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今日は疲れた!

疲れたのに、歩いて一駅の中華を食べて帰ってきた!

 

病院からタクシーで中目黒まで。 東急線で父の家のある駅に。 駅前のメゾンカイザーでパンとコーヒーを買った。 そして、駅隣のいつも香水を買うお店で秋らしい香りを求めた。柘榴の香水にした。 黒いお帽子もどれも素敵だったが、お値段も良いので諦めた。 それから、家まで歩いた。 銀杏も黄色く色付いたものもあって、雨上がりの街路樹は美しかった。 母の遺体は本当は一日でも家に返してあげたかった。 しかし、上の弟はそうはしたくはないのだった。 下の弟は魂は家に帰っているのだからいいのだと言う。 母の好きなものに囲まれ、家の建築も母の希望も多かったであろう。 年月はカーテンも色褪せ、外壁のタイルも黒ずんだ色になったが、もう築50年近いのだ。 私の7月の旅行中でもなく個展中でもなく、落ち着いた10月20日に逝った母は、父の春の死(3月10日)と同じように子孝行なのであろう。 母は父より1日でも長く生きたいと言った。 母が倒れた時点では、男の子二人が父の会社を手伝い、妹は助教授で鹿児島の大学に就職し、私の家も娘が東京の大学院生で主人も仕事が順風で、母は自分は何も求めるものがないくらい幸せで、いつ死んでも良いと言っていたのだった。 母は病院で2度の手術から少しずつ意識が弱くなり10年近くイロウで植物人間となって生きていたのだった。 しかし、倒れる日の1時頃に電話で「明日、目黒のイタリアレストランでね。」と毎火曜日にあう習慣の確認電話をしてきたのだった。月曜日の夕方、自宅で倒れたのだった。 なぜ、火曜日に会う習慣だったかというと日本橋三越の催し物が火曜日に変わるからで、体力の衰えで、目黒のアトレビルの上のイタリアレストランになっても、その火曜日のお昼に決まって会う習慣が続いたのだった。 お昼にパスタを食べて、そのまま、3時頃にケーキとお茶をしてお喋りを続けるのだった。 私との待ち合わせに1時間遅れるのはざらだったが、私は耐えることができたし、母もかなり肉体的に無理しても出てきたのだろう。 父は、そうした私や私の娘の忍耐強い母親孝行を感謝し認めてくれた。 母も「パパが娘と出かけられるのが一番幸せだと言ってくれる。」 と喜んで話していた。 末の弟は一月に1度来て、電球の球を変えたり、力仕事をしてくれると母は末子に優しさを常に語っていた。 私が末の弟と今日話したのは、長い年月の親子の絆と言うものは永遠に残っていて、魂の記憶が天にもあるだろうから、何も寂しくもないし、悔しくもないと言うことである。 父も母も4人の子供を大学も出し、それぞれを最大に生かすために最善を尽くしたと言うことである。 父が私が小学生の頃、夏休みに毎日一緒に絵を描いてくれことを末の弟に語ったら 「へえー。」と聞いていた。 父は最後に私の仕事を末の弟に助けてもらいなさいと言ったし、あの囲碁の名手だった父が先手を打って、私たちの未来のためにやれるだけのことをやってくれていたのだ。 誰にでも欠点も長所もあるけれど、私は母の美意識のお陰で良いものをよく見れたし、父の実業的能力のお陰で画家としては比較的バランスのいい能力を得ることができたのだと思う。 父も母も百点満点の人生で私たちの人生は自分の責任が問われると言うことだ。 ☆ 柘榴の香りにした!
弔電が届いていた。

マリーコレクションに寄って帰った。

☆家族葬だが、24日夜6時から通夜。
25日の午前10時から葬式です。葬儀場で。

 

今のところ、母の遺体が家に帰る予定はないそうです。

 

母は葬式も必要ないと言う考えだったが。

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