れているようです。

☆テレビで深夜まで映像を観ていると、家が流れ車が流れ、物は壊されて最後の人間の生命も、津波のおしよせる現場や火災の起きた現場では他人どころでは無かったということでした。

 窓から見える孤立した家のベランダから見えた人影もヘリコプターが掬いあげました。とても難しい技術だそうです。

 食べ物も足りないらしい。でも、腐る生ものは迷惑のようです。毛布も衣服も新品がいいそうです。
指示に従って、迷惑かけないように援助したい。

☆1カ月は余震のある仙台に帰る費は1カ月あとになるでしょうが、マンションの部屋はどんな状態でしょう?
 でも、余力があれば一緒に人のために働きたい。そんな手伝いも兼ねて1カ月もしたら仙台に行こう。

☆「ママ、易経ではどんな卦が出ていたの?」
 「易はみない。でも、棺桶を10日間かけて雪の中でインスタレーションしていたのよ。
自然界と一致していた。希望通りに雪が降り、青空が出た。
そして、罪や悲しみが雪の中に埋もれ、浄化されたのよ。」
 
☆瀬戸内寂聴が連合赤軍の死刑囚永田洋子の病死について、「彼女は反省が足りないと批判されていたけれど、彼女の体は罪を覚えていて、14人の同志が処刑され、逮捕された冬のある期間になると体がとても苦しみ体調を悪くしていた。彼女は体で償っていたのよ。」と言っていたのを読んだ。

 人間の体は正直なのだ。

 「易」の達人は筮竹を使わなくても、天地の出来事で運気を読める。

 主人の祖母は易の達人でマフラーの房でも読めたし、からすの数でも占えたと言う。

 私も天と心をひとつにする訓練をしているので、体が知覚より先に知っている自然界のできごとがある。

☆この地震の前にクジラの遺体が太平洋沿岸に上がって、「地震が来る。」というニュースが3月5日頃に流れたそうだ。実際には地震が無かったので、「ガセ」と言うことになったが、やはり地震が起きた。

 ニュージランドの地震の後には夜行性でめったに昼間見ることのないハリネズミの死体が群れてあったそうだ。動物は知っていたのだった。

☆私が黒姫で読んでいた本「「静かなる旅人」フェビエンヌ・ヴェルディエ静山社はフランスの女性の画家が中国に6年招待留学生として生活し、少数民族や新しい価値観で葬られた中国の古典画家たちに指示して中国で個展をしてフランスに帰りポンピドーで個展して成功し、今は森の中のコテージで静かに制作をしていると言う書である。

 彼女が出会った中国の古典画家たちの自然とのかかわりあいが凄い。
 名もお金も求めてはいけないと師を言う。

 そして、師が「芸術には力がある。芸術には政治ができないことができる。人を救うことができる。
本物の芸術にはエネルギーがある。形も色も問題では無い。エネルギーが大きいのが画格の高いアートだ。」と言うところがあり、納得してしまう。

☆私は今までの作品を整理中で昔のCDを無くしてしまったので、また作り直してスキャンをしたり写真を撮影したりしているのだが、私の死後誰が管理をしてくれるんだろうと言うのが心配だったかもしれない。

 ところが、期待もしてなかった娘が「自分が易経を勉強したいので、ママ教えて欲しい。」と言うのだ。

 「待っていたのよ。上から与えるのではなくて自分から湧き出て来る望みで無いと易経にはかかわれないもの。」

「私、資質あると思うのよ。大おばあちゃまのかたみの易の道具は全部私のものになるんでしょ?」

「それは、そうよ。黒檀の経木や筮竹の束もね。」

「それでは、さっそくこの本を読みなさい。ママはこの本の書いてあることぐらいは全部頭に入っているからね。」

☆今日、買ってきた月刊「文芸春秋」。
「これが私たちの望んだ日本なのか?」が企画。

2011.3.11

 私たちは生まれ変わらねば。
 自然の声を正しく聴いて、美しく生きる時代が来た。

 美しく?

 そうだ。

 美しく。

2011 3 月5日(土)「雪の上の遊ぶアート展!」黒

企画者の松田チカちゃんからビデオができたとお知らせが!
私も「再生」のバスケットを出品しました。



🔑🔑🔑🔑🔑
 ここで、重大なのは、3月5日に出品したバスケットの名前がなぜ「再生」だったでのでしょうか?


https://youtu.be/XL-I2TBRyrs


















 
Christmas

Ribirth!

3.11の6日前の5日に、私は「再生」のビデオを撮影していた。

 罪深い人類の出来事を100の棺桶に突っ込んだ私は、ボストンから東京に運び、更に神山に運んだ。

 雪の積もった3月に、その棺桶を入れる穴を掘り、一つずつキャンドルに陽を灯し、祈りを捧げた。
 雪が降り、棺桶は埋もれ、晴れた日に顔を出した。

 春は直ぐ近くに来ていた。

 「再生」と言う焼け焦げたバスケットを地元のインスタレーションに提供し、自分の庭でビデオ撮影を数日したのだが、それが終わり片づけ、東京戻った時に、3,11の大地震が東北に起き、東京でも震度5強の大地震で、私は揺れの中にいた。

 令和よ。

 天の求める平和を私たちは取り戻すために、青空を与えられた。


 私たちは
晴れがましく生きるために、まっすぐに神を仰ぎ、身を慎む為に、あの、この災害を体験させられたのだ。