Ruiico (ruiico) wrote,
Ruiico
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「奇跡のひと」

これも東京から運んだ!
百人一首のフランス訳。
この小さなお皿もあるとき描いたもの。no title

アッシジのフランシスコ。
今日の映画は、修道院のなかで聖書の言葉や聖人の言葉を読んでいて、それはとても心に滲みた。
no title
雪の聖母
no title
モンセラットの黒い聖母。
no title
母が娘のために刺繍をした学校の座蒲団!
no title
ドイツで買ったホタテ貝。木でできてます!
no title
聖ヒルデガルトのマトリョーシカ。
no title奇跡のひと マリーとマルグリット

19世紀末にフランスに実在した、先天的に目と耳に障がいを持つ少女マリーと、彼女に言葉をはじめ生きる喜びを教えた修道女マルグリットを描いたドラマ。監督は「ベティの小さな秘密」「デルフィーヌの場合」のジャン=ピエール・アメリス。余命いくばくもない中献身的にマリーに愛をそそいだ修道女マルグリットを「愛してる、愛してない…」「視線のエロス」のイザベル・カレが、生まれながらに三重苦を抱え野生児のようだったものの言葉を知り豊かな心を見せていくマリーを自身も聴覚にハンディキャップを抱えるアリアーナ・リヴォアールが演じる。

映画を観終わったら、光の雨が降ってきた。

私と娘の物語のように思えた。

死ぬ前に色々、教えないと!

帰りに地下鉄に乗ったら、主人からメールが入った!

娘が心配しているのだという。

アダプターが見つからなかったと思っているのか?



☆映画は実話。

多重障害の女の子を盲学校の修道院に受け入れる。

耳が聴こえないだけでなく、目も見えない。

手話を教えるのも一苦労だ。

ある修道女が、啓示を受けたからその女の子をみたいという。



実際の女の子は10歳で修道院に連れてこられた。
狂暴なので精神病院に入れようというのを父親は思いきれなくて修道院に連れてきた。

 映画で演じた女の子は聾唖だったが、目は見えた。バカロレアの資格も持っている。年齢がいっているので14歳の制定で映画は作られた。

 木に登ることが好きで、どういうわけかナイフが好きなのだ。

 モデルのフランスの修道院は当時は女子の聾唖学校で彼女は寮で集団のいじめにあう。

 修道女はお風呂に入れて髪をとかすまでが大変だ。

 暴れる。
 奇声を上げる。
 打つ、殴る、ける。

 コミュニケーションが取れないということは人間らしく生きるのに致命的なのだ。

☆マリグリットと少女は格闘をする。とにかく逃げ出すのだ。
修道女が捕まえようとして池に落ちたり、木に登っている少女を下ろそうとして木から落ちたり。

少女は目も見えないが、耳も聴こえないが、自然を感じる力が非凡である。

水を触り弾ませる歓び。

それを、マルグリットは見逃さない。

抱いて、顔をよせ、「ウイ。それでいいの。あっているわ。」と伝える。

 私は眼鏡を忘れてきたが、前のほうの席だったのとフランス語が初歩レベルで理解できて、マルグリットの創意にあふれた教え方に気が向けられた。

☆目の見えない少女にフォークやスプーンやナイフで食事することを教える。

 実に忍耐強く。

 周りも呆れるほどしつこく。

 然し、彼女は自分の大好きなナイフをやがて覚える。

 ナイフはクトーだが、手話でナイフを両方の人差指で重ねこすり合わせることがわかると、「フォークは・」「スプーンは?どういうの?教えて。」というのだ。

 このシーンは、私が最も感激したシーンである。

☆その前にブランコに乗るシーンがある。

 マルグリットは後ろから押して、少女はスイングの楽しみを覚える。

 風を切り、空気が自然の緑の香りを感じさせてさわやかで気持ちがよさそうだ。

 待っている子供たちが交替してという。

 マルグリットは少女に降りるように促すが嫌だという。

 少女は押してくれないので、自分で後ろに下がって歩き弾みをつけてブランコをこがすのだ!

☆少女は頭脳は問題なかったのだ。
 
 待っていた女の子たちもマルグリットも驚き、賛美をし感嘆する!

☆少女はリンゴやブドウから、簡単な文法やアルファベットまで覚える。

 ある日、少女の両親が訪ねてくる。少女は自分でアルファベットのブロックをつなぎ、marieと名を綴るのだ。

 そして、両親に普通のあいさつをも手話でする。

☆雪を感じる少女の姿の美しさ。

 少女はシスターたちの顔に触れてそれぞれを確認したように、両親に触って確認する。

 親子の打ち解けた雰囲気に安心して庭に出たマルグリットは雪の中倒れる。

 命に危険がある病で少女に秘密で病院に行くのだ。

 マルグリットがいなければ少女は元の暴れ者の獣のようになる。

食事もしない。

☆マリグレットは、どうせ死ぬならと、帰る決意をする。

マルグリットはマリアに死の概念を教えようとする。それは近い未来にマルグリットが死ぬのを少女がきちんと受け止められるようになるためにだ。

☆死んだ老齢の修道女の遺体に触らせる。

 息をしていないのを確認させる。

 冷たい遺体。

 神様がだけが知る死の時期。

 そういう、抽象的なことを手話で教えるのだ。

☆最後のシーンは泣いてしまった。

少女、マリーはかつてマルグリットに連れていかれた修道院内のお墓、十字架に花束を持っていくのだ。

少女は虚空を観て、手話で語る。

あなたのように、三重苦の新しい学校の生徒を、あなたが私にしたように私が彼女にしますと。

花束はハーブのように素朴でで可憐なもので、木の十字架も質素なものだ。

水色の聾唖学校の制服。
ポニーテイルにしたすっぴんの女の子。

虚空を観て語る。手話で語る少女は聖女そのものだ。

実際の彼女は36歳で亡くなった。

マルグリットは謙遜な人で短い文章を残しただけで、あまりにも資料がない。

☆やはり、泣いてしまった。
あの時に、精神病院に連れていかれたら、何も学ばなかっただろう。

 神様はマリーを見離さなかった。

 それぞれのベストを尽くして天に帰る。


 プログラムを買ったので、このマリーを演じた少女が実に利発なのに驚いた。

 耳の聞こえない彼女は目も見えなかったマリーがそれを補うべく自然を体感する力にたけていたという。

 実際のマリーは編み物をできたという。

 映画の中のマルグリットの介抱をするマリーは健常者でもできないぐらいの注意力で、マルグリットの世話をする。

 見えない目でいながら、お盆にスープや水を乗せてマルグリットの口にスープを息で冷まして、彼女の口に運ぶのだ。

 マルグリットもマリーの成長に安心して死ねただろう。

☆プログラムにも私が感じたのと同じことが書かれていた。

 母子の物語だと。

 例えば、年ごろになれば家事など教えるものだ。

 また、生きるのに必要な力。

 どの母親も、生まれた時から精一杯の力で、子供に教え込んだものだ。

 ひらがなを教え、算数を教え、小学校くらいまでは、母親が作文なども見てやったりで、もう大丈夫と手放しても、いじめや社会問題などもあって、母親はつくづく頑張って生きててやらなくてはいけないと思うものだ。

 この間、部屋の片づけものをしていて、娘の漢字ノートや大きくなってからの漢文ノートや英語のエッセイなど見つけるとやはり捨てられない。

 もっと、かまってやるべきだったとも思うほどだ。

☆どんな人間でも特有の障害をもっていて、そこから痛みや謙遜を学ぶというのが私の考えだが、母親に当たり外れがあるとしたら、環境による格差も神の計らいの真意を知りたいものだと思う。

☆マルグリットは修道院長の無理だという考えに従順でいなくてはならないところだあったが、「啓示」と言って任せてくださいと哀願する。

 私たちはやはり、与えられたものに最高善をなすべきなのだ。

 明日は娘を連れて、池袋のアートオリンピアと御徒町にいくつもりだ。

 とにかく、絵を描きなさいと勧めているのだ。

 中学の夏にパークスクールのサマースクールで絵を取った時も、校長先生が気に入って「絵を売ってくれ。」と依頼されて、同じ大きさの絵を額に入れて校長先生にプレゼントしたことがあるくらいの娘は小さな賞を沢山とっているのだ。

 ヴェネチアのビエンナーレも一緒に観に行ったしね。

 おまけに語学ができるから国際アートの舞台で全くハンディがないのだ。

☆そういえば、高校受験の時に娘のアートの推薦文を書いてくれた中学の絵の教師が、「彼女の母親は彼女の母親として世界中に名を知られるようになるでしょう!」と書いたので、私としては「!!!」と思ったものだ。

 ステージママもいいかもね。(くすん)
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