February 10th, 2021

-4度から7度!晴れ!

2時半に起きる!
8時に起きる!
朝は苺から!









🔑
お鍋二つほうろうが剥げたので、二つのお鍋の料金でル*クルゼ―の福袋が買えると知り、Amazonで購入!



 オイシックスが届いた!
 福袋も一緒に届いた!








 フライパンとお皿とグリルは娘が喜んで持って行った!
 オイシックスに人参が入っていたので、千切りにしてうさぎちゃんに!
⭐⭐









電車の中は暖かい!


⭐⭐⭐
明日は休日なので早めに出ていた週刊誌!









火鍋!
取り寄せできるらしい!

特急白雪で新津駅まで!
新津美術館へ!


会期 令和3年1月23日(土曜)から3月21日(日曜)※会期中に一部作品の展示替えを行います
前期 1月23日(土曜)から2月14日(日曜)
後期 2月16日(火曜)から3月21日(日曜)
休館日 月曜日(ただし2月22日、3月15日は開館)

約20年ぶりの大規模回顧展!

ポスター画像


新潟県燕市(旧吉田町)出身の日本画家・横山操(1920~1973)は、戦後の日本画壇の風雲児と称され活躍しました。
14歳で上京して洋画家を志すも、その後日本画へ転向します。20歳で川端龍子が主宰する日本画団体・青龍社の第12回展に《渡船場》を出品。その後召集され、捕虜生活を経て帰国する頃には30歳になっていました。再び青龍社に所属し、意欲的で大胆かつ豪放な大作の作品を発表。青龍社で受賞を重ね社人となり、将来を嘱望されましたが後に脱退します。晩年は病に倒れますが、左手で筆をとり叙情溢れる色彩豊かな作品や水墨画など意欲に満ちた作品を発表し続けました。
本展では、戦前に川端画学校で勉強し制作した青龍展入選作の《渡船場》や戦後の青龍展での出品作に加え、これまでの「横山操展」では公開されることの少なかった小品や素描により、豪放でありながらも繊細な画風で日本画壇に新風を巻き起こした横山操の「知られざる一面」をご紹介します。

展覧会チラシ・出品リスト
ファイルダウンロード 新規ウインドウで開きます。日本画家・横山操展チラシ(PDF:1,559KB)

展覧会チラシ(A4サイズ、裏表2ページで配布)

ファイルダウンロード 新規ウインドウで開きます。「生誕100年記念 日本画家・横山操展」出品リスト(PDF:452KB)

出品リスト(A3サイズ、裏表2ページで配布)

展覧会の概要
会期 令和3年1月23日(土曜)から3月21日(日曜)
休館日 月曜日(ただし2月22日、3月15日は開館)
開館時間 午前10時から午後5時(観覧券販売は午後4時30分まで)
観覧料
当日券 一般 1,000円 大学・高校生 500円 中学生以下無料
※有料20名以上は団体料金で2割引
※新潟県立植物園および新潟市新津鉄道資料館の入館券を持参の方は2割引
※障がい者手帳・療育手帳をお持ちの方は無料(手帳をご提示ください)
新規ウインドウで開きます。※障がい者、教育・保育活動などの観覧料の免除について
※2度目はオトク!リピーター割引
(半券の提示で、2度目の日本画家・横山操展が2割引でご覧いただけます)

主催 新潟市新津美術館
共催 新潟日報社
後援
朝日新聞新潟総局、毎日新聞新潟支局、読売新聞新潟支局、産経新聞新潟支局、
NHK新潟放送局、BSN新潟放送、NST新潟総合テレビ、TeNYテレビ新潟、UX新潟テレビ21、
ケーブルテレビNCV、エフエムラジオ新潟、FM KENTO、ラジオチャット・エフエム新津、
エフエム角田山ぽかぽかラジオ

協力 アートインプレッション
監修 横山秀樹(前新潟市新津美術館館長)
あいてマンデ~! 2月22日(月曜)、3月15日(月曜)は月曜日でも開館します。
こどもタイム
会場に音楽が流れるので、お話しながらご鑑賞できます。
日時 会期中の第1・第3の木曜日
午前10時から午後1時

託児サービス 新型コロナウイルス感染拡大防止のため、「横山操展」では中止となりました。
展覧会の見どころ
第1章 戦前期の横山操― 一壺堂図案社と川端画学校での研鑽
公開されることの少なかった貴重な戦前期の作品たち
14歳で上京した横山操は、一壺堂図案社に住み込み、版下の作成やポスター制作を手伝いながら東京での生活を送りました。川端画学校日本画部(夜間部)に入学し、昼間は一壺堂図案社で仕事をこなし、夜間は学校で研鑽を積むという日々を過ごします。
20歳で川端龍子が主宰する日本画団体の第12回青龍展で《渡船場》が入選し、活躍が期待されますがほどなく召集されて戦地へ赴きました。




(左から)すべて横山操《全日本産業観光甲府大博覧会》1937年 燕市教育委員会蔵、《自画像(素描)》1940年 燕市教育委員会蔵、 《渡船場》1940年 燕市教育委員会蔵

第2章 青龍社時代の横山操― 画風の確立と飽くなき挑戦
意欲的な大作を制作。新潟での《塔》の展示は約20年ぶり!
戦後、カザフスタン共和国での抑留生活を経て復員した横山操。再び日本で絵筆をとった際には30歳になっていました。空白の10年間を取り戻すかのように、精力的に制作に打ち込み、再び青龍社の展覧会で大胆かつ豪放な画風の大作を意欲的に発表しました。横山操の代名詞とも言えるような大作は、この頃に制作されました。




(左から)すべて横山操 《塔》1957年 東京国立近代美術館蔵※後期のみ展示、《送電源》1960年 燕市教育委員会蔵、《グランドキャニオン》1961年 新潟市美術館蔵※前期のみ展示

第3章 無所属時代の横山操― 飽くなき探求とふるさとへの眼差し
時代に求められた「富士」、ふるさとに馳せる想い…
大作を発表する場でもあった青龍社を脱退した後の横山操は、無所属となりました。その頃の操は、個展やグループ展を中心に作品の発表を重ねました。大画面の作品は少なくなり、日本画に根差してきた伝統的で象徴的な世界を独自に解釈した作風へと転化していきます。
この頃描かれた「富士」の絵は、高度経済成長期の力強い日本の象徴として多くの人を魅了しました。
また、故郷の新潟に着想を得た風景を叙情豊かに表現しています。
穏やかに制作活動に取り組む操を病魔が襲い、《絶筆》を遺して53年の生涯を閉じました。


(左から)すべて横山操 《赤富士》1966年頃 雪梁舎美術館蔵、《彌彦山》1967年 新潟日報社蔵、 《絶筆》1973年 東京国立近代美術館蔵




関連イベント
※新型コロナウイルス感染拡大防止のため、実施を見合わせる場合があります。
※最新の情報はホームページをご覧いただくか、お問い合わせください。

(no subject)



横山 操(よこやま みさお、男性、1920年(大正9年)1月25日 - 1973年(昭和48年)4月1日)は、新潟県西蒲原郡吉田町(現・燕市)出身の日本画家。多摩美術大学教授。昭和を代表する日本画家である。[要出典]

横山 操
Yokoyama Misao bijutsu-techo 1960173.jpg
1960年の横山
生誕
1920年1月25日
新潟県西蒲原郡吉田町(現・燕市)
死没
1973年4月1日(53歳)
国籍
日本の旗 日本
教育
川端画学校
著名な実績横山の作品は煤や石灰などを画面に擦り付け、力強く轟くような漆黒と、そこからにじみ出てくるような鮮やかな色が特徴であるとされる。見た目には洋画に近い作風ともいえるが、日本画である。また、同じく昭和期に活躍した加山又造とは懇意であり、荒々しく力強い横山と対照的に、静謐な線による構図や伝統的な花鳥風月などを取り入れ、日本画の王道を歩んだともいえる加山であるが、お互いを認め合いライバルとして日本画壇をリードしてきた。[要出典]

年譜 編集
1920年 ‐ 新潟県西蒲原郡吉田町(現・燕市)に町医者の私生児として生まれる。その後、横山家に養子に出される。名前の“操”とは出生と関係があるとする説もある。
1934年 ‐ 洋画家を志し上京し、洋画家の弟子となる。ポスターや看板描きなどで生活を立てながら洋画を学ぶ
1938年 ‐ 第25回光風会展に油彩画の『街裏』が入選するもその後、師の勧めにより日本画に転向する
1939年 ‐ 川端画学校日本画部の夜間部に入学する
1940年 ‐ 当時もっとも新表現に先取的存在であったとされる青龍社(川端龍子が中心的人物の会)の主催する第12会青龍展に『隅田河岸』が入選。しかし、その後徴兵・召集される。
1945年 ‐ シベリア抑留に遭う。カザフスタン辺りで石炭採掘の工員として強制労働をし、そのときの情景や想いなどが、後の横山の作風に影響されたとされており、『カザフスタンの女』等に当時の印象を色濃く残している
1950年 ‐ 復員し、帰国する。戦争で中断していた制作を再開する
1951年 ‐ 杉田基子と結婚する
1956年 ‐ 初の個展を銀座で開催する。『炎炎桜島』で青龍賞を受賞
1957年 ‐ 東京都台東区谷中の五重塔が無理心中の男女によって放火、炎上。消失後のその様子を描く(『塔』)
1960年 ‐ 自らの作品を焼却する。またこの頃から『赤富士』の連作が人々の人気を集め、一躍有名画家となる
1962年 ‐ 日本画の新たな表現を目指し、青龍社を脱退する
1963年 ‐ これまでとは違う新生横山としての第一回個展・越後風景展を開催する
1966年 ‐ 多摩美術大学日本画科の教授に就任し、多くの日本画家を育てる。そのときに「被害者になるな、加害者になれ」という自らの生き様を彷彿とさせるような言葉で指導し、また、生徒達に人望があった[要出典]
1971年 ‐ 酒の飲みすぎにより(大変な酒豪でもあった)脳卒中で倒れ右半身不随となる。回復後は左手で制作を続けた
1973年4月1日 ‐ 新作の制作途中に没(享年53)。
代表作 編集
『ウォール街』(1962年東京国立近代美術館蔵)[1]
『グランド・キャニオン』(1961年新潟市美術館蔵)
『塔』(1957年東京国立近代美術館蔵)[2]
『富士雷鳴』(1961年)
『カザフスタンの女』(1951年) 
『瀟湘八景』(1963年三重県立美術館蔵)
『越路十景 蒲原落雁』(1968年山種美術館蔵) など。
関連項目

美術手帖
生誕100年記念 日本画家 横山操展
新潟市新津美術館
2021.01.23 - 02.14, 2021.02.16 - 03.21

行きたい
10

行った
0













「生誕100年記念 日本画家 横山操展」が新潟市新津美術館で開催。県内では約20年ぶりの大規模回顧展となる。

 新潟県燕市(旧・吉田町)出身の横山操(1920~1973)は、戦後の日本画壇の風雲児と称され活躍した日本画家。豪放かつ大胆な作風は、当時の日本画壇、そして後に続く作家たちに大きな影響を与えた。そのいっぽうで、繊細で叙情豊かな作品も残している。

 はじめは洋画家を志して14歳で上京し、後に日本画へ転向した横山。20歳で川端龍子が主宰する日本画団体・青龍社の第12回展に《渡船場》を出品。その後召集され、捕虜生活を経て帰国する頃には30歳になっていたが、再び青龍社に所属して制作を再開した。意欲的で大胆かつ豪放な大作の作品を発表し、青龍社で受賞を重ねて将来を嘱望されるが後に脱退。晩年は病に苦しみながらも筆をとり、叙情あふれる色彩豊かな作品や水墨画など、意欲に満ちた作品を描き続けた。

 本展では、戦前に川端画学校で勉強し制作した青龍展入選作の《渡船場》や戦後の青龍展での出品作を展示。画家の代名詞とも言える大作に加えて、これまでの「横山操展」では公開されることの少なかった小品や素描を紹介し、豪放でありながらも繊細な画風で日本画壇に新風を巻き起こした横山の、「知られざる一面」に光を当てる(前期・後期で一部作品の展示替えあり)。


コ-ヒ-を持ってきました!

今、長岡!
























 実質の絵画時間は20年くらいだと言う!

5時40分 柏崎!
6時10分 直江津!
6時23分 上越妙高!









さすがにホ-ムは寒い!
幸いコテ-ジから持ってきたコ-ヒ-は暖かい!