June 10th, 2020

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歌謡曲!


Oisixが届いた!























頂き物!
フクロウ。

 本屋さん、ダイソ-、東急ライフ疲れました!
30分ほど休憩!

 あまりにも暑いので倒れそう!



ハリエッタ!

地下鉄道(ちかてつどう、英: Underground Railroad)は、19世紀アメリカの黒人奴隷たちが、奴隷制が認められていた南部諸州から、奴隷制の廃止されていた北部諸州、ときにはカナダまで亡命することを手助けした奴隷制廃止論者や北部諸州の市民たちの組織。また、その逃亡路を指すこともある。地下鉄組織(ちかてつそしき)とも呼ばれる。

最も頻繁に使用されていた1810年から1850年の間に、30,000人から 100,000人が地下鉄道の助けを借りて奴隷状態から逃れたと推測されているが、公式の国勢調査ではその数は6,000人ほどと計上されている。地下鉄道は一般に「自由」を称揚する価値観の象徴的な存在となっており、同国の黒人(アフリカ系アメリカ人)史においても特筆される事項である。

構造

この逃亡幇助網は、物理的に地面の下に設置されていた訳ではなく、「(地下に)潜る、隠れる」といった「秘密」やアンダーグラウンドを表す意味で「地下鉄道」と呼ばれていた。地下鉄道は主に、秘密の通過道、乗り物、待ち合わせ場所、隠れ家、そして奴隷制度廃止論者たちによる誘導や補助で構成されていた。特に廃止論者たちは、地域ごとの小さな班に分けられ、自分たちの地域だけにおける地下鉄道の詳細な情報を知るという慣わしだった。ひとつの「停車駅」から次の「停車駅」へ、黒人たちは停止地点ごとに違う人々の補助を借りて、目的地まで進んだのである。これによって、誰ひとりとして逃亡中の奴隷たちの目的地までの道のりの全容を知ることがなく、地下鉄道の秘密と奴隷たちの安全が確保された。また、隣り合った「停車駅」同士は、親戚の関係親戚の関係でつながっていたということも多かった。奴隷制度廃止論者である白人、生まれつき奴隷でない「自由黒人」、過去に奴隷だった黒人、そしてアメリカ先住民などの人種に属する人々が、この「線路」上で「車掌」として、逃亡中の黒人たちを手助け・誘導した。フレンド会、会衆派教会、メソジスト教会、バプテスト教会などの宗教的な機関も、この地下鉄道に大きく貢献した。また、奴隷制度廃止派の考えは書物、新聞などを通して出版され、合衆国中に広められた。

逃亡中、奴隷たちは通常、昼間は隠れ家にかくまってもらい、夜中に次の「停車駅」へと旅をした。ただし、毎晩、泊まる所があったわけではなく、森や沼地に隠れなければならないこともあった。

用語 編集
地下鉄道は一般の鉄道に例えられてできた用語である。この用語を使えば、一見普通の鉄道について会話しているように聞こえるため、秘密を守るために使われるようになった。

仲介人(agents) - 奴隷たちが鉄道関係者と接触できるように助けた人々。
車掌(conductors) - 奴隷たちを誘導した人々。
駅、停車場、停車駅(stations) - 奴隷の隠れ家。
駅長(stationmasters) - 自分の家に奴隷をかくまった人々。
乗客(passengers)、貨物(cargo)- 逃亡中の奴隷たちを指す言葉。
奴隷たちは「切符」(ticket)を入手しなければならなかった。
友達のいる友達(a friend with friends) - 秘密の合い言葉。
自由黒人で商人だったウィリアム・スティルは「地下鉄道の父」と呼ばれ、月に60人の頻度で、総計で何百人もの奴隷が逃亡するのを助けた。彼はペンシルベニア州フィラデルフィアの自宅に奴隷をかくまうこともあった。スティルは、助けた元奴隷たちの伝記などをこまめに記録しており、亡命後の奴隷たちとも文通を続けた。さらに、その元奴隷たちの家族への手紙を届け、彼らとその家族との間の音信を守った。スティルはこの経験をもとに『地下鉄道』という本を南北戦争後の1872年に出版した。

地下鉄道組織内のメッセージのやりとりには隠語が使われ、関係者以外は理解関係者以外は理解できないようになっていた。例えば、「2時に、大きなハム4つと小さなハム2つ、『経由で』送りました」という伝言は、「大人4人と子供2人をハリスバーグからフィラデルフィアに送った」を意味するが、「経由で」を加えることによって、普通に直通列車で移動したのではなく、遠回りの「レディング経由で」移動したことを意味していた。だから、この伝言を入手した当局は、奴隷が亡命する前に捕まえようと通常の鉄道の駅で待ち伏せしたが、スティルは別の場所で奴隷たちと落ち合うことができ、後に彼らをカナダに無事に亡命させた。

1620年代に地下鉄道が発達する以前の1600年代にはすでに奴隷たちが、補助を得ても得なくても、主人のもとから逃げ出していた。メリーランド州とオハイオ州で運営されていたアメリカ初の商業用鉄道東西ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道は、偶然にも北へ向かう地下鉄道と交差していた。

地下鉄道という呼び名は、1831年にケンタッキー州に住む主人から逃亡したタイス・デイビッズの出来事がきっかけではないかと言われている。デイビッズは、著名な廃止論者で長老派の牧師でもあったジョン・ランキン(John Rankin、1793-1886)の助けによって、オハイオ川北岸のオハイオ州リプリーに亡命した。ランキンの自宅はオハイオ川を見下ろす丘の上にあり、対岸から遠望された。デイビッズの主人は彼を必死に追跡したが、彼が「あたかも地下の道に入っていったかのように消えた」と目撃について語った。ランキンは影響力のある廃止論者だったため、この話はすぐに有名になり、「地下(underground)」という言葉が用いられるようになった。[1]

行き先と経路 編集
奴隷たちが逃亡してめざした北部の州では、歴然とした差別はあったものの、一応、自由の身になれた。だが、1850年の逃亡奴隷法の制定以後、北部の州でさえ住むにはとても危険だった。そのため、カナダなどの外国が逃亡先として好まれるようになった。上カナダでは奴隷貿易が1793年にジョン・グレイヴス・シムコー州副知事によって廃止されていたし、大英帝国では1833年に奴隷制が完全に廃止されていた。およそ30,000人の奴隷たちが無事にカナダに亡命した。中でも、当時人口の少なかったカナダの領域に逃亡した奴隷たちは重要な存在となり、オンタリオ州の現在の黒人人口が他の州に比べて多いのはこのためである。メキシコでは1829年に奴隷制が廃止され、また、1819年までフロリダ州はスペインの法域だった。

逃亡した奴隷たちの主な行き先は、ナイアガラ半島やオンタリオ州ウィンザー近くにある南オンタリオだった。20世紀になり、伝統的な言い伝えに「ひしゃく(ヒョウタンを半分に割って作った)をたどっていけ(Follow the Drinking Gourd)」という歌がある[2]。 ひしゃくとは、ひしゃく型をした北斗七星のことで星座の大熊座を意味する。そのひしゃくの中にある2つ星が北極星を指していた。北極星は夜空で一番明るく、小熊座の一部であり、小熊座は北の方向、つまり自由の方向を指していた。

日差しが戻ってきて、最初のウズラが歌い始める頃、ひしゃくをたどって行け。
あのおじいさんが待っていて、君たちを自由な場所へ連れて行ってくれるから、
もし君たちが、 ひしゃくをたどって行くなら。
ひしゃくをたどって行け、川岸は逃げ道にぴったりだし

枯れた木が道案内してくれる、
左の脚、義足の脚、言い伝え通りに歩き続けて。
丘と丘の間で川が終わるよ、 ひしゃくをたどって行け。
向こう側にはもう1つ川があるよ、 ひしゃくをたどって行け。
大きな川と小さな川が合流する場所で、 ひしゃくをたどって行け。
あのおじいさんが待っていて、君たちを自由な場所へ連れて行ってくれるから、
ひしゃくをたどって行け。
(以上、黒人たちの伝統的な言い伝えから)

シンシナティにある国立地下鉄道自由センター。地下鉄道の活動に関する史料を展示している。
ただ、研究者の間では、この歌は奴隷制時代に遡るものではなく、南北戦争後に作られた歌だとする考えが支配的である。

主な経路には、アパラチア山脈の東側へ、ペンシルベニア州やニューヨーク州を経由してナイアガラ半島へ、オハイオ州とミシガン州を経由してウィンザーへといったものがあった。また、リオグランデ川を南に渡る経路(後述)や、西方向へ、開拓されたばかりの領土に続く経路もあった。

オハイオ州は地下鉄道の活動にとって最も重要な州であった。北部の自由州と南部の奴隷州とを分ける境界線上にあったオハイオ川北岸には、シンシナティ、リプリー、ポーツマスなど、対岸の奴隷州であったケンタッキー州から川を渡って逃亡してきた奴隷を保護する拠点がいくつも存在した。そして州内の至るところに、これら河岸の拠点で保護された奴隷をさらに北へ逃亡させるルートが網の目のように張り巡らされていた。

また奴隷州側にも、比較的北部の自由州に近く、中立的な立場をとっていた州には、例えばデラウェア州の州都ドーバーのように、地下鉄道が活動の拠点としていた都市があった。メリーランド州西部のアパラチア山脈のすぐ東には、コロンビア特別区の50マイルにも渡る通路を通る、良く計画された逃亡ルートが多く存在した。同州フレデリックは、このルートのちょうど真ん中に位置する。

北部諸州・カナダ以外への行き先 編集
逃亡奴隷たちは、テキサス州境のリオグランデ川を越えてメキシコへ渡ったり、カリブの島々に亡命したりすることもあった。元奴隷だったフェリックス・ヘイウッドは、「テキサス州での奴隷制度」の中で、次のように記した。

たまに、僕たちに寄り添ってきて、北部の州に走り逃げて自由にさせようと助けようとしてくれる人がいる。僕たちはおかしくて笑ったんだ。だって北に走り逃げる必要なんてないんだ。歩くだけでいいんだ。南に向かって、歩いていけば、リオグランデを超せば、もう僕らは自由なんだから。
しかし、地下鉄道という名称は、通常、このような南方の逃亡ルートを表すのには使用されない。

旅の様子
逃亡中、本当の鉄道を利用した奴隷もまれにいたが、通常は歩いたり荷車で移動した。奴隷たちを捕まえようとする追っ手を撒くために、うねりくねった経路をたどった。逃亡者の大多数が、40歳以下の農民の男性だったと言われている。逃亡の旅道は、女性や子供には険しく危険すぎた。ただし、通常は、地下鉄道を通して逃亡し自由な生活を確立した奴隷たちは、自分たちの妻や子供を主人から買い取り、その後一緒に暮らした。これが可能だったため、実際、秘密の逃亡によって亡命した奴隷たちに加えて、逃亡はしなかったが奴隷の身から解放され、地下鉄道を運営していた勇気ある人々を感謝した黒人たちは、相当な数がいた。

地下鉄道の詳細な情報が公的機関などに流出してはならないため、道筋や隠れ家の場所などの情報は全て口頭で伝えられた。南部の新聞には、逃亡奴隷についての情報が頻繁に掲載され、捕まえた者には主人から賞金が出された。このような賞金稼ぎを職業とした奴隷捕獲人は、遠くはカナダまで奴隷を追い、捕まえようとした。働き盛りの屈強な黒人は、奴隷の主人たちにとって投資した動産であり労働力だった。また奴隷ではない「自由黒人」たちでさえ、拉致され奴隷として売られることもあった。その黒人の自由を署名入りで正式に公証した個人の「自由証明書」でさえ、簡単に破り捨てられ、完全な自由を保障するとは限らなかった。

民間伝承

 1980年代以後、キルトのデザインが暗号の役割を果たし、逃亡中の奴隷たちに道のりや隠れ蓑の方向を合図していたという説が提示されている。民間で語り継がれたこうした史話をもとに書かれた『公然と隠されて:キルトと地下鉄道の秘話』は1999年に出版され話題を呼んだが、現在、このような伝承の歴史的な裏づけは乏しいとされており、キルトに込められたメッセージが実際に地下鉄道の活動に寄与したかは、キルティングの歴史家を含め、多くの歴史家の間では極めて疑わしいとされている。

ただ、それとは別に、伝統的な黒人霊歌には暗号的な役割を果たしえた歌詞が含まれていたという見解は、現在はアメリカの「黒人学(Black Studies)」の定説になっている。「そおっと行け(Steal Away)」や「水の中を歩け(Wade in the Water)」などがその典型である。こうした霊歌は確かに旧約聖書のエピソードやイエスキリストを題材にした信仰の歌に違いなく、一見、他界を望みみる彼岸的な心情の表れであった。だが同時に、同じ歌詞が仲間内では自由の願望ないし逃亡の決行を合図していた場合もあり、霊歌は優れた二重性を有したコミュニケーション手段であった。

法的・政治的見解 編集
地下鉄道によって、北部の州と奴隷州の間で摩擦が大きくなった。北部には、奴隷を自由にしようと活動する奴隷制度廃止論者たちに、どちらかと言えば共感した人たちは多くいた。また、南部の人々は何年にもわたって、脱走奴隷を捕まえるために強力な法律を制定しようと推し進めた。1793年逃亡奴隷法は、合衆国議会が承認した初めての、奴隷制が廃止されている州での逃亡奴隷たちの問題について規制した法律であった。その後、南部州の議員を力もあって、議会は1850年に逃亡奴隷法を承認し、逃亡奴隷の捕獲が強制された。この法律によって、奴隷制が廃止されている州に亡命した奴隷は、もはやそこで法的に自由になることが不可能になり、結果として奴隷はカナダや英国領土に亡命するしかなかった。またこの法律の制定により、オハイオ州などに通じる地下鉄道の発達が促された。これと同時期に、南部では数多くの奴隷の反乱が失敗に終わっており、首謀者のみならず、罪のない奴隷たちへの自警団による報復の暴行が頻発、北部へ逃亡する奴隷の数がさらに増加した。

南北戦争で北部と南部の間の対立がピークに達した時には、数多くの奴隷たちや自由黒人たちが連邦国軍の兵士として連合国軍と戦った。合衆国憲法第13修正が承認された後は、他国に亡命していた黒人たちが合衆国に帰国しても安全になったため、地下鉄道はそれまでと逆の動作をとり、黒人たちが帰国するのを補助した。


カナダへの影響
なくとも20,000人あまりの奴隷たちが地下鉄道を通じてカナダに亡命したと推測されている。これは、カナダの社会に多大な影響を与えた。アッパー・カナダ(1841年からはカナダ・ウエスト、現在の南オンタリオ)に亡命した奴隷の数が最も多く、黒人カナダ人の自治体がそこで数多く発達した。トロント、ナイアガラフォールズ、そしてウィンザーの3カ所を結ぶ三角形の中に、そのような自治体のほとんどが存在した。特にトロントには1,000人もの奴隷たちが住み着き、また、ケント郡やエセックス郡には、元奴隷たちの村が数ヶ村設立された。

さらに遠くでは、英国領(現在はカナダの一部)に黒人たちの集落が構えられた。その中には、ジェームズ・ダグラス総督が黒人の移住を勧めたノバスコシアやバンクーバー島などの島が挙げられる。ダグラスは、黒人のコミュニティーを設置することによって、その島々をアメリカ合衆国と合併しようとする勢力への防波堤の役目を果たせる、と考えた。

目的地に着いたときに、失望させられた逃亡者たちも数多くいた。イギリス領では奴隷制は廃止されていたものの、人種差別はありふれていた。到着した土地で仕事を手に入れることも困難だった。しかし、ほとんどの黒人たちはその場所に居続けた。アッパー・カナダに亡命した20,000人中、米国に帰国したのはわずか2割だった。[3]

南北戦争が始まったことで、他国に亡命していた数多くの黒人たちが連邦国軍の兵隊に徴募し、その後カナダに戻った黒人たちもいた中で、たくさんの黒人が米国に残った。また数千人もの黒人たちが、終戦後、家族や友達と再会するために、南部の州に戻っていった。ほとんどの黒人たちが、奴隷解放や再建時代の動きのもたらす未来に、希望をもっていた。

今日のカナダの人々は、自分たちの国が、米国からの奴隷たちの避難場所であったことを誇りに思っている。彼らの国が、近隣の国で存在を否定される人々に自由をもたす場所である、と考える人もいる。オンタリオ州には、そのような信条をもとにした建造物が数多く建てられた。

その時期の文芸作品
1829年 "Appeal to the Coloured Citizens of the World" デイビッド・ウォーカー著(ジョージア州の奴隷制度への反対運動を呼びかけた)
1832年 "The Planter's Northern Bride" キャロライン・リーヘンツ著
1852年 『アンクル・トムの小屋』 ハリエット・ビーチャー・ストウ著
1861年 "Incidents in the Life of a Slave Girl" Harriet Ann Jacobs著(地下鉄道の支援で逃亡した奴隷だった黒人女性の自伝)
小林憲二・編訳『ハリエット・ジェイコブズ自伝』、明石書店、2001年
堀越ゆき・訳『ある奴隷少女に起こった出来事』、大和書房、2013年(新潮文庫、2017年)

脚注 National Park ServiceよりJohn Rankin House(英語)
^ 東『アメリカは歌う。――歌に秘められた、アメリカの謎』 p195
^ Parks CanadaよりNumber of Underground Railroad refugees arriving in Canada(英語)

参考文献
東理夫
『アメリカは歌う。――歌に秘められた、アメリカの謎』作品社、2010年。
関連項目
関連項目 編集
アメリカ合衆国の歴史
カナダの歴史
アメリカ合衆国の人種差別#アフリカ系住民に対する差別
人種差別#アメリカ合衆国における黒人差別
ハリエット・タブマン:地下鉄道の車掌役を長らく務めた。
フレデリック・ダグラス
地下鉄道 (小説)(英語版) - コルソン・ホワイトヘッド(英語版)の小説。「地下鉄道が本当に地下空間を走る鉄道だったら」という設定で進行する。

外部リンク
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Annual historic re-creation of Underground Railroad in Sugar Grove, Pennsylvania(英語版)
Friends of the Underground Railroad(英語版)
The William Still National Underground Railroad Foundation(英語版)
National Underground Railroad Freedom Center(英語版)
National Park Service: Aboard the Underground Railroad(英語版)
National Geographic: Underground Railroad(英語版)
Maryland's Cooling Springs Farm: The Story of a Still-Existing Underground Railroad Safe-House(英語版)
Underground Railroad in Canada(英語版)
Ontario's Underground Railroad(英語版)
Underground Railroad in Westfield, Indiana(英語版)
Prospect Place mansion, Underground Railroad safehouse in Trinway, Ohio(英語版)
最終編集: 4 か月前、Ogawa.shinji
関連ページ




















5時2分の北しなの鉄道に乗って帰りました!
大雨になったので、庭に出していたキャンバスが心配だったので、早く帰らなかったことを反省!

娘がコテ―ジに無断で入り込んで、宣伝に使う写真を撮影をしていた野尻湖国際村の小林工務店を警察に電話して、お巡りさんが来ていたときに雨がふってきたのですぐにデッキにしまっておいてくれたので無事でした。

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【4月21日 AFP】米財務省は20日、米20ドル紙幣の新たな顔として、元奴隷で奴隷解放運動家のハリエット・タブマン(Harriet Tubman)の肖像を採用することを決めたと発表した。米紙幣にアフリカ系米国人の肖像が使用されるのは初めて


 ジェイコブ・ルー(Jacob Lew)米財務長官は同日、新たな5ドル、10ドル、20ドルの各紙幣のデザイン上の変更点を発表。新10ドル札には、当初変更が検討されていた米初代財務長官アレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton)の肖像が引き続き採用されることが決まった。各紙幣の新デザインは、2020年までに公表される予定だ。

 新たな米紙幣のデザインをめぐっては、女性の肖像採用を求める声が高まり、1年以上にわたりロビー活動や世論調査が続けられていた。

 1849年に奴隷生活から脱走したタブマンは、伝説的な奴隷解放運動「地下鉄道(Underground Railroad)」の運営に携わり、数千人の奴隷の逃亡を助けた人物。新紙幣のデザインをめぐる60万人以上を対象とした調査で、1位を獲得していた。

 当初の計画では、2020年に行われる10ドル札のデザイン刷新で、ハミルトンと共に女性の肖像を採用することが検討され、20ドル札のデザイン変更はその10年後に実施される予定だった。

 だが草の根運動団体「ウィメン・オン・トゥエンティーズ(Women On 20s)」が、米国で女性に参政権が与えられてから100年の節目となる2020年に合わせ、女性の肖像を採用した新20ドル札を発行するよう求める運動を展開。ルー財務長官によると、こうした声に応え、20ドル札の表面にタブマンの肖像を採用し、現デザインで採用されているアンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)元米大統領の肖像は裏面に移すことが決定した。(c)AFP
出典:米紙幣に初の黒人 元奴隷女性のH・タブマン、新20ドル札に 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News


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米紙幣!
20ドル紙幣に黒人女性活動家ハリエット・タブマンの肖像画!

史上初《黒人奴隷解放に尽力》 http://www.iza.ne.jp/kiji/world/news/160421/wor16042109370010-n1.html

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ハリエット・タブマン(Harriet Tubman、1820年または1821年 - 1913年3月10日)は、アメリカ合衆国メリーランド州ドーチェスター郡出身の奴隷、後に奴隷解放運動家、女性解放運動家。

概要
タブマンは特に、黒人奴隷をひそかに逃がした地下鉄道[注釈 1]の女性指導者のひとりとして知られる[1]。その功績から尊敬をこめて、「女モーセ」「黒人のモーセ」(Black Moses) とも呼ばれた[2]。古代エジプトで奴隷となっていたイスラエル人をカナンの地へ導いた、古代の預言者モーセになぞらえてのことである。

2020年に発行される20ドル札で、アフリカ系アメリカ人として初めてアメリカドル紙幣にデザインされる事が決まった[3]。


来歴
出生 編集
メリーランド州で、黒人奴隷である両親から生まれた[注釈 2]。生まれたときの名はアラミンタ・ロス、通称ミンティ。ハリエットの名は、母親の死後にその名から取って名乗ったものである。5歳からメイド兼子守りとして働きはじめた。1844年ごろ、同じく奴隷であるジョン・タブマンと結婚した。長年の奴隷生活に堪え、奴隷監督からの殴打などを含む虐待に耐えたが、頭部に受けた殴打は後遺症を残し、生涯ナルコレプシーとてんかんに悩まされることになる。


懸賞金公告。ハリエット・タブマンと弟の逮捕者に金を出すという。
逃亡奴隷の懸賞金ポスター。Minty (ハリエットのこと) と弟の名前がある。



奴隷解放運動から南北戦争への従軍 編集
1830年から1865年のアメリカにあった、黒人奴隷を逃がすネットワーク。1850年に奴隷逃亡を助けることが非合法になっても、隠れ家を提供する人々と奴隷を引率する人々が国内の自由州や国外カナダへ脱出させた。
1830年から1865年の期間にアメリカで機能した「地下鉄道」の経路図。実際の列車が走る鉄路ではなく、黒人奴隷を自由州やカナダに逃がす秘密の脱出ルート。食料や衣料品の提供者や、安全な隠れ家を結ぶネットワークが築かれ、「車掌」と呼ばれた引率者が逃亡奴隷を連れて立ち寄った。
1847年、奴隷主が死に、奴隷は売り払われると聞いたことをきっかけに、脱出を渋る夫を残して北部のフィラデルフィアへ逃亡した。その途上、奴隷解放運動主義者で非合法組織である地下鉄道を支援していたクェーカー教徒に助けられた。

フィラデルフィアではレビ・コフィン[注釈 3]やトーマス・ギャレット[注釈 4]、フレデリック・ダグラスやジョン・ブラウンらの奴隷解放運動家と交流を持った。やがて脱走奴隷を助けることを違法化する「逃亡奴隷法」(en) が1850年に成立した。タブマンは、奴隷を自由にする活動をしている人々の組織である「地下鉄道(Underground Railroad)」に加わる決心をすると、地下鉄道の「車掌」としてその運行をはじめた[8]。やがてタブマンの受け持ち路線は当時のアメリカの北の国境へと伸びていった。

後述の自叙伝によれば、1850年から1860年の間に約19回の南部との往復を繰り返したといい、自分の両親を含む300人余りの奴隷の「乗客」のだれも捕まることなく[9]自由に導いたとされる[10]。ハリエット・タブマン自身も一度も捕まらず、「車掌」として成功をおさめ、その活動のリーダー的な存在になったという。そのためタブマンに掛けられた賞金額は合計4万ドルを超えたとされる。しかしケイト・ラーソン (en) の研究によれば、実際に助けたのは13回の往復で70-80人ほどであり、掛けられた賞金も50-100ドル程度という説もある[1]。

1861年に南北戦争が勃発すると、料理人および看護婦として働くとともに、北軍のためのスパイ、武装した斥候をも務めた[8]。1863年夏、タブマンはサウスカロライナ州で解放奴隷に読み書きを教えていたとき、北軍が近くの川の渡し場(Combahee Ferry)を襲撃すると聞いて作戦に加わると、アメリカ史上初の女性指揮官として兵士を動かし、避難した南軍側の地主が置いていった奴隷750人近くを船に載せて北軍領地に移送した[11][12]。このときを含め、軍務においても、タブマンは一度も捕えられることはなかった。「地下鉄道」の「車掌」だった時の経験から、地方の事情に詳しかったため、斥候として高い評価を受けた。

34年後の年金 編集


タブマン夫妻(左の帽子の人物2人)と救出された奴隷。(撮影地はオーバーンのタブマン家と推定。ニューヨークタイムズ、1887年頃[注釈 5]。)
三年にもわたる看護兵、料理人、密偵、斥候としての北軍への従軍は非公式であり文書化されていなかったため、戦後、タブマンが政府から恩給を支給されることはなく、生活は困窮した。1865年、彼女は補償を求めて連邦政府を訴え、また1867年に再度訴えた。最初の申請から34年後の、1899年2月、タブマンが79歳になって未亡人年金という形で年間240ドルが支給されることになった[15]。その少ない年金を元手に、1908年、高齢者と貧困者の家として、オーバーンに木造の施設を建てた。彼女はその家で働き、1913年に亡くなるまでの数年間、そこで過ごした[10]。

権利活動家として 編集
南北戦争が終わり、南部での奴隷解放の後も、黒人と女性の権利のために活動家として講演旅行に出かけるなど活躍した。伝記筆者セーラ・ブラッドフォードの協力を得て、1869年に自叙伝『ハリエット・タブマンの生涯の情景』[16][17]を出版した。これはタブマンの経済的困難[注釈 6]を著しく改善したが、先述のように歴史資料としては誇張や美化も多いとされる。同年、黒人の退役軍人ネルソン・デービスと再婚した。

ジョン・ブラウンはタブマンを「タブマン将軍」と呼び、「この大陸でもっとも勇敢な人物」と評した。フレデリック・ダグラスもまた、「ジョン・ブラウンを除けば、奴隷の逃亡を助けるため、タブマン以上に危険で困難な仕事をした人物を挙げることは出来ない」と述べている[18]。

高齢になると、ニューヨーク州オーバーンにかねて買っておいた家に拠点を構えた。かつて南部から脱出に成功した両親が1859年頃に住んだ家である。合衆国陸軍から少額の恩給が受られるようになり、1908年、この街に施設を建てて身寄りのない元奴隷を住まわせ、その家で働きながら戦死した黒人兵の遺族への支援を続けた[8]。最晩年には自らもそこに身を寄せて、1913年に肺炎で死去。93歳であった。臨終の際には、仲間や助けられた人々、支援者が集まり「スイング・ロウ・スウィート・チャリオット」を歌ったとされる[19][20]。


フレデリック・ダグラスは黒人奴隷解放運動家。自らも奴隷出身だった。
フレデリック・ダグラスも奴隷出身だった。(撮影:Samuel J Miller、1847年-1852年頃)



奴隷制度廃止運動家ジョン・ブラウン(伝Martin M. Lawrence撮影・部分、1859年)


H・タブマン(1868年-1869年頃)


H・タブマン(The New England Magazine、1895年頃)


オーバーン市民が作ったH・タブマン顕彰の銘板。(1914年)


地下鉄道車掌の姿を写したH・タブマン記念像。 (Jane DeDecker制作、ミシガン州イプシランティ。2006年)



21世紀のハリエット・タブマン
新紙幣デザインの計画 編集
2016年4月20日、新紙幣のデザインをめぐる60万人以上を対象とした調査で、タブマンが1位を獲得していた結果を受け、オバマ大統領と米財務長官 ジェイコブ・ルーがタブマンを紙幣のデザインに採用する計画を発表した。2020年に行われる予定の新20ドル札で、タブマンを表面にデザインし、それまで採用されていたアンドリュー・ジャクソンを裏面に移すと発表された。アメリカドル紙幣にアフリカ系アメリカ人がデザインされるのは初となる。当初は2020年に発行される新10ドル札で女性がデザインされ、新20ドル札は2030年発行予定だった。しかし、「女性に参政権が与えられてから100年の節目となる2020年に20ドル札の変更を」という草の根運動により、10ドル札の変更は見送られ、新20ドル札が繰り上げて発行されることに決まった[3]。大統領候補ドナルド・トランプはこの決定を「純粋にポリティカル・コレクトネスだ」と批判的に語った[21]。

5月22日、ティーブン・ムニチン財務長官は偽造を防ぐためのデザイン作成が遅れており2028年までにはタブマンの新紙幣は公開されないと発表した[22]。

2017年1月、トランプが大統領に就任して以降は、タブマンの20ドル札についてのすべての情報が米財務省のウェブサイトから消滅した[23]。

ミュージアム 編集
2019年5月、メリーランド州ケンブリッジにあるハリエットタブマン博物館教育センターに描かれている壁画が話題となった。三歳のアフリカ系アメリカの少女が、博物館の壁に描かれているタブマンの手に自分の小さな手を差しだしている写真が SNS で拡散され[24]、メディアでも話題となった[25]。煉瓦の壁を乗り越え、岸辺の小舟に導こうと手を差しだす力強いタブマンの壁画は、画家マイケル・ロザトの制作中の作品で、小さなミュージアムはこの絵のおかげで入場者が増えたといっている[26]。



参考文献

発行年順
Bradford, Sarah Hopkins (1971). Scenes in the Life of Harriet Tubman. Freeport: Books for Libraries Press. ISBN 0-8369-8782-9
Humez, Jean (2003). Harriet Tubman: The Life and Life Stories. Madison: University of Wisconsin Press. ISBN 978-0-299-19120-7
Clinton, Catherine (2004). Harriet Tubman: The Road to Freedom. New York: Little, Brown and Company. ISBN 0-316-14492-4
Larson, Kate Clifford (2004). Bound For the Promised Land: Harriet Tubman, Portrait of an American Hero. New York: Ballantine Books. ISBN 978-0-345-45627-4
東理夫『アメリカは歌う。―歌に秘められた、アメリカの謎』作品社、2010年2月25日。ISBN 978-4-86182-275-9。
「§5 奴隷制度の鎖を断ち切る : ハリエット・タブマン」『女性実力者の系譜』アメリカ国務省、2015年、11-13頁。

脚注
注釈 編集
^ アンダーグラウンド・レールロード。アメリカ北部やカナダへ黒人奴隷が逃亡するのを援助する秘密結社のこと。
^ 戸籍制度や出生届のない奴隷は生年の記録がない人がほとんどで、タブマンも何年の生まれか諸説あり、ケイト・ラーソンは逃亡奴隷として懸賞金をかけられた時の公告や産婆への支払いその他の歴史資料から1822年生まれ説[4]を、ジーン・ヒュームズは1820年が妥当だが1、2年遅い可能性もあるとしている[5]。キャサリン・クリントンは1825年生まれを説き、タブマンの出生証明には1815年と記され墓碑には1820年生まれとある点を指摘した[6]。
^ レビ・コフィン (en) は1830年代からインディアナ州で商売を広げたクェーカー教徒で、取引のつながりを活用し地域の地下鉄道(英語)を支えた中心人物。
^ トーマス・ギャレット (en) はペンシルベニア州デラウェア郡の裕福な地主の生まれで熱心なクェーカー教徒。父の代のとき不法組織に奴隷としてさらわれた自由黒人を奪い返した経験から、兄弟ともども奴隷解放運動に心を寄せ、自身は特に地下鉄道に深く関与。父の代の地所はほぼアーリントン国立墓地全域を占めたといい、地下鉄道を指揮した当時の邸宅がフィラデルフィア市西郊のアッパーダービーに現存する[7]。
^ ニューヨークタイムズ紙の集合写真に映る左端3人はタブマン一家である。向かって左端のハリエット、その隣が養女ガーティー・デイビス (ワトソン)、杖を握る夫ネルソン・デイビスは第8連隊の退役軍人であった[13]。ついで隣人の子リー・チェイニー、タブマン家の下宿人ジョン・アレグザンダー〈パパ〉、隣人の子ウォルター・グリーン、下宿人サラ・パーカー〈おばさん〉、弟ロバート・ロスの孫娘ドーラ・スチュワート(スチュワートは弟の偽名)。ドーラ・スチュワートの肖像はこの写真のカット違いを加工した例が多い[14]。
^ スパイとしての軍務にも関わらず、政府は南北戦争後30年を経過するまでタブマンの恩給支給を拒否した[8]。

出典
出典 編集
^ a b Larson 2004, p. xvii.
^ “『ハリエットの道』| キャロル・ボストン・ウェザフォード, カディール・ネルソン, さくま ゆみこ” (日本語). (全ページ読める)みんなの声・通販. 絵本ナビ. 2019年7月27日閲覧。
^ a b “米紙幣に初の黒人 元奴隷女性のH・タブマン、新20ドル札に”. AFP BB NEWS. 2016年4月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年4月21日閲覧。
^ Larson 2004, p. 16.
^ Humez 2003, p. 12.
^ Clinton, p. 4.
^ “Member Details »Thomas Garrett House” (英語). NETWORK TO FREEDOM. アメリカ国務省 (2010年11月17日). 2019年7月26日閲覧。
^ a b c d 国務省 2015, pp. 11-13.
^ Clinton 2004, p. 192 (引用).
^ a b “女性実力者の系譜-奴隷制度の鎖を断ち切る「ハリエット・タブマン」”. About THE USA|アメリカンセンターJAPAN. 2019年7月27日閲覧。
^ Larson, Kate Clifford (2004年6月25日). “Harriet Tubman's Civil War Campaign (引用元はBound For The Promised Land: Harriet Tubman–Portrait Of An American Hero)”. W.E.B. DuBois Learning Center. 2016年1029日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年7月26日閲覧。
^ Larson 2004, pp. 212-214.
^ Humez 2003, p. 86.
^ Larson 2004.
^ “Compensation for Civil War Services : Harriet Tubman”. www.harriet-tubman.org. 2020年2月10日閲覧。
^ “Scenes in the Life of Harriet Tubman (1869年発行の自叙伝の英語版全文と挿し絵、参考資料)” (英語). ノースカロライナ大学チャペルヒル校. 2019年7月26日閲覧。
^ ブラッドフォード 1869.
^ Humez 2003, pp. 306-307.
^ Raph 1964.
^ 東理夫 2010, p. 185.
^ CNN, David Wright. “Trump: Tubman on the $20 bill is 'pure political correctness'”. CNN. 2020年2月10日閲覧。
^ Higgins, Tucker (2019年5月22日). “Harriet Tubman $20 bill no longer coming in 2020: Mnuchin says redesign postponed” (英語). CNBC. 2020年2月10日閲覧。
^ “Harriet Tubman Museum Benefits from Viral Photo” (英語). VOA. 2020年2月10日閲覧。
^ “「Lovie meets Harriet ❤ This picture was taken in downtown Cambridge, MD on Cannery Way. This mural is on the back wall of the Harriet…」” (日本語). Instagram. 2020年2月11日閲覧。
^ CNN, Gabrielle Sorto. “The story behind the photo of a 3-year-old reaching out to Harriet Tubman”. CNN. 2020年2月11日閲覧。
^ “Harriet Tubman Museum Benefits from Viral Photo” (英語). VOA. 2020年2月11日閲覧。



関連文献

発行年順
Weatherford, Carole Boston ; Kadir Nelson, “Moses : when Harriet Tubman led her people to freedom”, New York : Jump at the Sun/Hyperion Books for Children, 2006. さくまゆみこ訳書の原書。
キャロル・ボストン・ウェザフォード (文)、カディール・ネルソン (絵)、さくまゆみこ (訳)『ハリエットの道』日本キリスト教団出版局、2014年。NCID BB15739501。(原題:MOSES : When Harriet Tubman led her people to freedom — コルデコット賞銀賞、コレッタ・スコット・キング賞 画家部門の受賞作)
キャサリン・クリントン (著)、廣瀬 典生 (翻訳) 『自由への道 逃亡奴隷ハリエット・タブマンの生涯』晃洋書房、2019年03月10日。ISBN 9784771031463
上杉 忍『ハリエット・タブマン 「モーゼ」と呼ばれた黒人女性』新曜社、2019年03月15日。ISBN 9784788516083
池田まき子 (著) 『自由への道: 奴隷解放に命をかけた黒人女性 ハリエット・タブマンの物語』学研プラス、2019年5月28日。ISBN 978-4052049125
研究書、論文 編集
著作者の姓の50音順
岩本裕子「2016年夏におけるアメリカ黒人女性の諸相 : ハリエット・タブマンから「カラー・パープル」まで」『浦和論叢』第56号、31-66頁、2017年2月。
Conrad, Earl (1943). Harriet Tubman. Washington DC: Associated Publishers. OCLC 08991147
コンラッド、アール「ハリエット・タブマンの半生-上-」山田拓男 (訳)、『部落』第12巻第4号、34-44頁。1960年4月。ISSN 0287-7740
コンラッド、アール「ハリエット・タブマンの半生-中-」山田拓男 (訳)、『部落』第12巻第5号、54-61頁。1960年5月。
コンラッド、アール「ハリエット・タブマンの半生-下-」山田拓男 (訳)、『部落』第12巻第6号、34-43頁。1960年6月。
佐藤晴雄「モーセと呼ばれた「男」--ハリエット・タブマンの少女時代」『武蔵野英米文学』第39巻、29-43頁。2006年。ISSN 0388-6662
栩木玲子「ハリエット・タブマン (1820?-1913) : 黒人たちのモーセ」「国境を越えるヒューマニズム」鈴木靖 (編著)、法政大学国際文化学部 (編)、『国際社会人叢』第1巻、2013年3月。 NCID BB12142590
皆河宗一 (編訳)「ハリエット・タブマン」『アメリカ黒人の民話』、東京:未来社〈世界の民話〉第6巻、203-218頁。1960年。doi:10.11501/9543702。
宮津多美子、黛道子、中村安子「アメリカン・デモクラシーの実現を目指して--19世紀改革期のパイオニア女性」『医療看護研究』第7巻第1号、21-34頁。2011年3月。
ヨスト、エドナ「§7奴隷解放の勇者—黒人女性 ハリエット・タブマン(1820-1913)」『輝く女性たち』 浅田孝二 (訳)、東京:新紀元社〈パイオニア物語〉 、93-107頁。1964年。doi:10.11501/2983462。
Raph, Theodore (1964). The American Song Treasury: 100 Favorites. Courier Corp.. ISBN 978-0486252223 臨終の場で合唱した歌のエピソード
音楽その他 編集
スティーリン・ホーシズ「(4) ハリエット・タブマン」『スティーリン・ホーシズ』、東京:BMGファンハウス〈アリスタ〉、1988年9月。録音ディスク 1枚 : CD ; 12cm。
ケイト・テイラー「(3) ハリエット・タブマン」『ケイト・テイラー』、東京:ソニーレコード〈ソニーSRCS-645〉、1995年3月。録音ディスク 1枚 : CD ; 12cm。

関連項目
Harriet Tubman National Historical Park (en) ハリエット・タブマン国立歴史公園
Harriet Tubman Underground Railroad National Historical Park (en) ハリエット・タブマン地下鉄道国立歴史公園
Harriet Tubman Day (en) ハリエット・タブマンの日。3月10日をあてるとメリーランド州とニューヨーク州で法制化された。
Harriet Tubman Press (en)ロヨラ・メリーマウント大学内のアフリカ系アメリカ文学の出版社。
オペラ Harriet, the Woman Called Moses (en) 1985年初演。スコットランド生まれの作曲家テア・マスグレーブ (en) 制作。

外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、ハリエット・タブマンに関連するカテゴリがあります。
英語版ウィキソースにハリエット・タブマン著の原文があります。
ウィキクォートにハリエット・タブマンに関する引用句集があります。
資料集
Harriet Tubman: Online Resources アメリカ議会図書館オンライン資料集(英語)
Scenes in the Life of Harriet Tubman 1869年発行の自叙伝の全文。ノースカロライナ大学チャペルヒル校(英語)
Harriet Tubman Web Quest: Leading the Way to Freedom – Scholastic.com(英語) 学習参考書の出版社スカラスティックのウェブサイト
H・タブマン伝記
Harriet Tubman Biography Page Kate Larsonによる伝記(英語)
Michals, Debra."Harriet Tubman"(英語) 伝記、国立女性史博物館、2015年。
Maurer, Elizabeth L. "Harriet Tubman".(英語) 伝記、国立女性史博物館、2016年。
記念館、記念の施設
Tubman Museum of African American History(英語) H・タブマン記念館。アフリカ系アメリカ人の歴史を伝える。
Harriet Tubman National Historical Park(英語) H・タブマン国立歴史公園
Harriet Tubman Underground Railroad National Historical Park(英語)H・タブマン地下鉄道国立歴史公園
最終編集: 3 か月前、61.21.153.138
関連ページ

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 みすゞ飴の杏みつ豆!


🔑🔑🔑🔑🔑

 私たち家族が、1995 3 20にボストンに着いた夜、ホテルのテレビで観たのたが、サリンガス事件だった。

 それから、小学生五年の娘が地域の公立学校に入り、黒人の割合が90%くらいのがっこうで、9月から私立に入学がきまっている白人やなにも知らずに転校してきた私達とか中国人、プア―ホワイトで構成されていたが、担任の先生は素晴らしかった。

 その初めての国語の教科書が今日の映画のunderground raiiway だった。
2番目がアメリカ収容キャンプ、日系人が第二次世界対戦時馬小屋に入れられていた話だ。

 おまけに日米の終戦50十年で、体育は「貞子と千羽鶴」のダンス、娘にとく別な教科書は「サダ子」の絵本だった。

貞子さんは、広島に実在していた少女で原爆の被爆後白血病になったのだ。友人たちと、千羽鶴を折れば治ると、願かけて、千羽鶴をおっていたか、途中で死んでしまう。

この全米あげての貞子と千羽鶴のダンスは、アメリカ人50人日本人50人の子供達が広島のさだこ像の前で、被爆日に一緒に踊るというもの。

学芸会には日本の反物を左右でもってなびかせ、太田川と称して波うたせていた。
中央でおおきな正方形の紙を、鶴に折るのだった。


 あまりにも時代と共に、進行していて日本では1 月17日、阪神大震災のあった年で、アメリカの最初のミサは、日本の震災のために寄付金を募られていた。

 素晴らしい教師の算数の宿題は、例えば「2たす2は4 せつめいせよ。」「3かける4は12 せつめいせよ。」で、毎日、白い紙が与えられるのだ。「6➗2=3 E
xplain!」

 しかし宿題をやってくるのは、名門私学に9月にいく白人[両親ともハ-バ-ト大学教授]と、中国人と日本人の娘だけだった。黒人の子は授業中、机の上でウォークマンをして踊ってたりしていた。 

それで、9月から私学にいくための推薦文を書いていただいたが、それも素晴らしかった。成績はパ-フェクトA、奇跡的なこともあり、試験官の日系3世は娘と主人のでた聖アンセルモ幼稚園の出身者だった。

 その私立はシュタイナーの学校のようで、6年生は理科はフィ-ルド・ウワ-クで農業、社会はアフリカだった。
 
 算数と国語は17.8人の生徒に先生2人。5年生と6年生が一緒だった。

 その学校では、黒人少なかったが文化へのリスペクトがあった。

 娘は友人と2人でビデオを作り、娘はインタビュワ-で、クレオパトラに扮した友人に質問するのだった。「あなたは何を食べてますか?」とか。それが父兄会での発表で、テ-マも手段も自分達で決めるのだった。

 ボストンは大学都市なので、差別はあまりないが、地方の州からきたひとは、大学で誰も口をきかないほどの差別があったと言っていた。

 教師の中に日本人嫌いがいて、授業に参加させず次の年に落第させたというのも聞いた。

 日本の子供たちはとても健気で、皆、頑張った。

 私達、日本人は有色人種扱いで、中学受験のために観に行った時に、ポスタ-かあり受験者のわくの日時が書いてあり、受験者担当者は、「この日にいらっしゃいね。」と、とても親切だった。

 ほとんど白人だったが、1学年50人中、アジア枠が3、4人くらいあって、中国人、韓国人、日本人、タイ人といた。アフリカも中近東も大使館や文化人。
そして、あたりまえに主人公はアメリカ人でアジア人はその他。皆、不文律でわきまえていた。

 アメリカって、実は凄い階層社会。
 
 今日の人種差別デモは、起きるべくして起きたのだ。

 でも、普通の人間は努力している。白人たちが、黒人の赤ん坊に微笑むのは、嘘ではない。

 日本でも差別はある。
学歴差別も出自差別も、人種差別もある。

 しかし、差別を無くす努力をしている人もいる。

 皆が幸福でないと困るのだ。


 今日の映画は、実話だが、ハリエットは危険なところに身を置いて奴隷制度から自由を得るために、先頭を切って戦ったのだが、子供の頃、白人に頭蓋骨がわれるほど傷つけられたのが、昏睡状態やてんかん気質の病を得ることになったが、神の声を聞くことになったのだ。


 教育を受けてないので、字を読めない書けないが、神の声が聞けるから大丈夫だと、祈り、神への信仰で自由地に1人向かうのだ。

 やがて奇跡的に脱出できると、南に戻り兄弟や父母を連れ出す。

 モ-ゼと言われたほど、出エジプトの時のように奇跡的なことが重なり、助かるのだ。

 151センチしかなかった小柄なハリエットは、長生きする。失敗なかったと言われるほど多くの奴隷の身の黒人をカナダまで、送ったのだ。





 夜中には雨が降るのでデッキでは、安全でないので室内へ!