February 1st, 2020

いよいよ2月。-4度から2度。雪。

8時に起きました。








 美容院嫌いなわたしは、美容院に滞在を最少時間で間に合うように、ヘアダイと洗髪をしました!
 明日から東京なので、お片づけと少し要らないものの処分!


 カ-ドが届いた!

 晴れた!
明日も楽にコテージから出れそう!



 体力が落ちてるのかな?
お昼寝をしてました。
 
 今日は穏やかで良い日です。

 姑の葬儀は明後日。

 やはり、「私の小さなお葬式」の映画は、姑のメッセージだったのでした。
https://youtu.be/mNMBeuHABSk

 私は主人とは、幼馴染みだったので、姑のことはちいさい時から知っていました。

 主人とは、小学校入学式からお隣りのお席で、毎日、学校終わってから主人は弟を連れて私の家に遊びにきていて、後に姑がYWCAで英文速記とタイプライター習っていて家を留守にしていたので、子供達も自宅にいてもつまらないので、家に遊びにきてたのがわかりました。

 主人の家は、とても素敵でしたよ。スペイン風の西洋館で、1階には大きな船の模型入ったガラスケ-スがありましたが、大舅が海軍さんだったからだと、後の日にわかりました。
 姑は津田塾の英文科の大学生の時に結婚して、主人ができたので、大学中退しています。それで、専門学校で教える為に英文速記とタイプライターを習っていたわけです。
 とてもハイカラで、お誕生日会では、ホ-ルのチョコレートケーキにピンクと白のバラが作られていて、銀の小さな珠が散らばっていて、その当時は、そんな家が少なかったので、子供心に、素敵だなと憧れの気持ちがありました。
 私は五年生の秋に越境して、港区の白金小学校に転校しました。品川区の学習院と言われていた(くすくす)第三日野小学校ののんびりさが、私の母は不安だったのかもしれません。
 それ以降、25年音沙汰したなしだったのに、同級生の悪戯で再会し、結婚したのでした。

 あの素敵な西洋館は未だありました。再会後に、訪ねた時にも大姑は96歳で存命で姑は、昭和3年生まれなので、現役で専門学校で教師してました。
 結婚の時は、私の家では、畏れ多い気持ちがあって、幾度か辞退しました。父も母も「家事はできないし、常識はないし、お薦めできません。」と、頭を下げました。母は7キロもやせるほど、家の格差に怖じけつぎました。
「世が世ならお手伝いさんをつけて、嫁がせるのですが、そんなご時世でもないですし。」と、恐縮のかぎり。
 そんなこともあってか、姑は、「私はあなたを助ける星なのよ。あなたを助ける為に居るのよ。」と言ってくれ、こちら側の緊張をほぐしてくれたのでした。
 大姑が易をやるので、直ぐ占うので、日常的に星を調べるのでした。
 私は絵を続けさせてくれたらぐらいの条件でしたが、序でに、女とお金の苦労をさせないことを条件にして嫁ぎました。
 西洋館を建てた大姑が亡くなってから、隙間風が厳しいと古い家を壊し、娘が4歳の頃、二世帯住宅を建て同居しました。
 それまでは、歩いて2、3分の賃貸マンションに住んでました。
 私は遅くなって結婚したので、多少分別がついていたせいか、比較的、同居はスムーズにいきました。
 姑は口は悪いのですが、親切ではあるのです。
 私がタイプライターで打った易カルタの英訳を、「素人がよく打ったわね!」と、呆れながらも打ち直してくれ、私がマンションで魚の焼き焦げの火が消えないときも、電話をすれば駆けつけてくれ、「本当に何も知らないのねえ。」と、感心されながらも、私も「本当にそうだなあ。」と思うタイプなので、喧嘩にならず、愉しく暮らせました。

 ただ、教育の面では合わない事があったので姑が講師をして、更に同窓会会長をしていた世間では、女子の憧れの名門校には娘は受験させませんでした。
 明らかに裏口で入れる環境でしたから、敢えて、難関と言われる別の名門校を受験させました。

 それでも、運動会には実家の母と姑を公平に招待しました。
 パリにもボストンにも、公平に二人とも一緒に呼んだので写真がそうなっているのです。

 私が英語が苦手だったのも良かったかもしれません。
 私が美術をするというのは、この家では評価されたのでした。

 私の母は家政科を出たので、子供服や幼稚園小学校指定のカバンなどは母が作りました。

 子供が4年生の時にアメリカに行くことになり、主人3年、私7年、娘11年のアメリカ滞在がありましたから、舅、姑との同居生活も変化しました。

 昔の人は勉強家で、母も姑も寸暇を惜しんで、新聞紙に字の稽古をしてましたね。

 母は小学校の教師をしていて、姉は虎の門のアメリカ大使館に勤務していたり、戦後、アメリカ人の家庭に家を貸していた主人の家とは共通のところがあって、それなりに縁があったのでしょう。

 舅が亡くなると、姑は年に3度くらい海外旅行をするようになりました。
 
 ケアハウスでも、よく海外旅行の話をしていたと介護士さん達の話です。

 先生業をしていたので、介護士さん達にも厳しい口調が多かったようですが、神父さまの病者の塗油の秘蹟の時に許しの祈りもしたわけですから、許して貰うより仕方がないです。

 結婚の時に、黒の留袖作ってくれました。他に、家も建てて貰いました。

 私の側からは感謝ですね。
姑のアルバムや使っていた辞典など預かっているんですが、大切に保管しましょう。

 介護はもっばら娘がしたはので、娘は旅行や映画など一緒に行ったようです。

 姑に昔の歌を聴かせたいと娘がケアハウスに録音して持ってきたのですが、最後はカラオケバ-になってしまって、娘と私は、クィーンのボフェミアンラプソディ-を声を張り上げて歌ってしまいましたが、姑の寝ている部屋は明るく家庭のようでもありました。

 なんだか魂が喜んでいる気がしました。アルツハイマーでもう話すことも食べることもなく、ただ寝ているだけですのにね。


 娘が持ってきた
 生姜、林檎、ほうれん草のジュ-ス。