とっても、分厚い絵の顧客用の画集です。
ですから、値段がでているのですが、色々発見があり、楽しんで観てます。
☆田中一村は、奄美で染色のバイトをしながら、貧しいなかで絵を描き、ひっそりとなく
その彼の小品が軸になり、すでにいい値段なのです。
2双で65万円。特別個性のある作品ではなかったです。
次に、大観は高いんですね。
千万の単位でした。
いいと思ったのは秋野不矩。
300万円で買えませんけれどね。
アフガニスタンの風景。
山口長男の油彩6号が700万円でびっくり。
私がギャラリーで最初の個展をしたとき、1972年京橋のプリントアートギャラリーで
シルクスクリーン版画を発表しました。
その時、毎日デイリーニュースが記事を書いてくれたのですが、一緒に紹介されたのが、山
テーマは、「名あるもの形あるものが信じられなくて、占いの世界を版画にしてみました」と
64枚の易の古色紙もコラージュで発表し、やがて、易カルタになります。
ギャラリーオーナーの魚津さんが、「もう、大丈夫。」と、おっしゃったので、「まさか!
私は油画科を出たのでないので、著名人のなも知らないのでした。
23歳か24歳の頃のことです。
今、思うとずいぶん幸せなレビューをしたものです。
次の個展は1973年。銀座の村松画廊で、「不思議な国のアリス、あるいは流異香個展」
公明新聞には、写真と文章を請求され、顔写真とアリスカルタの複写が記載されました。
誉れより恥を愛し
世と異なりて
低きに流れ
貧をもって品位とす
あるよりはただ香る
文章説明と自分が精神的なものを物質的価値より大事にしていると書きました。
バブルのただ中で、個展をしているとスタイリストが来て、カルタを借りていき、花園濡
流異香はルイス・キャロルのもじりになっていて、世の中に抵抗していたものです。
一番辛いのは、セクハラだったと思います。
嫌なこともたくさんありましたが、25.6の花盛りで、街を歩いているだけで作品が売
全身から歓びが溢れていて、街を歩いていると「わっ、可愛い!わっ、ちれい!」と言わ
なんというか、今に比べて人びとに余裕がありました。
人を楽しませ、幸せにさせる人間的な大きさがありました。
貧乏でしたし、更に貧乏な人が1枚1000円の手書き易カルタを買ってくれたので、絶
そういえば、当時独身だった西村画廊の西村さんも2枚買ってくれました。
画壇が全体的にやさしかったのです。
現代美術のギャラリーのどこにいっても、夕方になると水割りがでて、歓待してくれ、誰
伸び伸びと、自由で私はいろんなギャラリーに出入りしてましたが、豆本のギャラリー吾
豆団扇のホテル・オークラ内のフランネルギャラリー、易カルタを売ってくれた京橋の此
此花画廊の看板は川端康成の字と言ってましたが、チャンスをくれた村田陶さんとおあい
☆加島美術が送ってくれた美祭のお陰で、若い日々の事が甦ってきました。
私はとても幸運な人なのだと思いますが、
画集のなかで、土牛のさらっと描かれたチューリッブ等観るとまだまだ到達できない境地
画家は孤独であってもいいし、とても忙しくなったので、お付き合いがなかなかできなく