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40代の決意。悪に負けるわけにはいかない!

神の働き。

 

教会付属幼稚園の2年保育の1年が終わり、周りが小学校受験をするのには驚いた。

 

私は修道女に頼まれて毎月教会のガラスケースに大きな絵を納める事になった。

 

季節に催し等を和紙のコラージュでした。

 

自分が悪くなくても、幼稚園を一年半でやめて2年保育に移ったので偏見の目まで注がれた。第一、娘はパリの幼稚園まで通っていたので幼稚園は行き過ぎなのであったが。

 

しかし、ママ友で形成される女の世界で負け組にはいると一生烙印されてしまう。

 

たかが幼稚園がですよ。

 

☆4月になって寝てはられない。小学校受験をしないと、公立にいけばあの首を絞めた男子と同じ教室になる可能性もあるのだ。

 

姑の25年間、奉職していた女子の私学は同窓会会長までしていたので、受けるわけにはいかない。入ればコネと言われるし、受かって蹴れば姑と同居している暮らしは不幸になる。

 

最も難しい道を選ぶことにした。何も文句を言わせない道だ。姑の学校より良くて自分たちのポリシーに外れない学校。

 

11月初旬の受験日まで短期決戦で7ヵ月の受験準備。

 

こうしてはいられないと立ち上がって、受験準備をして受験票も朝早く起きて並び10番で、「十字架の10」と言っていたが受かった。思わず涙が出てしまった。

 

下らないと思うが、園長も幼稚園のママ友も見る目が変わったのだ。

 

18人ほどの最初の教室で受かったのは娘一人。

 

行動観察があって、3人でおままごとがあって、奥様、お嬢様、お手伝いさん役があって娘は自分からお手伝いさん役を選んだのだ。

 

なるほどねえ。他人のために自分を低いところに置く子供を選ぶのねえ。

 

☆電車を乗り換え通い、南平台のドミニコ教会のガールスカウトに通った。

 

その時に先の4年生幼稚園に通った知らなかった先輩の子供と母親が来ていたのだ。

 

「園長先生のNさんとは同級生なの。それで、お昼を一緒に食べないと誘われたので、ルイコさんの子供に酷い事をしたでしょ?ルイコさんに謝らないと私はあなたと一緒にご飯を食べたくないわと答えたわ。」と言う。知らない上級生の母親まで知っていたの!

 

小学校受験で同じ幼児教育センターに通っていて仲良しになったKさんの子供もうちの娘が止めた後にその4年保育に入り、卒業後に下の子供が通っていて家の近くにその4年保育の幼稚園が引っ越ししてより近くなったので、一緒に遊びに行こうと言う。

 

おまけに、カトリック教会の連絡網が私の後が園長先生なので、嫌でも月に何度かは電話で話す事になる。

 

「ところでルイコさんのお嬢さんはどちらの学校へ?」と俗物らしい質問をするのだ。

 

大抵、この質問をする人はランクの低い学校を先に言う。

 

「いいえ。」

 

娘は親友のSちゃんとその4年保育幼稚園にいった。お持たせのクッキーは用意したがママ友のKさんが車で子供二人を連れてった。

 

「先生、覚えている?」
「いいえ。」

 

家に帰って、「本当は覚えていた。」と言う。子供ながら楽しく遊んでいた友人と切られ幼稚園をやめさせられたことをリベンジしたのであろう。

 

☆それから、聖コルベ記念館に殉教50周年記念に絵を描いて下さいとの事で80号の油絵を描き郵送した。

 

☆アメリカに行くことが決まったので、娘とイーオンにかよって英語の準備をした。

 

私はアレルギーが出るほど英語嫌いだったので、娘はマリアース・ベイビーという3歳以下の愛育病院での英語スクールに通ったり、イギリス人のベビーシッターに来てもらったりした。

 

小学校も週に2度ほどネイティブの英語の授業があったが、まるで役にたたなかったと後の日に言った。

 

☆1995年。1月17日に阪神大地震があった。

 

そして、3月の末にボストンに着く日にホテルで観たのがサリン・ガスのニュース。

 

4月から編入した公立小学校は生活保護区域の小学校でマイノリティーの子供達がほとんどだった。

 

1クラス18人くらいで15人が黒人でアジア人一人に白人一人で、娘が入った時は別の週から来たばかりで9月には名門私学の入学が決まっている女の子が娘のお世話係で、あるときに娘が9月からその娘がいなくなるなら、もうその公立には通わず日本に帰って、祖母の家からもとの学校に通うと言う。

 

それで、スクールバスにのって観にいったら授業中机の上に乗って踊っているこがいたり宿題もアジアの中国人と白人一人とうちの子しかしていかないのだった。

 

一軒隣の子供の家を訪ね、この辺では教育熱心の家と金持ちの子は私立に行くのだと教えられ、私立の小学校の卒業式に駆けつけ編入テストを受けさせてもらう手続きをした。

 

☆奇跡と言うのはあるものだ。
その入学担当が日本で通っていた教会幼稚園の出身者で日系二世だか三世で、日本からの通信簿とオールAのボストンで始めての公立小学校の成績表のお陰で入学を許可された!

 

いい学校でしたよ。理科は農業。社会はアフリカ。英語と数学に限り18人に二人の先生。子供達が本当に幸福そうでしたね。成績表がないのですもの。

 

6年生をそこで過ごしたのですが、卒業式に子供たちも先生も泣くんですよ。

 

私も絵の教師がいないと言うので俳句アートと百人一首を乞われるまま教えた。

 

☆9月に入ってすぐに学校あげての中学受験準備。
11月には一斉テスト。
12月には受ける中学のテストが始まり2校受けて、2校とも受かってしまった。

 

☆娘の受験をしつつ、自分も英語の勉強をしていたが。

 

アメリカには可能性がたくさんあって、47歳でボストンに言ったのだが、年齢に関係なく大きな手が広げられていた。

☆思うのだが、日本人は他人にチャンスを与えることが少ない。

 

日本人の多くは、英語を学ぼうとすると足を引っ張るものだ。

 

なぜかはわからない。

 

フランス語の時もそうで、たまたま22段階あったレベルのトップには入れたときに一つ下のクラスに外務省から来た日本男子3人組が「画家はフランス語なんか要らないよ。黙って描いている方がいい。」としつこい苛めがあった。

 

嘘みたいだが、高校から大学受験の時も美術の教師が「受かって恥をかかすんでないよ。」と言い、個展の案内状を卒業後に大学に持っていったときも、「ひけちらかしにきたのか?」と主任教授の言葉。

 

アメリカ人の先生は、もう40歳後半の生徒ですら、チャンスをくれ主人に協力するようにわざわざいいに来てくれた。

 

日本の美術学校は自分のところから頑張っている生徒をだした方が自分も値打ちが上がることに気がつかないようで、アメリカの先生は私の作品を誉めてから、「いかに先生が偉大か!」も付け足すのであった。

 

☆日本人はなぜ、他人を自分以下に置きたいのだろうか?

 

私はずいぶんそれに引っ掛かってきた。

 

なんだか頑張ったり努力することをせせら笑うような空気があった。

 

☆雅子様と愛子さまにも大きな力が潰しにかかっているのではないかと言うのがあるプログにあった。

恥をかかせ、居たたまれないように日々されていたら、普通の人間は壊れてしまう。

 

誰が得するのかわからないが、自分達以上の教育を受け、キャリアのある人間を普通以下に貶めるエネルギー。

 

意味もなく階段から突き落とされそうになったり、安いプリーツスカートに丸い焦げた煙草の穴がきれいに開けられていたり、買ったばかりのジャケットの背が真ん中にきれいに縦に引き裂かれていたりする。

 

作品を壊されたり無くされたりもザラ。

 

日本人は美しい心や優しい思いやりを忘れてしまったようだ。

 

☆40代の終わりに、もう一度アートを勉強する機会を得た。

 

ボストン美術館学校付属スクール。

☆3年の滞在後、東京に帰った主人。

 

娘と母子家庭になって通った4年間が始まった。

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