March 21st, 2021

長生き!10度から 15度! 雨!降水確率90%!

2時に起きる!
6時20分に起きる!

少し腰痛があります!

今日は日曜日なので、長くベッドにいたいなあ!


野見山暁治

https://youtu.be/_Q3WXpGEqCY

お元気ねえ!





99歳!


母校ゆかりの嘉穂高付属中で交流

 東京芸術大名誉教授で画家の野見山暁治さん(99)による特別授業が24日、福岡県飯塚市の嘉穂高付属中であった。野見山さんは授業に参加した2年生約70人に「絵はうまくなるほど個性がなくなる。人がどう言おうと、感じたままに描いたらいい」と語りかけた。

 野見山さんは旧穂波村生まれで、旧制嘉穂中(現嘉穂高)を卒業。同校とは作品を寄贈するなど交流を深めており、特別授業は今年で5回目。

 授業の前半、生徒は大きな円になって座り、割り箸と墨汁を使って近くにいる友人の姿を色紙に描いた。その後、野見山さんは気になった絵を選んで生徒の前で講評。「ここには僕がいる、ということが感じられる」「かわいらしくていいけれど、もう少し外に出て行く力があればいい」などと解説し、時折独特な言い回しに笑いも起きた。今年は例年と違い、全員マスクを着用していたことから、「マスクをしていても、この辺りに鼻や口があると分かるような絵だ」と語る場面もあった。


 野見山さんは生徒の絵を見ながら、たびたび「おもしろい」と口にした。「絵の世界は、おもしろみがなく正確でお利口さんな絵は、よく思われない不思議な世界だ」と野見山さん。「うまく描こうとせず、見たままを素直に描いて」と呼び掛け、最後に「僕は勉強はできなかったけれど絵描きになれた。やりたいこと、興味があることに食い下がることが大切」と力を込めた。

 榊原唯さん(14)は「自分は絵が得意ではないけれど、それも個性でいいんだと思えた」と話した。

 野見山さんは東京在住で、毎年夏は糸島市のアトリエで過ごす。今は、来年東京などで予定している100歳記念展に向け、制作に精を出しているという。授業終了後には、近く100歳を迎える野見山さんに生徒からバースデーソングが送られるサプライズも。自身の年齢など気にしたことがないという野見山さんだが、「ありがとう」と顔をほころばせた。 (丸田みずほ)

西日本新聞
筑豊版



商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
73歳の手習いで始めた絵に夢中、80歳代から99歳まで、100号の油絵を描き続ける。100歳を超えてからは、アメリカ旅行、個展、新たに始めた百人一首…。いつも笑顔の111歳!その素晴らしい絵と生き方エピソードを紹介。 --このテキストは、tankobon_hardcover版に関連付けられています。
著者について
明治37年(1903年)新潟県生まれ。73歳で習い始めた油絵に熱中、96歳で現代童画展文部大臣奨励賞受賞、99歳まで出展。107歳でNY旅行。108歳でニューエルダーシチズン大賞を最高齢で受賞。 --このテキストは、tankobon_hardcover版に関連付けられています。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
後藤/はつの
1903年(明治36年)、新潟県妙高高原、赤倉温泉生まれ。73歳のとき、ボケ防止に、と軽い気持ちで習い始めた絵に夢中に。80歳代から99歳まで100号の油絵を描き続け、作品を展覧会に出展。1996年、96歳のとき「明治24年の遠足 苗名の滝」が現代童画展文部大臣奨励賞を受賞。100歳を前に絵筆を置いた後も、2011年、第11回ニューエルダーシチズン大賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) --このテキストは、tankobon_hardcover版に関連付けられています。
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登録情報
ASIN : B01MG1AHCD
出版社 : 河出書房新社 (2015/2/13)
発売日 : 2015/2/13
言語 : 日本語
















墨アート」の篠田桃紅さん、早くも「回顧展」 「107歳まで現役」のエネルギーを知る
2021/03/18 18:00J-CASTトレンド
篠田桃紅回顧展墨アート世界が尊敬する日本人100人107歳まで現役展覧会そごう美術館随筆家J-CAST
ニューヨーク
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2021年3月1日に107歳で亡くなった「墨アート」の芸術家、篠田桃紅さんの展覧会「とどめ得ぬもの 墨のいろ 心のかたち」が4月3日から横浜市・そごう美術館(そごう横浜店 6階)で開かれる。展覧会は生前に準備されており、篠田さんも楽しみにしていたという。期せずして「回顧展」となった。

80点の作品と資料
特異な書道家、現代アーティストとして国際的に活躍した篠田さん。本展では、日本の古典文学と書法を学んだ初期の作品から、文字を離れて墨の色や線を追求し、独自の抽象表現を確立したニューヨークでの挑戦、そして余分なものを極限まで削ぎ落として新たな形に昇華、一瞬の「心のかたち」を追求し続けた近年までの変遷を、約80点の作品と資料を通してたどる。

そごう美術館は告知文に、以下のように記している。

「2021年3月1日、本展の開催を楽しみにしておられました篠田桃紅先生が、107歳で旅立たれました。謹んで哀悼の意を表します」
「篠田桃紅は、文字の形にとらわれない水墨抽象画という独自のスタイルを確立し、常に新しい表現に挑戦し続けてきました。自然や時代の変化の中に漂いうつろう『とどめ得ぬもの』に寄り添い、そこに見出した一筋の『墨いろ』の線は、無限の広がりを感じさせるリズムを奏でます」
「幼少より墨に親しみ、独自の表現世界を追求、文字から抽象へとその表現を推し進め、墨の新しい可能性を発見する営みを休むことなく続け、その孤高の仕事は最後まで衰えることはありませんでした。墨と寄り添い生きた篠田桃紅の表現の変遷をぜひご覧ください」
「世界が尊敬する日本人100人」
篠田さんは、1913年中国・大連生まれ。5歳の頃から父に書の手ほどきを受けて墨と筆に触れ、以後、おおむね独学で書を極めた。56年単身渡米、ニューヨークを拠点に、ボストン、シカゴ、パリなどで個展を開催。66年来日したザ・ビートルズは宿泊ホテルに飾られていた桃紅作品に感銘を受け、同じ筆を買い求めたという逸話がある。

デザイナーの森英恵さんなどと同じように、戦後の早い時期に国際的に力量が認められ、名声を得た数少ない日本人女性の1人だ。2005年、ニューズウィーク(日本版)の「世界が尊敬する日本人100人」に選ばれている。作品は国内外に多数収蔵されている。

晩年もベストセラーを出版
展覧会は4章構成。「第1章 文字を超えて(渡米以前) ~1955年」、「第2章 渡米─新しいかたち 1956-60年代」、「第3章 昇華する抽象 1970-80年代」、「第4章 永劫と響き合う一瞬のかたち 1990年代以降」となっている。独創性を確立しながらも、さらに新たな造形を模索し続けた篠田さんの作家生活が一望できる内容となっている。

篠田さんは、随筆家としても著名。以下のような言葉を残している。

一瞬にして去る風の影、
散る花、木の葉、人の生、
この世の「とどめ得ないもの」への、
私流の惜しみかた、それが私の作です
晩年も多数の著書があり、『一〇三歳になってわかったこと』(幻冬舎)は50万部超のベストセラーになった。J-CASTでは『一◯五歳、死ねないのも困るのよ』(幻冬舎文庫)を紹介済みだ。

展覧会は5月9日まで。入場料は大人1200円。<J-CASTトレンド>






片岡球子
日本の日本画家
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曖昧さ回避 この項目では、日本画家について説明しています。旧姓が片岡玉子である架空のキャラクターについては「野比玉子」をご覧ください。
片岡 球子(かたおか たまこ、1905年(明治38年)1月5日 - 2008年(平成20年)1月16日)は、昭和から平成時代にかけて活躍した日本画家である。日本芸術院会員[1]、文化功労者・文化勲章受章者[2]。現在の北海道札幌市東区出身[3]。

片岡 球子





Kataoka Tamako bijutsu-techo 1962204.jpg
1962年の片岡
生誕
1905年1月5日
北海道札幌市
死没
2008年1月16日(103歳)
国籍
日本の旗 日本
教育
女子美術専門学校(現・女子美術大学)
著名な実績
日本画
来歴・人物 編集
1926年(大正15年)、女子美術専門学校(現・女子美術大学)日本画科高等科卒業。

卒業後は神奈川県の横浜市大岡尋常高等小学校(現横浜市立大岡小学校)に勤めながら創作を続ける。画家志望に反対する両親から勘当されながら画業を進めるが帝展(現日展)には3度落選。しかし1930年(昭和5年)、第17回院展に「枇杷」で初入選。さらに1933年(昭和8年)の院展にも入選するが、その後は何回もの落選を経験し「落選の神様」と呼ばれた時期もあった。

しかしその後は1939年(昭和14年)の第26回院展に「緑陰」が入選し院友に推挙されて以後は毎回入選するようになる。1955年(昭和30年)に横浜市立大岡小学校を依願退職し、女子美術大学日本画科専任講師となる。1960年(昭和35年)に助教授、1965年(昭和40年)には教授となる。1966年(昭和41年)に愛知県立芸術大学が開校、日本画科主任教授、1973年(昭和48年)より客員教授。

その型破りな構成と大胆な色使いから、一部の人々からその画風は「ゲテモノ」とまで呼ばれて思い悩むが、小林古径は「今のあなたの絵はゲテモノに違いないが、ゲテモノと本物は紙一重の差だ… あなたの絵を絶対に変えてはいけない…」と励ました。球子は美しく描くことが全てではないと信じ、自身の信念に従った創作を続け、やがて従来の日本画の概念を揺るがすような力強い表現を確立した。「面構(つらがまえ)」・「富士山」シリーズでは特に高い評価を受ける。1982年(昭和57年)からは裸婦の「ポーズ」シリーズにも取り組む。また歌舞伎役者の四代目中村雀右衛門と交流があり、有名な助六の揚巻の打掛の墨絵も手がけている。

1976年(昭和51年)勲三等瑞宝章を受章。1982年(昭和57年)には日本芸術院会員に選ばれ[1]、1986年(昭和61年)には文化功労者として顕彰された。1989年(平成元年)には文化勲章を受章している[2]。女性画家の受章は上村松園、小倉遊亀についで三人目で、この三人を「日本三大女流画家」と称することもある。

100歳を迎えてから脳梗塞に倒れたが、療養に努めながら現役を続けていた。2008年(平成20年)1月16日21時55分に急性心不全のため神奈川県藤沢市内の病院で死去。103歳没。叙従三位。

生涯独身を通していた。

師事。




⭐ 



小倉遊亀
1895-2000, 日本画家
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詳細
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。
小倉 遊亀(おぐら ゆき、1895年3月1日 - 2000年7月23日)は、日本画家。本名、ゆき。旧姓、溝上。





1948年
滋賀県大津市出身。奈良女子高等師範学校卒。1926年に院展に入選し、1932年に女性として初めて日本美術院の同人となった。色彩に富む人物画や静物画が特徴で、上村松園とともに日本を代表する女性画家で、作「O夫人坐像」「小女」「浴女」[1]など。奈良女子大学の講堂の緞帳は、小倉遊亀の「爛漫」、滋賀県立大津高等学校の体育館の緞帳は「うす霜」という原画によるものであった。

経歴 編集
1895年3月1日:大津市丸屋町に生まれる[2]。
1913年:滋賀県立大津高等女学校(現・滋賀県立大津高等学校)入学。
1917年:奈良女子高等師範(現・奈良女子大学)卒業[3]。女子高で国文学を教えるかたわら、1920年より安田靫彦に師事。
1926年:「胡瓜」が院展に入選する。以後1998年に「椿三題」を出品するまで連続入選する。
1932年:女性として初めて日本美術院同人。
1938年:山岡鉄舟門下の小倉鉄樹と結婚、以後鎌倉に住んだ[4]。
1976年:日本芸術院会員。
1978年:文化功労者に選ばれる。
1980年:上村松園についで女性画家として二人目の文化勲章を受章する。
1990年から1996年まで日本美術院理事長を務めた。
1999年:パリで個展を開催。
2000年:105歳の長寿を全うして鎌倉で没した。戒名は「大梅院天池遊亀大姉」。
受賞歴 編集
1954年 - 「O夫人坐像」などで第4回上村松園賞
1955年 - 「裸婦」(第39回院展出品)で芸術選奨美術部門文部大臣賞
1957年 - 「小女」(第41回院展出品)で第8回毎日美術賞
1962年 - 「母子」(第46回院展出品)で第18回日本芸術院賞
1975年 - 神奈川文化賞
1979年 - 滋賀県文化賞
1980年 - 文化勲章
主な作品





奥村土牛
1889-1990, 日本画家
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奥村 土牛(おくむら とぎゅう、1889年〈明治22年〉2月18日 - 1990年〈平成2年〉9月25日[1])は現代日本の代表的な日本画家の一人。本名:奥村 義三(おくむら よしぞう)。号である「土牛」は、出版社を営んでいた父が寒山詩の一節「土牛石田を耕す」から引用してつけられた。院展理事長。芸術院会員。文化勲章受章。梶田半古、小林古径に師事。

奥村 土牛
Togyū Okumura.jpg
新潮社『芸術新潮』第4巻第3号(1953)より
生誕
奥村 義三
1889年2月18日
東京府東京市京橋区南鞘町
死没
1990年9月25日(101歳没)
国籍
日本の旗 日本
著名な実績
日本画
代表作
『鳴門』ほか
受賞
文化勲章
1962年
選出
日本美術院、帝国芸術院
影響を受けた
芸術家
梶田半古(入門)
小林古径(兄弟子・師事)
横山大観、速水御舟
刷毛で胡粉などを100回とも200回ともいわれる塗り重ねをし、非常に微妙な色加減に成功した作品が特徴とされる。<富士山図>(または「富士」)が著名で、皇居にも飾られている[2]。

没後、作品に課せられた巨額の相続税に悩んだ子息が、比較的価値の低かったスケッチを焼却処分したことを告白し話題になった。このことは美術工芸品の相続税制の問題を世に問うことになった。

年譜 編集
1889年 東京府東京市京橋区南鞘町(現・東京都中央区京橋一丁目)に生まれる
1900年 城東尋常小学校卒業
1905年 梶田半古の門を叩き、当時塾頭であった小林古径に日本画を師事
1907年 東京勧業博覧会に『敦盛』が入選
1920年 この年より約2年間、古径の画室で指導を受ける
1923年 中央美術社第5回展『家』にて中央美術賞受賞
1926年 この頃速水御舟に出会う
1927年 再興第14回院展『胡瓜畑』が初入選する
1929年 再興第16回院展で『蓮池』により日本美術院院友に推挙される
1932年 日本美術院同人
1935年 帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)日本画科教授に就任
1936年 第1回帝国美術展『鴨』で推奨第1位を獲得する
1944年 東京美術学校(現・東京芸術大学)講師
1945年 空襲で家が焼け、長野県南佐久郡穂積村へ疎開
1947年 帝国芸術院会員
1959年 日本美術院理事
1962年 文化勲章受章
1978年 日本美術院理事長に任命
1980年 東京都名誉都民
1990年 没、享年101。
代表的な作品
著書・作品集
主な作品収蔵先

怠り!世界は酷いところだ!

 お花のお水がなくなっていた!








 穴が開いた!
 娘から補修をしておくようにと、電話!



 洗濯挟みの印をつけておいた!




 うさちゃんのために一部を芝生にしようと思う!


 うさちゃんは松ぼっくりで遊ぶことを覚えたのだが、うっかりすると飲み込みそうなので撤収!








お食事!



NHK Web News
自殺者が増加 女性と子どもで深刻化 新型コロナ影響か
2021年3月21日 7時47分


去年1年間に自殺した人は全国で合わせて2万1000人を超え、2009年以来の増加に転じました。女性が15%も増加したほか、高校生までの児童・生徒で過去最多となり、国は、新型コロナウイルスによる社会不安の高まりも影響していると見ています。
厚生労働省は、去年1年間に自殺した人の確定値を公表しました。

それによりますと、去年の自殺者は全国で合わせて2万1081人で、前の年から912人、率にして4%余り増えました。自殺者が増加するのはリーマンショック直後の2009年以来です。

男性の自殺者は1万4055人で、前年から23人減少しました。

一方、女性の自殺は深刻化しています。去年の自殺者は7026人で、935人、率にして15%も増えました。

特に目立ったのが若い世代で、20歳未満が311人で44%、20代が837人で32%、それぞれ増加しています。

職業別では雇用されている人が1534人で34%、主婦が1168人で14%、学生や生徒などが387人で44%、それぞれ増加し、仕事や暮らし、人間関係などさまざまな面で、悩みを抱える女性が増えていることがうかがえます。

また、子どもの自殺も目立っています。

小学生が14人(+6人)、中学生は146人(+34人)、高校生は339人で(+60人)合わせた人数は499人でした。前年を25%上回り、1978年に統計を取り始めて以降、最も多くなっています。

厚生労働省は、新型コロナウイルスの感染拡大で社会全体の不安が高まったことも影響しているとみて、民間を含めた相談体制の強化などを進めています。
専門家「社会全体で支える態勢を」
公共政策の専門家で、自殺の問題に詳しい早稲田大学の上田路子准教授は「新型コロナウイルスによる経済活動や日常生活への影響が若い人を中心に自殺の増加につながっている可能性がある。特に非正規の女性が仕事を失っている上、小学生から高校生の自殺者の増加にも影響していると見られ、非常に懸念される状況だ」と指摘しています。

そのうえで「緊急事態宣言が解除されても経済などへの影響は続くのでかなり気をつけて見ていかないといけない。困った人が支援を求めやすい社会をつくることが大事で、就業支援や相談体制を拡充したうえで、周りに困った人がいたら一人一人が気にかけるなどして社会全体で支える態勢を整えることが必要だ」としています。

厚生労働省は、電話やメール、SNSなどで相談できる各地の相談窓口を、インターネットで紹介しています。

サイトのURLは「http://shienjoho.go.jp/」で、「厚生労働省 支援情報」でも検索できます。

また、自殺の防止に取り組んでいる全国の支援団体も連携して電話相談の窓口を設けています。

電話番号は「0120(061)338」で当面は、休日も含めて正午から午後10時まで相談を受け付けるということです。

相談の急増で一部の窓口ではすぐに対応できないケースも出ています。

厚生労働省は「なかなかつながらなくても諦めず、ほかの窓口も探してどこかに相談してほしい」としています。
NHK NEWS WEB
特集
不安や苦しみの全貌は、いまだに誰も知らない
不安や苦しみの全貌は、いまだに誰も知らない



⭐われた日常を描く

2021年3月19日 17時59分

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画用紙に描かれた鏡に向かって涙を流す女の子。服はところどころに穴が開いています。中東シリアでの内戦から10年。38万人が死亡し1200万人が家を追われ“今世紀最悪”といわれる人道危機は今も続いています。今回、避難先での生活を余儀なくされている子どもたちがシリアを描いた絵をもとに話を詳しく聞きました。大好きだった家を失った彼女が鏡の中に見える世界は「希望のない未来」だといいます。子どもたちにとってシリアの10年間は、そして今は、どのようなものなのでしょうか。(国際部記者 佐野圭崇)

未来に頼るべきものは何も残っていない
ブドゥールさん

私の名前はブドゥール。12歳です。住んでいた部屋を描きました。でも、今はその部屋も家もありません。



住んでいたのはシリア第2の都市アレッポ。私が3歳だった9年前に町で戦闘が始まり、それから4年にわたり、すべてが破壊し尽くされました。

あの日、小学校で授業を受けていたときのことでした。突然大きな爆発音が響き、地面が大きく揺れました。戦闘機が爆弾を落としていったのです。教室に兵士が駆け込んできて、私たちを安全な場所に連れて行ってくれました。しかし、同級生のムハンマドくんとララちゃんはこの爆発で死んでしまいました。

学校から戻ると家が燃えていました。近くの戦車が突然爆発したそうです。家族はみんな外出していて無事でした。私たちは家の前に集まり、ただただ燃える様子を見るだけでした。


2016年7月 アレッポ
私は家で過ごす時間が大好きでした。子どものころの楽しかった思い出がいっぱい詰まっていました。火が消えた後、いつも一緒だった緑の目がかわいかった人形のフッラを助け出そうとしたけど、私の部屋がどこにあったのかも分からず、見つかりませんでした。フッラは焼けて灰になってしまいました。

大切にしていたものがある日突然、なんの前触れもなく失われてしまうのだと思うと、とても悲しくなり、家の前で泣き続けました。

絵は、家を失ったときのことを思い出して描きました。鏡の前で涙を流している女の子は私です。今は記憶の中にしかない私の部屋と、ちゃんとした服さえもない、すべてを失った今の私を絵の中で1つにしました。未来に頼るべきものは何も残っていないことを表現しようと思いました。

離れていても心はともに


この絵も私の家を題材にしました。心臓の上に建つ家を描くことでどんなに離れていてもアレッポの家と私の心は強く結ばれていることを表現しようと思いました。心臓は私そのもので、家は何ものにも代えることができない、大切で愛おしいものでした。

その家が内戦でなくなってしまい、大好きだったアレッポもがれきになりました。心臓を覆うツタで私の胸を締め付ける破壊とその悲しみを表現しました。

シリア難民キャンプの学校(レバノン ベカー)
シリア難民キャンプの学校(レバノン ベカー)
今、私は難民です。
でも、いつか必ず、家族と一緒にアレッポに戻り、家を建てて、以前のような幸せな生活を送りたいという願いを込め、はい上がるためのはしごを描き加えました。

今は政府の支配下にあるアレッポですが、まだ安全とはいえず、そんな日がやってくるのか、今はわかりません。けれど、きっと、ある日、目を覚ましたら、何もかもが悪い夢だったと思えるときがやってくると信じています。そうでなければ、毎日の生活を送るのが本当につらくなるのですから。

デモから内戦そして泥沼化

2011年3月 シリア
2011年3月 シリア
10年前、中東各国では民主化運動「アラブの春」が広がりました。シリアでも3月に民主化を求めるデモが拡大しましたが、これをアサド政権が武力で弾圧しました。そして、政権側とアサド大統領の退陣を求める反政府勢力との内戦となりました。

2012年8月 アレッポ
2012年8月 アレッポ
ブドゥールさんが住んでいた大都市アレッポは最大の激戦地の一つとなりました。内戦では、欧米各国や隣国のトルコなどが反政府勢力を支援、ロシアやイランがアサド政権を支援しました。混乱に乗じて過激派組織IS=イスラミックステートも台頭し、その掃討にクルド人勢力も加わって泥沼の戦闘が続いてきたのです。


劣勢だったアサド政権はロシアの空爆の支援を受けて優勢に転じ、反政府勢力やISの支配地域を次々と奪還して、いまや軍事的な勝利をほぼ確実にしました。一方、人権団体などによりますと、アサド政権はこの10年、人々を次々に拘束し、およそ10万人が失踪し、行方がわからないままになっているということです。

ある日戦場になった遊び場


私の名前はイフラス。13歳です。
8年前の出来事を描きました。

あの日、私はいつものように9人のきょうだいと遊んでいました。お父さんは牛やニワトリを飼育し、広大な牧場が私たちの遊び場。かけっこをしたり、サッカーをしたりして毎日楽しく過ごしていました。

よく晴れた、日差しの強い夏の日。いつものように牧場を走り回っていると…。


頭上に突然、戦闘機が飛んできて、爆弾を落としていきました。私たちは走って逃げて無事でしたが、一緒に遊んでいた牧羊犬や草をはんでいた牛は死んでしまいました。これ以上詳しいことは覚えていません。

そのとき私は5歳。2013年の夏のはじめの出来事でした。
生まれ育ったのはシリア東部にあるホムスという町。昔ながらの市場やモスクがあり、ローマ時代の円形劇場もありました。ここでも政府軍と反政府勢力が市街戦を行い、市民が取り残される事態となりました。

“困難とともに安楽がある”

イフラスさん
イフラスさん
もうホムスにはいられないと、その日のうちに家族とともに40キロ離れた町に避難しました。

しかし、そこでもまもなく空爆が始まりました。当時、男の人が突然いなくなり、町には軍隊に捕まり拷問されるという噂が広がりました。お父さんは捕まるのを恐れ、ほかの男の人たちと隣の国レバノンに向かい、私たち家族もお父さんのあとを追うことになりました。

レバノンまでは30キロあり、山の中を歩きました。目の不自由なおじいちゃんや足の不自由なおばあちゃん、それに親戚など合わせて20人と行動を共にしました。

歩き始めて2日目の夜のこと。
怖くて眠れず、先を行くお父さんのことを考えていたとき、あたりが突然昼間のように明るくなり、大きな音が響き渡りました。私たちは急いでその場を離れて、先を急ぎました。

夜が明けると、ハーリド、ハリーフ、アフマド、ムハンマドの4人の親戚の姿がありませんでした。レバノンに着いたら再会できるだろうと、そのときは思いましたが、4人は銃弾に当たり死んだとあとから聞かされました。

イスラム教の聖典コーランにこんな一節があります。
「困難とともに安楽はある」と。

私たち家族はこの10年、本当につらい思いをしてきました。でも、その中でも楽しいこともありました。この先もそういう思いで生きていこうと思います。


ほとんど記憶にない祖国


私の名前はルジャイン、9歳です。シリアから逃げてきたのは2歳のときでした。今はイラクのキャンプでお父さん、お母さん、それに妹たちと暮らしています。私にとって、シリアの記憶はほとんどありません。

妹たちはみんなイラクの難民キャンプで生まれたので、シリアのことは知りません。私たちはお父さんとお母さんからシリアの話を聞いて、いつかみんなで行けたらいいねって話しています。




飛んでいきたい

私が描いたのはチョウです。一番先を飛んでいるのがお父さんで、あとはお母さんと私と妹たち7人。チョウなら、誰の目も気にせず、空を飛んでどこにでも行くことができるから。

イラクとシリアの国境も関係ない。みんなでチョウになってシリアに住んでいるおじいちゃんやおばあちゃんに会いにいきたいです。そう思ってこの絵を描きました。

シリアでは内戦が落ち着き、みんなが戻ることができるといいますが、お父さんはシリア軍の兵士にならなかったから、捕まってしまうかもしれない。誰もお父さんを捕まえない日が来るまで、私たちはここにいないといけないのです。

その日まで私はしっかり勉強してお母さんのお手伝いもするつもりです。
内戦続き終わり見えず
過激派組織ISは2019年には東部最後の拠点も制圧され弱体化しました。そして、アサド政権は反政府勢力を北西部に追い詰めました。いまは、アサド政権の後ろ盾のロシアと反政府勢力を支援するトルコの停戦によって、大規模な戦闘は収まっています。

アサド政権は国内避難民や国外の難民に帰還を呼びかけていますが、ルジャインさんのお父さんのように、戻って拘束されたり、危害を加えられたりするのではないかと、シリアに戻るのをためらう人たちが多くいます。

この10年の混乱と内戦で、シリアでは国民の2人に1人にあたる1200万人が家を追われました。“今世紀最悪の人道危機”と呼ばれる内戦の終結に向けた道筋はいまだ見えず、3人の女の子たちがシリアに帰るめどはたっていません。

※記事はNHKが行った子どもたちへのインタビューをもとに構成しました。
詳細画像
国際部記者
佐野圭崇
2013年入局
山口局を経て国際部
中東・アフリカ地域を担当
NHK NEWS WEB




3分でわかるシリア ~シリアって、どんな国?~
(2020.08.21)



シリア支援に関わる中村スタッフが解説します!
シリア・アラブ共和国(以下、シリア)の基礎データ

首都:ダマスカス
言語:アラビア語
人種・民族:アラブ人(90.3%)、クルド人、アルメニア人、その他(9.7%)(2009年 CIA The World Factbook)
宗教:イスラム教90%(スンニー派74%、アラウィ派、ドルーズ派など16%)
面積:18.5万km2(日本の約半分)
人口:2,240万人(2012年世銀)

ウガンダ平和クラブの青少年と中村スタッフ
2019年からシリア国内での支援に関わる中村スタッフが、わかりやすく解説します!
(写真は、ウガンダ平和クラブの青少年と)

シリアって、どんな国?
シリア・アラブ共和国は、中東・西アジアの共和制国家。北にトルコ、東にイラク、南にヨルダン、西にレバノン、南西にイスラエルと国境を接し、北西は東地中海に面する。首都はダマスカス。

2011年にシリアの政府軍と反政府勢力による武力衝突が本格化してから、シリア紛争はさらに深刻化。多くの住民が国内外での避難生活を強いられ、危機的な状況下で暮らしています。現在、難民として国外に逃れている人々は660万人、うち550万人が近隣国で今なお避難生活を続けています。

2018年以降、政府軍による大規模な奪還作戦後に国土の多くが政府の掌握地域となった。今なお、反政府勢力の影響下にある地域では空爆等の戦闘が続き状況が更に悪化しています。


シリアの位置
シリアの位置

人々はどんな問題に直面しているの?
2018年の大規模な戦闘による荒廃から回復できていない状況です。事業地の学校では、破壊を免れた銃撃戦の跡が生々しく残る校舎で子どもたちは学んでいます。教員、教室の不足も著しく、多くは学習の遅れを取り戻せていません。

また、精神的不安、ストレス、家庭の経済状態が理由で中退する子どもも後を絶ちません。反政府勢力の支配地域では、今年に入ってからも100万人近くの人が爆撃により家を追われました。支援がなければ日々の暮らしの維持ができない状況で、シリア危機勃発以降、最も悲惨な状況に置かれています。


国内避難民地域で暮らす保護者を亡くした子ども
国内避難民地域で暮らす保護者を亡くした子どもす

早婚を強いられた若い母親
早婚を強いられた若い母親

難民となって暮らす子どもたち
難民となって暮らす子どもたち

洪水により水につかった避難民キャンプ
洪水により水につかった避難民キャンプ


中村スタッフより一言
ワールド・ビジョン・ジャパン支援事業部 緊急人道支援課

中村 ゆき(なかむら ゆき)

シリア国内の状況はあまり報じられていませんが、人口の約3割が難民として国を離れた一方、7割以上の人々は戦闘による破壊や経済的破綻の状況の中で厳しい生活を続けています。支援を届ける中継となる近隣諸国でも、経済の破綻や新型コロナウィルス感染症拡大の脅威により、支援を届ける道が閉ざされかねない困難が続いています。シリアの人々が未来に希望を持つことができるようになるために、一緒に応援サポートをお願いします!

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ウガンダの子どもたちと中村スタッフ

ウガンダの子どもたちと中村スタッフ
シリアに関するブログとニュース
2020.03.13【シリア危機 9年】深刻な破壊と避難状況が明らかに
2019.09.30【ブログ】WVインターンが聞く! シリア難民支援の現場から
2019.08.28【シリア】紛争により深刻な被害を受けた南西部で、教育支援事業を開始しました
2019.07.05 シリア難民支援活動報告会を開催しました!
2017.02.01【ブログ】子どもたちが元気に過ごせる冬を!(ヨルダン越冬支援)
2016.06.01【難民支援】シリア紛争の影響を受ける子どもたちに教育を!
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うさちゃんはねんね!

(no subject)

 今、tiny houseとキャンピングカーのビデオを観るのを楽しみにしてます!

 あまりにも工夫があるのとコンパクトなのに驚いてます!